読書ノート 10-11月

■鎌田慧「ドキュメント家族」 筑摩書房 2000/11/29

 もう何年も前に買った本をようやく読んだ。
 切り口は今となっては平凡だけど、現場から社会へ、底辺から構造へ、という視点をしつこいほどに追求しているのが鎌田らしい。
 おもしろかったのは「不倫」をあつかった文章だ。
 僕の周囲でも不倫をする人はわんさかいるし、だれもそれほど罪悪感は感じてないけど、なぜか女の方が解放感があり、男の方がいじいじしている感がある。女性は悩みながらもけっこうあっけらかんとしているのに、男の方には、不満と鬱屈のはけ口、という暗いイメージがある。
  年齢の違いのせいかな、と思ったが、それだけではなさそうだ。家庭にも仕事にも縛られるばかりで解放感を感じない、そんななかから生じる現象と、この本は結論づけている。
 恋愛に「自由」をもとめる前に、もっとほかの面で自由を追求するべきやわな。それができないのが現代の閉塞感なんだろうけど。

 【抜粋】
 ▽女性のアルコール問題  「いろんなものを求めて駄目になったのです。いまのままを受け入れる。いまのすべてを受け入れないと、また依存がはじまるから」……彼女たちの自虐が現在の夫婦・男女・親子関係への異議申し立てであろうことが推察できる。
 ▽帰国子女  帰国子女へのいじめは外国へのコンプレックスの裏返し。「いまの適応教育は『日本人』にもどす教育。もどしちゃったら子供の才能を殺してしまう」
 ▽痴呆  駒結びにしたひもを渡して「ほどけなくなっちゃった。助けて」。ぼけているからといってバカにしないで、仕事を与えるのが功を奏した。
 ▽不倫  会社でも家でも解放されない男たちは、柔らかな関係を求めてさまよい出している。……あらたな解放はあらたな束縛と同義語であり危険な賭けといえる。……安逸を捨てて「解放」をうるのか、それとも解放を諦めて「安逸」に抱え込まれるのか。どちらにして魂に安住の場はない。

■ミヒャエル・エンデ 「はてしない物語」 岩波書店 2000/11/25

「幼心の君」が統べる空想の世界ファンタージエンを「虚無」がむしばむ。ファンタージエンの虚無に飲み込まれた住民たちは、人間世界では「虚偽」となる。ファンタージエンの危機を救うには、人間世界からだれかがファンタージエンを訪ねてきて、幼心の君に新たな名前を与えなければならない。空想の世界を「虚偽」と思う人ばかりになり、ファンタージエンの存在を真正面から考える人はいなくなっている……。
 そんな状況のなか、小太りでうだつの上がらない男の子バスチアンが1冊の本を通してファンタージエンに乗り込み、「幼心の君」に名前を与え危機を救う。
 「幼心の君」から全能の騎士としての力を授けられ、自分の望み通りにファンタージエンの歴史を作り、生物を生み出す。が、「望み」をかなえるたびに、過去の記憶を1つずつ失っていく。小太りの気の弱い子だったこと、学校の記憶、最後は両親のことまで。元の世界に戻りたい、という気持ちすらもなくし、ファンタージエンの帝王になる野望を抱くようになる。
 過去のほとんどを忘れ、帝王になろうという直前、親友の反乱によってその道を阻まれる。
  人間は過去の記憶がなければ未来への「望み」も生まれない。すべての「記憶」をなくしてしまえば、あとは望みも何もなくなってしまう。そのことに気づかされる。

−−−−−−−−−−−【感想】−−−−−−−−−−

夢や希望が力をもたらさない現代、「物語」が力をなくしている。空想の力が弱まり、「仕事に役立つこと」ばかり考えるようになれば、人間の精神はどんどん枯れていく。人間の精神が弱まれば「物語」の力もますます弱まる。その悪循環にあることを暗示しているのだなと思った。
 バスチアンが過去の記憶を忘れ、権力の妄執にとりつかれていく様子も、子供のころにもっていた夢や希望を忘れ、仕事と出世ばかり全勢力を注ぐ大人を象徴している。人間にとって、本当に大切なものってなに?、そのために私は何をすればいいの?、という問いかけができなくなっていく怖さ。
 権力の頂点にのぼりつめ、そこでいっさいの「望み」をなくしていることに気づくのは、定年後の濡れ落ち葉を思わせる。
 「自分が他の何物かに変わろうというのではなく、自分のあるがままを評価し、自身が少しずつ変わっていこうとするのが大切だ」という趣旨の文章があった。言い換えれば、他人との比較で自分を評価するのではなく、自分が今の自分より少しずつ成長していくことを評価する、ということなのだろう。
 今までいろいろな場面で考えてきたことではあるけれど、仕事に追われるなかでつい忘れてしまうことが多い。自戒を迫られる。
 怖い物語だなあ。
 心を絶えず新鮮に、守りに入らないように、ニヒリズムに陥らないようにしていくって、大切なことだけど、大変なことだ。

