2001年12月

佐野真一「ニッポン発情狂時代」ちくま文庫 2001年12月5日

 内容が特に目新しいわけではないし、文章もまだるっこしい。でも、膨大で緻密な取材に圧倒された。30歳代前半ですでにこれだけの取材力を持っていたことに驚かされ、自分の取材力が情けなくなった。
 例えばコンドームの記事では、工場の地下水の描写から入り、材料のラテックスの調達、営業マン、風俗店、空港の売店……ゴミになって下水処理場に浮く様子まで追いかける。工場の風景の細かい描写も圧巻だ。
 さらには、日本にコンドームを広めた功労者たちの歴史と証言、コンドームに偏重した日本の避妊と外国との比較、軍国主義時代は「生めよ増やせよ」と軍人はタネウマ扱いしてコンドームはもっぱら避妊目的だったこと、戦後の優生保護法の発案者……と、どんどん取材対象を広げていく。
 タイやフィリピンの買春ツアーの章では、航空会社から現地ガイド、置屋、娼婦にいたるシステムを綿密に紹介し、最後は、日常性からの逸脱と旅を結びつける(旅の恥のかきすて)日本人の歴史意識の古層が、買春ツアーにあらわれていると結論づけている。
 雄琴のソープ街のルポは20日間泊まり込んで取材したという。
 歴史、ネオン屋さん、浴槽屋さん、水道関係、地元の農民、ヤクザ、レストラン、マンション業者、不動産業者、議員……。ここまでやるかぁ、という取材の広げ方だ。これだけ大きく網を広げてるのに、観察が緻密なのだ。たとえば1人の人物を描写するのに、「ピンクサーモンの地肌といい、メタルフレームの奥の垂れ気味の目尻といい、顔全体から好色のにおいが……細かいチェックのズボン、白いベルト、コンビの靴……、目はいつも油断なく光っており……」といった調子だ。雄琴の発展の裏には高度成長によるモータリゼーションがあること、ソープ業者をも食い物にしかねないしたたかな近江商人の存在があること、という結論に導いていった。  

モーム 「人間の絆T」(全4巻) 新潮文庫 2001年12月7日

 足が不自由に生まれ、幼くして両親を亡くした主人公フィリップの幼年から青年期。
 牧師の叔父に信心深く育てられたが、神に祈っても障害はなくならない。聖職者への道を捨ててドイツへ留学する。
 英国国教会の信仰を当たり前のことと思ってきたが、ドイツに出て「自分がカトリックの国に生まれたらカトリックを信じたのだろうか」と気付く。信仰が「当たり前」である故に、それを相対化するまでにはかなりの葛藤が必要なのだ。宗教がそれほど浸透していない日本人には違和感のある部分だ。西欧人にとってはキリスト教の「因習」を超克できるかどうかが理性の試金石だったのかもしれない。
 「そうそう、そう思ったよなあ」とか、「まさにその通り。人生って矛盾だよなあ」と思わせられる記述が次々に出てくる。聞いてしまえば「そうそう」なのだけど、それを観察し記録し表現できる能力がすごい。一流の通俗作家である。
−−−−−−−−−−以下抜粋−−−−−−−−−−−
▽ 「読書の習慣によって、ありもせぬ空想の世界をつくりだすことで、かえって現実世界をますます味気ないものにしているのだということもまだ知らなかった」
▽ 「母の死も牧師館での生活も学校でのみじめな2日間も夢なのではないか。……という気がした。……だが、翌朝目を覚ましたのは、やはりあの鐘の音だった……」
▽ 学校を退学を決めて「あれほど楽しみにしていた有頂天の歓喜はなく、深い憂鬱が心を捉えた。校長の前へ行って、やはり学校に残りますとはまさか言えなかった。……人間というものは、我を通したあとでは、かえって、そううまくいかなかった方がよかったのに、などと思うものなのだろうか」
▽ はじめてのキスは年上の家庭教師と。何度も逡巡するくせに最後はうまく「言い訳」「言葉尻」を見つけて実行する。
▽ ところが、いざモノにしてしまうと、その人の嫌な部分ばかり見えて年増だと思えてくる。夜は魅力的に見えるのに昼間に会うと興ざめしてしまう。女の方が「好きよ好きよ」と繰り返すほど逃げたくなる。自分が醒めるほどに、女は必死になって愛情を要求し、要求されるほどにうとましくなる。【つきあってみたらアレっと思ったり、夜は魅力的だと思ったのに、昼になると後悔したり……、だれもが経験を重ねなければそのギャップは埋まらない。埋まったつもりが過ちを繰り返す。洋の東西を問わないものなんだな】。

