■田中克彦「ことばと国家」岩波新書 20030305
漢文にかえれ、という丸谷才一らを「言語エリート」とよぶ。「口語から文語が生まれたのに、反対だとかんちがいしている。文語は古臭い口語にすぎないのに」と批判する。僕は丸谷のいう「漢語のリズムを取り戻せ」という主張をごもっともと思ってたから、青天の霹靂だった。
言語学の分野にも革新と保守という違いがあるのだとよくわかる。田中はまさに革新の旗手である。
言語エリートしか使えないラテン語のくびきから脱し、民衆の話す口語をもとに言語を創造することで、スペイン語やフランス語、イタリア語が生まれたこと。
教科書に載っていた「最後の授業」では、フランス語の美しさを先生が感動的に訴えるが、実はアルザス地方はドイツ語圏だった。日本語を強要されていた朝鮮で、「もう日本語を勉強しなくていいよ」となったとき、日本人教師が「日本語は世界一美しい」と朝鮮人の生徒に教えるようなものなのだという。
言語学っておもしろいなあと思う。
--------------------------------------------------------
▽ソシュール イディオム(固有語)という語によって、言葉の差別と格付けをとりのぞき、そこから、言語共同体という概念をつくった。政治的、社会的威信を骨抜きにしようとした。
▽話すことはつねに書くことに先行する。その逆を言うのが丸谷ら。「口語文とはあくまで文語文のくづれ」と書いているが、それはちがう。むしろ「文語文とは何百年も前に話されなくなって死んだことばであり、口語文とは、いまじっさいに使われていることばにもとづいて作られた書きことばである」と言い直すべき。
▽ラテンという文字術言語は誰にとっても母語ではないから、特別な勉強を要する。最上層の人しか学べなかった。この術が難しいほど、その人たちの支配的な地位をいつまでも安泰な状態をたもてる。
▽ダンテは、ラテン語を知らない女たちのために俗語で書いた。ネブリーハは国家のために俗語で書いた。
▽カスティリヤ文法は、母語にしない人たちのために編まれている。それは、カスティリア周辺のヨーロッパ諸民族に使わせることを予定している。アメリカ大陸は、この文法の支配を受けることになった。……俗語が、異なる方言の話し手にその使用を命じたとき、文法が不可欠になる。
▽俗語が国家の手によって国語にされたとき、文法教育とは、権威によって母語をおどしつけ、自らのこころでものを言わせないようにし、ことばを書くということは、自分の外の、なにか決められたものによってしかおこなえないと思い込ませるしつけのことである。母語の文法は、国家とその附属設備である学校と教師のために要求される。たえず変化することによって新しい状況に適応していこうとすることばの性質に反して、文法とは、真の意味におけることばでないことばを作る作業であることがわかる。文法とは、ことばの外に立ってことばを支配する道具である。
▽フランスでは、フランス語以外を母語にする人が4分の1に達すると推定される。非フランス語にはきわめて厳しい。……非フランス語の辺境地帯に原発を建設し、反対運動をかわそうとする。……子どもの名前もフランス語の語彙でしかつけられない状態がつづいている。ブルトン語の名前で出生届けを出した子は、届けを拒否された。
▽明治の初期は「国語」ではなく「日本語」が普通だった
▽「最後の授業」は、日本のアジア侵略のさなかに「国語愛」の昂揚のための教材として使われた。国語愛の宣揚者たちは、朝鮮人の「国語愛」には思いもよらなかった。「最後の授業」は、言語的支配の独善性をさらけだした、政治的扇情の一編でしかない。
▽日本言語エリートの多くが、日本語はしまりがないから、漢文の教養によって引き締めなければ、と考えている(たしかに、と思ってた)
▽ラテン語に対する俗語・母語は、「かざりけなく」「単純」「自然」と。
