2002年1月

宮本常一 「日本の村・海をひらいた人々」ちくま文庫 2001年12月25日

 全国を歩き回り、無数の観察のなかから、地方ごとの違いや共通項を見つけだしていく。些細だけど膨大な観察の結果が彼の学問を形作ったことがよくわかる。平仮名が多く、文章もうまい。柳田国男と似ているようだが、宮本の方がはるかに目線が低いし、わかりやすい文章だ。
 名もない彼の研究対象たちは単なる観察対象ではなく、よりより生活を社会を求める「仲間」と位置づけている。たとえば壮大な段々畑を見て彼は「大阪城の比ではない。無名の人たちが、その生活を幸福にしようとして、土地に注ぎ込んだ情熱は大変なものだったのです」と書く。
−−−−−−−−−−抜粋と要約−−−−−−−−−−−
 ▽屋根の形には、切妻や入母屋、寄せ棟、方形、かぶと形とある。炊事場の小屋と寝る家が分かれていたのが、次第にくっついて曲がり屋になり、勝手口というのは2つの家が分かれていた名残だという。
 ▽田の字型に、おもて、ざしき(南側)、へや、だいどころ(北)が並び、田の字のわきに「どま」がある。ここには昔は厩があった。それが基本。間口が狭ければ京町家のような「法蓮造り」になる。どこの地方でもこれらの間取りをもとにして、複雑化したという。
 ▽昔は土間の上にむしろのようなものを敷いて暮らしていた。それが板の上に移る。藺草などを編んだりした敷物を使うようになる。それが、たたんでおけたため「たたみ」と言うようになった。1935年の農林省調査では1051戸のうち82戸はたたみのない家だったというから、最近のオールフローリングなんかはさながら先祖回帰なのだろう。
 ▽囲炉裏は昔、夜の明かりをとり、寒さを防ぐものでもあった。それが、料理はかまど、明かりはトウダイや行灯というように発達した。日本全国をしらべると、各地の文化の差は、多くの場合、歴史的な差であることが多い。
 ▽門前町は、世の中が平和になって発達したものが多く江戸時代以前のものはあまり多くない。むしろ寺内町の方が古いものがある。大阪ももとは石山本願寺の寺内町や天王寺の門前町などが1つになってできた。
 ▽村(農村)では頭人になる家は代々きまっていた。古いことがあらたまりにくいが結束も強かった。他人の集まりの「町」では、合議制が発達した。関西にはそういう町が多かった。
 ▽墓地にすぐたちよって、形や戒名や年号を調べる。
 ▽段々畑のもっとも広く分布しているのは愛媛県の西のほう。
 ▽農機具
 ▽葬式のたすけあい。「葬式だけは血のつながりがあろうとなかろうと助け合った」
 ▽共有地のある村では、見知らぬ旅人にもあいさつしてくれる子供がいる。そういう村にあうと、ほとんど例外なしに共有地を持っている。しかし共有地の多くは、明治時代に売られるか官林になってしまった。分配されたまずしい農民はただ同然にうってしまった。それを町の金持ちが買い、それが村を衰えさせるもとになった。共有地の大切さを、手放してみるまでわからなかったのです。(革命政権崩壊後のニカラグアの農村のよう)
 ▽汽車の窓で気付いたことを、歩くときにたしかめてみる。ほかの土地でもきいてみる。
 ▽鯨をとる文化。捕獲の方法の進歩。五島列島でフィールドワーク。米国などの捕鯨による影響……
 ▽生きたまま釣るには釣り針が一番。底が岩だったり潮の流れの速いところではよい方法だと。
 ▽漁船の進歩。波が船内に入ってこない構造へと甲板をはるように……
 ▽イワシやニシンは肥料として、日本の農業に役だった。大阪平野やヤマト平野の百姓は綿をたくさんつくっていた。米は秋田や山形から運んできた。ニシンは肥料として持ってきた。それが盛んになり、北海道でニシン取りが盛んになった。

