■永六輔「一泊二食三千円」中公文庫 2002年8月9日
なんでも楽しめる。どこでも楽しめる。ちょっとした勇気をふるって、身近な町も旅人の目で眺めてみよう……と。
旅は寂しさという。人生の寂しさ心細さとの投影か。寂しいからこそ、細かな風景や息づかいを感じられる。だから1人旅を。家族ばらばらの旅を。それぞれの旅をした家族が、「家」という場に体験を持ち寄ればいいじゃないか。
−−−−−−−−−−−−−−−
・大使館で国の話をきく。住宅展示場めぐり。
・自分の暮らしているところから歩きまわるべきだし、その周辺に関しては区役所や、都庁の資料室でいくらも調べることができる。
・四条京阪から八坂神社までのアーケード。京都を町から都会に変えつつある。町の暮らしを捨てつつある。京都の街には空があって、山があって瓦屋根がある。それをどうしてアーケードにしてしまうのだろう。(京都タワーよりひどい)
・岩国。錦帯橋のたもとに駐留軍用の公衆便所があったりする戦後の匂う街。
・職人が仕事道具を買うのに見とれる。主婦が大根を買うのにみとれる。ひたむきに生きる姿勢、生きることの悲しさを、大根を見つめる目から感じ取る……
・より確かな旅の実感というものは、なるべくスピードを避け、不便さと心細さの中に味わうものではないだろうか。旅は新しい誤解と偏見のためにこそある。旅をするとき、より深い理解のためにというようなことは期待しない方がよい。
・いつだってぼくらの目は、一部しか見られない。そこへ行ってきたことで全部を見たつもりになり、あそこはよかったというような言い方をするんではなくて、一部分しか見てこなかったということを確認する。それが全体を理解する第1歩。
・お年寄りがよく若い人との断絶を埋めたい、語り合いたいと言いますね。若い人は、おとうさん、おじいさんからだを大切にしてくださいなんて言うでしょう。そういうのがいや。あくまで老人は若者を拒否すべきだし、若者も老人を拒否して乗り越えていってかまわないと思うんですよ。そういう中でも、ああ人間なんだなあ、生きていてよかったなあというものがあったときに、それがつまり断絶をなくすことなんであって。
・いいおじいさんになろう、いいおばあさんになってほしいと思いますね。女房にはそれしか言わないんですよ。今はどうでもいいからいいばばあになってくれ……。ぼくが家に帰らなくたって、いまに年をとったら家に帰る。そのかわりいまは自由にしておけというのが、女房に対する注文なんですよ。旅に出るということは、別の意味で家を捨てるということで。
・家族はばらばらに旅をすべきだと思うんです。その旅をまとめるところが家なんで、一家そろって旅というものには、ぼくは何かいんちきがあるような気がしてならないんです。
■永六輔「沖縄からは日本が見える」光文社知恵の森文庫 02年8月20日
・厨子ガメ 自分の骨壺を自分で買っておいて、「遠からずこれに入って暮らすのだ」と思いながら暮らすのはなかなかいいものじゃないでしょうか。こういう死との向かいかたを沖縄から学ばなくては
・宜野湾にある佐喜真美術館。所有していた土地が普天間飛行場になり、その一部を返還させた跡地にたてた。
・プラハの春。銃口に花を、と戦車に差し出した一輪の花。この発想のもとは日本の生け花だったそうです。
・滋賀の長浜では、沖縄料理店をはじめるときに行政が支援した。「初めてだから」。
・はとバス。よそから来た人がどういう思いで東京の街を見るか知るべきです。
・佐渡島でもゴーヤを食材に。沖縄出身の太鼓叩きによって導入され、太鼓のグループ「鼓童」の不可欠な食材に。そういう話はよくある。沖縄の昆布も北前船で。サンシンも北前船で山形の酒田へ。そこから秋田、津軽へ。それが津軽三味線に。
・動物愛護法(99年)の影響で三線も三味線も消える。?ニシキヘビの皮、ネコの皮。
・無着成恭。カンボジアに学校をつくる活動に。
・「沖縄国際平和研究所」井上ひさし、大島渚、赤川次郎、山田洋次らが呼びかけ人。
