■五木寛之「青春の門−第2部自立編」講談社文庫 1021113
早稲田とおぼしき大学に進学した信介が、一生を賭けられるナニカを求めて放浪し、女を経巡る。青春の象徴のような生と性。
愛する人が2人3人とできてしまい、九州から追っかけてきた幼なじみの織江をうとましく感じてしまう。かと思ったら、いとしくて仕方なく思う。こんな自分でいいのだろうか、と悩む。
そんなころが確かにあった。この子も、あっちの子もいい。今つきあってる子は重荷に感じる面もあるんだけど、別れるとなると急にいとおしく思える。もう少しなにかがかわってくれたらもっと愛せるのにとか、そういう期待をつい抱いてしまう。でも実は、そう感じてしまう時点ですでに愛は冷めかけている。そのことに気付くのにどれだけ時間がかかったか。
たぶん信介が20歳前に感じたことを、僕はその数年後に体験したんだなあと思いながら読んだ。
当時の学生の青くさい社会意識も新鮮だ。演劇を通して革命を支援する。山村に入って人民を啓蒙し、共に立ち上がる。今考えると背筋がかゆくなるようなことを、真剣に考えてかつ実行していた。考えるだけなら、子供だなあ、で済んでしまうのだけど、それを実行して、劇団を率いて全国公演に出てしまうダイナミズムは、僕らの世代にはもうなかった。
いや、なかったのか? 僕がかかわった公害問題はどうだ。中南米の内戦はどうだ。「マス」のダイナミズムはなかったけど、もっと何かができたのではないか。あのときにやったこと、やれなかったことをきっちりと検証すべきではないのか……。生も性も含めて。
それにしても、圧倒的な描写力がねたましい。
■五木寛之「青春の門−第3部放浪編」講談社文庫 1021113
ベートーベンやモーツアルトの古典に心からの感動を覚えない、生きていくのに不可欠なものと思えない。むしろ美空ひばりを聞きたい−−そう感じてしまう自分に信介は劣等感を感じる。
僕もそんな劣等感を持っていたことを思い出す。今でもクラシックを聴いて、「指揮者は……この演奏は……」と語る人はすごいなあと思う。フォークや中南米の民衆音楽を聴いて涙は流すけど、クラシックを聴いてもそこまで心が動かないもんなあ。
函館で主人公たちの劇団の一行は、港湾労働者を組織し、暴力支配から立ち上がらせようと働きかける。だが、「労働者」は立ち上がらない。けっきょく学生は、その土地に住んでいる人ではない。旅人でしかないのだ。
この時代は、青臭い学生の理想論がまだ理解される面があった。だから、顰蹙をかいながらも、はねあがって行動する余地があった。
僕が学生のときは、「自分たちはアマちゃんの学生にすぎない。労働者じゃない」という劣等感が先に立った。ごく少数の「活動家」タイプを除けば、労働組合の人や被害者の人たちと対等には話せなかった。
貧乏な暮らしがつづき、信介は「ただ生きるために働いただけなら、筑豊を出る必要はなかったのではないか」と迷う。何のための大学時代なのか。講義にも出ず、中途半端な社会運動にかかわるだけで……。僕も同じように悩んだ。もうちょっとまともな勉強をするべきだったかなあとも思う。でも逆に、まじめに勉強ばかりしていたら、もっと後悔したろうな。
啄木の句。「非凡なる人のごとくふるまへる 後のさびしさは 何にかたぐへむ」
(炭坑労働者から港湾労働者へ。夕張で出会った下請け労働者のおっちゃんたちはどうしているのだろう)
■五木寛之「青春の門−第4部堕落編」講談社文庫 1021201
演劇に失敗し、札幌で織江と同棲する。愛したはずの人との生活だが、貧しいがぬるま湯のような日々のなかに、人生を賭けるべきものが見つからない。東京へ出て織江とわかれる。
アルバイトも順調にいき、授業にもでらえる。でもなにかが足りない。自分という存在が歴史とかかわっていない、という無力感だ。歴史の大きな流れのなかでに身を浸し、自分もその流れに小さな波頭をたているのだという実感が欲しかったのだ。
学生運動にかかわり、生き甲斐を得たと思い、一時は没入しながらも、内ゲバや査問といった裏面をみて離れていく。
あとは堕落の一途。
「人生を賭けるもの」「歴史とかかっているという実感」。僕自身。得られたと思った時期もあったけど、いつのまにか逃げ水のように逃げていったような−−
「歌謡曲のような日本的封建社会の遺物が農民たちの精神を毒していた。だからこそ、学生たちの文化工作活動が農村青年たちの熱い共感を呼んだんじゃないか」
。「港の暴力団に支配されている人々は、学生の働きかけに応じようとはしなかった。疑い深い目でみつめ、石のように黙り込み、背を向けてビラを踏んで離れていった」
当時の学生の浅薄さよ。だが、それを信じて自らの人生を賭けられるのはうらやましい。
唯物史観という根本的な哲学の存在が大きかったのだろう。「展望」があるからあれだけ多くの学生が未来を夢見て人生を賭けられたのだ。
そこで魯迅の問いが思い浮かぶ。「展望がなければ闘わないのか?」と。いままさにそういう時代だ。展望がないからこそ、闘い続けなければならない。だが、どういう方向に、どんな方法で向かうべきなのか、解は見えない。
