■辰濃和男「四国遍路」岩波新書 20030511

 朝日新聞の天声人語の元執筆者が、定年後に書いた。
 彼の天声人語は好きではなかったが、文章の技巧や構成力には脱帽する。
  「着る」「いただく」「はぐれる」「履く」とキーワードで章立てしながら、紀行文の体裁を維持し、時系列に書いているように見せながら、「話はさかのぼる」などとさらりと過去にもどる。
 すべての寺を紹介しているわけでもない。さまざまな文学作品や短歌からの引用にも「参った」という感じ。忙しい新聞社にいながら、どれだけの本を読み、咀嚼し、消化してきたんだろうかと思う。
 語尾の処理にも目がいく。「る。る。る。」の連弾でリズムをつくり、たまに句読点のように「なのだ」といった語尾をまじえる。これがなかなか難しいのだ。
 ビランジュ、シャガ……といった植物の固有名詞にも感心してしまうのは、単なるひがみかな。
 「遍路」そのものへの興味もかきたてるが、それ以上に、新聞記者としての生き様への反省が気になった。「このままでいいんだろうか」「ほかに道はないんだろうか」そう思いながら読んだせいか、あたかも悩みをかかえて遍路をしているような気になった。
 でも、答えはそう簡単には見つからない。「なにか」がやってくるのを待つ態度では、たぶん遍路をしたところで、なにも変わらないのだろう。青い鳥は自分の心のなかにあるのだろう。
  −−−−−−−抜粋・要約−−−−−−−
 ▽まず、歩くことをおろそかにした現代人がいかにして距離感覚を壊したか、空間を生身でとらえる感受性がまひしたか、ということに気づく。
 ▽前田卓「巡礼の社会学」(ミネルバ、1971)
 ▽「ありがとういうて生きることが極楽やの」(大西良慶)
 ▽今自分が出会ってる人、出会ってる風景に「一期一会」の新鮮な思いをもって接しうるか。遍路道での出会いと別れのひとときを二度とないものとして心に刻むことができるか、そこに日々の修業がある。
 ▽遍路道は、はぐれものたちの足で踏み固められた。南太平洋の島に野性を求めたゴーギャンも、官僚の道からはぐれて野性のなかに生きた空海も、ひとり野をいく異端者の強さがあった。群れを拒む強さが自分にあるのかどうか。群れたくないと思いつつ、実際は群れのなかに身をおき、過ごしてきたのだ。群れずに歩いているつもりになっているときでも、組織の歩みに決定的に逆らうことがどれほどあったろう。遍路行は、はぐれる勇気を鍛える日々でありたい。新しい文化は、はぐれものからの刺激によって創られる。(〓依存しない生き方の孤独〓)
 ▽一人で歩いているといいながら、独りの力で歩いているのではないということに気づく。靴がある、靴下がある、作ってくれた人がいる。山道がある。
 ▽遍路道には、真言宗も浄土宗も日蓮宗もキリスト教徒もいる。寺も臨済宗や曹洞宗もある。
 ▽足摺岬。年に15、6人の自殺者がいる。洞窟に入れば……。ジーンズ姿の男の遺体もあれば、うじむしだらけの女の遺体が岩のはざまに隠れていることもある。母親の頭はぱっくりと割れ、子どもたちの頭骨も形を失うほどに崩れて岩面の血のなかに母子の脳みそが散乱していたという。
 ▽いい死に方を求めることは、いい生き方を求めること。四国路を歩く人々は、よりよく生きるための道を求めていても、死と向き合うひとときから離れられない。
 ▽お遍路を無料で泊める小さな小屋。「ひるむ」気持ちになる。だが、野宿をしてきた人々にとっては、この小型トラックと同居の小屋が極楽に思えるのだ。昔のお遍路さんは、宿のない夜をすごすことが多かったのだろう。
 ▽43回目のお遍路のおばあさん。帰るところもない。遍路の繰り返しが可能なように、人生の繰り返しも可能なのだ。一直線の生き方よりも螺旋的な生き方のほうが強い。
 ▽やくざをやっていたという指のない男性との出会い。「罪業を重ねてきた自分になぜこんなによくしてくれるのかという戸惑いがあって、はじめは、ありがたいと思いながらも、むしろつらかったですね」
 ▽浄瑠璃寺の名誉住職岡田章敬師。
 ▽へんろ道は、お手軽な答えを用意してはいない。しかし、一度しかない人生を大切に思い、自分の力で答えを探し続け、難行に挑む人に対しては、じょじょに門を開く。