▽言葉は、ほかのもうひとつのことばに近いほどさげすまれる。方言のように。「見れる」「食べれる」という方言的活用をきいて眉をひそめる「正しいことば」評論家のかんじかたに似ている。「見れる」を母語とする人たちがいるのに。
▽アイヌ語のほうが琉球語よりもはるかに言語の固有性を維持する点で保証されている。
▽スイス・ドイツ語は、住民がのぞめば、いつでも独立のスイス語になれる条件をもっている。オランダ語は、低地ドイツ語の特徴を強調してドイツ語から離れ、国家のための固有の言語になったために、オランダ語商品の販路をみずからせばめた。・・・スイス人にとって、ドイツと手を切らねばならないほどの理由は見いだせない。
▽ユダヤ人のイディシュ語。ドイツ人からみれば「くずれたドイツ語」だった。最も侮蔑され見下された言語に民族のアイデンティティーをもとめた。ユダヤ人の皆殺しは、人種的純潔主義のうつしとしての、言語的純化主義の野蛮な性格を露わにしめしたできごと。
▽クレオール 植民地時代にできたつぎはぎだらけの間に合わせ言語。ピジン英語などとよばれた。故郷のちがう奴隷同士は、このピジンをもちいて交流した。結婚すれば、さらにピジンは安定的に発展し、その子はその言葉を「母語」とうけとる。子どもにとっては「普通の言葉」になる。
■井上ひさし編「あてになる国のつくり方」光文社 20030316
責任は偉い人にある、ふつうの人は踊らされて戦争をしてひどいめにあった、と考えるのは違うのではないか。なにも知らずに踊らされたという人に限って、自分がほかのだれかを踊らせていたことに気づかない。ふつうの人、の責任と行動をうながすために編まれた。
身近にそんな事例は多い。「働きを正当に評価する能力給」とか「仕事をしないあいつらと一緒給料なんて耐えられないだろ?」という言葉にコロリとだまされるエリート記者たち。そうやって「下」を切り捨てることが、いつか自分の足元まで浸水することにつながるのだ、ということに気づかないのだろうか。ナチスが台頭したときのカトリック神父の後悔をいままた繰り返そうとしている。だからこそ、「ふつうの人こそ責任をもて」という悲鳴にも似た訴えは説得力をもつ。
▽昭和20年の日本人男性の平均寿命は23.7歳だった。女性は34歳だった。翌年には男性の平均寿命は37歳に。2年後には50歳になっている。
▽ボローニャの挑戦 戦後革新が州?の政権をとり、中央政府からの補助金を切られた。自分たちでやればいいじゃないか、と取り組んだ。町の中心は、低家賃で学生と老夫婦が多い。
機械工業を振興。会社の従業員が200人をこえると分社。親会社の技術はそのまま使えるが、同じ製品は作らない。義手や義足づくりでも世界的に技術がたかい。
市民たちの表現をと演劇に力を入れる。40万人の市に劇場が20ある。ダリオ・フォーが徹底して中央政府批判をする。
世界的な映像フィルム修復センターも。
▽山下惣一
大根おろしが冷凍食品で輸入されている。「野菜加工品」とされるからデータはでないが、税関に勤めている人だけはわかる。
中国の青島から船の便が下関と高知にでている。・・・従来のJAS法では、輸入野菜は加工したところが「産地」となっている。淡路でもアメリカ産のタマネギの皮をたった1枚むいて詰め替え「淡路タマネギ」と称して出荷する。
▽90年に農産物の直売所をつくった。100人ほど出荷し、昨年は8000万円になった。基本は、家族が食べるものを作る。売れたらさらに作る。売れなきゃ作らなければいいだけだから倒産はしない。ビジネスではなく暮らしの延長としてやる。
▽〓「アジア農民交流センター」。日本に食材を輸出することで、かえって貧しくなっている部分がある。
▽〓農業者年金。昭和45年に始まった。20年かけ続け、200万円払った。いざもらう時になったらもう破綻している。年間20万円もらっている。さらに2002年1月からは10パーセントカット。賦課金方式でやってきたが、かける人数がどんどん減る。百姓を減らす政策を農林省が続けてきたから。今農業年金を解約すると、掛け金の80パーセントが返ってくる。20パーセントは国にとられる。
