■静月透子「すっぴんスチュワーデス教えてあげる」 01/11/15 祥伝社黄金文庫
現役スチュワーデスが書いた、と銘打って、本人の写真まで載ってるが、おそらく筆者は1人じゃないし、写真の女性は単なるモデルだろう。
実名で書いてええんかいな、という生態が縷々しるされている。アノ手コノ手で気を引いて名刺を渡そうとする男性乗客の姿とか、合コンの様子とか、契約社員との軋轢とか、労働組合の活動への戸惑いとか。暇つぶしにはいい本でした。
■中沢孝夫「変わる商店街」岩波新書 01/11/22
大型店の中心市街地への進出を規制したことが、結果として、郊外型大型店の建設と中心市街地へのコンビニ出店を促した。90年代後半からは逆に大型店がつぶれる時代であり、地域の集客力を維持するために大型店の誘致運動が増えている。
大規模店反対運動にかかわっていた商店主が、今度は大型店誘致の運動を起こしたり、高齢者家庭への弁当宅配や病院のレストラン経営にかかわったり……。各地の商店街のさまざまな取り組みを紹介してる。
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▽山形県高畠町 92年の国体を契機に「花のまちづくり」。そこから「昭和30年代の復活」というアイデアが生まれる。イベント後、集まった展示品をどうするか考えるなかでミニ資料館が15店舗に。土曜と日曜の朝市も。
▽前橋 中心市街地の空洞化。大型店撤退、ニチイは93年に。グループ「コムネットQ」を結成し、自らの力でイベントを開く。大型店の跡地に講演づくり。植樹には子供達を呼んだ。
▽島田市商業団体連絡協議会 98年にジャスコとユニーが同時に撤退。地元スーパーを説得し、ユニーの後に来てもらった。79年にジャスコとユニーが来たときは反対運動をしていた。中央商店街振興組合の青木理事長は酒屋だったが、イタリア料理店に転身。
▽浜松市はここ10年で急速にさびれている。91年にニチイ、93年に長崎屋、94年に丸井、97年には西武が撤退。駅近くには地元百貨店の松菱だけに。
いまマンションやシネコン、子供の文化施設をつくっている。「まちがきれいになりすぎるのはどうか」という議論もあり、中心部に飲み屋街が残ることに。
▽ダイエーの失敗は本業ではなく、土地の値上がりを前提とした投資による失敗。紳士服やホテル経営など、多角化して人材の育成が追いつかなかったこともある。
▽東京・品川の武蔵小山商店街の「田中かばん店」は97年からネット販売。来店者も増え始めた。
▽足立区の東和商店街 亀有駅北口から徒歩7,8分。80年頃つぎつぎ大型店ができた。アーケードをつくり、毎月催しを開き、90年には「まちづくり会社」をつくり病院の食堂経営に。食材は商店街から仕入れる。区が民間委託に踏み切った学校給食も受託した。高齢者への昼食の宅配、大型店の清掃などの請負の仕事も始めた。商店街に新しくできたパン屋を障害者の団体にタダで貸した。
▽「閉店予備軍が足を引っ張る。引退年齢に達している人たちは新規投資によるリスクを避ける」
▽ドイツでは、営業時間を法律で決めている。朝9時から夜8時まで。土曜は5時まで。日曜は店舗営業はできない。
▽三鷹では、SOHO事業。
▽富山市の中央通り商店街の「ミニ・チャレンジショップ」、アジアのマーケットをヒントに、空き店舗内を区割りして若い起業家に低家賃で貸し出す。経営指導やアドバイスも。現在までに19人が独立店舗で開業した。平成9年に始まった取り組み。
■モーム 「月と六ペンス」 新潮文庫 01/11/25
中学時代に読んだときは、モデルがゴーギャンであることさえわからなかった。無口でまじめなだけの40歳のイギリス人の中年が、いきなり妻や子を捨てて家を出て、極貧も気にせずに絵を描きはじめるのを見て、「へんなおっさんだなあ」と思ったくらいだ。
主人公ストリクックランドはパリで世話になった画家の妻を寝取り(主人公の危険な香りにほれたらしい)、その後主人公に捨てられた女は自殺する。それでも良心の呵責も感じない。寝取られた画家は、親切を仇で返されたのに、主人公の才能にほれて、「僕と一緒にオランダに来い」とまで言うおひとよしだ。
一文無しになって野宿生活をしながら機会を狙ってタヒチに渡り、死ぬまで絵を描き続ける。最後は不治の病と言われたライ病を患い死ぬ。
その後の英国に残した妻子の記述がまた圧巻だ。死後有名になった元夫を「誇り」とし、夫の仕打ちを「許す」のだ。息子は社会的な地位もある軍人になり、平穏無事な上流階級生活を続けている。
平々凡々の上流生活を何十年変わらず送り続ける家族、そこから抜け出して波乱の生活を送る主人公、親切で人がよいけど何か魅力がない画家、主人公の危険な香りに酔ってしまった画家の妻、そしてそのすべての登場人物について語る「私」……。20年前は単なる物語として読んだが、実はこれらすべての登場人物は作者自身の多重な人格ではないのか。