 ▽ホームページ「空海の里」
 ▽「願を掛けてお参りして歩くつうのも一種の迷いだわね。自分が幸せになるなんてえこと、そんなこと願掛けないでもいいと思うんだね。自分1人しあわせになったって何にもならねえだから。世の中、みんながよくなりゃあ、自分もよくなるんだからね」

■チョムスキー「アメリカが本当に望んでいること」現代企画室  1030517

 自国民、の利益、いや、自国の資本家の利益ために世界をかえる、という論理で突っ走ってきた米国の「一貫した」姿勢を、具体的な事例をあげて暴く。
 戦後、リベラルな政治家として知られたケナンは「我々は世界の6.3パーセントの人口にすぎないが、世界の富の半分を所有している。我々のすべきことは、この状態を維持できるような国際関係を作り上げることである。そのためには…人権や民主化といった曖昧で非現実的な目標を語ることをやめなくてはならない」と述べている。
 辺見庸との対談で、米国の罪について問う辺見に対して、彼は終始つめたかったという。「自分の国の罪を問いなさい」ということだ。
 米国内では極少数派として自国の罪を暴いてきた人ならではの言葉だ。「じゃあ、あなたの国は、あなたはどうなのだ?」と。
 オーウェルの「1984」の描く究極の管理社会は現在の米国の姿そのものに思えた。マスコミは大資本に握られて完璧に操作され、資本家に都合の悪い情報は流さず、麻薬問題や犯罪などセンセーショナルなものに大衆の興味を向けさせる。だからこそ、米国の「朋友」だったフセインやノリエガやチャウシェスクやラディンが、わずか数年後に「悪魔」「仇敵」とされても、疑問の声さえわき上がらないのだ。
 「Bowling for colombine」という最近見た映画はもしかしたらチョムスキーの論をベースにしているのかもしれないと思った。
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 ▽ラテンアメリカに芽生えた「国民の福祉にたいして政府が直接責任をもつという考え」は異端的な主張とされ、「共産主義」とレッテルをはられた。
 ▽米国で国際競争力の高いアグリビジネス、ハイテク、医薬品、バイオは、もっぱら国の補助を受けている。研究開発に公的補助をし、主に軍を通して、生産物を受け入れる市場を公共予算をもちいて保証している。
 ▽ギリシャではナチが退却後、英軍が入り、ファシスト協力者を含む腐敗政権を打ち立てた。民衆の抵抗運動がおこり、1947年には米国が介入し、民主化運動を粉砕した。これがベトナム戦争のモデルになった。
 ▽朝鮮 日本に抵抗した人を中心に作られた現地政府を解散させ、弾圧を加え、朝鮮戦争前に約10万人が虐殺された。うち3、4万人は済州島の農民の抵抗運動の弾圧による死者だった。
 ▽コロナビアやパナマのファシストクーデターには抗議せず、逆にニューディールをモデルとしたグアテマラ民主政権はつぶした。背後にはユナイテッドフルーツ(現ユナイテッド・ブランズ)。ナツメグをつくる人口10万人のグレナダが穏健な社会改革に乗り出すと、つぶした。
 ▽コスタリカのように、労働者の権利が弾圧され、海外投資の条件が良好である限り社会改革を許容する。
 ▽経済学者のエドワード・ハーマンの研究によると、拷問と米国の援助とには正の相関関係がある。企業の活動環境を良好に保つという道徳原理にくらべると、拷問や殺人はとるにたらぬことなのだ。
 ▽ケネディの「進歩のための同盟」は投資家の需要に答えるものだった。ラテンアメリカでは、輸出作物を作る一方で、トウモロコシや大豆などの国内消費用の作物生産を減らさせた。ラ米の牛肉生産は増えたが、消費は減った。この農産物輸出による発達モデルは、GNPが増大する一方で、多くの国民が飢えに苦しむという「経済の奇跡」を生んだ。
 反対する人が増えると、弾圧が必要になる。軍隊を味方におき、73年のチリや、65年のインドネシアのクーデターの下地をつくる。敵対関係にある国なのに武器の供給を続けた。しかるべき軍人と良好な関係を保てば、政府を転覆してくれるからだ。  64年のブラジル軍事クーデターでネオナチ方式の保安国家を打ち立て、アルゼンチンやチリなどのクーデターを誘発した。軍部は、自国の経済に破綻をもたらし、その後に、文民に引き渡した。IMFのような統制手段を利用できるようになり、軍事力による統制は不用になった。