モーム 「人間の絆U」 新潮文庫 2001年12月10日

 ドイツから帰り、ロンドンへ行って失望すると、パリが燦然と輝いて見える。
 パリの美術学校の日々は変化に富んでいた。
 「人が祖国のために死ぬのはそれが好きだから死ぬのだ。人が快感より苦痛の方を選ぶとしたら人類なんてものはとっくの昔に滅びている」という快楽主義の芸術家に対して、「それが本当だとしたら、義務も善も美もなつくしてしまうとすれば、なぜこの世に生まれてくるんです?」と主人公は挑む。そういった議論を交わすなかで、自分では当たり前と思っていた道徳観を相対化するようになる。
  パリで得た最大の収穫は、精神の完全な自由を獲得したことだと主人公は総括する。  だが、パリでは自分の才能のなさに気づき、3流芸術家の末路を見て、金も家庭も安楽も投げ捨てて芸術家になる勇気は萎えてしまう。自分の勉強がムダだった、というのも残酷だが、厳しいと評判の美術学校の教師が「もう手遅れになってしまってから、自分の凡庸さに気付くというのは君、残酷なものなんだよ」と言うのを聞いて踏ん切りをつけて帰国する。
 恋愛も同じだ。女性とつきあったことすらないときは、「身も心も恋愛の激情の虜になってみたい」と求める。が、いざ虜になったら苦しくて「もう恋愛なんかうんざりだ」と思う。結局ないものねだりを続けるのだ。
−−−−−−−−−−感想−−−−−−−−−−−
 主人公のパリでの暮らしと、僕のニカラグアでの1年とがだぶって見えた。
 毎日毎日が楽しくて、今までとらわれていた倫理観やこだわりが途端にちっぽけに見えて、日本でのちまちました悩みを抱える生活が途端に情けないものに見えてくる。
 まるで青い鳥を追うかのように、新しい土地で新しい出会いを求め、次々を渡り歩く。「青い鳥」と「隣の芝は青く見える」というのは、奇しくも同じ「青」なんだよな。
 ずっとそんな旅を続けたい。どんなに楽しいだろう、と今でも思う。が、ヒッピー的な生活には実生活という基盤がない。社会の傍観者であるだけで主体とはなりえていない。
 フランスで主人公が出会った芸術家崩れの人たちは、今の社会でいえば、旅の刺激を感じなくなりながら惰性で旅を続ける長期旅行者や、刺激を求めてフリーターとして転々としつづけた末に疲弊してしまった人々になぞらえることができるだろう。
 「自由」を追求することが、実は自分の精神を凍り付かせる硬い枠を作ってしまうというパラドクス。だが、自由を求める勇気さえなくなったら、枠の中に沈殿するしかないのだ。
 回答はそう簡単には見つからない。

宮本常一 「絵巻物に見る日本庶民生活誌」 中公新書 2001年12月15日

 絵巻物にあらわれる習俗の細かな描写を通して、古代・中世から現代につながる習俗の歴史をときおこす。なんでもない日常の生活を丹念に観察する眼は驚異的だ。たとえば以下のように書いている。
−−−−−−−−−−抜粋・要約−−−−−−−−−−−
▽ 日本人は朝鮮人とは違って裸を好んだ。裸のままで布団に入っていたし、暑いとすぐ片肌両肌ぬぐなど裸になる風習があった。相撲も違和感を感じず受け入れる。子供を裸で育てる風習は昭和20年以前には僻地のいたるところにあった。裸体習俗は幕末から明治にかけての開国で禁止された。
▽ 庶民には便所はなかった。埋葬地などの汚わいの地などに排泄していた。貴族の館などには川や水の流れの上に便座を置いた場合はあった。穴を掘る便所ができたのは、肥料として利用するためだった。
▽ 市場の絵のなかに猪そっくりの豚が描かれている。昭和15年に宝島で出会った和豚は猪そっくり。豚は猪を家畜化したものであることを示している。
▽ 縄文の住まいは竪穴式。高床は、稲の生産技術と宗教儀礼をもち、支配者になった人々が持ち込んだらしい。今日の神祠もほとんどが高床式建築だが、平安中頃までの寺院は土間にシュミ檀を設けるのが普通で、高床はまれだ。