40歳で出奔することも、平凡な生活に流され続けることも、それに漠然とした焦りを感じることも、「危険」に酔いしれることも、だれもが味わう「中年危機」の心の揺れ、「平々凡々」への焦りなのだろう。
特に哲学的に深いわけではない通俗小説なのだが、冷酷に突き放した人物描写が真を突いている。例えば……
「追いすがる別れた男にとりわけ残忍な女」「女にとって恋愛はすべてだが男にとっては一部でしかない」「1人の女の死など医者にとっては統計数字の1つにすぎない」「(主人公の足跡をたどったタヒチの旅を終えるとき)もう2度と訪れることはあるまい。僕の人生の一章が閉じられた。そして僕は、避けがたい死の運命の足音の、またしても1歩近づくのを聞いた」
■佐野真一「私の体験的ノンフィクション術」集英社新書 2001年11月30日
ノンフィクションの手法を具体的な取材に即して開陳している。時間と労力をかけた緻密な取材と独特の切り口を見つける能力に圧倒される。
「小文字で書く」と著者はいう。「エコロジー」「地球にやさしく」といった常套語・業界語を使ってしまうと、わかったような気にさせるが細部はさっぱりわからないからだ。
東電0L事件が起きたとき、僕ならどう取材するか考えたが新しい切り口なんて思いつかなかった。佐野は、生まれて死んで墓に入るまでの軌跡をすべてたどった。
事件当日の足取りもたどってみると、時間的にネパール人による犯行は無理だったことが見えてくる。逮捕されたネパール人の友人を訪ねてネパールを訪れると、警察での拷問まがいの尋問などの実態が明らかになった。
地裁の無罪判決で本来なら釈放されるべきなのに、高裁は「拘束」の決定をくだす。その決定を出した裁判官の過去を探ると、ひどい判決を連発していた。実はこの裁判官はかつては青法協の活動家だった。その「転向」の傷が心の闇になっていたのではないかと推測する。
「やまびこ学校」の卒業生を追うルポ。無着成恭が40年前に山形の山村で教えた43人の卒業生を1人1人訪ねる。
「いつも力を合わせよう」「かげでこそこそしない」「働くことが1番好きになろう」「なんでも何故? と考えろ」……という教えを得て、生き生きとした作文を残して社会に出た子供たちは40年後、ある人はタクシー運転手となり、ある人は住所さえ隠して暮らし、ある人は苦しみながら農業を続けていた。
「やまびこ精神」は、高度成長にともなう農村崩壊と、偏差値教育によって粉砕されていたのだった。その結果、今の子たちの書く文章は「ブロイラーのように没個性」になってしまったと嘆く。
佐野は、宮本常一を師と仰ぐ。宮本は、肩書きらしい肩書きを持たずに全国各地を歩き、民家に泊めてもらい、話しを聞いてまわった。
宮本は父親から「汽車に乗ったら窓から外をよく見よ」「乗り降りする人の服装に気を付けよ」「はじめての場所では高いところにのぼってみよ」「人の見残したものをみよ。自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ」……と教えられていたという。宮本がそうしたように、佐野もそれを踏襲している。
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▽正力松太郎を描く「巨怪伝」 取材から執筆まで9年。執筆だけで2年。原稿用紙すら買えずチラシの裏に原稿を書くことも。800人分の人物検索。200件の件名検索。次々紹介してもらって200人に取材。
▽未知の世界を描こうとすることは、冷たいプールに飛び込むようなもの。その都度強い緊張感を強いられる。しかし新しい分野に挑戦しつづけなければ取材の刃はすぐにさびつく。
▽古着倉庫を定点観測的に調査すれば、現代民俗学の立派なレポートができる……。航空会社の制服は犯罪に使われないようずたずたに切り裂かれる……
▽道草を食え。目的の情報にたどりつくまでの道筋に、どんな人々がどんな服装で歩いているのか。路傍にどんな草花が咲いているか観察する余裕を。宮本は洗濯物に注目した。昭和30年ごろまでは手縫いやつぎあての下着が多かった。35年を堺に洋裁学校が姿を消していった。
▽宮本は、郵便局に必ず立ち寄った。私はできるだけ詳しい住宅地図を必ず手に入れる。
▽職業別電話帳、業界団体名簿、専門新聞協会の名簿。業界紙を活用。
▽大宅壮一文庫の件名索引、人名別索引。大宅文庫の目録は公共図書館に。
▽日外アソシエイツ「伝記評伝全情報」も人物調べに便利。
▽キーパーソンを見つけたらとにかく駆けつけて話しを聞くフットワークの軽さ。
▽個人の取材でも登記簿をあげる。目的欄では企業の当初の目論見がわかる。役員欄を見れば影のオーナーが見えることも。
■{題名}
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