・「人間の鎖」で米軍基地を包囲した。海外メディアのレポーターがもっとも正確に伝えた。「人数が足りない」と報道がきっかけになり続々参加し輪が完成した、と。
・ヤマトとの関係で、沖縄はいつも期待させられ、その後はあきらめさせられました。薩摩との関係、明治維新後の台湾との関係を含む琉球処分、沖縄戦、米軍支配、海洋博、サミット……。
■若松進一「今やれる青春」アトラス出版 2002年8月23日
無人島探検、ヘリ遊覧、竪穴式住居復元、町おこし……つぎつぎに企画し実現させてしまう役場の課長。「いましかやれないこと」をやるのだという。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
・漁業をしながら青年団活動。やめて役場へ。かつてのグループがあつまって、36歳の若松を筆頭に。20年で40回の塾の積み重ねた。
・「煙会所」、丹原のちろりん村の西川さんは第2縁開所。丹原の柿栽培の佐伯武広さんは「ホワイトハウス」。今は町議に。松山市のパン屋の川口寿雄さんは東越にメダカの学校。
・無人島キャンプに文部省から問い合わせ。少年犯罪に対応するため、サバイバルキャンプを。国から県庁へ「通達」。いつのまにか、優秀な子が選ばれ、安全を強調するばかりの魂をゆさぶりにくいプログラムに。
・森のキャンプ。昼間、段ボールを3枚わたし、寝家をつくらせる。やがて夜、ひとり寝の段ボールにもどると、一晩中孤独とたたかう。恐くて泣き出す子も。「人はヒトリでは生きていけない」。今までにもまして団結が生まれた。
・読む、聞く、見る。全国を訪ね、丹念に見て歩き、青少年問題の分野では物知りに。だが5年余りで壁に。受動的行為だけでは自分の能力が高まらない。それから、読んだら書く、聞いたら喋る、見たら実践する、の3本柱に。
・竹村健一を案内した塾生だった内海村の加幡仁一くんは、ついに村長に。フロンティア塾から首長が生まれた。
・中島町役場の豊田渉くんは二神島で機関紙「よもぎ」を発行。島研究に熱心。
■竹中労「琉球共和国−汝、花を武器とせよ」ちくま文庫 1200円 02年9月1日
革新勢力が「本土復帰」で盛り上がっているときに、「日帝にふみにじられるだけだ」と「独立」を主張し、琉球王国を理想化する進歩派の学者に対しては、琉球王国による八重山弾圧を対置する。保守革新ともに道徳的な運動をするときに、娼婦や港湾労働者といった人々と寄り添い、「組織」に拠らないコザ暴動に希望の芽を見る。
だれが何と言おうと、いかに少数派になろうと、最底辺に視座を据え、たたかいつづける。視座が明確だから、状況が動いてもぶれない。その厳しさと孤独さがビリビリと伝わってくる。
はげしい闘争者だが、けっこう涙もろい。娼婦の女の子が「このオジサンね。遊んだことないさ。でもいい人だよ」と言われて涙がこぼれそうになり、「ソバでも食っとくれ」と5ドルを渡す、というエピソードも。
文体は独特なはちゃめちゃ流で、おちゃらけているのだけど、すさまじい知識量だ。水滸伝や孟子などの古典、宮沢賢治などの文学、沖縄の文献……それらをすべて咀嚼し、自由自在に自分の文体に活用している。
ルポライターである同時に、世界革命を目指す立場を露わにしていた竹中が、当時はキネマ旬報や大手週刊誌に執筆していた。今なら彼のような文章を載せるのは「噂の真相」くらいではあるまいか。言論の自由の幅がいかに狭まってしまったか、よくわかる。
−−−−−−−−−以下抜粋−−−−−−−−−−−
▽私の探検の目的は「革命」にある。アジア、ラテンアメリカの窮民社会・スラムを7年間歩き回ってきた。世界の奈落に住む同胞たち、ルンペン、娼婦、犯罪者、非人、やくざなどと一味同心するべく。香港の黄大仙の難民アパート、九竜城、竜翔道のバラック街、モンコックの水上赤線地帯。那覇のジュッカンジ(拾貫瀬:国際通りをバー街桜坂とは反対方向に入ったところ)、那覇最大の売春街の栄町。辻町。
在韓被爆者。
▽「キミは光明を求めて闘うのか。私はただ暗黒ともみ合うだけである」(魯迅)