 ▽エルサルバドル 軍事政権は、独立系の新聞社を80から81年にかけて、編集者を暗殺し、亡命に追い込み、つぶした。米国にはほとんど報道されなかった。逆にサンディニスタ政権がラプレンサを数日発禁にすると、大々的に報じた。米人のイエズス会士が殺される直前に、実行犯のアトラカトル大隊は米国特殊部隊の訓練をうけていた。最悪の虐殺は米国による訓練の直後に行われるというパターンは何度か繰り返された。
 ▽サンディニスタ革命直後、世銀は「ニカラグアでは、いくつかの面で世界のどこよりも優れた成功を納めた」と評価した。米州開発銀行も83年に「長期的な発展の基礎をきずく注目すべき進歩があった」と言った。
 米国は、72年の地震のときは援助し、その金はソモサに奪われた。ところが88年のハリケーンのとき、1銭たりとも援助を送らなかった。他国にも、援助をしないよう圧力をかけた。  90年の選挙。米国は「サンディニスタが勝った場合は、経済封鎖とコントラによるテロを続ける」ことを明らかにしていた。
 ▽グアテマラ民主政権は、ほとんどの国民に支持されているにがゆえに「危険」とCIAは結論づけた。
 ▽アメリカズ・ウオッチ〓 88年のパナマの人権状況の報告書を出し、好ましくないとは伝えたが、米国の子分の中米諸国の人権侵害にははるかに及ばない。
 ▽ジョージ・ブッシュは、モブツ、チャウシェスク、フセインといったノリエガよりはるかにひどい犯罪者をほめたたえつづけた。
 ▽侵略後、パナマに10億ドル援助。その半分は、米企業の製品をパナマにうるためと、米資本の銀行への負債を返却するためだ。米国の納税者から企業へのプレゼント。ノリエガの麻薬取引への関与は、銀行家たちに比べるとわずかである。米国侵略後に、麻薬関係資金の浄化センターになったグレナダ〓、サンディニスタ敗退後、麻薬を米国へ送り込むための重要経路になったニカラグア〓。
 ▽カンボジアに鉛筆を送ったり、不発弾を掘り出すシャベルをラオスに寄付しようとすると、米国は阻止しようとした。インドがベトナムに水牛を送ろうとしたときも、インドに対する「平和のための食料」援助を停止すると脅迫した。
 ▽東チモールを侵略したインドネシアを支援。70万人のうち15万人が殺された。
 ▽イラクのクウェート侵略への対処にあたって、国際法で規定された平和的手段にしたがうことを断固として拒んだ。暴力の世界では、外交交渉とちがい、超大国は圧勝できるからだ。
 ▽イラン・コントラ事件 イスラエル経由でのイランへの武器売却。79年のシャー追放直後に始まっていた。ホメイニ政権を追放する可能性をもったイラン軍部とパイプを作ろうとした。
 ▽西欧は、自分自身ではIMFモデルを受け入れないが、第3世界には強制する。東欧にこのモデルを受け入れさせることができれば、搾取するのは容易であり、ブラジルやメキシコと同様の役割を果たすようになるだろう。
 ▽ソ連は70年代、東欧に800億ドルつぎこんだ。80から87年に、1500億ドルがラテンアメリカから西洋に流出した。
 ▽レーガンの「軍事ケインズ主義」 悲惨な人々の海のなかに、超富裕層の島が浮かぶという第3世界的な構成に。貧富の差から目をそむけさせるため、敵を外に求める。ソ連の次は、カダフィ、グレナダ、サンディニスタ、ノリエガ、アラブ、フセイン。
 ▽メディア 89年、麻薬ニュースを徹底的に流す。ソ連の脅威のかわりに、「麻薬取引を阻止するために」と従属国に金を要求する。麻薬は、抵抗運動が激しい地域に米軍を派遣する口実になっている。国内的には、人々の注意を重大な問題からそらし、市民権に対する攻撃を擁護する雰囲気づくりに役立つ。
 ▽戦後、フランスの労働運動を壊すためにCIAは、マフィアをつかってスト破りをさせた。みかえりにヘロイン商売。これが「フレンチ・コネクション」だ。。60年代になると、麻薬の中心はインドシナへ。これも、ラオスでCIAがおこなっていた「秘密の戦争」の副産物。のちにCIAがパキスタンとアフガンに活動を移すと、麻薬商売はそこで盛んになった。
