■林達夫・久野収「思想のドラマトゥルギー」平凡社ライブラリー 030113
芸術家、思想家、哲学者、文学者……、聞いたことがない名前が次々に出てくる。いったいどれだけの本を読んでるんだ、どうやったらこんなに教養が広がるのだろう。ヘーゲルの話をするかと思えば、流行ドラマの話に飛び、さらにそこから美学や哲学の話に入り込み、ギリシャの悲喜劇にまで及ぶ。いったいどんな頭脳をしてるんや。英語もフランス語もドイツ語もスペイン語も読みこなしてしまう。かと思えば、ずっこけたところもあったりして。
和辻哲郎や三木清、西田幾太郎……。聞いたことがある人がみんな先輩だったり同級生だったり後輩だったり。東大と京大を中心とした文化人の世界というのは、今とは考えられないほど狭く、それだけに、能力がすごい。彼らの学生時代と比べたら、僕らの学生時代の知識の量なんて赤ん坊みたいなものだったろう。
勉強しなければ、と思わされる。
でもどんな方向に、どんな勉強をしたらいいのだろう?
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▽日本の思想の主流は、もっとアンダーグランドのところに隠れていて、それを絶えず警戒し予防して、自らを正当派に仕立て上げようとするのが尊皇思想とその伝統なんだ。柳田国男のように、文字以前の口しょうの伝統をたどり治さなければならない。……左翼の図式で天皇制を考えてニッチもサッチもいかんわいと思っていた僕は、そうだったのかという感動的開眼を受けた。
−−尊皇思想というのは、思想としては実に弱い伝統しかなく、天皇の政治的利用に奉仕するものが大部分。「神皇正統記」だって、ひどい下心のひそんだ本だ。
▽マルクスは学術文献以外でも、ダンテにしろシェイクスピアにしろ、古典を熟読玩味しているでしょう。あらゆる時代の一流学者はみなそれをやっている。(いろいろ反対の立場の本にも手をだすのは)「資本論」の教訓の1つを素直に守っただけだ。
−−それが全然守られてなかったんですよ。ソ連型マルクス主義文献でなければ文献にあらずといった仕方で勉強しているから、スターリン批判が出るとまたひっくり返る。
▽ ルネサンスが近代を呼び起こす原点は、アトリエ(芸術)とアカデミア(科学:大学旧派に対抗する一流学者たちの私設のもの)とマニュファクチュア(技術)。そういう水脈が徳川時代に形成されなかったという問題を考えなければいけませんね。技術や科学やマニュファクチュアの胚芽がみなあったから、明治維新以後に大きな発展をしたというのではアカン。たしかにそれぞれ顔を出しているかもしれないが、共通の水脈がない、ということに注意を向けないとね。
−−平賀源内みたいのがわんさといて、よっしゃ、と、いろんなものを共同で工夫したり研究したり、作ったりするものが各地に散材してなくちゃならなかったんだな。
▽ 新約聖書で、イエスの教えを言えと言われれば2,3分で言えてしまう。世界を動かした宗教や哲学の師祖の言ったことって、全く少ないな。
−−デカルトだって「方法序説」でほとんど言ってしまってる。パスカルは「パンセ」でね。マキャベリの「君主論」だって、あんなちっぽけな本が、500年のヨーロッパを支配する。モアの「ユートピア」も。
▽三木、谷川、羽仁ら、林さんの世代は学問的同志に対しても痛烈な批判をする。その前の世代やその後の僕ら(久野)の世代にもあまりない。仲間ぼめか敵攻撃しかない。……双方で徹底的に批判しあうという肝心なことが、根付いてない。明治100年、西洋精神からいったい何を学んだというのだ。
▽「思想」の中立をぶちこわした罪は和辻さんの側だけにあるように言われてるが、彼を早まって「敵」に廻してしまう工作に出た河上肇、その他の連中にもあるというのが僕の判定です。
▽五木寛之は、大衆文学でも純文学でもない、新しい道を進んでいこうとしているようですね(久野)。「裸の町」「さらばモスクワ愚連隊」でも、一種の事件小説でありながら、そのときどきに燃え上がったり、くすぶったりした情念そのものを保存しておこうとする野心がありますね。
