■五木寛之 「冬のひまわり」 新潮文庫 20021102
主人公の女性は、16歳のときに出会った男と年に1回、鈴鹿サーキットでの逢瀬を重ねる。すでに結婚し、8歳年上のまじめで誠実な夫は年に一度の恋人?の存在を知りながら、だまって送り出す。
その女性が20年の恋を振り払って、やさしい夫との生活に落ち着く、という物語。
単純なメロドラマ。だが、1つ1つのシーンの描き方がうまい。鈴鹿サーキットの轟音と、轟音のなかでこそ孤独でいる2人の様子、京都の古い街並みの夜の静けさなどが、自分がその場にいるかのように伝わってくる。
文章力の差を痛感させられる。 感性を磨かなくては、と。
■谷沢永一 「人間通」 新潮文庫 20021022
保守派の論客。渡部昇一や小林よしのりは論理が粗雑で学べる部分はないが、故江藤淳と谷沢永一は、共感できる部分も多い。
この本では彼が基本的にペシミストなんだな、ということがよくわかる。「人間なんてしょせん、世間から少しでも高く評価されたい、というのが最大目標だ」「人間の究極の本質は嫉妬である」とか……。
人と人との心のふれありとか連帯とか、「人間らしく生きる」という意味を追求するとか、そういった視点はまったく排除されている。彼に言わせれば、「そういうぬるい認識が世の中を見誤らせる」となるのだろう。人間なり歴史なりを安易に信じて「展望」にすがろうとしがちな左翼への強烈なアンチテーゼともいえる。
ペシミスト故に「現実」路線を選択し、社会の変革という方向には向かない。「身分社会に生きる心構えは、己を知って着座の順を間違えない気働きである」と、身分社会を所与の前提として語りかけるところに、現実主義者・保守主義者としての彼がよく出ている。
展望を失った左翼がいきなり極右に転向することが多いのは、安易な「展望」を砕かれて極度のペシミズムに急転するためだろう。「展望」によりかからず、「現実」に絶望せず、社会に働きかけつづける、という剣の刃渡りをするような生き方が求められているのだろう。
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▽寂しいという肌寒い心境を味わったことのない人は精神活動が鈍くて活気が乏しい。適度に寂しがりやである方が感情生活に湿りがあって他人に好かれるのでは。
▽人間とは、自分が世間から少しでも高く評価されたい、というのが最大の目標。「私を認めてくれ」と叫び続ける可憐な生き物。
▽人間性の究極の本質は嫉妬である。
▽自分と他人の行動を損得という基準に勘案するとき、非難の応酬が消滅するであろう。
▽国家総動員法によって、政治家の時代が終わり官僚が国家権力を掌握する体制が確立した。官僚が全能の札をにぎり、かつ何事にも責任をもつ必要のない安全地帯に逃げ込んだ。国民の経済活動と日常生活に細かな規制をかぶせ、官僚が意のままにする状態は戦後も継続している。
■鎌田慧「反骨のジャーナリスト」岩波新書 20021027
圧倒的少数でありながら、命さえ捨てて、言論を支えた人々がいる。原稿を発禁とされ、官憲に狙われ、それでも書き続けた言論人がいる。
せっかく書いた記事をボツにされたときの悔しさとつらさ。何よりも取材相手への申し訳なさ。でもその何倍もの苦渋の思いをして言論の自由を守ろうとした人たちがいる。小さなことでくじけていてはアカン、「会社」の枠に閉じこもっていてはアカン、闘わなアカンと思わせられる。
記事を握り潰されて落ち込んでるうちに、敵は増長し味方になるべき人々は萎縮していってしまうサマは8月にイヤというほど見てきた。自分の弱さに辟易しているときなだけに、この本は厳しかった。以下抜粋。
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▽発行停止されつづける。それでも出し続ける新聞「日本」。
検閲がなくなった今、「中立」「客観報道」という名の自主規制などを見ると「言論の自由」があるとはとてもいえない。
▽横山源之助は間借りの6畳で家族に看取られないままに死んだ。結核でぜえぜえとあえぎながら「これが、人生というものかねぇ」とつぶやく。日雇い労働者と布団を並べ、下町の貧民街を足を限りに踏査する。路上でなくなる人々や女工、港湾労働者……底辺を歩き記録する。そうした記録は長らく出版を禁じられた。それだけ力をもっていたということだ。
▽平塚らいてう 「青鞜」。カクテルを飲むとか、遊郭にあがったとか、おもしろおかしく書く大手新聞。「頼るものは、自分1人の力と信念ただそれだけで、ほかに何もないのでした」
「世間の常識」と闘っていた。「なにさま思想の自由と肉の解放を絶叫する女どもの会合なので、見渡すところ処女らしきものは1人もなく、本能に餓えたるアバズレばかり」と新聞が青鞜社講演会の記事を書く。
▽大杉栄 「理想が運動の前方にあるのではない。運動そのもののなかにあるのだ」
▽桐生悠々 発禁にされることにビクビクしながら出す。「またダメかあ、といって、がっくりしてて。自殺するんじゃないかと。机にうつぶせになってうめいていました」。新聞社をやめても発行部数300ほどのミニコミを発刊し、抵抗をつづける。〓ペンはジャーナリスト個人の武器であって、新聞社という企業に属するものではない。新聞社をやめてからでもミニコミを発行して気を吐いたなかには、鈴木東民、むのたけじ、黒田清……。
