読書ノート 2001年1月

「グアテマラ虐殺の記憶--歴史的記憶の回復プロジェクト編」岩波書店 2001/1

 1988年、はじめてグアテマラに行ったとき、マヤの人々は暗い、という印象を持った。
 91年、前年に軍を住民達が追い出した町を訪ねたらみな明るく、あけすけに外国人に語りかけてくれた。3年前にもすぐ近くの村に行ったことはあったが同じ住民とは思えなかった。
 なぜ「マヤの人は暗い」というイメージになったのか。その裏にある殺戮の経験が、これでもか、とばかりに出てくる。自分の家族が殺され、それを告発すれば殺されるから何も言えず、自分自身も人を殺すことを強制される。さらに、先住民族を動物扱いし、抹殺する思想が加わる。
 さまざまな虐殺や強制連行があることは、その後の取材で見えてきた。だが、大学を出た超エリートが社会学や心理学、コンピューター技術を駆使して、反政府の動きをとらえ、虐殺対象を選定し、拷問のやり方、殺し方までマニュアル化しているとは思わなかった。
 例えば、新人の兵士にはまず囚人監視をさせ、次に誘拐部隊、さらに囚人の殴打、拷問観察、最後に殺害を実行させる。こうして従順な人物が残虐な工作員に転化していく。
 優秀な官僚が最先端の学問と技術を使って殺戮の計画を練り上げ、まじめな兵士や自警団に組織された男たちが、人殺しの実行部隊となる。ナチのアイヒマン裁判を描いた映画「スペシャリスト」を彷彿させる。
 バブルの時代に庶民に大金を無理に貸し付け、バブルがはじけると裏金融に債権を売り払い、借りた庶民を自殺にまで追い込む銀行員。他社との競争、上司の評価を強いられることで被害者の家にまで踏み込むマスコミの記者。どちらも同じだ。命令をまじめに実行して中国人を殺しまくった日本兵も同様だ。
 僕が一時かじっていた文化人類学でさえ、マヤの人々を殺戮し、村を崩壊させる方途として利用されていた(もともと侵略者の学問なんだけど)。学問を専門化するのは大切だけど、生きていく上で何を大切にしなければいけないか、という部分が抜けてしまったらどんな専門知識も意味がなくなってしまう。
 一方、80年代を通しての殺戮の歴史の中から、抵抗の芽も現れる。
 それまで、23(だったったけ?)の言語に別れるマヤ先住民族には、「マヤ民族」というアイデンティティは希薄だった。それが、極貧からの解放と土地をもとめる闘いのなかで、「先住民であるが故に迫害される」という認識にたどりつく。90年代初頭は、先住民族としての集団的アイデンティティが明確に現れ、権利運動が山場を迎える時期に当たる。
 抵抗運動を担う主体は女性だった。
 支配層は、軍と準軍事組織を通して「男性性」を鼓舞することで、強姦や殺戮まで人々を追い立てた。女性を殺し、強姦することは、口承でつながっていた文化を根絶やしにすることを意味した。女性性の排除は文化とコミュニティの崩壊を意味した。
 一方、男が殺されるなかで、女たちが家族の長として自覚し、自尊心をもつに至る。強制失踪の恐怖を乗り越えるには、失踪者を探すことこそ唯一の方法であり、人権をまもる闘いのもっとも力強いものとなった。失踪者の母・妻・娘・姉妹こそが社会を支配する暴力に敢えて立ち向かっていった。そうしてできあがったのが、「コナビグア」(連れ合いを亡くした女性の会)だった。それらの組織が、首都における組織的な抗議行動に発展するのは80年代後半になってからだった。
 「女性問題」とか「フェミニズム」というのはそれほど興味がないし、何かというと「女性」を社会問題の切り口にするやり方はあまり好きになれないが、グアテマラにおける「虐殺と再生」は「男性性vs女性性」と捉えられると思う。日本軍の蛮行もまさに男性性の現れだったのだろう。生命の論理と暴力の論理とのせめぎあいとも言えるかもしれない。
 今まで6,7回グアテマラを訪ねて取材してきた、先住民族の人々の経験の断片が、もっともっと深い部分で一つになり、大きな流れとして見えてきた。というより、自分の取材の浅さが恥ずかしくなった。