−−−「高思低処」を地でいっている作家。
▽「世界」をはじめるときに、安倍能成が「天皇制護持を掲げたい」といった。真っ向から反対したのが、大内兵衛、「どうでもいいじゃないか」とやんわり水をさしたのが志賀直哉。鶴の2声で「天皇制護持」のスローガンをおろした。
−−−戦争末期に憲兵隊にかぎつけられ、みんな「危ないからこんな会合はやめよう」となったとき、志賀さんが「息子たちが責任もない戦争で命を犠牲にしているのに、われわれ年寄りが身の危険を案じてこんな会合さえやめようというのか」と制した。
▽事実を調べる時に、自分のもつ法則や仮説の例証、反証としてしか事実を見ていない。逆に、事実を事実として明らかに、という人々は、その事実を神棚にまつりあげてしまうか、怨念みたいに自分の事実解釈にとりつかれてしまう。一方にはロゴス的法則、他方にはパトス的おん念という結果になって、かみあわない。
▽ファシズムというのは、俗流マキャベリズムの最高のものだと思うんです。すべてを敵の打倒と味方の勝利で考えていくでしょう。
日本では、聖者型とボス型とがコミュニズムのなかで分裂したままはびこっている。ボス型はそれがマキャベリズムだという意識なしにやくざなマキャベリズムに浮き身をやつす。聖者型は、マキャベリズムの手先になっているという意識なしに、指令を忠実に実行し、指令のかわるごとに新しく変身しながら党に献身する。あるいは、指令の変化についていけず、大きな幻滅とともに党から立ち去る。コミュニズムから右翼にかわる人はいるが、逆がほとんどいない。それが、日本の左翼にとって大きなマイナスではなかろうか。
▽赤軍のような組織でも、入る前も入ってからも考えない。にっちもさっちもいかなくなってからやっと考える。我を忘れていい団体だと思って入る。反対と思っても、よう言わん。そして、ブツブツ言いながらも流されていく。だから転向するときに煩悶懊悩することになる。そんな連中に限って、党とかに入ると、人を見下して権威主義をふりかざす。
▽民衆はメロドラマを絵空事と知っていて距離をおいて見る。ところがそれがわからない大インテリは、かえって民衆より弱くなって、アイデンティファイしてしまう。メロドラマの毒に免疫性がない。(かつては泣かなかった長谷川如是閑が、晩年、何を読んでも涙を流すようになった)
▽柳田国男の笑いの関心は上品や高雅なものに限られ、俗の方、エロの方の笑いは省略している。柳田さんの常民概念が、上から見られた常民の色が濃くて、下から常民そのものからたどっていったものだろうか、という疑問。
▽スペインの大土地所有者で、農民を把握している大小何百という修道院は、諸悪の根源でもあり、これなしには、スペインの貧しさと後進性はあり得ない。修道院じたいが率先してその寄生的な有閑的な生き方にひたりきっている。
▽ブレヒトとロルカの詩がいい。
▽これこそ20世紀演劇だと思っていたものが、アッという間にとってつけたような社会主義リアリズムにのりかえられてしまった。
▽『役割引き受け理論』「西部戦線異状なし」の主演ルー・エイアースが、変身して本物の反戦派になってしまう。役が本人に乗り移るということはあるんですね。「聖ジュネ」のように。
▽レトリック・イン・アクション ギリシャでは、ロゴスの存在様式がロジックとレトリックとグラマーの3本足でなりたつ。ところが日本に哲学が入ってきたときに、グラマーは文法学にまかされ、哲学的文法学というジャンルは重視されず、レトリックというのは全く欠落した。これが日本の哲学・思想にもたらす影響は非常に大きいと思う。
−−哲学というのは、自分が探求した真理の言いっぱなしではだめ。説得が必要になる。・・・理想の世界では、単純に真理を語るだけで十分だが、堕ちた世界では、説得のいろいろな非合理的手段を用いることはやむを得ない、という考え。
