■寿里順平 「中米の奇跡コスタリカ」 東洋書店 2600円 2001/11/6
中米全般の歴史とからめながら、コスタリカの全体像に迫る。
トウモロコシの利用法とか、大西洋岸の高床式の住宅の起源とか、中米各国の貧富の格差の違いとか、以前から疑問に思っていたことが見えてくる。
コスタリカの見方も、一方的な非難にも極端な理想化にもならず、淡々と描写してくれる。
グアテマラという植民地支配の中心地から離れた「辺境」であり、人口も少なかったがために、グアテマラやエルサルバドル・ニカラグアのような貧富の差ができなかった。災い転じて福となったのだという。
48年に「武装蜂起」を宣言したフィゲーレスは、一部の革新陣営の人の間では高潔な哲人のように評価されているが、共産党を非合法化し、労働運動も弾圧したことは知られていない。理想主義ではなく、きわめて現実的な判断として武装放棄の道を選んだのだった。
データはちょっと古いけど、いま読んでも参考になった。
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▽中米1の博物館国。ラム酒、コーヒー、釣り、火山……などアイデア続々。一種の教育システムとして設置。
▽計算上は国民10人に1人ほどの先生がいる。常備軍の兵士の数だけ教員を生産したことだけは事実だ。
▽コスタリカの闘牛は、牛を殺さない。
▽学生は小さい時から自国語を論理的にあやつる練習を積んでいる。社会も、話し言葉としての論理性や言葉遣いによって話す相手の人格を評価する。
▽コスタリカが国連平和大学の設置を提案した。大戦争をクールに観察することにより平和を論理的に考える。少なくとも戦争体験を平和研究の必須条件とする考え方に見直しを迫った。……将来を通じての安全性、イデオロギー上の多極性について社会主義国の評価も高かった。
▽中米の農村ではトウモロコシの葉が干からびるまで実をもがない畑を見かける。実が硬くなって胚芽の部分まで利用できるからだろう。市販のトウモロコシ粉を使わず、玄米に近い混じりモノが入っているから、自家製のトルティーヤのあじが違う。最近はそういうのは珍しくなりつつある。
▽料理のできないコスタリカ女性に会ったことがない。
▽しっかりした家庭の娘が1人でデートに出かけるのを親は許さないだろうという常識は現在でも通用する。多くの場合、姉妹や従姉妹が付き添ってくる。
▽既婚男性の旺盛な女性関係は公認されている事実。最近は裕福な男の愛人関係はへり、もっとドライなオフィス・ラブが進行している。
▽黒人たちはアフリカ式の住居をジャマイカにも伝えた。動物の進入や湿気を避けるため床は高くしてある。
▽ポルトガルの奴隷船から逃げた黒人たちがニカラグア沿岸に漂着し、原住民集落と混血を繰り返した。英国はこれを独立した国家とみなし足場とした。ミスキートと呼ばれるようになった。
▽北米に似た先住民族の保護地区を設けている。……学ぶべきはマヤ族やアステカ族であって、自分たちの先住民族は、滅びるに足る文明しか持たなかったということだろう。
▽スペイン人と接触したインディオたちは、伝染病で村ごと絶滅する場合が少なくなかった。ほかにもさまざまな理由。
▽緑の法王ユナイテッド社がコスタリカに組織された労働運動をのこした。
▽コスタリカの有力家族は、エルサルバドルなどと違い、経済的背景が伴わない。ホンジュラスはその点コスタリカに似ている。
▽他国に比べ、小農民主義で、明確なカースト社会が根を下ろさなかった。専制的支配者もいなかった。中心都市であるグアテマラから離れた辺境の地だったからともいえる。
▽1948年の内乱で共産党は政府側についた。最後まで闘ったのは共産党系の労働者だった。ブルジュア政党の裏切りで犬死にさせられた……。
▽軍隊の廃止よりも公正選挙の徹底の方がインパクトを持った。軍事政権の経験もなかったからそれほど驚くべき改革とはみなされなかった。
