■一ノ瀬泰造「地雷を踏んだらサヨウナラ」 講談社文庫 02/12/1
ついさっきまで戦争ごっこをしていた少年が、本物の弾で殺される。兵士が行軍するわきの川で子ども達が遊び、農婦がただずむ。戦争と日常が隣り合わせであり、民衆の痛みが目の前に見える戦争だったのだ。
戦場をもとめて前線を歩き、すぐ隣の兵士の頭が吹き飛ばされる。足がすくみながらそれでも戦場を歩き続け、「アンコールを見られたら死んでもいい」と言い残してカンボジアの前線に向かって連絡を断った。
カンボジア人やベトナム人の友達との交流。戦場に住む人々の夢や希望を聞く。とりわけ、教師をしているカンボジアの友が結婚し、「夢」を語る場面は痛々しい。彼らの幸せな結婚式からわずか数年後、先生や医師といったインテリは皆殺しにされることを、読者である私たちは知っているからだ。
恋をして、女を買い、「ベトナムは美人が多くて仏教徒でも性は自由です」と言って、カンボジアからベトナムに出て……。生と性と死が濃密に交わる日々をすごす姿がまざまざと見える。倫理とか道徳とかではない「生」がある。
彼ほど徹底はしてなかったけど、中米にすごした1年間を思い出す。死がそばに見えるからこそ、「生」が輝き、性を求める。
あんなギラギラした日々をもう一度おくってみたいと思う。
■大江健三郎「遅れてきた青年」新潮文庫 20021214
大瀬村(現内子町大瀬)で生まれた筆者の「フィクショナルな自伝」。
前半の戦後直後の「村」の描写に引き込まれた。
彼がそだった大瀬を実際に歩いたため、描写がなまなましく頭に思い浮かんだ。実家では三椏を扱い、内閣印刷局に納入してたこと、「わたしたちの家をふくむ隣組は、村役場への登り坂にむかってひらいたT字路のこちら側10軒で……」という描写……。そのままの風景が今も残っている。「朝鮮人集落」も実際に下流にあったという。
敗戦によって、「天皇陛下のために死ぬ」という目標を奪われた少年が主人公だ。大人達は「敗戦でなんもかもめちゃくちゃぞ、朝鮮人は堂々と強盗する。高所衆まで人間なみに文句を言う」と文句を言ったが、あっというまに「順応」してしまう。
少年の悲しみを後目に、小学校では進駐軍が来るのを前に「ハロオ」をみんなで合唱させる。
原・四国人とされる「高所衆」が、進駐軍の兵士にシャーマンである娘が強姦されたことに怒って発砲すると、「高所衆がわしらとおなじ日本人なものか」と差別意識を剥き出しにして、進駐軍に協力して犯人さがしをする。
大学に入り、久しぶりに帰省した村は「村の家屋群の屋根に、安酒場の軒灯のようなものがとりつけられ、家長の職業と性別、年齢まで書き込んだ大きい名札の色ガラスが裏の電球でてらしだされているのをみると(町村合併で浮いた村の予算で合併反対派の不満をおさえるために賛成派が苦心したすえの発明なのだ。町議会からの贈り物なのだ)わたしは自分がその村の出身だということを恥じる気持ちになった」。
実際、大瀬村は昭和30年に合併して内子町の一部になった。「村」の誇りを売り渡した人々に対する怒りが見て取れる。
山村のゆがんだ社会をこれでもか、まざまざと活写していく。
主人公は、戦って死んだ人たちに対して劣等感を覚え、戦争の時代より平和の時代が生きるに困難でありうる、あいまいな困難感、湿った疲労感……という。
生き甲斐を喪失し、「戦争」に参加しようと、隠していた銃を手に杉丘市(松山市)に向かって捕まり、教護院に入れられる。
東大に入学し、学生運動のなかで屈辱を覚え、財界側にすりよって学生運動家をつぶす。勝利と成功を得ながらも、欠落感に悩みつづける。
たぶん戦後世代の共通した感覚なのだろう。
■大江健三郎「私という小説家の作り方」新潮文庫 20021217
▽柿の枝を見ると、風もないのに若葉が際限もなく揺れていた。それまで自然の事物の細部をまともに観察してはいなかったことに、気付いた。自分を取り囲んでいるこれだけの樹木と草を、じつは見ていなかった。こちらがいつもよく見ていなければ、すべてがなんでもないもの、つまりは死んだものだった。
森の外から来た異物としての機械、映画のカメラがそのきっかけだった。スクリーンでの違和感に助けられて、目の前の柿の枝がたえまなく揺れているのを発見した。(Uターン、Iターンの論理)
▽いまも毎日午前中は、フランス語か英語の本と辞書と、色鉛筆と書き込みのための鉛筆をわきにおいて読み始める。