−−エラスムスだって、金言集の仕事に精を出した。モンテーニュのエセエの出発点もそう。
−−日本の場合、自己完結的な真理の追究のみがある。
−−実際の世界での、レトリック・イン・アクション、フィロソフィー・イン・アクションという問題が欠落している。
−−「術」としての哲学が軽蔑されていて、「学」としての哲学ばかりがもてはやされる。モデルは神学ですね。
▽ゲーテだって、大衆芸能のファンでしょう。あのワイマール劇場というのは、味噌もくそも差別なく上演しているんです。それがゲーテのワイマール体験ってやつの正体なんだから。
■大江健三郎「個人的な体験」 20030119
頭に障害のある子をもった大江自身の経験をもとにした小説。あとがきに、大江は「絶望にうちひしがれていた。……書くことで浄化された」と書いている。「私小説にしたくない」という意図から主人公には鳥(バード)という三人称の名前を与えたという。
バードは、生まれた赤ん坊の姿を見て、殺したいと思う。アフリカを旅する夢も何もかもダメになってしまう、と怖れた。結婚するときに世界旅行という夢を断念させられ、がんじがらめにされた気分になるように。
絶望し、酒に浸り、大学時代の同級生である火見子という情人とのセックスにおぼれる。
障害児が生まれたことを知らない妻には「あなたは自分を犠牲にしてでも赤ん坊のために責任をとるタイプ?」と問われ、返答に詰まる。
障害児をもつ、という「個人的な体験」が心に重くのしかかり、ソ連が核実験を再開するという大ニュースでさえも、どうでもいいと思ってしまう。
会社をくびになったり、食うのも困る状態に置かれたりした時に、政治への関心も望みも失ってしまう。そういう今の世相や感覚と同じだ。
つらい現実から目を背け、逃げられるわけないのに逃げつづける。
でも、それでいいのか?。アフリカという夢は、自分が勇敢かどうか試すためのつもりだった。が、身近な怪物(赤ん坊)から逃げよう逃げようとあがいている自分を発見し、日常のなかでこそ自分の勇敢さが試されることにきづく。
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俺はまだ「アフリカ」の夢を捨てられないなあ。いつになったら踏ん切りをつけてどちらかを選び取れるのだろう。自分の勇敢さや行動力を試す場であったはずの「夢」がいつの間にか逃避の対象となっている、という指摘はぐさっときた〓。忘れてはならない部分だ。
■ジョージ・オーエル「カタロニア賛歌」 ちくま学芸文庫 20030124
スペイン内戦は大枠では、民主政府とファシスト反乱軍の闘いだった。だが、民主政府側の内部にも、スターリンとつながる共産党によるアナキスト・トロツキストへの凄惨な弾圧があった。筆者は、アナキスト系のPOUM(統一マルキスト党)の義勇軍に参加してその実情をつぶさに体験した。
義勇軍への参加を決めた当時、バルセロナは革命の熱気にみちあふれていた。皆が「同志」と呼び合い、ホテルなどのチップはなくなり、客も従業員も対等になる。ボロを着た労働者が闊歩し、金持ちもぼろをはおる。サービス業がなくなるから不便で不潔な面もあり旅行者にはしんどいが、独特の解放感があった。
そんな描写を見て、サンディニスタ時代のニカラグアと同じじゃないか、と思った。スーパーの棚はからっぽ、バスはすし詰めで都市を移動するのも一苦労、ホテルで水が出ないのは当たり前。旅行者にはしんどい国だった。
でも、みなが「同志」と呼び合い、革命を応援に来た外国人の若者たちが、バーに集まって踊ったり、歌ったり。大統領は公園でアイスをペロペロなめ、自分で四輪駆動を運転して集会にかけつけ、「ダニエル!」と呼ばれ親しまれていた。
その解放感とその後の経緯を知るだけに、それが決して長続きしないあだ花であることもわかる。
オーウェルはそうした熱気のなか前線に向かう。飢えと寒さと悪臭と虫に悩まされる日々だが、階級がない平等な軍隊には独特の活気があった。
