■「北限への旅路−茶の自然と歴史を訪ねて」 入間市博物館特別展示図録
中国の雲南省近辺が原産地と言われる茶が、日本に伝わり、青森まで広がっている様子がよくわかる。茶は日本にもともとあったものなのか渡来したものなのかという議論にも、ヤマチャの分布などを参考にしながら言及している。茶の伝播を知る入門書にはぴったり。
■「お茶最前線」静岡新聞・南日本新聞 2001/8/13
静岡新聞と南日本新聞の共著。伝統的産地の静岡と、大規模な栽培で急成長した鹿児島の比較がおもしろい。手摘みで高級品が多い静岡、機械摘みでブレンドに供される鹿児島。宇治や狭山茶は名前だけで実質的な生産規模はきわめて小さい。一般には知られてないけど、三重や高知の方が生産量が多いのだ。
圧倒的に強い「ヤブキタ」だけでなく、ほかの品種を生み出そうと努力する。相場が下がると加工をせずに量産品の原料ばかり供給する農家が苦しむ……。なんだかコーヒーにそっくりだと思った。
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▽静岡の老舗・竹茗堂茶店(呉服町):鹿児島とのブレンド
▽中川根町藤川 自分で荒茶にして、仕上げ、通信販売する人たち。藤川のお茶は全国的に高品質で有名だった。
▽伊豆の「静岡茶」のほとんどはグリ茶 杉山製茶工場 市川製茶工場
▽通常、生産者が荒茶にして市場や茶商に持ち込むが、生葉での売買もある。生葉売りの農家の立場は弱い。「よそよりもうちの茶を揉むのが先」となるから。
▽固形茶 静岡の竹沢製茶が発売
▽伝統の相対取引 自転車で問屋街を自転車でかける「斡旋人」が農家と問屋を仲介。静岡独特の流通。反対に、鹿児島県茶市場は全自動入札機を導入。
▽鹿児島は平坦だから乗用型の摘採機。静岡は88年がピーク。
▽鹿児島県茶業試験場が、ヤブキタに中国種を交配して新種を開発。静岡の中川根でも「オクヒカリ」を銘茶として育てようとしている〓。ヤブキタは55年に静岡県の奨励品種になり、爆発的に。静岡では9割以上をしめる。鹿児島は5割程度。
▽知覧町の西垂水茶業有限会社 総面積160ヘクタール。西垂水社長がシベリアで培ったコルホーズのような方式。逆に「納得できる茶作り」を考えて飛び出す人も(池田範勇さん)。
▽茶農家がどんどん増えている鹿児島県有明町。後継者がいない農家と全面委託契約を結ぶ。「茶園育成受委託事業」を96年から。
▽宇治ブランド、京都府茶業会議所 京都の茶の生産量は3000トン、その4倍が宇治茶の名で流通している。抹茶の最大手は宇治市小倉町の「山政 小山園」
▽「振茶」の風習。奈良県橿原市中曽司に振茶の保存会。茶筅をふって泡立てた茶。沖縄や富山、鹿児島の徳之島などにわずかに残る風習。
▽東京都北区のお茶専門店「思月園」でティーセミナー。91年にインストラクター制度。
▽京都市中京区の一保堂茶舗 店内の喫茶「嘉木」、東京松屋デパート銀座地下の「茶の葉」も、緑茶喫茶。
▽硝酸汚染のため池 金谷町の農水省野菜・茶業試験場が調べると井戸の水がにがすっぱい。窒素肥料が多用される。日本地下水学会が茶園地帯の井戸を調べた。八女でも。
▽緑茶のうまみを増すために、グルタミン酸ナトリウムを添加する例も。「日本子孫基金」。三重県の北勢地方では日常的に添加茶を作っている。
▽有機無農薬 鹿児島県溝辺町の塩入満夫さん。鹿児島の全農家の0.2%が有機・無農薬。
▽鹿児島市の製茶会社・下堂園は、ドイツへ有機の茶を輸出している。
▽ペットボトルの有機栽培茶。熊本市の興南物産が販売。原料が少なく製造量は少ない
▽お茶が水虫に効果。国立静岡病院でお茶風呂。
▽佐賀・嬉野「和楽園」 緑茶露天風呂。茶しゃぶ。
▽宮城県富谷町の「三明」は、緑茶開発輸入メーカー。2500トンを、中国浙江省の合弁会社から輸入。
▽静岡出身で鹿児島で半生をすごした足立東平(84年没)。1929年に農林省が紅茶委託試験を開始。試験地として鹿児島に白羽の矢が立った。県茶業試験場で、日本での栽培に適した紅茶の開発。国産紅茶品種「はつもみじ」「べにたちわせ」。66年ピークで全国生産の半分。が、コーヒーブームで紅茶消費がへり、71年の貿易自由化が追い打ちをかけた。73年にはほぼゼロ。緑茶栽培へ。〓〓
▽枕崎には「紅茶母樹園」が残っている。
▽北限の檜山茶。秋田県能代市檜山。古来の宇治茶の遺伝子がそのまま伝わるとされる。今は梶原さん夫婦だけが作る「幻の茶」
▽幕府の開国で、日本茶は北アメリカに輸出。当時は緑茶にミルクと砂糖をいれてのみビタミン補給の手段にしていた。戦時中のブランクで米国は紅茶やコーヒーにかわり、日本茶は忘れられた。