▽那覇の魚市場にいけば、糸満の女が忙しく稼いでいる。つまらん感傷は捨てて雑草のごときスタミナを信じよう。でなければ大江健三郎「沖縄ノート」的サンチマンに陥没する。
大江は、「会話らしい会話をかわすことはできなかった」と書く。なにをデクノボーのように突ったっとるのか。こういう文学的なウソで沖縄を語りつづける。うちとければ淫らなり。人をして語らしめず何のルポルタージュぞ。けっきょくキレイ事よ
▽摩文仁の慰霊碑団地。塔を立てさえすりゃ責任のがれという地方自治体のあさましき了見。
▽奥武島 周囲10キロに満たぬ小島。よそ者を入れない。キチガイ集落と呼ばれる。
▽沖縄左翼の「復帰ナショナリズム」は、佐藤栄作政権を助けたのみ。反米愛国の主張がどれほどナンセンスで反革命であったかを沖縄の愚かな左翼は深刻に反省しなければならぬ。教職員組合が愛国教育・民族教育・祖国復帰教育を強制した結果、まぼろしの祖国、にあこがれて集団就職した少年たちは酷使されている……。本土に集団就職して、差別される。
沖縄をヤマトに売ったのは、反体制を看板にして庶民に復帰ユートピアの幻想を与え、本土政府に処分の口実を与えたのは、実はお前ら(革新議員:瀬長亀次郎、上原康助……)だったと。
▽史記によると、孔子は3千の作品から「礼の義にかなうもの」305編を選んで「詩経」に編纂したという。奔放な情歌は孔子によって捨てられたのではあるまいか。日本の民謡採録作業も同様だ。秋田音頭も、もとはセックスを描写していたのが、おとなしい歌詞が「民謡全集」には採録される。秋田音頭が流行した由縁は、猥雑な土俗のエロチシズムにあったはずなのに。町田佳声らの「先生」は、「猥褻な歌詞はあとあkらつくられた替え歌だから捨象した」という。逆じゃないのか。
▽1969年の新宿西口広場のフォークソング集会を機動隊が実力排除。マスコミは政府批判の歌曲を放送禁止した。これを知識人は非難した。が有効ではなかった。歌、というのはそのような皮相な「政治主義」によってでなく、根元的な人間の自由への欲求の深部から吹き上げ、体制を破壊する。……「うたって踊って恋をして純潔だけは守りましょう」民青路線に、フォークソング運動は整除されてしまった。道徳官僚の手で人間の「うた」は禁圧され整除され「義にかなわぬもの」として消去された。
▽唐ぬ世から大和ぬ世、大和ぬ世からアメリカ世……時世時節よかわろままよ
▽佐藤栄作の妻の干渉で連載をうち切られ、悪戦苦闘。…… 「生きてると疲れるね。戦いぬく、言うは易く、疲れるね。しかし……是が非でも、生きぬくよ、戦うよ。決して負けぬ。戦っていれば、負けないのです。決して勝てないのです。人間は決して勝ちません。ただ、負けないのだ。勝とうなんて思っちゃ、いけない、誰に何者に勝つつもりなんだ……」(坂口安吾)
▽大江健三郎の「沖縄ノート」……豚に食わせよ。諸君、泡盛を呑め、ウタ、サンシンに酔い呆けるべし。尾類小(娼婦)を友とせよ、日雇い労働者……らにたちまじれ。国家=民族の水準でなく、人間=民衆の次元で人々と連帯するとき……。
▽映画創造が運動という視点を欠落し、流動する外的状況と切断したときに、映像は観念の遊戯にのめりこみ、人間はこぼれ落ちてしまうのだ(私小説化、新聞記事も同じ)
▽コザ。越来村字小胡屋。米軍がキャンプを「コザ」と呼んだ。コヤの読み間違いか、美里村の古謝との混同だったのだろう。
ヤマトから来る知識人は「植民地、アメリカナイズ、売春と犯罪の都市」という。だが、むかし毛遊びー、エイサーの伝統も戦後復活した。米軍基地に囲まれたコザにこそ、古き良き沖縄の元姿があるのだ。
大江らの著作には、ほとんど一行も沖縄下層プロレタリアートにカンする記述は見あたらない。売春婦も、ホステスも出てこない。「非国民」「アメリカの手先」扱いも。
▽かくもすぐれた文化を創造する能力を持ちながら、異民族支配に甘んじてきたのは、けっきょく彼らが決定的な時点で常に闘うことを恐れ回避してきたからに他ならない。コザの街を焼いた「暴動」も瞬時の反乱に終わり、唯一残された固有の文化すらをヤマト帝国主義擬制の繁栄とひきかえにしようとしている。