■鎌田慧「怒りの臨海」 岩波書店 2000/11/8 

 ルポではない。エッセーだから軽いものもある。でもいくつも琴線にふれる文章があった。以下に抜粋。感じたことは【】のなかに簡単に述べる。
 ▼▽国鉄がつぶされJRになるとき、現場でどれだけ酷いことが起きているか、新聞はさっぱり記事にしなかった。自殺した労働者は100人を超えていた。新聞が問題にしたのは「民営化」が首尾良く終わったあとだった。
 ▼▽過労死は関西の医者の命名によってはじめて表現を与えられた社会的な死。それまで流行語になっていた「突然死」は本人の何らかの疾患によるものと解釈されてきた。
 ▼▽会社で飛び降り自殺した社員が遺書のなかで「申し訳ない」と上司や同僚にわびている……ここまで人間を「社員化」するのは宗教的と言える。仕事がそれほど崇高なものかどうか。信仰から解放されるしかない。
【「こいつは仕事できねえから」とその人の全人格を否定するように評する人が多い。会社のなかでの価値観がすべてになってしまっているのだろう。「自分は仕事ができないしダメだ。夢もなくなった」という人もまた多い。「社員化」に抗しなくてはならない。そんな人を支えるモノを作っていかなければならないのだが……)】
 ▼▽文章教室などで受講生に文章を書いてもらうと、たいていがつまらない。自分を隠すためのような文章が多い。妙にまとまりがよくて、つるつるしていて、それらしい結論がついている。……自分のまもりを固める文章でなく、自分をさらす文章を。教育を受けた時間に比例して、本来の自分でない自分になっていくとしたら、その教育はいかがわしい……。
【俺はいま、ニカラグアの時以上におもしろい文章を書けるだろうか。ビビッドな精神の体験を繰り返さなければ「自分」は豊かにならない】
 ▼▽管理職がいびられて退職に追い込まれ「管理職ユニオン」に電話をかけてきたにせよ、なかなか自分のことを話したがらない。解雇されてもなお、いままでの自分が解体されていない。自己解体から自己解放への道筋が、連帯であるはずである。
【自分を語るって、学生時代にさんざんやった。いまはなかなか晒せない。さらすことによる反響が怖い、というか、恥ずかしいというか……。自らをさらす訓練は絶えず積み重ねないと「人間」がさびついていくのだろう】
 ▼▽識字学級や夜間中学には、字を覚えることによって得る感動がある。
【字を覚えることが自己の解放につながる。つづり方という教育はまさにそんな意味があったのだろう。自己解放教育の必要性〓を何らの形で記事にできないかなあ〓】
 ▼▽歌は唖にききやい/道ゃめくらにききやい/理屈ゃつんぼにききやい/丈夫なやちゃいいごっばっかい
 ▼▽狭山事件の石川被告は、拘置所で文字を獲得する。無念の思いと自己の解放のために、ひとりで学び、他者にむけて書き続けた。
【グアテマラのリゴベルタ・メンチュがスペイン語を学ぶ過程と同じだ。日本にもそんな人がいたのに……】
 ▼▽死刑が執行されるときは「迎えに来たよ」というと、スーッと出ていくんですね。1号から60号まである死刑囚のドアを開けて握手していくんですけど、「先で待ってるよ」と手を握っていきます……(石川氏)

■蜷川虎三「虎三の言いたい放題」刊行委員会編 00/11/18

 借りた本。京都府知事を28年間務めた蜷川氏の、知事引退後の最晩年のエッセーがまとめられている。79年に引退し81年に亡くなるまでの作品だ。
 共産党や社会党、「中道」に対する評価や分析は今となっては時代遅れの感は否めないが、「地方自治」の視点や、学者として政治家としてのあり方については、まったく古さを感じさせない。
 全国に先だって栽培漁業を促進するなど、ユニークな施策を打ち出せたのは、経済学への深い知識があったからだということもよくわかった。「クールマインドとウォームハート」を地でいく人だから、あれだけの人気を保ち続けたのだろう。
 宴席にはいっさい出ず、会合で酒が出ても飲まない。運転手や警備の人に悪いからだ。自宅ではいっさい人と会わない。25年間借家住まい。在任中は好きな芝居も観ず、夜店も行かない。陳情もいっさいしない。「李下に冠」を厳しく実践していた。
 自民から共産まで含めて、これほどスケールが大きくてかつ清廉な政治家は今はいないよなあ。
−−−【抜粋】−−−
 ・地方自治体に調査や研究の意欲がない。知事が東京に行くばかりが能ではない。3割自治でも"研究"はできる。中央で行革といって人を減らすばかりが改革ではない……
 ・河上肇が去り、京大はへんな教授がのさばり茶坊主のような者が取り巻きみちゃいられなかった。……先生を辞めさせた教授会が憎いし悔しかった……