だが数カ月後、バルセロナに戻ると、「普通の町」にもどっていた。金持ちは良い服を着て歩き、目抜き通りの高級ホテルは栄え、チップも復活していた。
スターリニストの共産党が実権をにぎり、「行き過ぎた」革命路線を引き戻したからだ。協同組合は解体され、ブルジュア市民が復活した。
アナキストたちは、「ファシストの一派だ」と非難され、秘密警察によって逮捕・投獄され、裁判もなく銃殺される。そんな状況のバルセロナをオーウェルは危機一髪で脱出した。
オーウェルは、「もし仮に政府側が戦争に勝ったとしても、独裁になったろう」と書く。それでも「フランコが政権を取るよりはよい」と言う。
ファシストか民主主義か、保守か革新か、という2分法でしか政治を判断できない時代、この本は、進歩派から猛烈に批判された。だが結局は事実が彼の著述を裏づけた。
価値観にまどわされない冷静で的確な観察力。それがいかに難しいかは、ニカラグアで僕も経験した。革命の大義とサンディニスタの正しさを信じたい。でも、腐敗や失政もあり、裏切られるのも1度や2度ではない、反政府派に転じる人たちの気持ちもわかる。でも……。けっきょく「信じたい」という気持ちが勝り、冷静な判断をくもらせるのだ。
オーウェルはその後、「1984年」や「動物農場」で旧ソ連を痛罵し、「保守・反動」と評価された。それが冷静な判断のなせるわざだったのか、本当に「反動」に転じてしまったのか、もう一度「1984年」を読んでみたくなった。
−−−−−−−−−以下抜粋−−−−−−−−−−
知識人は、ファシズムに対する反対を声高に叫びながら、いざとなると、敗北主義に陥ってしまう。先が見通せるので、味方の不利がわかってしまう。
この戦争の陰謀、迫害、嘘について考えるとき「どっちの側もおんなじように悪い。自分は中立だ」と言いたくなる。しかし、実際には中立なんてありえないし、どっちが勝っても同じな戦争なんていうものはない。一方が多少とも進歩の味方であり、他方が多少とも反動の味方である。本質的にそれは階級戦争だった。
−−解説より−−
スペイン戦争の幻滅を語った作家たちは、冷戦における反共の宣伝に巻き込まれることになる。オーウェルの「動物農場」「1984年」も利用された。
しかし、オーデンら左翼詩人がスペイン戦争を契機に政治から離れたのに対して、オーウェルは、政治を捨てなかった。
だが、現実的な意見をもつことと、現実をかえることはまた別のことである。オーウェルも、現実的で勇敢だったとはいえ、まさしく知識人であって、現実を動かす上では無力だった。私がオーウェルにひかれるのは、かれもまた敗北者だからである。
■アレックス・カー「美しき日本の残像」朝日文庫 20030210
日本にあこがれ、1973年、20台前半で東祖谷の釣井という集落のかやぶきの古民家に移り住んだ。車道も通らぬ昔ながらの集落の美しさを愛でた。
だが、破壊は急速に進む。電信柱や看板がたちならび、かやぶき民家は消える。陰影を大切にした室内には蛍光灯が入り込む。世界でもっとも美しかった日本が、先進国で最悪の景色にかわっていったと嘆く。とりわけ京都への評価は「京都人は自分たちの文化を壊したいと願っている」と厳しい。ほかの地域の破壊は無計画さのなせるわざだが、京都の場合は京都人自身が「伝統」の破壊を望んでいるという。なるほどなあと思った。京都タワーにしても新しい京都駅ビルにしてもそういう「意志」を感じる。
祖谷の次には、京都の亀岡の放置されていた天満宮に居をかまえる。都市化はしだいに進み、農村の風景は壊れていくが、広大な敷地がある天満宮のなかには別世界が残るという。
日本の芸術や美術品にも目を向ける。歌舞伎の玉三郎と交流を深め、美術品の世界にもはいって美術商のようなことも。日本人が派手さのある狩野派の絵などは珍重するのに、「書」などは極端に安い値段しかつけないことを不思議がり、そうしたコレクションを増やした。