▽アフガンの誤爆による死者数を、米国のマーク・ヘラルド教授が試算したら、少なくとも3767人だった。 テロに被害者遺族には米国は冷たい。犠牲者の遺族には補償金を払うが、補償金から生命保険の支払い額を差し引く。補償金を受けとったものは、航空会社に損害賠償請求する権利を失う。これは一種の産業保護策。
テロから1年たち、大企業はきれいに清掃したが、多くのアパートや学校、中小企業はビル内の汚染物質の検査は不十分なまま。
▽湾岸戦争の全戦費は800億ドル、日本の受け持ちは米国と同額の130億ドル。全戦費の16パーセントを負担している。なのに「血を流していない」となじられる。
▽江戸時代、庶民の妻たちは、破れ草履を捨てるように、夫の家からいとも簡単に飛び出した。規律にしばられて家を守っていたのは武家の妻女に限られていた。江戸期には駆け込み寺があった。必ずしも歴史は進歩するものではない。
■流水龍也・菊池修「若草幼稚園物語」創風社出版 200302
高校時代、何をしていいかわからん。煩悶とする日々を送る。ある日、親鸞になりたいと思ったという。大学をでて、寺の住職である父から幼稚園の運営を任される。そこそこの「いい幼稚園」だったが、〓樋口正春・保健創造セミナー代表に出会って、大改革をすることに。
「子どもは来なくなりますよ」と言われたが、ひたすら遊びまくる幼稚園にした。案の定、子供の数は激減した。
やりたいことをやる。そのうち成長とともにやりたいことはかわってくる。1年たったらひととおりの遊びをやっている、という発想だ。
制服もやめた。だれのためのもの?と考えると、子供のためではなく管理する側の発想だと気づいたからだという。
制服問題については、僕も高校時代にぶつかった覚えがある。「ふつうの高校生はみんな制服着てるんだ。3年間くらい我慢しろ」という校長。いっしゅん、そんなもんかな、とも思ってしまった。
だが、ちがう。「高校生の間くらい」がまんしてしまったら、二度ともどらない十代という時期に自己表現を抑制されることになる。校長にとっての3年間は「わずか3年」かもしれないが、子供にとっての3年間はかけがえのない時期であるということを忘れている。
「我慢しろ」というのは、生徒のためではなく、校長の立場を守るだけだった。
そういうことは、いまだからわかる。そして、中途半端ではあるが頑固を通してよかったと思った。
■五木寛之「ゴキブリの歌」角川文庫 20030324
異国の旅先でちょっとした恋をしたり、日本では言えないような誉め言葉が口をついて出てきたり。その女性と彼氏との金銭トラブルから、つい口をついて「裸を撮らせろ」といってしまい、相手が承諾してしまったときに自己嫌悪を感じたり。やるせない、というかお間抜けなというか……。そういう感覚、すごくよくわかる。
三十歳代後半の五木寛之は、自分の間抜けさを冷ややかに見つめて、おとしめて、笑う。独特のシニックさというか軽妙さがある。こんな文章書けたら楽しいだろうなあ。「文豪」になってしまった今ではたぶんこのてのエッセーは書けないのではないだろうか。
貧しくも輝いていた学生時代を回想する記述や、「もう逃げ出せる時代は終わってしまったのではないか」と嘆息する部分なんかも、ああ、おんなじだ、としみじみと共感した。
−−−−−−−−−−−以下抜粋。 −−−−−−−−−−−−
▽学生時代の日記「なにをしてもつまらない。何かすごく美しいもの、激しいもの、強烈なものにぶつかりたいと思いながら、平凡な毎日を送っている。アヴァンチュールを思う……」。
「日頃いつも抱いているヒューマニスティックな世界観と金で女を買うという行為の間の矛盾に、それほど悩むことはなかったと思う。あの街に一歩足を踏み入れたその瞬間から、素っ裸の、あるがままの一人の男として振る舞わなければならないという、その一点に理由があるような気がしてならない。そこでは過去の業績も社会的地位も何の意味ももたず、大事なのは人間的率直さと、行為の自然さだけだった」