▽嘉手刈林昌 次々とわきでる春歌。理想の春歌のうたいてだった。 (ニカラグアのゴドイのような、エルサルのモラサンのバンドのような。日々をうたう感性)
▽かつて疑いなく日本復帰を唱えてきた新聞、専門家、口をぬぐって「復帰には問題がある」とさえずりたてる。馬鹿はつねに遅れてやってくる。気付かぬよりはましにちがいないが、みっともなくはないか。(介護保険、有事法制、住基ネット、ホームレス問題、いつも遅い対応の新聞よ)
▽イエロージャーナリズムの中にこそ、まことの言論の自由がある。
▽海洋博。本土主導ですすめられた。琉球経済処分の大団円。本部に決まる前に本土資本は土地を買いあさっていた。
▽復帰で、物価高、失業不安に庶民は置き去りにされ、光栄ある「復帰運動」のにない手はおのれらの権益を大衆に優先して確保する。(公労共闘は、円切り上げ前の1ドル360円で給与換算することを約束させた。市議は歳費を大幅アップ)
▽伊江島。「土地を守る会」が発足。島ぐるみの戦いが展開されたがーー。復帰で「守る会」は38人に減り、いまや「米軍残留」「基地縮小反対」の世論が強い。全軍労にしても、「生命を賭けて」と軽々しくいうやつは嘘をついているのでなければ痴呆なり。首切りは反対、アメ公は出て池という矛盾に気付かないわけではあるまい。本土から来た作家は伊江島を美化し悲壮感あふれるルポを書いた。諸公の報告は喜劇に転倒してしまった。(オレはいったい伊江島のことをどう書いていたろうか。再読はこわいなあ)
▽八重山。石垣は都会なり。先島へ足を伸ばさねば八重山を理解する能わず。
▽65年に中国で徳田の未亡人と烈士廟を墓参した責任を問われ、共産党の党員権利停止。67年に「祇園祭」製作過程で中央の決定に従わず、キューバに無断で旅行したことで除籍された
▽永山則夫と(ジャズの)サッチモとの違いは。永山には資本主義社会で成功するに価する天分はなにもなかった。そう考えてはいけない。人間を悲惨から解き放つのは個別の才能や努力であるという思想こそ、敵としなければならないのだ。
▽森進一(本名森内一寛)の非行遍歴
▽宮古島の東急グループの開発進出と阻止しようという神女との抗争、八重山における台湾人移住者の実態、西表の旧炭坑と廃村の無人地帯……。パイナップルも芋も持ち込んだ台湾人は「復帰」によって追い返された(こんなにも豊富な切り口が……)
▽沖縄の売春をやめさせようと、市川房枝、山高しげり、藤原道子が来た。クソばばぁめら、余計なことを。「いつの時代にも女性の解放という理想をネジ曲げ、娼婦たちを救済するという名目で、彼女らを苦しめ弾圧してきたのは女性運動家たちであった」売春をなくしたいなら娼婦をみんな殺すがいい。でなければ貧乏をなくすことだ。できるか?
▽(解説)沖縄人は「絶望からの従順」によって本土教育界からの圧力に屈したのか、公立学校での日の丸・君が代実施率は100%なのだ。……大戦以前でさえヤマトが勝手に作った神社が4つだけだった。なのに現在の沖縄県民は家族こぞって、戦後でっちあげられた神社へ初詣に押し掛ける。
「ケマダの戦い」「祇園祭」
■安斎育郎 「科学と非科学の間」 ちくま文庫 20020919
こっくりさんの悪霊にとりつかれたと思っている人に、「科学」を振り回して頭ごなしに説得してもだめ。お稲荷さんにお祓いしてもらったら心に余裕ができて理性にもどるきっかけになったという。相手と同じ高さで対応する大切さ。
丙午の迷信は、徳川綱吉の「生類憐れみの令」で犬を殺した者を死罪にしたころから、生まれ年の干支にこだわりだしたのが遠因らしい。
科学の思考法は「WHYなぜ」「BECAUSEその訳は」という問いで磨かれる。だが、「なぜ」と聞いてもその訳が説明できないものが身の回りに増え、「なぜ」と問うことを自主規制する。「WHY」と問うことをやめて「HOW」さえ知ればよいという気分にとらわれる。「科学の時代だからこそ非科学的になってきた」
|