モーム 「人間の絆V W」 新潮文庫 2002年1月6日

 幸福と「生きる意味」を追求し、いたるところで破れる。芸術はダメ、恋愛はダメ、しまいには株に手を出して住む場所さえ追われ、貧民の生活を余儀なくされる。
 将来の展望もなにも見えない貧しい人たちが、なぜか淡々と生きているのに出会う。「上流」の生活など、あこがれもしない。静かなあきらめの人生なのだ。
 「生」にすがりつく伯父の老残の姿も目にする。なのに最期は「妻のところに行くよ」と静かなあきらめのなかに死を受容する。
 善悪とか幸福といった「価値」の空しさ。失敗も成功も人生も「無」なのだと思い、「幸福」という尺度を脱ぎ捨てることで、「自由」を得る。「苦しみも悲しみも、人生という絨毯の意匠をただ複雑精妙にするだけのためにある。人生の終わりが近づいて時には意匠の完成を喜ぶ気持ちがあるだけだろう。無数の人間の一生は苦労の連続であり、美しくも醜くもない」と。
 ニヒリズム、静かなあきらめ、人生や死の「受容」……。モームの前半生にたどりついた考えを自伝的な形でまとめあげた。いつかはそんな境地に達しなければならないのかもしれないな。
 ただ、平凡な結婚生活を選ぶという結末は安易だ。事実、モーム自身はそんな生き方は選ばなかった。
−−−−−−−−−−以下抜粋と要約−−−−−−−−−−−
 ▽結婚したはずの悪女ミルドレッドが男と別れた。つつみこむようにフィリップを大事にしてくれた女ノラと別れることにする。
 ケンカをしたときの「あなたなんかきらい」というノラの一言をきっかけに別れられてホッとしたのも束の間、女はあやまりにくる。それを冷たく突き放す。怒り狂ってくれたほうがむしろ楽なのに、すすり泣く。
 相手を傷つけずに別れるなんて絶対無理なのだ。相手から嫌になってくれたらいいのに、と思って、画策すればするほど相手の気持ちに火をつけることになるものだ。
 ミルドレッドの苦境を助け、悪女とわかっていながらつき合うが、今度は親友グリフィスと夜逃げしてしまう。
 ▽「理性ではいろいろ考えていたが、本能や感情に手も足も出なかった。理性は傍観者であり、事実の観察はするが、干渉する力は皆無だった」
 ▽生活困窮者が来る病院で助手をする。悲劇も喜劇も幸福も悲しみも退屈もある。だが善も悪もない。ただ事実そのものがある。それが人生なのだ、と感じる。
 ▽パリでは人生には美も醜もない。あるのは真実だけだと学んだ。だが、スペインの抽象絵画を見て、すべてだと思っていた写実主義よりもよいものがあるような気がした。弱さ故に人生を回避する理想主義ではなく、現実をそのまま映す写実主義でもない。人生の美と醜と卑俗と高邁と、すべてを含めて受容する、いわば止揚された高次のリアリズム……。人生の意味を与えられたような気がする。人は人生を偶然に任せることはない。意志は強力なものだとわかった気がした。克己ということが、情熱的・積極的な精神であること、人間の内面生活というものが、未知の世界を探検する人々の生活にも少しも劣らないことを。
 ▽25歳にして株に手を出して破産する。家賃を払えず下宿を夜逃げする。野宿をしながら、それを現実のものとは信じる気になれない。苦しいけど、じっと我慢すれば必ずなおる病気のようなものだ、という印象から抜けられない。不幸に襲われたときに感じる非現実感。
 物を考える力もなくなる。泣くのが一種の慰めになる。救ってくれたのは、芸術家仲間ではなく、「あそこ(会社)で生命をすり減らしていると思うと、辞表を出してやろうかと思うこともある」といいながら好きでもない仕事をつづけるアセルニーだ。その妻は「仕事を見つけるなんて、たいへんなことなんですからね」という、これまた日本のサラリーマンの妻のよう。親の遺産で働きもせずに生きてきたフィリップからみれば俗物だ。