■佐和隆光「市場主義の終焉」岩波新書 2000/11/16

 市場主義的な改革は必要だが十分ではないという立場を著者は取る。
 戦後、先進国ではケインズ経済学のもとに祉国家を目指したが、オイルショックを経て財政赤字が蔓延した。それへの特効薬というふれこみで、新自由主義(新古典主義)と言われる市場万能主義が、サッチャー・レーガンを中心に一気にひろまった。
 バブルのころは「日本的経営」を賛美していた日本の経済学の専門化の多くが、いまは市場主義的な改革を唱道している。
 だが、市場主義的な改革のなかで生まれたものは、「一人勝ち」だった。マテリアリズムの時代の製造業では完全な独占には至らず一定の競争が実現できていたが、ポストマテリアリズムに移行し、ソフト産業が主流になるにつれ、マイクロソフトのような「一人勝ち」が増えた。すなわち、「能力主義」の社会とは、圧倒的な数の敗者と一部の勝者を生み出す社会であった。
 また、市場万能主義は、民主的な討議や民主国家による政治的な修正を遠ざけることにもなる。つまり政治の民主主義と経済の自由主義は矛盾するものになってしまう。
 さらに、能力主義社会によって特権を手に入れた人(例えばビルゲイツ)は、自分の得た特権を子に贈与しようとするから、結局、だれもが能力のみによって評価される、という「能力主義」そのものを破壊することになってしまう。
 佐和氏は、従来のケインズ的な福祉国家の「非効率性」も、効率の極限まで追求するために平等性を著しく損なう市場主義も否定したうえで「第3の道」を提唱する。
 今までの「後ろ向きの福祉」や、「失敗者の命だけを救う」といったイメージの市場主義的な福祉とはちがい、「ポジティブな福祉」が必要だという。リスクに挑戦して失敗した人への補償措置(失業保険など)を充実させ、挑戦しやすい環境を整えることなどが必要と主張している。

−−−−−−以下感想−−−−−−−

 従来のケインズ主義を柱とした福祉国家から、新自由主義へと流れる過程や、市場主義の弊害など、過去と現在の分析は理解しやすいが、「第3の道」と従来の福祉国家との具体的な違いははっきりとは見えなかった。
 将来への安心感のなさによる閉塞感が日本を沈滞させていると僕は思う。何があっても死ぬ前は安心できるよ、という安心感があってはじめてリスクに挑戦する気にもなれるのに、いまの日本で、「このままでは老後が危うい」という危機感だけで無難に一生懸命働かされている。
  さらにそこに「能力主義」を持ち込もうというのだから、不安感に追い立てられるばかりになるだろう。能力主義は、最低限の安心感を前提とすべきだ。
 そう考えると、「第3の道」は従来の社民的な福祉国家の部分改造と、それに加えて、地方分権などの政治的なパラダイムシフトではないのかな、と思ってしまった。

■山田洋次「十五才」 角川文庫 2000/11/10

 不登校の15才の中学生が、東京から屋久島までヒッチハイクで冒険旅行をする物語。
 ヒッチハイクのときの不安な気持ちや、旅先で女の子に出会って交わした会話のうれしさ、旅をすることで世の中がちょっと小さく見えてくる感覚、屋久島杉の深い森……。「そうそうこれこれ」って、僕自身の経験をまざまざを思い出しながら読んだ。
 7才ではじめて1人でバスで駅前に出て、10歳で20キロ先までサイクリングし、中学で泊まりがけの旅行に挑戦し、駅寝し、高校でヒッチハイク、大学に入って「密入国」ってものを経験し……。それぞれ不安でいっぱいになりながら、やり終えると世界がちょっとずつ小さく見えてきた。新たな出会いもあった。
 最近しばらくそういう「冒険」の感覚がないなあと思う。中南米に行くのも、いまや「ちょっとした旅行」になってしまったし。暴力団事務所の取材をしようと乗り込んで失敗したのが、そういう「冒険」の最後かもしれない。悪い意味で「大人」になってしまってるなあと反省させられる。
【−−抜粋−−】
▽「一人前ってなんですか?」 「自分の顔と心を持っていて、自分の頭で考えたことを自分の言葉で表現できるようになる……そういうことかな」
▽「ほとんどの奴が馬に乗っても、浪人は歩いて草原をつっきる。……葉っぱに残る朝露、流れる雲、小鳥の小さなつぶやきを聞きのがしたくない」