▽国民解放党は、ペルーのアプリスタ党と性格が酷似していると言われた。「反共、反独裁、反ファッショ」で右派から中道左派まで。
▽この国には大農園やプランテーションが発達しなかったから、とてつもない大土地所有者や大金持ちが育たなかった。コーヒー栽培は、それまでの平等性を破壊したが、自由放任主義の信奉者たちは教会の権力介入をきらい、独立直後には教会税を廃止した。大金持ちと教会が結託した寡頭政治の経験を持たなかった。
▽教会の権威も大金持ちもきらいなコスタリカ人は博識で自由主義的な政治家を大統領に選んだ。極右・極左のどちらも嫌う。過激な行動や考え方はすべて事態を悪化させるという信仰の持ち主である。所詮、同じ釜のメシをつつきあった200人の植民者の末裔である。
▽100年も前の憲法の部分的改正を根気よくやってきている。軍隊を持たぬ動機は、対外的なものではなく国内紛争の平和的解決にあった。そこから非軍備に対する考え方が国民に定着しはじめた。
▽戦争をして、そのくだらなさがわかったつもりだからもうやらないという嫌戦論が日本。戦争はしなかった。これからもやらないからという戦力無用論がコスタリカ。
▽アリアスの中米和平提案は、モンへ前大統領をして「そこまでやるより、アメリカの心証をよくして援助の道をたたれぬようにすることだ」と躊躇させた。与党内部の反対とレーガン大統領との狭間でアリアスは神経を費やすことになった。アリアスに対するノーベル平和賞はレーガン外交に痛烈な一矢をむくいた。レーガンは「アリアス構想にはソ連キューバの軍事関与を排除する条件が欠けている」と批判していた。軍事侵攻プランの抑止力としても有効だった。
■河合隼雄 「人の心はどこまでわかるか」 講談社α新書 01年11月8日
「人の心はわかる」と慢心してしまったらカウンセラーややめた方がいいと筆者はいう。
僕自身、記者になって5年くらいは「自分の記事に絶対の自信を持てるようになったら何も怖くないのに」と「自信」を求めていていた。が、自信を持ってしまったら進歩も終わってしまうということに数年後に気付いた。
「人の心がわかる」と大学のころ思い込んでいたころもあった。が、わかったつもりで「キミは××だよね」など決めつけてしまう。けっこう「なぜわかるんですか」などと感動されるから、さらに畳みかけてしまうのだが、アルコールがさめてから後悔する。
自分と似ているタイプの人は何となく理解しようと努めやすいが、それ以外は、どうやったらその人の「大事な部分」に接することができるのかさえわからない。どんな人とでも深い対話をしなければならないカウンセラーはやっぱりプロなのだ。
以下の人たちの質問に答える形で、本は書かれている。
▽角野善宏・精神科医▽石川敬子・カウンセリングオフィス神戸同人社スタッフ▽岩宮恵子・スクールカウンセラー ▽箕輪尚子・企業での臨床心理士▽高石恭子・甲南大助教授・学生相談室のカウンセラー▽岡田由美子・加古川市民病院小児科の心理療法家▽酒井律子・京都市立永松記念教育センター▽野村二朗・家裁調査官▽平松清志・山陽学園短大助教授・箱庭療法
▽渡辺雄三・個人開業の心理療法家▽徳田完二・北海道大助教授で学生相談
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▽ぎりぎりまで追いつめられ「死んだ方がまし」と言うくらいまで行かないとなかなか変わらない。でもそれを言うともっと苦しくなる……
▽日本のカウンセラーは受容の真似ばかりして失敗している。表面だけ受け入れるのはダメ。カウンセラーとはいえ、母性原理で受容しているだけでいいわけではない。父性が弱いという日本文化の特徴。
▽本当の母性というのは、かりに子供が殺人罪を犯そうとも徹底的に守ろうとする。「オレの子だろうと、悪いことをしたら放り出す」というのが父性。
▽たとえ幻聴がなくなっても、次のつらさがやってくる。普通でない生活ができなくなった苦しみ、治ることの悲しさもある。