宮本常一「民俗学の旅」 講談社学術文庫 02年1月29日

  宮本の生い立ちを描いた自伝。
 旅好きな人たちの村で生まれ、村の文化を体現したような祖父と旅を愛した父の影響を受けた。大阪に出てからも歩き回る。見知った地名が次々に出てくる。店先で職人の姿を長い間見つめ、雑談することがうれしかったという。
 柳田国男や渋沢敬三に出会い、民俗学の道に入るのは数えで33歳のときだった。
 何時間も何時間も、周囲があきれるほど人々の話を聞いてまわった。彼の文章には「学者」の眼ではないあたたかみを感じる。
−−−−−−−−−−抜粋・要約−−−−−−−−−−−
 ▽「人間の持ち時間はみな同じだが、それをどう使うかでその人の一生が決まってくる。1日を3つにわけて睡眠と労働と休息にわけて使うのが理想的。休息中に反省し計画をたてねばならぬ」「先を急ぐことはない。あとからゆっくりついていけ。それでも人の見残したことは多く、やらねばならぬ仕事は一番多い」……(佐野真一の本で抜粋したものは省略)……「金があったら土地の名物や料理はたべておくのがよい。その土地の暮らしの高さがわかるものだ」(父の言葉)
 ▽子供のときの豊かな行事。単調な日々のなかに点々とはめこまれていた。しかも、1日の祭りのために何十日と準備や練習をしていた。昭和のはじめ、不況で生活の簡素化が叫ばれ、旧暦による行事はやめろ、という達しがあった。行事は消えた。新暦では行事と月夜の関係がなくなってしまい雰囲気も出なかった。
 ▽郷里から広い世界を見る。足が地についていないと物の見方考え方に定まるところがない。自分を育て、自分の深くかかわりあう世界をきめこまかに見ることによって、未解決の問題を考えることもできるようになる。
 ▽「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。主役をつとめると多くを見落とす。その見落とされたもののなかに大事なものがある。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ」(渋沢)
 ▽学問への出発は33歳。特定のテーマを持つこともなく、ただ全国を歩いてみる。いろいろな人に出会い、どうやって生活しているかを見てくる。
 ▽毎週水曜日は東京郊外を歩いた。一定のところまで電車で行って、そこから日の暮れるまで歩く。柳田先生にすすめられてのことだった。……旅に出て最初によい人にであうまでは心が重い。しかし1日も歩いているときっとよい人にであう。そして泊めてもらう。その人によって次にゆくべきところがきまる。ある翁は50時間あまりを語り続けた。
 ▽大正12年ごろには、下肥をつんだ船が朝、淀川をさかのぼって東にかえるのを見かけたものである。大阪には屎尿の配給網が見事につくられていた。
 ▽立て膝を抱いて座ったまま寝る。猿子眠といい、山伏は山中修行のときこうして眠る。絶対風邪をひかないという。
 ▽当時は農地解放問題で多くの農民がいきりたっていた。寄生地主や不耕地主の土地は解放すべきだが、かわいそうなのは、夫や子が戦争へ行き、近所の農家にあずけたのがそのままとりあげられた人たちだった。そうした被害者すら悪徳者のように言われていた。
 ただ農地解放そのものは大切だ。解放前は、技術の話をしても「どうせ無理だよ」といった目が目に付いた。が、解放後は新しい技術について話すと、かえって眼がかがやいた。
 ▽漁村の調査では、イワシ網をひき、イリコ製造のお手伝いもした。だが釣漁だけはどうしてもコツがのみこめない。海の技術と知識は幼少のとき身に付けておかなければどうしようもないことを知った。不就学児が多かったのもそのへんにつながる。
 ▽昭和30年ごろから民俗学に疑問を持ち始めた。日常生活の中からいわゆる民俗的な事象を引き出して整理するだけでいいのだろうか。生活誌の方がもっと大事にとりあげられるべきであり、生活を向上させる梃子になった技術については、もっと構造的にとらえることが大切ではないか。
 ▽どんなささやかな人生でも、みずからのいのちを精いっぱい生きるものはやはりすばらしい。1人1人がその可能性を限界をためしてみるような生き方をすることではないか。
 ▽最初に外国を歩いた者には国の中を歩いてみるようにすすめる。漫然と歩くのではなく、何かテーマを持って歩くように。すると1カ所へ1回だけいっておしまいにするということがなくなる。かならず何回も行って親しい人ができる。
 ▽日本の政策は農民から農業を奪うことに集中し、食糧自給率は37%まで落ちている。国際分業論もよい。だが世界中が軍備の拡張に奔走しているのである。武器をもっていればいつそれを使うようになるかは予測できない……
 ▽古い習俗は僻地に残るといわれてきたが、疑問があった。むしろ中世以来領主のかわっていないところ、戦争のほとんどなかったところに古い習俗が残るのではないかと思うようになった。
 ▽地方が中央に依存するようになるのはシャウプによる税制改革が実施された昭和26年以降だ。所得税を国が把握して分配するから、自治体は中央をむく。税収を増やそうと思えば大企業を誘致して固定資産税をとりたてるが、企業の経営主体は大都市にある。そのことが地域社会に対して配慮の少ない経営をとることになる。地域社会はかつての植民地そっくりのありさまになり、地方自治体は大企業の利潤のおこぼれで運営される部分が大きくなった。(ニカラグアなどの第3世界も、企業誘致と国際金融機関だのみ)
 ▽民俗資料館づくりにかかわってきた。が、逆効果をあげる資料館も多い。少数の篤志家が集めたり、昔の生活を惜しんで集めたものは、むしろ過去を矮小化させることになる。「昔は貧しかった」と思い込ませ、民衆の持つエネルギーのすばらしさなど、消えてしまう。
 ▽進歩とはなにか。少なくとも人間1人1人の身の回りのことについての処理の能力は過去にくらべて著しく劣っていると思う。忘れ去ろうとしていることをもう一度掘り起こしてみたいのは、そのなかに重要な価値や意味が含まれているのではないかと思うからである。しかも古いことを持ちこたえているのは、主流ではなく、片隅で押し流されながら生活を守っている人たちに多い。
  「一革命家の思い出」クロポトキンの自叙伝 ファーブル昆虫記 昆虫を観察しつづけたファーブルの追求力に教えられる