 ▽「戦争は平和」「自由は隷属」「無知は強さ」  人々が無気力から逃れて組織を作り、公共問題にかかわりはじめるとそれは「民主主義の危機」とされる。
 「自由企業」とは、私的利潤のために公共の補助金を提供し、金持ちのための福祉国家を維持するために政府が大規模に経済介入する体制。
 「侵略に対する防衛」南ベトナム侵略の事実は、いまだに議論する余地もない。

■大林宣彦「ぼくの瀬戸内海案内」岩波ジュニア新書 20030528

 醤油がなくなったことを尾道の方言で「お醤油がみてた」という。醤油はなくなったけど、それが私たちの栄養になった。ありがたいという思いが「みてた(満ちた)」という言葉に表れていると著者の母は教えた。ありがたい、という思いがこもっているから、空き瓶も大事に扱う。
 紙と木の家は、いつも家族の気配がして、傷つけあって、話し合って、愛し合った。西洋ではコンクリートの家で1人1人が孤立しているから、個を深める思想が生まれ、いっしょにいるときは語り合い、抱き合い、笑い合う。日本ではコンクリートの家になったのに、西洋のそうした文化を受け継がず、孤立した空間でだんまりとして過ごすようになってしまった。
 「みてた」をはじめとする古きよき感覚が、高度成長によるスクラップアンドビルドの文明のなかで消えてしまった。そのさびしさが全編にただよっている。
 大林は「町づくり」という言葉をきらい「町まもり」を訴える。老人の顔のしわをいとおしむように、尾道の「町のしわ」を丹念に撮影し、それを後世に残したいと願った。
 尾道三部作、「廃市」「青春デンデケデケデケ」「なごり雪」……。大林映画をもう一度見てみたいと思わされた。
−−−−−−−以下要約と抜粋−−−−−−−
 ▽人間が表情をもたなかったら心は見えない。その心の表情をつくるのがしわなのです。両親のしわは、「病気で心配だ」「将来が心配だ」「いい子だ」と思ってくれた心が刻まれているのです。両親のしわを大事にすることが親孝行だと思うのです。同じように、町のしわを愛することがふるさと孝行だと思うのです。戦後、日本中の町が同じ化粧品で化粧された。ふるさと独特のしわがなくされ、すべて横並びにされた。
 ▽その土地の条件のなっかで、幸せになろうと一生懸命に知恵と工夫をはたらかせる。その土地だけにある幸せを編み出した知恵と工夫の姿。それが美しい風景。
 ▽95年、尾道の亀田市長は「大林映画のように、古い町をみんなでぞうきんがけして大切につかいましょう」と。小樽では、観光運河や石原裕次郎記念館がかえってイメージダウンになっている。
 ▽尾道の二階建ての井戸 下の人とあいさつして、おつきあいが生まれて……という場。〓渇水のとき、井戸を再びきれいにして使った。長い間口をきかなかった人どうしが、昔のように話ができた。水道のない時代に生きたおじいちゃんやおばあちゃんから、水の上手な使い方という知恵を教わった。ふだんは小さくなっていたおとしよりが、張り切って、水の上手な使い方について講演した。
 ▽ロケ地マップを作れ、とたのまれ、「迷子になる地図」をつくった。迷子になったところから、自分の行きたい方向に自分の目で見て自分の気持ちで歩き出す。絵はがきを訪ねる観光ではなく。
 ▽ロケの記念碑をたてるとか、記念写真のコーナーをつくるとかいう提案はすべて阻止した。
 ▽美しい橋かどうかは、人の暮らしの賢さを担う橋かどうかです。尾道から向島までの2本の橋。最初の橋は暮らしをつなぐ文化の橋。2本目の高速道路は、文明という効率と利便性の役割をはたす橋。
 ▽高速で四国に渡れるようになったなら、残り時間をいかに豊かに立ち止まるかが、「人間にとって幸福な速度は馬の速度だ?」というダ・ビンチの教え。そうすると、人間の幸福から逸脱しないのです。文明は文明として役立つわけです。ところがそれができない。「せっかく速く行ったのだから、すぐ戻ってきて次の仕事をしよう」と考えてしまう。
 ▽〓四国に一番ちかい島で暮らすおばあちゃんが「これで人生の楽しみはなくなりました」。橋げたになってしまった小さな島から、船に乗って四国の今治にある病院に通うのが楽しみだった。そこをサロンと呼んでいた。船がなくなり、目の前にサロンがあるのに行けなくなった。
