■種をまく人 ポール・フライシュマン あすなろ書房
スラムのゴミ捨て場に少女が種をまく。それを見た人がまた種をまく。ごみをのけて野菜をつくる。またほかの人がゴミをのけて種をまく。いつの間にかゴミだめが畑になり、ベトナム人、イラン人、黒人……、バラバラに暮らしていたバラバラの人種の人たちの間に絆が生まれる。種という小さな命にかかわる人が増えることで、地域じたいが変わっていく。
すごいのは、それぞれの登場人物が一人称で語っていることだ。どうやったら、これだけいろいろな人の立場と思いを共感出来るのだろう。児童書って奥が深いなあと思った。
■モモ ミヒャエル・エンデ 岩波書店
15年ぶりに読んで、また考えさせられた。
時間を節約し、忙しく働き、楽しいと思ったり夢中になったりすることがなくなり、無気力になり、合理性を求めて町は画一的になり、電飾で彩られる……。
レジャーも無駄を廃し、静寂をおそれる。「時間の音を聞く、時間を感じる」ことができなくなる。
現代人の生き方への痛烈な警鐘である。ゆったり流れる時間を感じる心をいつまでも持っていたい、心から泣いたり笑ったりできる感性を持ち続けたいと思わせられる。
「有益な生き方」という考え方もいいけれど、生きることじたいを楽しみ慈しむことはできないのか。「社会の矛盾をただしたい、それが生き甲斐だ」という考え方でさえ、自分の心の扉を開いて生を享受していないぶん、弱いと思う。
たぶん、何かの命とふれあい、自分の心がビリビリとふるえる体験を積み重ねる必要があるのだろう。
■「弱者」とはだれか 小浜逸郎 PHP新書
一部になるほどという記述はある。在日朝鮮人とか女性とか障害者とか高齢者とか、個人レベルでは必ずしも弱いとは限らない。日本人の男で青年で健常者という最も強いとされるカテゴリーにいても弱い人もいる。そういう意味で「在日」とか「障害者」と聞いただけでへんに構えてしまう心性のおかしさを「弱者の聖化」と非難する筆者の指摘にはうなずける部分もある。
だが、個人レベルの強弱の問題と社会的・構造的な強弱関係を意識的にか無意識的にか混同してる。例えば「医者対患者」「先生対生徒」の関係では、世間の目や監視が厳しくなり、医者や先生が「俺の方が弱者だ」と言う場合もある。だから「生徒イコール弱者」とは言い切れない、という流れで筆者は論じる。
だが、なぜ先生や医者に対する監視が厳しくなったのかを考えれば、筆者の詭弁はよくわかる。学校のなかで、生徒に対する先生が圧倒的な強者・権力者であるからこそ、監視が必要になのだ。それはあたかも、天皇や官僚・軍隊という権力の横暴を抑えるために憲法ができたようなものだ。
面接で出会った複数の受験生が「印象に残った」と言っていたから読んだが、これを読んで感動するヤツの人間性もだいたい想像がつく。
■魯迅に学ぶ批判と抵抗 佐高信 現代教養文庫
個人として、現実を冷徹にとらえ、希望にも絶望にも流されず、生きられるか……。魯迅の著作からはそんな言説が読みとれる。
「必ず社会はよくなる」「正しいことは必ず認められる」という「展望」を廃し、絶望のなかでも最も適切と思われる手段を選び、抵抗し続ける。それが魯迅の生き方だという。
「展望」という言葉を指導者とかヒーローと置き換えてもよい。左翼勢力が衰え、社会変革という展望がなくなった今、世界的にカリスマ的な指導者が求められているからだ。
ペルーのフジモリも東京都の石原慎太郎も、そんなポピュリズム的な英雄である。小林よしのりがヒットするのも、「自分たちが言いたくても言えないことを言ってくれた」という代弁者的カリスマ性があるからだろう。
「展望」に依存してきた人は、展望が崩れた途端に羅針盤を失う。指導者やカリスマに傾倒する人、宗教にのめりこむ人とある意味で同じである。
日本人は戦後、西欧式民主主義に触れて、天皇や家父長という権威への依存から脱した。だが、社会変革という「展望」への依存に移り、その展望が崩れると今度はまた「指導者」への依存に戻った。それが宗教ブームであり石原や小林よしのりの人気なのだろう。
だれがなんと言おうと、どんな状況だろうと、自暴自棄になることなく冷静に自分の進むべき道を歩める「個」は、戦後半世紀たっても育っていなかった。
「依存」という意味では、誠実やマジメを称揚する「道徳への依存」も批判する。「自分に嘘をつけないから」と相手が傷つくことがわかっていながら告白する自称まじめ主義者は、自分の背負うべき苦悩を無責任に相手に背負わせているだけだ。
−−−−−−−抜粋−−−−−−−
▽寂しいときにそのひとを思えば慰められる。そんな友はほしくない。怠けるときにそのひとを思えばむち打たれる。そんな友が欲しい
▽光明の到来を望むからではなく、目の前に暗黒があるから戦うだけだ
▽救われる路がないからこそ、革命が必要ではないのか。前途に必ず光明という保証書がはりついているからこそ革命をやるというなら、それは投機家にも劣る
▽奴隷は権力をもてば専制君主になり、専制君主はひざまずけば奴隷根性をもつ
■竹中労「決定版 ルポライター事始」 ちくま文庫 2000/2/18
ボロをまとった落ちぶれた俳優が三国連太郎だったり、マリファナを常用していると言われた沢田研二が中曽根の権力によって警察の手から免れたり、芸能界の表と裏を取材しつくしている。
と同時に、生来のアナキストでもある。俳優を組織してユニオンを作らせ、ナベプロのようなどす黒い構造に反逆して無惨な思いをした天地真理を弁護する。
自ら社会に対してあがきつつ記録する。活動の主体になっているから熱く、生き生きしている。「客観報道」に偏した取材では、自分の心に燃えるものがなくなり、伝えたいものが見えなくなる。そういうことを痛感する。
今オレは、この社会の何を伝え、どう変えたくて、具体的にどうすればいいのだろう……と考えると袋小路だ。「興味のある」ことは腐るほどあるんだけどなあ。
「言論の自由」ではなく「自由な言論」だという主張にはハッとさせられる。前者は、記者が何の努力をしなくても生来得られている権利、というニュアンスになる。後者は、個々の記者が自由な言論を求めて闘争しつづけない限り、そうした権利は獲得できないことを意味するからだ。
ガンで命燃え尽きる間近まで取材をつづけた。ルポの「書き方」の伝授もしようと試みた。
「命半年を残すのみ。2カ月の猶予をみて、実働4カ月ジ・エンド。……ぼくにはもう、残された時間はない」(絶筆・未完)とルポライター人生を閉じている。彼はどんな思いを残しながら逝ったのだろうか。
「ノウハウ」面でも参考になる。あれだけ権力や芸能人のスキャンダルを暴きながら、ルポライターをやり続けられたのはなぜか。醜聞を美談におきかえてイメージを下落させぬテクニック▽本人を説得したがうまくいかない場合は材料を2つ以上用意していずれを暴露するか選択を迫る▽取材しつつ説得し「手記」という形にする限りトラブルが起きようがない……。
「構成力・プロットさえ作ればそこそこの水準の文章を作ることができる。細部にわたる構成メモをきっちり作る。必要十分な対象を限定し、無駄な経費と労力を費やさずにすむ」という記述は記者生活10年を越えた最近、ようやくわかるようになってきた。「書き下ろしにこだわる」という部分はまだ実感できないけれど。
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