▽尾崎秀実 尾崎を死刑に追い込んだ「国防保安法」には「国家機密を探知し、収集し、漏泄し、公にした者」に死刑を含む処罰が規定される。どこまで機密になるのか、線引きがむずかしい。曖昧な表現だ。有事法制と同じ。
尾崎処刑の直後、通夜にはたった6人。ところが終戦後の1周忌にははいりきれない訪問客だった。
▽鈴木東民 戦前にフリーライターとしてドイツに滞在しナチスを批判し、戦後、読売新聞社を解雇され、釜石市長になって釜鉄の公害と闘い……「戦争に反対し、職を奪われ、強制疎開させられ、餓死一歩手前まで追いつめられたぼくの一生は、弱者の一生だった。現在の社会では正義を守ろうとする者は強者にはなれない」。
ドイツでは有色人種として罵倒され、排斥される。「独裁者はひとりではなく、何百人、何千人といるんだ」。
市長落選後、市議になり、「三陸新聞」を発行して、企業寄りの姿勢を猛然と批判する。大新聞の編集局長だった人物によるミニコミ紙発行だ。
▽むのたけじ 朝日新聞を戦後直後、戦争責任をとってやめる。東北で「たいまつ」を創刊。78年まで30年にわたって780号を独力で発行しつづけた。
横手につき4号まで発行し、家族が新聞を抱えて売り歩いていた時期、さっぱり反響もない。「33歳の某日、自殺を決意して、……鉄路に……以後にはずっと行き詰まった状況に追い込まれたことが何度かあった。しかし逃げようとはしなかった。それに組み付いて、もがいた。もがいていると、組みついた私が変わっていき、組みつかれたものも少しずつかわっていくのだった。人間は生きていく力を全く失ったら自殺しない。しようにも、できやしない。自殺を考えるのは、生きる力がまだ十分に残っている証拠である」
「A君、きみは農民の立場で見るのか、非農民の側から見ようとするのか。農民の側のどの場に視点をすえるのか。……」
▽斉藤茂男 記者新鮮な思考を再生産する保証もないまま、いつか上からの情報をベルトコンベアで送り出す機械になりがちだし、中立・公正・客観的と称するかくれミノを着て、本当の現実を見きわめる努力を捨てがちになってしまう。かくして「合理化不感症人間」の仲間入りをさせられる。
新聞記者の日々の仕事が、歴史を切りひらく方向にむかっているのかどうか。横山源之助のように、地を這うようにして民衆のあいだをあるきまわることなく、権力者の談話に依拠して記事を書いているだけだとすれば、どうして人間らしい感性を磨きながら未来にむかうことができるだろうか。
人の話に耳をすませ書くことによって知識と感性をゆたかにさせられる。そのエネルギーに依拠して、民主主義をひろげ、人権を拡大し、戦争をふせぐ力をつくりだす。その意欲と自己検証がなければ、新聞記者としての「職分」をはたしたことにならない〓。
「記者が弱者の状況に巻き込まれ、徹底的に弱者の立場に視座を据えて世界を見るとき、状況の本質に接近できる」
■有田和生「福祉の思想を問う」みずのわ出版 1021110
「民主経営」を標榜する民医連の病院で、民主とは名ばかりの労働者の弾圧や、開き直り、情報統制をくり返す医者や管理職たち。一部の権力者がひどいならまだマシだが、哀れなのは、労働者を守るべき労働組合がだんまりを決め込むことだ。
「民主主義」とは、自分に都合悪いことも徹底的に話し合うところから始まる。だが、自分と考えの合わない部分を「反動分子」といったレッテル貼りをして排除する事例はけっこう多い。
なぜそうなるのか? 突き詰めると「個」の問題につきあたる。だれのための医療なのか、だれの立場に立つのか……。そういう問いかけを自らせず、「民主的」な経営者に従属する没個性の集合体。自分の地域や職場で「NO」といえない人間が集まって民主主義を唱えても、独裁を許すだけだ。
そのへんに戦後の「革新」運動が挫折した大きな要因であるように思える。
まったくシロウトの読者が読むと少々わかりにくい部分がある。仕事を失ったときの苦しさや空虚感、職場から排除されるなかで声をかけてくれる職場の人たちの思いなどをもっと表面に出した方が一般にはわかりやすい本に仕上がったろう。
■五木寛之「青春の門−筑豊編」講談社文庫 1021110
久野収の対談を読んで五木を読んでみようと思った。久野は「新聞記者は五木の文章に学ぶべきだ」といった主旨の発言をしていた。「冬のひまわり」という短編もそれなりによかったが、この本の比ではなかった。筆力と、人間の洞察力に圧倒されながら、559ページをあっというまに読んでしまった。
はじめてオナニーを知るときの罪悪感。愛する人を守りたいと思いながら、犯されるところを想像して興奮してしまう感覚。親の死んだ後の解放感を想像してしまう二面性と、それに気付いて「自分は冷たい人間じゃなかろうか」という自責の念。
性に目覚め、自我に目覚め、生き方に悩み、先の見えない人生に茫漠とした思いを抱く主人公の青春時代を描く。
僕自身の10代を振り返って、このときに親に反発したなあ、とか、もてなくて苦しんだな、とか、言葉や理屈で追えるような部分は覚えている。けれど、親や恋人を愛しながらもその死をどこか期待するかのような部分などは、読んでみてはじめて、「たしかにそんなことを思った」と思い出させられた。10代の感覚をすっかり失ってしまっている自分に気付き、愕然とした。
小説の舞台は戦中から戦後直後の筑豊だ。朝鮮人への差別、戦後の労働運動、それを弾圧するヤクザといった今からは考えられない舞台装置なのに、今も古さを感じさせない。
続編が楽しみだ。
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