 ▽ぼくたちは船を忘れると、橋の美しさも忘れてしまう。どちらがいいかという議論は危険です。そこにあるものをそこにしかない知恵で考えて、そこにだけある幸福を導いていくことを常にしておかないと、美しい絵を壊してしまうことになります。
 ▽子どものころ、隣の島に行くといじめられた。まずいじめがあり、理解があり、そして友情あり、という流れ。〓ぼくは「出会い」という言葉が好きではありません。あまり簡単に出会いすぎてはいけないと思うからです。
 異文化が出会うわけだから、緊張感と恐れと、「おたがい拒否したほうが楽だよ」という感覚からはじまる。そこで勇気を奮い起こして、理解しあい、許し合い、認め合い、友情をおぼえていく。たいへんな時間と労力があって、人間関係は愛に達する。簡単に出会ってしまっては、通過儀礼がないぶん人間関係が浅くて無責任な関係でおわる。(旅の緊張感、おずおずと声をかける転校生の感覚)
 ▽瀬戸内は海を船で行ってほしい。
 ▽島に地道がなくなった。縦横にはしっていた道がなくなり、周回道路に。周囲は、海と寄り添った場所だから難工事だった。崖や砂浜があった。それが道になり、歯周病のようになってしまった。
 ▽船大工
 ▽臼杵の後藤市長「待ち残し、待ちづくり、待ちまもり。高度成長期にセメント工場を誘致して、活性化させようという動きがあった。でも、みんな我慢して町を守り抜いた。本当にやせがまんでした」
 ▽ひとつのことを学ぶのに、人生が長すぎるということがないのは、きっと神様の配慮だと思うのです。一生のうちに知りつくすことができないから、知り残したことを次の世代の人たちが知っていく。

■高橋哲哉「心と戦争」晶文社 20030605

 教育基本法の改正は「こころ総動員」を狙っている。「こころ」が総動員されることではじめて有事法が意味をもつからだ。大競争時代に、経済的にも軍事的にも生き残るための「国民精神」を養うことを目的にしている。かつてのような天皇崇拝とは異なり、自国の勝利を素直に願う「日本人としての自覚」だ。……戦前の国家主義と比較しながら、今、蔓延しつつある新国家主義を批判的に論じている。
−−−−−−−−−−−要約と抜粋−−−−−−−−−−−−−
 ▽文部省の「心のノート」は、「子どもへのプレゼント」という。国家の側が一方的に押しつけるのではなく、市民の側が「国家」を求めるという双方向性がある。それを巧みに利用している。
 「心のノート」には年代別に4種類あるが、どれもが同じパターンだ。立派なこと、健全なことの大切さを訴え、感謝の心の大切さをとき、家族やふるさとへの愛、国家への愛を要求する。「感謝」とは現状を素直に受け入れよ、という意味だ。「ふるさと」と国家をあいまいに結びつけ、ふるさとを愛するならば国家を愛するのが自明であるかのように結論づける。戦前の「修身」と同じである。
 ▽教育基本法は「平和的な国家および社会の形成者たる人格の完成」を目標にし、平和主義にもとづいた教育論に基づく。同時に、正義・個人・勤労・責任なども説いている。
 「日本会議」などの連中は、教育基本法に国家や責任を論じていない、といって批判するが、ちゃんと書いてある。「日本は天皇を中心に家族的に安定していたのに、教育基本法による個人の過大な尊重が、不安定な社会を作ってしまった」という批判に対しては、「安定」していたはずの戦前社会は10年に1度戦争があったことや、作家や文化人が、封建的な「家」のくびきから脱しようと苦悩したという反証として事実をあげる。
 彼らが求める「大いなるものへの畏敬の念」とは、国家や社会のことである。
 ▽国旗国歌法をつくるとき、「強制はしない」と言ったが、実際にはその約束は反故にされた。「約束」は忘れられ、法だけが残る。
 ▽グローバル時代の国家主義の目標は、戦前の強圧的なものとはちがう。いざというときに、「だってボクらも日本人だから」と「国」に従う人づくりである。「自然を大切に」「心を大切に」とやさしく語りかけ、「それが日本人だよ」と付け加える。自然にやさしい、人にやさしいナショナリズム。ココロジーとエコロジーのナショナリズムである。