■細野武男・吉村康「蜷川虎三の生涯」三省堂 2001/1/9

 元京都府知事の蜷川虎三についての本は12月に次いで3冊目(もう1冊は学生時代に読んだ)。
 大正デモクラシーのころ、吉野作造がただ1人で右翼団体を論破していくのに出会い影響を受けたという。当時の朝日新聞は、軍部の独走を批判し、右翼団体に襲われた。吉野はそれを非難し、右翼団体と論戦を交えた。ひるがえって今の新聞はどうだろう。「うるさがた」を批判するのには及び腰になり、訴訟攻勢を仕掛けてくる統一協会のことなど、ふれることもできなくなっている。批判の対象は、反撃されてもあまり痛くない人や組織がほとんどだ。社内的にも、勇をふるって上司・組織に立ち向かう人は極めて少ない。大正のころの方がはるかに民主主義的な人間が存在していたことがわかる。
 蜷川は初代の中小企業庁長官だった。が、吉田内閣のときにクビにされる。だが彼は吉田茂が死んだとき、「天と地ほど立場が違うが、戦後の政治家であれほど好きな人はいない」と言った。喧嘩腰の議論をし、イデオロギーの違いから自分をクビにした相手でも、激しい選挙戦を闘った当事者でも、それが終われば普通に人間同士の関係に戻れる。反論したら即「敵」とみなされることが多い日本の風潮のなかで、「民主主義者」としての個を確立していたまれな人材だった。というか、昔の方がそうした「個」を持っていた人が多かったような気がする。
 施策面では、「住民要求のないところに行政施策はない」を貫き、学校も橋も川の改修も、上からの「善政主義」という形は取らず、住民が組織を作り、運営する、という形を重んじた。「お客さん」から自治の「主体」へと、住民1人1人の意識の変革を図ろうとしていた。
 同じ革新の学者知事でも、蜷川は、美濃部・東京都知事よりも黒田・大阪府知事を好んだという。「毒舌家ではあったが、我慢に我慢を重ねる政治家だった。私は美濃部さんの正直さにではなく、蜷川さんの忍耐と勇気にあやかろうと努めた」と黒田も書いている。佐高信も書いているけど、「正直さ」とか「フェアプレー」というのは、権力者が庶民に強いるものだ。美濃部という人はその点、政府や都政野党につけこまれやすかったのかもしれない。
 理想を掲げるとともに、きわめて現実的な政治家でもあった。財政破綻時には、自らの支持母体でもある職員組合と対決してでも、賃金をカットし、財政再建を遂行した。公営ギャンブルを美濃部が廃止したときも、財政という現実を盾に競輪場を廃止させなかった。「賭博がいけないというなら宝くじも競馬も競艇もやめるべき。賭博による貧しい者の悲劇はあるが、貧しさと失業が競輪場に足を運ばせるとするならば、その貧しさと失業が悪い……」
 蜷川は「家では人に会わぬ」という原則を28年守り続け、5万冊という蔵書を読みついだ。勉強は続けなくてはダメだ。会社の人と飲み歩き、くだをまくばかりではあかんわな。