▽教師や親がよくやる失敗は、あまりきれいに説明しすぎること。これでは子供は口で反論できないから、手が出る。言葉で攻撃できる余地を残すことが必要。
▽うまくいかなければ自分の資質を疑うし、うまくいっても、これはまずかったのではないかと疑う。あるところで満足したり、慢心したりしたらそれは引退の時期です。
▽未熟な療法家ほど「せっかく行ったのに校長の理解が得られない」などと嘆く。教師も親もすべて含めていくのがカウンセラーのやくわり。人間というのは関係の中に生きていますから……療法家は全体が見えていなければならない。(人のせい)
▽仕事をしていれば自然と「学校とはなにか」とか考えざるを得なくなる。単に漫然と考えるだけでなく、学校の歴史を調べてみようとか、アメリカではどうだろうとか、どんどん調べていけばいい。
▽学生相談のなかで、実感のなさ、根底の空虚さを抱えて漂っている若者が増えている。豊かな状況で育ち、ハングリーになりようもなく、だから満たされようもない……。
▽西欧の個人主義は、キリスト教の倫理を背後ん、責任感と家族の結びつきというものを徹底的にたたきこまれるなかで形成されるから、子供が独立しても何かあればみんなが集まってくる。日本の家族の結びつきは漠然としたものだから、いったんバラバラになったら元には戻らない。責任・義務の裏打ちがないから孤独になったら歯止めが利かない。「日本本来の家族関係に返れ」と声高に叫んでも返れるはずはない。
▽外向的に忙しく働いている人は夢を覚えていない。夢には盲点とか裏側が出てくるから、いちいち覚えていてあれこれ考えていたら日常生活はできなくなる。
■高橋祥友 「仕事一途人間の中年こころ病」 講談社α文庫 01/11/11
筆者は40歳代半ばの精神科医。「何ともいえない空しさ」や「どこかにとても大切なものを置いてきたしまった感じなのに、それが何か指摘することができないもどかしさ」を最近ふと感じ、子供のころのことをひどく懐かしく思い出すという。
自分自身が感じている「空しさ」の実感から説き起こし、鬱病や中年の自殺について論を進めるから理解しやすいし、「なんだ、精神科医もそんな不安を持ってるのか」とちょっとした安心感を与える効果もありそうだ。
それほど内容の濃い本ではなく、あっという間に飛ばし読みしたが、いくつか参考になる部分もあった。
中年期は落ち着いているように見えるが青年期以上に不安定なのだと述べ、「自分にはもうできないこと、自分にしかできないこと、自分だからこそやっておきたいことを整理してみるのが中年期の課題だろう」と結論づけている。
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▽モームの「月と六ペンス」はゴーギャンをモチーフにした作品。「人間の絆」も中年期の危機を描く。
▽漠然とした不安を感じたら書店へ。ふと目に留まる本を読んで徘徊する。それを繰り返すと、共通した関心があって、それが今自分が抱えている漠然とした不安と関連していると気付くことがある。
▽鬱病とは、気分や感情の面だけに限らず、思考や行動、身体の面にも症状が現れる心の病。些細なことを決断できず、些細なことが気になる。
■小貫雅男 「菜園家族レボリューション」 現代教養文庫 01/11/12
大地とかかわりながら命と物を再生産してきた家族が、工業化による分業化によって必要な物すべてを賃金で買うようになり、市場に組み込まれてしまった。科学技術の進歩はリストラをひきおこし、生活を忙しくさせ、地域を崩壊させた。こうした「拡大系社会」はどう変わるべきなのか−−。
モンゴル遊牧民の家族とともに暮らし、長編ドキュメンタリー映画を撮るなかで、大地に生まれ大地に帰る生き方に「処方箋」を求めることになった。それが「菜園家族」だ。
週に2日だけ会社で働いて、残りの5日は畑を耕して自給自足。そんな暮らしが広まれば、自然を身近に感じ、家族とともに働く時間もできる。過剰な経済の競争がないから環境問題もなくなり、仕事をシェアすることで失業も減る。