彼自身が「書」をたしなみ、「文人」を理想としている。文人とは、儒学の学者と道教の仙人が溶け込んでできた理想という。学問を楽しむ、と同時に人生を自由に歩む。さらに、世間と離れたところに「隠居」する。
日本から文人が絶滅したこの時代に、彼は実践している。
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▽普通の日本のムラでは、民家は谷、あるいは山の麓にある。四国の山奥の場合、高い山の中に家が建てられた。川の近くは険しく暗く、山の中腹には泉が湧き出ているから・・・。そのうえ、岩だらけだから田圃は不向きで、田圃を管理する「村」に集中して住む必要もなかった。その結果、一軒一軒が独立して山の上に点在するようになった。
▽アメリカとヨーロッパの家では蛍光灯はトイレとキッチン以外にはほとんど使わない。照明の大事なことは、下からの照明であることを学んだ。昔の家は囲炉裏やろうそく、行灯など下からの照明ばかり。
▽大本に就職。芸術活動に参加。
▽京都の美術オークションは「会 」と呼ばれ、閉鎖的。作者の名前も言わずに競りをはじめる。買手は一瞬のうちに判と落款を認めて、状態を判断して競る。先生は80歳になる表具屋の日下さん。アートディーラーは美術館の館長さんより価値がわかっている。京都の「会」の特色は、古いものが異常に安く販売されるということ。派手な新画や言えもと関係のお茶の道具が売れるくらい。それ以外の室町や江戸の墨絵や江戸の文人の書などは非常に安い。
▽人生を面白く、というアメリカ教育の要求はひょっとしたら残酷なものかも知れません。大体の人の生活はつまらないものですから。一方、日本人はつまらなさに不満を感じないように教育されていますので、幸せかもしれません。
▽奈良の山奥にある禅寺の松源院〓は、外国人と関西の芸術家のたまり場だった。
▽漆塗りの職人、軸の箱をつくる職人・・・共同で「美の世界」を楽しんでます。京都の「職人町」の規模、性質は世界でも稀なもの。関東では個人として職人の芸を守っていながら、職人の「世界」はすでに崩れてしまいました。
▽今宮神社の横の「あぶり餅」〓
▽円通寺。
▽大阪は健康的な町です。釜ケ崎の日本一安い芝居小屋。黒人オーナー経営のレストラン。
▽日本人はもともと柔軟で人間らしかった。しかし、長年の内乱によって軍国となり、江戸時代は武士道精神が国を治めた。人間の頭は堅くなってしまった。それを逃れたのは下町の町民だけでした。今でも大都市の下町の人間は普通の日本人とちょっと違います。東京の下町は「不動産」になってしまったが、大阪は市全体が下町です。
▽鉄筋の灯籠堂で明るくしようとしている高野山にも、暗く見てはいけないところがまだまだ残っているという発見。ある意味で高野山は日本に例えられる。全体的につまらなくなってしまっても、中にはまだ秘密が隠れている。特に奈良地方には秘密が多い。京都とちがって、文書や音声での説明はまだ少ないし。
▽三月堂〓の仏像。秋篠寺〓の「妓芸天」は日本唯一の芸術の神像かも。山辺の道は、農村を探検するのが面白い〓。が、大和はいまやパチンコ王国になった。
▽桜井の東の長谷寺、室生寺、その中間の大宇陀という町にある〓「松源院」。その周囲の寺いはアメリカ人らも。廃寺だったのが生き返った。
▽中国は宋代から文人はたくさんいたが日本には江戸時代まではほとんどなかった。詩仙堂をつくった石川丈山は江戸期の文人。詩仙堂だけは「何もしない」ためのところ。
▽文人の理想は、文学、文化、自然、暇という4つの要素によってできている。
▽法律によってかやぶきやねの家を新たに建てることは禁じられ、京都の町家も新しく建てることはできない。・・・経済の発展があまりに急だったために、伝統的なもの全体に対してのアレルギーが生じた。伝統的な様式はタブーになった。とくに京都では。
■宮本常一「塩の道」講談社学術文庫 20030218
農山村の細やかな観察をつみあげ、それをもとにダイナミックな民衆史を展開している。