▽演歌と援歌は違う。援歌は、「あなたもわたしも」「みんなで」「きみぼくあなた」。自分の信じる道理をきれいな着物を着て、舞台の上から教え諭すがごとくうたうのは困りものだ。他人をはげます気をおこすより、他人の苦しみ悲しみをわがこととして歌ってみることだ。……本当の流行歌手は、功なり名を遂げた後でさえ、人の目を盗んで一片の食物をかすめた日の記憶を忘れない。
▽(朝鮮での体験)日の丸の小旗をもって陸軍の演習を見てひどくほこらしかった。……植民とは、原住の民を殺し焦土の上に自国の権益をうち立てる事業である。日本の半島支配を肯定する意見も少なくないが、焦土の上に何の教育、何の産業であろうか。
▽私の原稿は、ある文章を書き出す時には最後の一行がはっきり確定できている。書き始める時点ですでに終わっている。
▽妻の故郷金沢暮らし。20代後半から30代はじめまで住んだ。世間の表街道とさよならするつもりで。が、作品が活字になり、賞をもらい、地方都市の名士の端につらなり、イベントに呼ばれ、金沢での生活が自由でも豊かでもなくなってしまった。(そして横浜に)。こういう生活をある朝突然、投げ出して走りだすときがいずれはきっとくるだろう。こなければならぬ。その時は一体、どこへ逃れるのか。
逃れることのできる時代は、もうすでに過ぎてしまった、という感じもある。……私はある場所に定着する家付きのゴキブリよりも、さまようゴキブリでありたいと思いながら、移動し放浪することの不可能な時代が今や訪れてきてるのではないかと、心中ひそかに思っているのだ。
■「林達夫セレクション1 反語的精神」平凡社ライブラリー 20030329
戦前、大正デモクラシーがあっという間につぶされ、知識人が次々転向するなかで、自分にこもることで理性の立場を守った。1940年前後という大変な時期に、真理の使徒であるソクラテスと彼を殺したソフィストの逸話をつかって、言論人がすべて順応主義に陥っていく状況を暗示するなどしていた。
戦後、世の中が大きく革新の方向にふれたときも、そのブームに流されない。共産主義というものにある種の希望を抱きながら、ソ連の実態や共産党の実態などを冷静に観察し、批評する。真理の探究という立場から、右にも左にもおぼれず中道にも流されず、冷静な目を貫いた。
1950年の段階で、以下のように書いている(要約)。日本の旧革新陣営の人や組織と接したり、ニカラグアの政治を勉強したりするなかで疑問を感じ、考えてきたことが、50年も前に解き明かされていたことに驚かされた。
「シベリア抑留などによってソ連という新世界へのおめでたい期待が見事にうらぎられた。……ラジオを発明したのも、蒸気機関を作ったのも、飛行機をつくったのも、実はすべてロシア人だった……と教えるソ連の学校教育のなかに、強烈で滑稽なナショナリズムを見て、その逆に、プラハの春のように衛星国のナショナリズムはたたきつぶす。学問・芸術の分野でも次々と粛清していく。特権というものが人を変えるというメカニズムがある。クレムリンが中世末のビザンチン色を帯びたとしても驚かない。政権が共産主義的人間を『内』から危機に陥れるおそれがあるのは、教権がキリスト者を『内から』危機に陥れたのと同様である。野呂榮太郎のごとき素晴らしい共産主義的人間もいるが、こうした英雄は、キリスト教世界でいえば聖者の系列に入るべき純粋型であり、共産主義者の政治ボス型とは、同じ共産主義といえでも実は雲泥の差がある。ローマ教皇や枢機卿、大司教にして聖者となったものがまことに少なかったのと同じだろう」
「抽象的人民の愛のために献身することはたやすいが、生身の人間のかけがえなさと重要さを尊重し、それらの人々の一切の欠点を長い目で導いて、幸福と安泰を具体的にはかることがいかに至難の業か。手に余る異分子を『人民の敵』『祖国の裏切り者』と排除することほど、権力にとってたやすい誘惑はない」(1951年共産主義的人間)