▽堺市博物館の角山館長「ヨーロッパに最初に伝わったお茶は、実は日本のお茶。堺に来た宣教師が、茶の湯に出会った感動がきっかけだった」
▽中国の問茶。茶農家の家に入り、来訪者と茶談義をかわす。客は最後に「お茶代」を払う。浙江省の高級緑茶の竜井茶の竜井村。
▽最近は「茶館」という茶専門喫茶店ができた。豆菓子などとのセットで600円近くも。
▽杭州市郊外にある「中国茶葉博物館」
▽日本向け緑茶の生産拠点は、浙江省、福建省、安徽省など30カ所。
▽台湾の緑茶輸出は96年には75年の10分の1に。
■やさしい茶の科学Q&A 淡交社1456円 2001年8月
茶の由来から利用法まで、一問一答方式でまとめていてわかりやすい。以外な利用法も教えてくれる。
▽茶の木の北限は、積丹半島の古平町にある祥源寺に。経済的に成り立つのは新潟県村上市。
▽ 日本茶のようにテアニンのうまみとするお茶には窒素肥料は書かせない。インドなどの紅茶はタンニンが大事だから、燐酸やカリを入れる。
▽自分で葉を摘んで、日干しにして乾燥させ、火であぶったり、フライパンで炒って飲むこともできる。
▽抹茶は覆いをかけて、煎茶の3倍の肥料を施す。すべて手つみ。
▽茶殻は、てんぷらやサラダ、白あえにも。魚の煮物に布で包んで加熱すると臭みが取れる。水切りして床にまいて掃き寄せるとほこりがたたない。
■谷本陽蔵 「お茶のある暮らし」草思社 2001/9/5
著者は大阪・堺の茶商。まっさきに中国茶に着目し、30数年前には今のウーロン茶ブームを予想していた。実務家の目と、研究者の目の双方からお茶の歴史と現状を解説してくれるからわかりやすい。以下抜粋。
▽お湯の温度が高くなるほど、カテキンやカフェインが溶けだして、渋みや苦みがでる。だから、うまみを味わう緑茶はぬるめの湯で、香りや渋みを味わう紅茶やウーロン茶は熱湯でいれる。玉露にかき氷をつめこんで2時間ほどかけて溶かして小さなグラスに入れて飲むと驚くほどうまい。
▽名城大の橋本実氏は、雲南省から長江に沿って東進し、我が国に伝来したと説く。山茶のある付近には必ずお茶栽培の歴史があるのは、かつて栽培されていたものが野生化したからという。
▽栄西が12世紀末に茶の栽培や製茶法の実践を教えた。(もっと昔から茶は飲まれていたが)。葉を蒸し、もまずに乾燥させるという今日のてん茶(抹茶)と寸分たがわぬ作り方。
▽嬉野や熊本・宮崎に見られる釜炒り茶の製法は17世紀はじめに中国人によって指導された現代の中国式緑茶の製法。グリ茶とか玉緑茶と言われ、嬉野の特産として有名。だが中国の古い形の緑茶製法は、蒸す方式だった。
▽最近の日本の茶は、香りが落ちた。肥料を多く与えると、香りは次第に失われるという大原則が忘れ去られている。また、肥料をやることで葉が密集し、風通しが悪くなり、肥えた葉はやわらかいから害虫がつきやすいから消毒が増える。渋みや苦みが少なくなり、うまみ成分のテアニンが増し、甘みのあるマイルドな口当たりの茶になる。また、昔は考えられなかったほど深く蒸すものだから、香りが飛び渋みがなくなる一方、青くやわらかい茶ができるようになった。こうした茶は、熱湯でも在る程度おいしく飲めるから忙しい人に喜ばれる。
▽お茶の木以外の、レモンやグレープフルーツと掛け合わせたら面白いお茶ができるはず。
▽ふだん飲むには100グラム1000円程度の荒茶。生産量も多く、格安で良質の茶を選べるから。荒茶から粉や茎などを取り除いてきれいにしたのが仕上げ茶だ。だがむしろ白い軸や多少の粉が混じった新鮮なままの荒茶の方が山の香りがして渋みが少なく、マイルドなあじわい。
▽食べる茶 ビルマ・ベトナム・タイ・の国境沿いの「ミエン」「ラペソー」。苦みや渋みを除くため、葉を蒸して漬け物のように重しを置いたり、刻んで竹筒に入れて土中に埋めておく。木の実や果実、塩などを加えて噛み砕いたりする。
▽茶殻だけでなく混入物を一緒に食べるのは、清時代には上品とされた。島根松江のぼてぼて茶なども、おそらく中国の喫茶習慣にならったものでは。
▽「宇治茶」 京都府内で生産される茶は、府民が飲むだけの量も生産されていない。ごく高級品以外は他産地の茶とのブレンド品。
▽台湾のお茶ブーム。今まで飲まなかった人々が飲むようになり、あっという間に広まった。かつては急須で入れたおいしいお茶をいただけるのは、裕福な旦那衆の家くらいだった。