塩はどこでつくり、どう流通したのか、それは牛で運んだのか牛で運んだのか。トウモロコシはどうやって広まったのか。細かな事象を丹念に追い、そうした民衆の知恵に限りない愛情を寄せていることがわかる。柳田国男にはない優しさを感じる。
▽木地屋は、マンガンをふくむ鉄がないと成立しない。近江の永源寺町の筒井と君ケ畑のお宮さんにすべて結びつく。近江の鉄でなければ椀を作ることができなかったのでは。
飛鳥時代、猿石などは花崗岩に刻んだ。それだけの鍛鉄の技術があった。だが、おそらく大陸からわたってきた石工が死に絶えると、平安時代には、花崗岩に加工した石仏は見られなくなる。鎌倉時代には加工した。この時代に、日本人がもういちど、その技術を身につけたのでは。近江には当時のホウキョウ印塔が古い寺にある。そういう技術者が分布していた。
▽塩の生産。途中でやめた村は、薪がてにはいらなくなったところも。塩ができなくなり、九頭竜川河口の砂丘ではらっきょうが盛んに。大阪の問屋からテグスをもちかえり、てぐすにして、その行商をはじめる。これが日本海側にテグスを広めた。
▽三陸はアワビ。江戸時代はほとんど中国へ輸出していた。
▽南部牛に鉄をつけて関東に運ぶ。川口が鋳物産地になったのもそのためでは。鉄をうったあと、牛はもってかえらなかった。南部牛は愛知県まで分布したいた。鉄に限らず、東北から運ばれるのは牛によるのでは。街道ではなく、道端の草がある細道を歩いた。
▽「生産と文化の波がこのような形で揺れ動き、その上層に、記録に残っている今日の歴史があるというわけです」
▽最近まで鮭は塩が白く吹いていた。鮭を食べるのではなく塩がほしかったから。
大和の山中では、塩いわしを買ってくると、焼いた日はまずなめる。次ぎに頭を食べ、その次の日は胴体をたべ、次ぎの日はしっぽをたべる。4日かけて1匹をたべる。
ニガリのある悪い塩をかう。山のなかの人はこれで豆腐をつくった。
▽東北の山中の人が吹き出物が多かったのは、塩分の不足も原因では。明治38年に専売制が施工されてから吹き出物がへってきた。
▽戦国時代の戦争は、武士の戦争で、民衆はあまり巻き込まれていない。大将が滅ぼされると残党がもう一度立ち上がることはほとんどなかった。残党は山に逃げて百姓として住み着いた。平家の落人伝説を見ればわかる。
▽古事記や風土記などには、イネ、ムギ、アワ、キビ、ソバ、ダイズ、アズキ、ヒエ、サトイモ、ウリ、ダイコンが出てくる。平安になると、ササゲ、エンドウ、キュウリ、トウガン、ナスといった豆や瓜類が出てくる。大陸から入ってきたのだろう。
薩摩芋、トウモロコシ、カボチャ、ジャガイモ、スイカは、スペインなどの宣教師がもたらした。インゲンマメやソラマメ、サトウキビも。トウモロコシは栽培が楽。やせた土地で作られ、いっきに広まった。
▽四国の山脈の急斜面にトウモロコシを作られている。関東まで広まっている。九州の阿蘇には、八十八カ所を回った女性が四国で見つけてもどって植えたという伝説がある。サツマイモは殿様が広めたが、トウモロコシの歴史は分からない。それは民衆の手から手を通って広がっていったからだ。ヒエの植わっていた地帯に、はるかに収穫が多いトウモロコシを植えた。
▽工具の発達で、敷居に溝を切れるようになる。そこに遣り戸をはめるようになる。平安中期になり書物を読むようになる。明るくしかも風が吹き込まないようにしないといけない。そこから襖を薄い紙ではる明かり障子が生まれる。
▽村の人の一番関心が深いのは、自分自身とその周囲の生活のことである。その人たちの本当の心は夜ふけて囲炉裏の火をみていて話のとぎれたあとに田畑の作柄のこと、世の中の景気のこと……聞かれて答えるのではなくて、進んで語りたい多くのものを持っている。人はそれぞれ歴史をもっている。まずそういうものから掘り起こしていかなければ。
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