−−−−−−−−−−その他の抜粋−−−−−−−−−−−
▽「新体制」に即応しようとしている一般国民の態度は、軽率とか浅薄とかいうどころか、物事の本質を自己保存の本能から見事に把握している。こうした命令の言葉に対しては、人は懐疑も反問も詮索も批判も、いわんや反抗などはなおさらできない。順応するほかないのです。
▽尊皇思想は、対局的には天皇崇拝の強さを示すものではなく、むしろその弱さを示すというのが私の見解である。それは、思想としてはアンチテーゼであり、ある大勢に対して生じたものであり、多くの場合、階級的利害が大義名分の美名のもとにかくされている。
▽(1940年)威勢のよいお祭りに、乗り出す気などは一向におこらぬ。絶壁の上の死の舞踊に参加するひまがあったら、エピクロスの小さな園をせっせと耕すことに努めるであろう。これは現実逃避ではなく生活権確保への行動第一歩である。
▽(1950年)このごろの編集者は、時代の深層に横たわるもやもやした捕捉しがたい問題の発端などにはあまり心が向かない。時代のいちばんの底流は、流れの表面とはうってかわった相貌を呈しています。私にとっていちばんの問題になるこの底流が、ジャーナリズムには興味が薄いらしく、多少採り上げられる場合は、流れの表面との連関が問題になる際だけに限られるようです。……膨大な「庶民」のうごめく世界が取り残されてしまう。
▽(1950無抵抗主義)冷戦の両陣営の指導者の意志が我々にとっての「摂理」であるといっても言い過ぎではない。みな余儀ない無抵抗主義者にさせられてしまうほど。我々はいまに二つの世界を選ぶ自由さえなくなるでしょう。(1950年に冷戦終結を予言?)
共産主義世界にも、そうした無抵抗主義者がある。米国共産党のプロウダー書記長は、モスクワの指令を守り続ける。ルーズベルトの評価だけでも何度もかえてしゃあしゃあとしている。そのうち、解党。「労働階級の前衛」から「国民的統一の陣営」における最も保守的な勢力に一変した。
現代は、無抵抗主義者にならなければ生きられない世紀。そういう諦観の上にたってはじめて、有効な抵抗をも語りうる。この達観のない人々の抵抗は、悪あがきか絶望的な意気消沈に終わるでしょう。現代では、善意の人々は最大を欲して最小に甘んずる知恵を身に付けなければなりません。〓〓(魯迅的発想。粘り腰の抵抗)
▽戦後政治の化けの皮をはがすべき陣営の人々が、占領軍の性格づけにおいて、正気の沙汰とは思われぬ「たわごと」を吐いていた。……敗戦から5年、occupied japanという問題を伏せた言動が圧倒的に風靡していた。戦争の真実を見得なかった連中は、戦後の真実をも見得なかった。戦後の精神的雰囲気のあのうそのような軽さこそ、人民の指導的立場にある知識階級の政治的失格を雄弁に物語るものだ。(1950)
▽平和エレジーに感動して聴き惚れる手合いの中には、別な瞬間には何の心の矛盾もなく壮烈な軍隊行進曲に身をふるいたてる人間がある。
▽(1937年)現代の社会と教育とがあまりに多くの無益にして有害な禁止と抑圧との体系の重荷によって、子どもの自由をおしつぶしている。
▽活字という技術を利用して近代ジャーナリズムの先端を切ったのが、宗教改革者たちであった。
▽古農家を手に入れて、古英国風に改築することを試みた。日本の古農家と英国風田舎家との間には、人が想像する以上に多くの共通点がある。
▽日々の生活に必要なものは、たいてい自分で習練もして自ら手を下す。物を作ったり育てたり飼ったりすることは異常な興味を覚える。
▽私の見解では、知識階級にとってもっとも決定的時期と思われるのは、一般に考えられているように12月8日ではなく、大政翼賛運動がはじまったときであるが、実はこのときの知識階級の行動決定のさまを見て、すでに万事休すと見通しをつけてしまった。
|