▽我が国最初の紅茶は、アメリカ領事ハリスの幕府への献上。明治政府は紅茶製造を奨励し、中国人の技術者を招いて人吉市に茶工場をたてた。多田元吉がインドから帰国後、高知県で紅茶製造をこころみ、はじめて海外に正式に輸出した。東京・静岡・福岡・鹿児島などに紅茶の伝習所ができた。
■山田新市「日本喫茶世界の成立」 ラ・テール出版局 2001年9月19日
日本の茶文化はどうやって生まれたのか。一般には、中国の雲南省が茶の原産地で、中国を経由して日本にもらされたといわれる。
日本の文献に最初に登場するのは9世紀だが、最澄がもってきたという説もある。茶を本格的に日本に紹介したのは鎌倉時代の栄西である。
西日本各地にある自生茶「ヤマチャ」も、栽培茶が自然化したもの、という考え方が主流になっている。
筆者はこの意見に疑問をはさみ、茶はもともと日本に自生していたのではないかと見る。栄西以来の「正史の茶」に対して、古来の山の民が伝えてきた茶を「杣(やま)の茶」と呼ぶ。
自生説の根拠にあげるのは、縄文の遺跡から茶の実が出土したという戦前の記録や、宇部炭田から出土した3000万年前の茶の葉などの存在だ。
渡来説の人たちが「人が植えたものが野生化したからこそ、ヤマチャは人間の生活痕のある場所の近辺にある」と説明するのに対しては、むしろヤマチャのあるところに人間が定住したとみる。
山陰の陰干し茶、四国の碁石茶と黒茶、琵琶湖から北陸に及んだ黒茶、阿波番茶、美作番茶、山陰から北四国に及ぶボテボテ茶、沖縄のブクブク茶。点在するこれらの茶は、今でこそ「地域独特」とされるが、実は一般的に分布していたもののわずかな残存ととらえる。たとえば黒茶は、近江六ケ畑から北陸への一帯に分布していたものとし、しだいに消えていったと推測する。
栄西以来の正史の茶とちがい、杣の茶の流れをくむと見られるこれらの茶は塩を使うことが多い。それもまた2つの流れがあったことを示すという。
茶の飲み方は、江戸時代にはまだ今のように急須に入れて「淹れる」のではなく、ぐつぐつと煮るのが一般的だった。陰干しにするだけで煎じて飲んだり、焚き火で焼いた葉を煮るという例もあった。
木地師やたたら師といった、支配階級とかかわらなかった集団、「山の民」が、こうした飲茶文化をもっていたのではないかと考える。茶在来説を唱える柳田国男に似た論の展開だ。
「ヤマの茶」が最終的に息の根を止められるのは、幕末から昭和にかけてだ。明治に入って、輸出を目的とした緑茶(蒸製煎茶)が販路を国内に切り替え、さまざまな番茶を駆逐し、大正末から昭和初期には国内市場を制覇したという。
時代とともに茶の形態が変遷する様子も興味深い。
栄西がもってきたのは抹茶。栄西が明恵に与え、それを育てたのが京都・高山寺の茶園だ。栄西の茶は、蝦夷征伐(奥州藤原)をなしとげた新興階級の武士が、貴族とは異なる文化として迎えた。
動乱の時代を経て、利休の手で「茶の湯」になる。彼の茶は、身分制度を否定する「平等な茶」だった。
ところが武士階級が権力として確立すると、身分によって地位によって作法の違いができてくる。いわば権力の側にまわることによる堕落だ。
宇治田原の永谷宗円が1738年に現在の煎茶とおなじ蒸製煎茶を開発し、裕福な町民に広がる。武士の抹茶文化への反発だった。
その時代の権力への次代の権力を担う階級からの反抗というマルクス主義的な構図が見えてくる。
明治の輸出振興が失敗し、市場を国内に求める。商品価値の追究と大量生産化が進み、85パーセントは「やぶきた」という1品種に制覇され、日本には狭い意味での「緑茶」しかなくなってしまった。
いま、その緑茶が力を落とし、そのかわりに紅茶やウーロンが台頭している。
大量生産時代の「国民」から1人の「個人」への脱皮が求められるいま、それにあった茶文化が生まれるはずではないか、と筆者は結論づけている。おそらくそれは「多様化」という方向なのだろう。
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狭山茶は、800年前からといわれるが、記録はない。各地の茶はほとんど仏僧とのかかわりで説明される。
和歌山の茶粥。田辺市で取材。栗栖川でもヤマチャを確認。山地の民の習慣を継承するもっとも古い形。
茶の湯は茶の寄り合い性を極限まで純化させたもの。富山・蛭谷のバタバタ茶はその寄り合い性を維持している。真宗。
明治元年の茶輸出は7600トン。
静岡では明治〓年に「日干茶」禁止の論告を出している。茶産業が緑茶(煎茶)一本化へとつきすすむ。
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