■内橋克人「同時代の読み方」岩波書店 2001/7/4 (抜粋と要約)
▽90年に2860億ドルだったアメリカの国防費は3年後には1800億ドルに削減された。平和の配当は、財政赤字の削減に向けられた。「強いアメリカ」というレーガン軍拡がもたらした財政破綻の修復に費やした。
▽景気はすべてを癒す、というオブチの施政方針演説。楽観主義に乗せられて真の批評精神を失ったとき、消費税二桁時代が到来し、調整インフレが忍び寄っていることだろう。(「構造改革」も同様)
▽複線読書法。同じ対象について論じた労作を複数冊見つけだし、ほとんど同時にひもとく。
▽問題解決の豊作を、突出した工業の水準にすべての価値観を合わせて、農業・流通その他を「遅れた分野」として切り捨てようとする。多くの知識人が農業後進産業論、平板な国際分業論を唱えて尻馬に乗った。
▽岸本重陳「豊かさにとって農業とは何か」(家の光協会) この本のなかでは、「米の生産者価格が米国の8.4倍といういが、貿易黒字を稼ぐ強力な産業に合わせた為替レートに合わせるからそうなる」と批判。逆に「環境保護論」からの農業必要論にも疑問を呈する。
▽鎌田慧「反骨−−鈴木東民の生涯」(講談社) 朝日の記者でドイツでナチスの台頭の一部始終を見た。ナチスの敬礼をあざ笑っていたジャーナリズムも一般市民も迎合していくさまを伝えた。日本に帰っても軍部を批判し、戦後の60年に釜石市長に。釜鉄による公害を批判し、座を追われる。「餓死一歩手前まで追いつめられた僕の一生は、弱者の一生だった。現在の社会では正義を守ろうとする者は強者になれない」
▽南アで「名誉白人」としての処遇を受けるようになったのは、貿易取引でイギリスを抜いて3位に、西独を抜いて2位に、87年には米国を抜いて1位になったころからだった。南ア白人と日本人は経済的利害だけでつながっている。なのに日本人駐在員のなかには「事が起きたら白人の側に立って闘うぐらいの気構えが必要だ」「名誉白人として恥ずかしくないように振る舞おう」という人まで現れた。
▽戦後の財政法が赤字国債の発行禁止を掲げたのは、戦前、政府が国債を発行し続け、それを国民に割り当てて調達資金を戦費に充当したからだ。私は9年前に、財政赤字−赤字国債−財政赤字累積−大型間接税へ、という必然を明らかにした。消費税を「高齢化社会にとって必要か否か」とか「間接税は是か非か」といった次元で論じることは歴史的視点を見失う議論となり、大蔵官僚・政府与党の土俵に引き上げられる結果につながる。〓
▽三橋規宏「サッチャリズム−−世直しの経済学」(中央公論社) 80年代の米英日の実験のうち、レーガノミックスは失敗し、日本は成果がなく、サッチャリズムだけが成功した……というところに目を向けた本。労働階級でもなく貴族階級でもない、「勤勉、努力、上昇志向を身に付けた中流階級」に中核を担うパワーを求めた。労働党の社民主義、保守党の伝統的保守主義を批判した。自分のことは自分でやる、という自立した中流階級の存在が「ポピュラーキャピタリズム」を支えた。日本は「カンパニー・キャピタリズム」であり、会社は富み、個人は痩せる構造になっている。
▽「マルコス王朝・上・下」(サイマル出版会) 著者はビルマ生まれの米国人ジャーナリスト。マルコス夫妻が王朝を築き上げた過程を描く。
■湊川
■映画「マレーナ」
■「お茶最前線」 静岡新聞社・南日本新聞社 2001/7
■龍村仁「地球のささやき」 角川文庫 2001/7/29
「想い」続けることで数々の新しい出会いがあり、当初、考えていたものとはまったく違ったところに導かれていく。目的や枠組みにしばられず、あるがままに自然を受け入れる感性の大切さがよくわかる。
映画への出演を頼むはずだったシャーリー・マックレーンとの初対面では、けがやアクシデントで依頼どころではなくなり、シャーリーの娘の教育係だった日本人女性と会わせることに力を傾ける。シャーリーが「私は一休の最後の同伴者だったしん女のうまれかわり」というのを聴いて、一休としん女のつながりを追い求めて、京都(田辺市の酬恩庵、京都の大徳寺・真珠庵)や吉野を訪ね、南北朝の狭間でもがいていた2人の生涯を想像する。そのうちに作者自身のルーツにも行き当たる。