 ▽〓ナショナリズムは、教育現場への競争原理導入という形でネオリベラルと結びつく。教育改革国民会議で江崎玲於奈は「人間の遺伝子がわかるようになると、就学時に遺伝子検査をして、できる子はそれなりの教育をして……」と言った。優生思想だ。
 大競争時代という前提に立つと勝ち抜くことが必要となる。教育基本法のいう「個人の尊厳」ではなく、「人材」づくりを目指す。よい材料には金をかけ、悪い材料は放置する。非才は「実直な精神」をもてばよいとされ、エリートに黙々と従うことを求められる。
 98年の学習指導要領改訂は、全体目標として「日本人」「国を愛する心」の育成をかかげた。それが、愛国心通知表を正当化してしまった。
 ▽〓〓2002年11月、大分の日出生台で米日の軍事演習があった。「大分県平和運動センター」が抗議集会を開いた。そのとき制服組の責任者である松川正昭総監が、「どうして反対するんだ」「反対集会が報道されれば訓練内容が相手に知られる」「私はここの責任者だ」と、集会中止を要求した。
 まさに、有事法後の、軍と市民の関係を先取りしたものだった。集会の自由、表現の自由を軍幹部がおかすことを意味する。軍は「秘密」を理由に表現の自由をしばる。
 安部晋三は核武装合憲といい、福田康生は非核3原則見直しがありうるといい、石破にいたっては「徴兵制は合憲」とまで言う。
 ▽日本が単独で他国に攻撃されることはあまり考えられない。されるとしたら米国の戦争に協力したときの反撃だ。
 〓清沢洌は、ちくま学芸文庫で「暗黒日記」を出している。42年から45年にかけての日記で、当時の新聞記事ものせている。彼はそのなかで、「戦争はいや、という気持ちは生まれるだろうが、それを思想化するのは難しい」という趣旨のことを書いている。戦後、たしかに「戦争はいや」が再軍事化の歯止めになった。だが今「戦争は避けられない」となりつつある。「戦争はいや」という気持ちが存在するうちに反戦を思想化し、生活文化に根付かせる「正しい教育」をされるべきだったが、実際は逆だった。
 戦前、カトリック教徒が靖国にいって参拝を拒んだ。そのとき政府は「キリスト教を信じていても、愛国心さえあればよい」というような見解を述べた。これをきっかけに「大日本報国宗教連合」ができた。
 小泉の靖国参拝も現代的な意味をもつ。「国のために命をささげる」ことの価値を兵士や国民に内面化してもらうための国家装置を立ち上げようとしている。戦死者を国家がほめる。それによって「こころ」が国家にからめとられていく回路づくりである。

■佐高・城山「男たちの流儀−誰に何を学ぶか」光文社知恵の森  030605

 −−−−−−−−−−−−以下抜粋−−−−−−−−−−−−−
  ▽厚生省の役人は百万円もらって2年後に返したのに懲戒免職で、大蔵省はめちゃくちゃなことをやっても何もなし。
 ▽「抜擢人事」引きあげられた人は感激する。恩を売って自分を大事にさせる。
 ▽高見順 インテリの責任みたいなことを考えていろいろ動いた人。
 ▽大蔵省のバカ殿教育。若いウチから税務署長
 ▽浜口雄幸は上と衝突して左遷につぐ左遷。それでも「タイムズ」を取り寄せて勉強していた。
 ▽近衛文麿は肝心なところへいくと逃げた。新しい時代の風を感じるタイプで、名門の出で格好はいい。キャリアはなかったけど青年宰相。新しい日本が始まるみたいな新鮮な感じがあった。…近衛をかつぎあげた勢力のひとつに軍部ああった。志として不拡大をいっても、現実には軍部におされる。A級戦犯になり、出頭の朝、服毒自殺。
 ▽新聞は軍部の圧力で……と言うけれど自分の方から折れていった。政治改革法案も小選挙区制だから怖さを報道すべきなのに。
 ▽広田は近衛に抵抗するが、新しい官僚派(枢軸派)がどんどん出始めた時代だから足元をすくわれた。ある日突然強力な専制が出てくるわけじゃなくて、いろんな芽をつぶされたうえで出てくる。 「落日燃ゆ」
 ▽「ビジネスマンの父より息子への30通の手紙」
 ▽石橋湛山がねばって、岸内閣の誕生を阻止していれば、田中も生まれなかった。岸・佐藤・田中と金権体質が加速することもなかったろう。
 ▽革新系がどんどん余計なものを切り落としていったから痩せちゃった。