永和良之助「現場からの風−高齢者福祉の質を問う」 2002年1月13日

 特養ホームの指導員などの経験を元に、高齢者施設の経理情報などを公開させ、各施設のレベルの違いを比較するオンブズマン活動をしてきた著者が、住み慣れた地域で最期まで暮らせる北欧と、貧困な日本の福祉を比較し、あるべき福祉の形を提言している。
 大規模なホームではなく、地域ごとの小規模多機能な施設が必要だと考え、みずから松山市で施設づくりをしている。研究者の鷹の目と、現場の職員の虫の目の双方をもっているから、わかりやすく、納得できる。

梅棹忠夫「実戦・世界言語紀行」 岩波新書 02年1月27日

 何十何百という言葉もわからない土地でフィールワークをしてきた著者の言語体験記。
 彼は、「バードウォッチングのように」いろいろな言語を楽しむという。耳から聞いて、意味を尋ね、カードをつくり……、「それなり」に話せるようにして調査を積み重ねてきた。1つの言語地域を徹底して調べるのではなく、きわめて横断的に世界各国を訪問し、住み込んでいる。
 そういう視点って「放浪願望」という意味では学生時代には持っていたが、就職して以降、「言葉もわからないところにいっても何も見えない」と決め込んでしまっている。もしかしたら横断的な視点も持たないといけないかなあと思わされた。
 セム語族・ハム語族という区別は今やなくなり、ウラル・アルタイ語族という言い方も今はしないらしい。20年そこそこで言語に関する研究はずいぶん進んでいるのだ。言語学も一度かじってみたいなと思った。  

野口悠紀雄「ホームページにオフィスを作る」 光文社新書 1020201

 内容は表題どおり。
 ブックマークのリンク集を自分のホームページに載せる、というアイデアはやってみるとけっこう便利だ。会社でも家でも同じブックマークを使えるし、取材に使ったサイトを記録しておけば、あとになって振り返るにもよい。
 自分のサイトの全文検索ができるNAMAZUというソフトがあるが、自分でサーバーを構築していないと難しい。グーグルやグーなどで、サーバー名を限定して検索することもできるという。
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