■田中宏「在日外国人」 岩波新書 2000/11/4

 終戦後いまに至るまで、いかに日本にいる外国人がひどい状況に置かれているかがよくわかる。
  十年ちょっと前、大学の卒論で在日朝鮮韓国人と難民の受け入れについて書いたことがあるから懐かしかった。と、同時に、当時感じなかった怒りがわいてきた。記者生活を通じて、生存権とか憲法とかを学んできたからだろうなあと思う。
 朝鮮半島が植民地だったころ、朝鮮人も当然被選挙権があり昭和初期の普通選挙の実施以降2人が当選していた。支配を正当化するための建前とはいえ、日本における少数民族の政治参加の道は今よりは開かれていた。「戦後民主主義」は、日本人の都合によって移住させられた朝鮮・中国人には政治的には何ももたらさなかった。
 子供の国籍も、85年までは日本人が父親でなければ認められなかった。母親が日本人ではダメという、憲法に禁じられている男女差別がまかり通っていた。それを改正させたのは「女子差別撤回条約」という外圧だった。国民年金などの制度も、外国人が利用できるように改正されたのは、「難民条約」などの国際的な圧力があったからだ。
 外国姓の拒否もつい最近まで露骨だった。ペルーで「フジモリ」という日本姓が認められているのとは対照的だ。朝鮮高校には国立大学が門戸を閉ざしているのに、外国の高校卒業生を受け入れるというのも矛盾だ。
 いかに在日外国人が不当な差別を受け、日本政府が世界人権宣言を無視し、憲法も無視してきたか、それを是正するのをいかに外圧に頼ってきたか、という情けない実態を再認識させられた。
 でもなあ、「憲法無視」の実態は外国人に対してだけでなく、日本人にだって同じだよな。憲法25条の言う「最低限の文化的な生活」が保障されているなら、大阪だけで1万人という野宿者が出てくるわけないもんな。政府は当然悪いけど、1人1人の無関心はもっと怖いと思う

■時代を読む 自分の足で立ち、歩くための読書法 佐高信
 光文社文庫 2000/11/2 

 教師をやめ、経済誌の編集者をやりながら佐高が読んできた本を紹介している。すさまじい読書量に驚くばかり。本からの抜粋も気の利いているものが多い。宇田さんがQUOTEのページを作っている意味がよくわかる。
 とりわけすごいと思ったのは、思想的に合わない論客の本を徹底的に読み込んでいることだ。谷沢永一や渡部昇一らの本は、僕も以前は読んだことがあったが、あまりに違いすぎて最近は手にさえしない。敵を知る大切さを感じる。
 それにしてもなぜこんなに読書できるのか……。もっと本を読まなければ。
  ▽「風の骨」(双葉社) 清水一行  菅生村の駐在所爆破事件に疑惑を抱いた記者を描く。モデルは斎藤茂男だろう。
  ▽「会社でキミはどう生きるか」(日本経営出版会) 大野明男  人間関係まで会社にからめとられる、そうした危険。
  ▽竹内好「現代中国論」「状況的」
  ▽安丸良夫「日本近代化と民衆思想」(青木書店)  精神主義が客観的な探求能力を奪ったこと。戦前と戦後の会社社会につながるもの。
  ▽氷川玲二「言葉の政治学」(筑摩書房)  「言葉」を通して政治を語る。
  ▽渡部昇一「知的生活の方法」(講談社現代新書)  論文はとんでもないものが多いが、この本は「なるほど」と思った記憶がある。学生時代に読んだまま遠ざけていたが、もう一度ひもときたいと思った。「何度も繰り返し読む本をもつ大切さ」
 ▽谷沢永一「書評コラム 完本紙つぶて」(文藝春秋)  保守から革新まであまねく読んでいる。

■マスコミ解剖 万余の新聞を読む 溝上瑛 解放出版社
■HANNIBAL THOMASHARRIS
■羊たちの沈黙 トーマス・ハリス 

 アメリカで「ハンニバル」のペーパーバックを買い、英語が難しすぎるため、前作の「羊」を日本語で読んでおいた。何の教訓がある本でもないけど、「ハンニバル」の終わり方はすごい。重く心のなかに澱のようなものが沈潜してくる。