■宮崎学「突破者」南風社 2001/1/12

 京都のヤクザの家に生まれ、ケンカ三昧の日々をすごし、早稲田大に進学後は学生運動に身を投じ、共産党の秘密ゲバルト部隊を率いる。共産党の秩序化とともに政治から離れ、解体屋、地上げ屋……となり、グリコ事件では「きつね目の男」とされた。ドロドロわくわくしたすさまじい人生をかいま見える。
 「(つきあってきたヤクザや土建屋)彼らに惹かれるのは、この社会では自分1人で生きていくしかないことを肌身で知っていることだ。大きなものや他人にすがって生きるという姿勢が基本的にない。市民社会で薄れてしまった節目や情、侠がある。……お互い自前で生きて行こうや」
 京都で記者をしていたとき僕も祇園や上七軒の世界にちょっとだけ触れた。魅力的ではあったが敷居が高くて「俺には合わねえや」と思った。でもおばちゃんたちの話はおもしろかった。
 −−芸子が旦那持ちになるときは、男がいかにうそで塗り固めようと、おばちゃんたちの人を見る目はだませない。芸子には伝統の性技を教え、旦那からは多額の金を引き出したうえできれいに旦那と切れさせる−−
  こんな記述を読むと、俺なんか逆立ちしても理解できない世界があるんやな、と思ってちょっとうれしくなる。
 在日朝鮮人や被差別部落の人々とのつきあいも深かったという。
 部落解放運動というと、学生時代から、「差別だ」「逆差別だ」といった議論にふれ、記者として京都にいたときも、市の職員の採用の特別枠があったり、家賃数千円の同和住宅があったりする問題には、じゃっかん触れてきた。
 でも、情念の入り交じったドロドロの現実を読むと、そんな議論が皮相的に思え、「人権」という言葉も、「差別・逆差別」という言葉もどうでもよくなってくる。 「部落解放運動のなかでは、やくざを『差別に負けた姿』と位置づけた。が、本来はそういう若者を含めての解放でなければならない」と宮崎は記す。人権とか運動という言葉でくくることで、きれいでつるりとした「市民」的なものになってしまう違和感。きれいな言葉な方が、僕らのような人間にはとっつきやすくはあるけれど。
   「下宿にはたえずだれかがいてプライベートがない。そんな若衆宿的な要素が、闘争の原動力になり、『大人の世界がどうした。ぶちこわしてやる』という発想の源になったようだ」と書く。自分の部屋がどこなのかわからなくなるような学生時代は、いろいろな夢を妄想し、世の中は変革すべき対象であり、自分たちの力が無限に広がるように思える。
 就職して結婚して、個々バラバラに分割されることによって、そういったエネルギーはどんどんしぼんでいく。学生がおとなしくなってきた原因の1つにワンルーム化があるのは間違いないと思う。かつての学生寮のようなアナーキーな空間が、大人にも必要なのだろう。
 共産党の党員も、党中央の方針に身を寄せることで自分を保とうとする官僚的な部分が増え、組織を掌握するようになる。「革命というのはヤクザよりももっと自らの身を捨てきって、状況を自分で引き受けようとしなければならないはずなのに……」と失望して宮崎は離れていく。
 元共産党員の知人が「結局、専従だけで党を動かしてて、普通の党員なんて後援会員みたいなもんだよ」と言っていた。京都で町医者をしていた故松田道雄氏は、労組について「専従が幅をきかすからダメなんだ」という趣旨のことを書いていた。僕が実際出会った範囲でも、いろいろな現場の共産党員は人間的に魅力がある人が多いのに、専従の人たちは型にはまり狭い視野でしかモノを考えない人が多い。専従になれば生活を守るために地位の維持を図る。だから上に嫌われることを言いにくくなる、ということなのかもしれない。
  「暴力団対策法」も批判する。
 「暴力団が生きていける環境を根絶する」という発想を、「徹底した異物排除の上に立った清潔なファシズム」と評する。暴対法の発想のなかには、ヤクザが差別の構図のなかから生まれるという認識はなく、人間に本能的に備わっている暴力や享楽への性向も理解しようとしないからだという。
 −−商法改正によって、総会屋と取引をした企業も罰せられるようになったため、企業は警察からの天下りを受け入れるようになった。パチンコ店や風俗店も「やくざの温床」とされて取り締まられていたのが、いまや警察が完全に支配・管理し利権化された。警察に支配されたあたりから、パチンコ業界は急速に拡大した。暴力追放推進センターは警察の天下り先だ−−。
 一方、「暴力団が対象とはいえ、いい加減な法律は反対」という頑固なインテリが減り、だれもが世間や世論の反応に敏感になっている。「多数派ばかりの奇妙な社会。マスのなかにささいな差異を見だしてたたき、排除する」と言う。オウムに対するマスコミの反応を見ればその傾向はよくわかる。