むしろ徹底的に堕落したほうが、ナニカが見えてくるのかもしれない。
■五木寛之「青春の門−第5部望郷編」講談社文庫 1021205
故郷の筑豊へ。そこでは親代わりの竜五郎が死の床にあった。はぶりのよかった塙組は落ちぶれ、やくざの世界は山口組に仕切られていく。炭鉱もすっかりさびれている。
そんな町でかつて養母のタエが働いていた酒場を探しあて、そこで、幼なじみが娼婦をしているのに会う。
かつて頼りにして尊敬していた中学の恩師は「40何年も生きてきて、まだ、これこそ自分の命がけでぶつかる対象だと言えるものに、めぐりあってない。この年になってそんなことを考えるといてもたってもいられなくなるよ」と吐露する。政治闘争にまきこまれ、教師という職に嫌気が差していた。
時の流れの残酷さ。親もなく友もなく、もう帰る故郷がない、という思い。胸を締め付けられるような思いを抱きながら筑豊を去る。根無し草。
たぶん、だれもがいつか感じる孤独なのだ。
東京に出て、交通事故にあう。財界人・林の車だった。林の家に住まう書生に。まったく違う世界の、まったくちがう魅力をもった女性みどりと出会い、織江とはまたわかれる。
−−−−−−−−−−−−−−−−
(ゴーリキーの小説について)「人間というものはひどいもんだ。苦しいし、つらい。希望はない。だが、それでも、自殺なんかして、生きることをやめてしまうほど、それほどひどくはないもんだよ」。そんなふうに彼が囁くのがきこえるのさ。
「ただ食って、生きて、暮らしているだけでは、意味がない。こんな、大きく歴史が動こうとしている時代に、歴史に参加することもなく、ひとりで自分の人生をただ模索しているだけの人間なんて、虫けらみたいなものさ」【感想追加】
■五木寛之「青春の門−第6部再起編」講談社文庫 1021207
財界人・林の書生生活を捨て、再会した織江の個人マネジャーとして貧乏から再出発する。それも男女の仲ではなく「同志」として。
林の娘のみどりに好意をいだきながら、危険な炭鉱で働く側にいる自分と、豪邸に住むみどりとは住む世界(階級)のちがいを肌で感じてしまう。みどりの悩みを理解しながらも「理解してはいけない」と考える。
みどり、織江、元娼婦のカオル、社会運動に邁進する緒方……さまざまな人と出会い、別れ、人は結局死ぬときは1人なのだ、自分1人で荒涼とした人生を送らなければならないのだ、と。圧倒される。
−−− −−−−−−−−抜粋と感想−−−−−−−−−−
▽ 「ひがみ、そねみ、ずるがしこさ、臆病さ、みんな貧乏人の気質です。ぼくはそれを自分の中に見て、とてもいやなんです。みどりさんには、それがない。そこが魅力なんですよ」
【ボンボンには負けねえよ、と学生時代に思っていた。だが、行動力もスポーツも仕事の能力も、得てしてボンの方がある。貧乏を経験してきた人ほど、守りに入り、小さくまとまり、萎縮している。そういう現実を初めて実感したのは学生時代だったか、社会人いなってからだったか】
▽ 「美空ひばりたちの歌が大衆から離れていく日なんて、そんなに早く来ませんよ」「巨大な資本と組織をバックに侵入してくるアメリカのポップスに対して、われわれレコード会社は竹槍じゃ戦えんのだよ」
▽ 「どんなに心が通じ合っていても、人間は最後はバラバラの孤独な存在だってことさ」【死ぬときの孤独。最愛の人が死んでも時が経てば笑えるようになる事実】
▽ 「持てるものの悩みもわかる。わかるけど、わかりたくない……筑豊の炭鉱は、地の底で汗にまみれて危険な仕事をしてる人たちがいる。持てる者と持たざる者の2つの世界が世の中にはあって、そのどちらかに属する者は、ちがう世界の人間の悩みをけっして理解できない。いや、理解しちゃいけないんじゃないのか。そんな気がするのさ」
【月5万円で暮らしていたとき、20万円あったら贅沢できるのに、と思う。20万円の収入があると、貯金が500万もあったら自由に羽ばたけるのに。貯金を500万円もつと、老後の保証を考えたらマンションと2000万円くらいは欲しい……たぶん1億円たっても不安や悩みや孤独は尽きないのだろう。それでもできるだけ、5万円の側の視点を持ち続けたい。1億円の人の悩みを理解したいとは思わない。−−そんなことは何度も考えてきた。】
▽ たとえ道づれがいても人間は1人だ、と彼はおもう。織江もそうだ。カオルさんもそうだ。トミちゃんと緒方もそうだろう。生まれてきて、死へ一歩ずつ確実に歩いていく人間の生活には、本当の意味での仲間などはありえない。それが唯一の真実なのだ。……あのアパートには自分の部屋がる。いっしょに生きていくつもりの娘がいる。だが、しょせんそこは一時の仮の宿にすぎない。人間の最後に帰るべき場所はいったいどこなのか。足がすくんで動けない奇妙な感覚に信介はおそわれた。……裸の人生の前に、いきなり不意にたたされて、少しでも身動きすれば深い淵の中へまっさかさまに落ちていきそうな……
|