 ▽同年輩の友人ヘイウォードの死。ドイツではじめて出会ったときは尊敬し、それが幻滅にかわり無関心になり、ついには習慣と昔の思い出以外2人を結ぶものはなくなった。かつて夢と熱情を持っていたが、じりじりと失敗の中に転落していく。……彼の生と同様、彼の死もまたむなしかった。人生の最後においてさえ犬死にをしたわけだ。……彼が生きたということは全く無意味だった。人間の一生など無意味なのだ。そう思うと、完全な自由を感じた。失敗も成功も無意味。人間はとるにたらぬ一生物にすぎないが、いっさい虚無の秘密を暴き出した点においては全能者といってもよかった。
 ▽幸福という尺度で見る限りたまらない一生だったが、ほかの尺度によって計られていいとわかってからは自然と勇気が出てきた。苦しみも悲しみも、人生という絨毯の意匠をただ複雑精妙にするだけのためにある。何が起ころうとそれは模様の複雑さを加えるだけだ。 人生の終わりが近づいて時には意匠の完成を喜ぶ気持ちがあるだけだろう。無数の人間の一生は苦労の連続であり、美しくも醜くもない。人生を静かに諦めきっている。無意味と決まってしまえば人生もそう怖くない。
 ▽娼婦に身を落としたミルドレッドに再会する。あれほど身を焦がした愛情は不思議と感じられない。怒りもない。哀れみだけで助けの手を差し出す。だが「仕事を探す」と言いながらまた裏切り、娼婦に戻ってしまう。どんなに誠意を込めたところで、1人の人生さえ救えないという現実。
 ▽死の床にある伯父は、健康のこと以外に関心を示さず「生きる」ことに執着する。死の恐怖におびえてフィリップの手を必死に握る。「人間は誰もみな、この恐怖を経なければならないのだ」。ところが、牧師を呼び、聖餐をすませると、おびえが消え幸福そうな表情になり、「心の用意ができた。死んだ妻のところへ行くのだ」と言う。いっさいを静かに諦めている。人生の受容、死の受容、静かな諦め……。
 ▽初恋の年上の女性ウィルキンソンの消息を伯父から聞く。ノラも再婚した。ミルドレッドにも怖いけれども会いたいと思う。初恋の人とか、つき合った人とか、とんでもない女とか、それでもどうしてるかな、と思ってしまう。
 ▽子供時代を送った街を歩く。昔となにも変わらぬ店、学校、子供たちの表情。人だけが老いている。だが、かつては1人残らず住民を知っていたのに、時間が止まったように何もかわらないのに、誰一人知った顔がいない。その孤独感。
 いかに多くを志して、しかもなし得た成果がいかに少なかったか。もう取り返しもつかない。過ぎ去った年月は無駄だったような気がする。今また元気な子たちが同じことを繰り返そうとしている。この子たちも10年もすれば、いわば異邦人としてここに立つだろう。人生の無意味さを強く見せられるだけだ。
 ▽医療の実習をしながら、貧民階級と中上流階級のあいだにはほとんど共通点がないことに気付く。中流の身分をうらやむこともない。一生苦労して最期は養老院で露命をつなぐのが関の山で前途の希望もないが、彼らは自分をあわれとは思ってない。運命としてあきらめている。
 ▽2年ぶりにかつての親友ローソンの姿を見かける。が、とっさに逃げてしまった。フィリップの心はもう芸術にはない。関心は、人生という1つの絵模様を織り上げることだけ。ローソンの役目は終わったのだ。
 ▽きわめて健康で健全な女サリーと恋をして、妊娠したかもしれないと告げられる。世界を放浪する夢がつぶれてしまうと思う、と同時に、漁村の医者として家庭をもち、平凡な結婚生活を送ることも想像するとそれもいいと思う。実際は妊娠していなかったと知り、がっかりする。家庭と愛と安息を考えていたのに、再び孤独な冒険に出なければならないひるみと絶望だ。
 ▽彼の人生は「すべき」で動いていた。「したい」と思うことで動いてはいなかった。複雑な人生という意匠を織り上げるという願いも、考えてみれば、単純な生き方もまた完璧な図柄なのではあるまいか。幸福に身をゆだねるというのは敗北の承認かもしれないが。
 そしてサリーと結婚する。