▽「個人的な体験」では、「バード」という人物をつくりだし、かれの経験はかぎりなく私自身に襲いかかったもの・受け止めたものに近かったのだが、ともかくも「バード」の物語としてそれを書いた。「僕」のナラティブから離れる努力をした。サルトルに学んで、ということでもあった。登場するいちいちの人物の内面に立ち入りながら、小説を書きすすめることへの魅惑。2人3人の内面にいかに自由に立ち入るか、いかに自然で豊かなリアリティーを成就しているか。
▽サルトルの小説に具体化されている、その想像力論。……芸術の手法は、ものを自動化の状態から引き出す異化の手法であり、知覚を難しく、長びかせる難渋な形式の手法である。芸術では知覚の過程そのものが目的であり、この過程を長びかす必要がある。
▽自分の草稿を、誰か他人に書き直されるとなると、自分の裸の身体の一部をいじくり廻されるような気がする。書き直しは、自分で自分にこの種の「暴力」を加えることである。書いた言葉を客観化して見なおすことのできる批評的な態度が必要だ。……どうもこの一節はモノを感じとらせない、という思いがあれば、なんとしてもそこは書きなおさなければならない。これは充分に異化されているかと問いかけてみればいい。
▽「同時代ゲーム」は、森のなかの谷間の、神話と歴史の伝承を総まとめにしたい、という意図に立ってもいた。
▽小説家とは、ドキドキするような自分の秘密について語らずにはいられぬ人間である。
▽「新しい人よ眼ざめよ」は、障害をもった子と「私」を含む家族、それだけでは不十分に感じられて第3の要素としてウィリアム・ブレイクの預言詩をよみとくというもう1本の柱を導入した。ブレイクを読むことによって、次々に私のものとなる新しい光源が、障害をもつ息子を照射し、かれと共生する私と家族とを照射した。
▽谷川俊太郎「きょうへとながれこむ/あしたの/まだきこえない/おがわのせせらぎに/みみをすます」。次作に向けて私はこれまでなにひとつ書いてこなかった者ようにして、じっと耳を澄ますほかない……。
▽長編であればなおさらのこと、書きすすめてゆくその日の労働がカバーしうる部分より遠くを見てはならない。前方のことは放っておいて、その日の労働にのみ集中させうるかどうかが、職業上の秘訣である〓〓。
■野口悠紀雄「超文章法」中公新書 20021219
いくつか参考になる部分はあったが、あまりピンとはこなかった。野口の本は、超整理法が一番インパクトがあり、超勉強法はそれなりに参考になったが、その後はイマヒトツだなあ。以下抜粋。
▽「見たまま感じたまま」主義は1930年代の生活綴り方運動によって始まり、戦後、無着成恭などに引き継がれた。戦前教育を否定する中で、学校教育の模範的存在に。
▽冒険物語は共通のストーリーを展開する。@故郷を離れ旅にA仲間が加わるB敵が現れるC最終戦争D故郷へ帰還する。
論文でも同じ。日常生活や職場での仕事が「故郷」であり、一般理論や世界情勢が「旅」。故郷への帰還は、「ためになる」「旅の経験を現実生活で応用する」こと。論文でも同じ。
▽文章の書き方を練習するなら、1500字と15000字をどうかくか練習すべき。小見出しのまとまりは1500字、「章」はほぼ15000字。論文も。
▽ライターの常套句。「…なんです」と、体言止め。
■大江健三郎「同時代ゲーム」新潮文庫 20030107
わけのわからん小説。時制がばらばら。読みにくいこと極まりないが、時間をかけて読んでしまった。
メキシコの大学で教える「僕」の今から始まるかと思えば、故郷の「村=国家=小宇宙」が何百年か前に成立する神話に飛び、「僕」の子供のころの体験に移り、「村=国家=小宇宙」が長らくの鎖国が破られて藩に吸収される場面にかわり、第2次大戦前夜「50日戦争」によって大日本帝国に徹底抗戦する場面に飛ぶ。
「村=国家=小宇宙」の現場は大江の故郷の大瀬村(現内子町)であり、彼が描く神話の世界は実際に先祖代々伝わってきたものを素材にしており、その神話世界をつぶす巨大な力として大日本帝国があり、天皇がある。
あるいは文化大革命を暗喩するような記述もある。柳田国男の影響か民族学的な逸話もある。
たしかなのは、故郷の村と森への限りない愛情と、画一化という形でそれを踏みにじる力への反発であろう。それが天皇権力だろうと高度成長だろうと。
文学も宗教も民族学も哲学も歴史も、何もかもをこてこてに詰め込んで、混ぜ合わせてつくったような作品。大江自身の思想の遍歴と混乱と成長を時制を無視して詰め込んだような、そんな印象を覚える。
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