■宮崎学 「突破者の条件」 幻冬アウトロー文庫 2001/1/19

 何年か前の衆院選で、社民党の候補者の事務所を訪ね、比例区で1人当選が決まったとき、陣営のおっさんが大声で「市民の力を思い知ったかあ」と叫んだ。僕も社民党はどちらかといえば好きだけど、なんだかあの発言とそれを許す雰囲気が恥ずかしくて鳥肌がたった。
 理由は2つ。
@ そのときの選挙では社民党は票はさほど増えず、「市民の力」なんて蚊ほども発揮できていなかったのに、自分たちの力を誤信しているオメデタさ(この間の辻本清美の小選挙区の勝利はすごかったが)
A 自分のことを「市民」って言う感性。「庶民」でも「労働者」でもない「市民」っていったいナニ?。たぶん彼は、フツーの人より社会意識に目覚めた進歩的な人、といったニュアンスに使ってるんだろうけど。
 この本を読んでその時のことを思い返した。宮崎は「日本には庶民はいるが市民はいない。『ヤクザは市民の敵』というが、江戸時代の庶民には、ヤクザも含まれていた。……『我々市民は』という言い方は放棄し、『私は』ということにしよう」と書く。「市民運動とは素人の運動ということ」とも。
 僕自身は、労働現場だけでなく生活の場からの運動は必要だと思う。原稿にも「市民グループ」と書いてしまう。でも、「公園からホームレスを追い出せ」というのも「市民」なのだ。「市民運動」と称すれば「私が野宿者を追い出す」という罪の意識を希薄化させてしまう。
 宮崎は、伝統的やくざと「市民」の意識を対比させる。「市民」的なものの象徴としては神戸の酒鬼薔薇の事件を取り上げて以下のように述べる。
 −−−やくざは、身びいきの論理が徹底的に貫かれている。子供が事件を起こせば「おまえが悪い」というが、それでも自分の子供は何があっても守り通す。子供が罪を犯した場合、まず、いかにかばうか一生懸命考える。かくまうとか逃げるのではなく、「私がついているからけじめをつけてこい」という形だ。(事件のあった)須磨に住む人は芦屋にも長田にも住めない人だ。へんに取り澄まして、格好をつけて……。親が子供にちゃんと文句も言えないし、殴ることもできない。……バカの一つ覚えのように、行政が、行政が……と繰り返す。なぜ行政をそこまで信用するのか。自前で生きることの出来ない者が、てんでんばらばらに暮らしている。そして、何かことがあれば、酒鬼薔薇の母親のように自分が被害者面する−−−
 マスコミの「市民主義」も批判している。
「特に朝日新聞は、『なんとなく市民の味方』というスタンスで、『ヤクザに市民が恐怖におののき』と書き、ボランティアにすり寄る」。
 まさにその通り。「市民的」なものを取り上げておけば安心、という感覚は記者のなかに蔓延している。だから、生活保護の問題なんかを書くと「うちの近所のAさんは保護をもらってるのにパチンコやってる」といったたぐいの密告や文句が来ると、生活保護問題そのものを紙面に載せにくくなってしまう。「市民意識」は強者になったり弱者になったりする。「市民の立場」なんて、そもそもあり得ないのだろう。
 そういう視点から、灰谷健次郎や本多勝一らもこきおろす。僕は灰谷の小説も本多のルポも好きだけど、「市民」的な清潔志向はたしかに感じられる。僕自身にもそういう部分が当然あるから、自分を振り返るきっかけになっておもしろい。
 ▽警察の利権批判は相変わらず説得力がある。以下は要約。
 免許を更新するときに数千円払わせられて知る「交通安全協会」も、警察OBが仕切り、利権のもとになっている。商法改正で総会屋を切ったら「総会対策」と銘打って警察OBを雇うようになり、企業にとってかえって高くつく。
 パチンコのプリペードカードも、反抗する業者は「射幸心をあおる」などというあやふやな理由をつけて機械を撤去させつぶしてしまう。プリペードカードはまさに警察の天下り確保の思惑で導入された。
 暴力団対策法ができる前には、警察は凶悪犯の検挙率を公表していたのに、いまはしなくなった。発砲事件は法成立前に比べ30倍になっている。