期待をかけるのはすでにそれに近い状態になっている兼業農家だ。さらには、役所や教師などの公的な部分がまずシステムを作ることを提唱する。
著者自身、そんな暮らしを実践しようと、滋賀県の山奥の古民家を借りた。
ちなみに、家畜として著者が推奨するのはモンゴルと同様の山羊だ。老人や子供にも気軽に世話できる。粗食に耐え、草を食べるから除草もしてくれる。ヨーグルトやチーズの味は絶品という。乾燥地帯だけでなく、沖縄の竹富島にも飼育する文化がある。
そんな生活、できたらいいだろうなあ。
■黒井文太郎 「イスラムのテロリスト」講談社α文庫 01/11/14
旧知の軍事ジャーナリストが書いたためつい手に取った。
よぉまあこれだけ調べられたなあ、と感心する。中東から東アジア、アメリカ大陸にいたるイスラムのテロリストの系譜を、おそらく百人近い個人名をあげて説明する。固有名詞が多すぎてわかりにくい部分はあるが、これほど綿密なレポートは日本にはなかったのではないか。
国際紛争においては、「正義」はころころかわる。「自由の戦士」がテロリストになったり、また「戦士」に戻ったり……。そんなご都合主義的な紛争や戦争が原理主義を伸長させ軍事化させえたことがよくわかる。
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▽(1)少数派イスラムであるシーア派を起源とし、イランのイスラム革命政権の情報機関のもとに各地に拡大した流れ。(2)エジプトの上ナイル地域の好戦的な社会慣習に育った者たちが大衆組織「モスレム同胞団」から派生した様々な原理主義運動を過激化。(3)ヒンズー教徒と闘ってきたインド亜大陸の聖職者集団。「イスラム協会」の動員力でパキスタン独立をもたらし、パキスタン軍事政権の後ろ盾となった。以上の3つの流れがイスラムのテロリストの源流になった。
▽アラブ民族主義と社会主義にわくアラブでは原理主義は主役になりえなかった。73年の第4次中東戦争に積極的に参加したことで軍内部に支持者を獲得。民族主義と社会主義にかげりが見え始めた。
▽サダト暗殺。テロリストといえばパレスチナか極左だったところに原理主義という得体の知れないグループが葬った。その後の大弾圧で海外に流出。その行き先がアフガンだった。
▽イランの革命の初期に主導権を握ったのは、バニサドル大統領ら留学生組織のインテリだったが、イスラム共和党に駆逐された。イスラム社会主義を標榜するイスラム戦士機構との抗争は数千人規模の死者を出したが、共和党側が勝った。その後、82年、ベッカー高原に送り込まれた革命防衛対が傘下に民兵を招集したのがヒズボラの始まり。自爆攻撃を組織化した初の武装集団だった。イランは一貫して国外で活動する反対派の暗殺を続けた。
▽サウジの有力者は、イスラム財団を通じて各地の原理主義者を財政的に支援し、スンニー派原理主義の最大の庇護者だった。テロ組織の標的にならないための「上納金」という側面もあった。90年の湾岸戦争で、サウジが米軍を自国内に駐留させて批判を浴び、その報復としてテロ組織への資金援助を停止した。
▽ボスニア内戦。元アフガン義勇兵らイスラム義勇兵延べ3000人が参加。
▽反ソのアフガンゲリラを米国が支援したところから、米国内の中東系移民のなかに原理主義が根を広げた。
▽原理主義の中心は中東から中央アジアに移っている。タリバンとタジキスタン。タジクは、軍閥が割拠し、山賊化したゲリラが跋扈する。そのほとんどが麻薬産業に密接にかかわる。
▽パレスチナのゲリラは左翼・民族系が主力だった。モスレム同胞団系はむしろ保守路線をとった。87年に始まったインティファーダ。ハマスは同胞団が88年に設立したが、あっというまに同胞団を飲み込んだ。テロ部隊にはアフガン帰還兵がいた。
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