こうした長い長い回り道があったからこそ、深みのある作品ができた。直線的にシャーリーへの出演を依頼し、たとえOKされたとしても、もっと薄っぺらなものになっていただろう。
記者の取材でも同じことが言える。当初想定した「ニュース」や切り口とちがうものが取材の過程で出てきて構想の転換を迫られるからこそ面白い。
▽目的地が見えているから旅に出るのではなく、まず旅に出て、その旅の一瞬一瞬をいかに旅するかによって、本当の旅の目的地が見えてくる。はじめは茫漠としたビジョンがあるだけで、それに向かってとりあえず歩み始めたとき、その歩みのプロセスの中からテーマが生まれてくる。「オン・ザ・ロード」の感覚。
−−茫漠としすぎていると取材する意欲も萎えてしまう。そうではなくまず一歩、ということなのだ。
▽トマトや象と対話する人、山と対話するメスナー。そうした不思議な能力をもつ人は、みな自分が生きていることを心から感謝し喜んでいる、という共通点がある。自分が太古から受け継がれてきた生命の一部であることを頭ではなくからだで知っていて、それを感謝している。
−−大きな生命の流れの一部であることを理解し、過去の魂と交流する。今の自分は何万年という過去の蓄積の上にあるという自覚があるからこそ、100年後の子孫のために環境を守り、資源を枯渇させないという知恵も生まれる。経済至上主義の現在、そうした歴史感覚が寸断され、刹那的ば成功がもてはやされる。
歴史と蓄積の重さがわかるから、自然や環境の大切さが実感でき、未来へのある種の楽観性も養える。「地球」という生命体レベルで考えるとそれはエコロジー的な考えにつながり、「人間の歴史」という部分だけに焦点をあてるとマルクス主義的な思想につながる。マルクス主義にはエコロジーの視点は欠けているが、ケインズらとちがって歴史的な視点があるからこそ、哲学的な要素も包み得たのだろう。現在主流のミクロな経済学や新保守主義には、そうした歴史への洞察はまったくない。
▽ブッシュマンは、自分の「気」を鹿や象の「気」と同調させるから、警戒されずに近寄れる。動物・自然と一体化することによって食糧を得て共生する。
▽砂漠にはウェル・ウィッチャー(和名・奇想天外)という3000年も生きる植物があるという。
▽象も鯨も、日本人の初詣のように、1年に1度大集合する日がある。どうやって連絡をとりあうのかはわからないが。
▽ブリティッシュコロンビアの小島オルカス島では、海辺のレストランで、ソバや豆腐、玄米を食べられる。有機農法の手作りという。
▽砂漠のど真ん中で車を停め、降り立ったとき、体が一瞬に消えてしまったような感覚を覚えた。ふだん、我々は音のエコーに包まれて生きている。全身の皮膚で音を聞いている。その無意識の体感が「私がここに在る」という意識を作っている。音が無限に反響する地域に住む日本の「私」意識と、音が翔ってしまう砂漠の人々の「私」意識は決定的に違うかもしれない。
−−濃霧に包まれた高山の感覚もこれに近い。久々に大雪山に登って、その感覚を思い出した。アブの羽音も、登山者が菓子袋をバリリを破る音も一瞬にして消えてしまう。耳がツーンと鳴り続ける。最初この感覚を知ったときはあらゆる世界から隔離されたような恐怖感と孤独感を覚えた。口から発した声も反響しないで吸い込まれてしまうから、自分という存在も消えてしまうような感覚だった。
▽自転車で毎日10キロの道のりを往復している。視覚、聴覚、嗅覚と全身の感覚を開放して車の気配を感じて走ることで動物的感覚がとぎすまされる。自転車は、人差し指1本で持ち上げられるイタリアのアラン・ツーリスト。
▽母が死ぬとき。魂が肉体の重力から解き放たれるのに苦しみながらようやく旅だっていく。(肉体だけが点滴などで維持されているから枯れるように死ねない)。その苦しみはだれのため? ゆがんでしまっている現代人の生命観を糺そうとする死にゆく者からの愛の証であるような気がした。
▽「色即是空、空即是色」の意味。持てる力、全身全霊を尽くして生きるからこそ、その結果にこだわらない心が生まれる。その心が生きることの喜びや、慈悲心、利他心を育む。
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