■加藤周一「羊の歌−上」岩波新書 2001/1/16

 11年ぶりの再読。加藤周一の生い立ちと戦争中の経験をつづってある。
 「なぜあの戦争の最中に、そのおかしさを感じていられたのだろう」と11年前は感動し尊敬したのを覚えているが、今回は、感動よりも彼の「反省」の部分に共感した。「あの時代」への僕の想像力と感受性が退化したのかもしれないし、善悪を見極める自分の目にちょっとは自信がついてきたからかもしれない。どっちだろう?
 「大和魂」とか精神主義に毒されず、わずかにもれてくる「玉砕」や戦前の経済格差などの客観的事実だけを見て情勢を判断していた。戦時中でもモーツァルトの音楽をきき、西洋の詩を愛でる感性、欧州の思想家の影響を受けた個人主義的な感性が役立ったのだろう。
 東大で講演会に呼んだ横光利一の国家主義的な思想を批判し、とっちめる。だが、彼は戦後反省する。「招かれてきた傷を与える必要のない人に与え、傷を与えるべき人には白眼視で応じていた。まさか自分の仲間が兵士にさせられるとも知らず」と。すなわち、「世の中」から一歩離れられる立場だったからこそ事実を見極めることができ、だがそれ故に、もっとも危険な部分と相対することができなかった。
 真珠湾攻撃をしたころ、米英仏の首脳は「これでファシズムに勝てる」と喜び、ソ連の首脳も「南に向かってくれた」と喜んだ。日本の庶民は、敵が喜んでいることを知らされずに「勝利だ」と提灯行列していた。無知であることのこわさだ。
 僕も社会人になって10年ちょっとたち、世の中の流れを自分なりに判断しなければならないことがいくつかあった。それなりに判断できたと思うのは、米の自由化から顕著になる「規制緩和」の流れだ。
 米自由化のころ、僕の勤める会社の大勢は「自由化と規制緩和しかない」というスタンスだった。それはおかしいと思い、オレンジ自由化によって暮らしが成り立たなくなったミカン農家や、酪農家の家を回った。日本の山が手入れされずに荒れているのも木材の輸入自由化が影響していることを知った。「大勢にだまされなくてよかった」と思ったが、結局、ぼくの属する新聞社は新自由主義路線に流され続けた。ようやくここ2年ほど、「行き過ぎた自由化」を問題するようになってきた。でも半分わかっていながら僕は、社の上層部に有効な異議申し立てをすることはできなかった。
 逆に、見方が甘かったのが「地方分権」だ。愛媛・今治の織田ケ浜の埋め立てで、埋め立てを推進したのは建設業界の後押しをうけた県で、縮小させようとしたのは、瀬戸内法を盾に取った環境庁だった。土建行政が支配する地方自治体に権限だけ委譲すれば大変なことになる、と思い、「地方分権」の考え方はよいが各論では反対もありうる、という立場を主張した。国家の、住民のチェックさえ届かない土建屋体質を看破できなかったおろかな見方だった、と今は思う。
 加藤周一は、学生時代に「3日に1冊本を読む」と決め、いまも常時本を持ち歩いているという。勉強して知性を磨いておかなければ大勢に流される。忙しく現場を走り回るだけだから、いまのマスコミはあかんのだろうな、と思った。現場は最も大切だけど、知性も必要不可欠なのだ。
 一方、「加藤よ、ちがうぞ」と思ったのは、自分を「ふつうの平均的な日本人」と言っている部分だ。医者の家に生まれ、夏は軽井沢の別荘に暮らせて、悠々と東大で勉強した人が「普通」というのは、なにか勘違いしている。