■佐野真一「宮本常一のまなざし」みずのわ出版 200306
かつて日本には宝のような人たちがいた。学校に行かずとも、生きる知恵にあふれていた宮本の父親のような人たちだ。
その人たちを忘れ、見捨て、埋もれさせたのが高度成長期以降の日本ではなかったか。そうして埋もれつつある人、活力を失いつつある地域を1つ1つ訪ね歩いた宮本の足跡を、何十年か後に訪ね歩いた佐野の思いが切々と伝わってくる。
宮本の父が残した「十箇条」の教えなど、今まで読んだ、宮本本人や佐野の著作と記述はかなり重なっているが、佐野の講演を採録しただけに、「作品」以上に思いがストレートに伝わってくる。
宮本が撮り歩いた写真も数十枚掲載されている。たとえば昭和30年代の海辺の写真。なにかが今と違う。なにか大事なものが今の海辺から消えてしまっている、と感じさせられる。
そう。浜がある。磯がある。家のすぐ間近まで海がひたひたと迫っている。玄関から数歩歩けば、釣り糸をたらすことができる。集落の地道を歩いていくと、浜から岩場になり、岬につづく。原始の村の風景が、わずか40数年前までのこっていた。
歯槽膿漏のようになってしまった現在の瀬戸内の島との対比がかなしかった。
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▽−−人の見のこしたものを見るようにせよ。その中にいつも大事なものがあるはずだ。−− 宝石のような輝きをもった言葉。それを小学校も出ていない、ごく普通の人が言葉として持っていた。・・・日本の庶民はついこの間までこういう人がごくふつうにいた。そういう人たちを、日本はほとんど失ってしまった。
▽網野善彦は、天皇制をみる視点、被差別民をみる視点、とりわけ日本を海からみる視点、を、宮本さんから教わったとおっしゃった。「離島から日本をみたらどうなるか」という視点を最初に提示したのは宮本だった。
北海道の最果てから対馬、奈良の十津川村・・・そういう辺境の地で暮らす人々が、宮本さんの訪ねてきた日のことを昨日のことのように語った。「昭和何年何月何日、月明かりの晩でした」と。
▽萩市の沖合42キロに見島。大干ばつで島が萩の高利貸しの手に渡ってしまい、これではいけないと、島民が一致して、島を取り返そうと倹約令を自分たちで作った。たとえば酒を飲むのは元旦だけ、ひな人形を飾ってはいけない・・・。数十年かけて島を取り戻すまでの実話を「共同一致の歌」にうたいこんだ。それが今も島の小学校の運動会で歌われている。〓国に泣き付く、という今の地方自治体と根本的に違う。今は大きいものに頼っていくということしかやっていない。宮本も、地域住民の力でやるんだ、という意志以外、活性化する道はないと述べています。
「おまえらがやらなければ、この島は生きていけない」と鬼のような形相で熱弁をふるった。一見穏和なように見えて、ほとばしるような熱い血が流れている。
▽宮本常一を読んで感動して、金曜日仕事が終わるとすぐ、週末にいける島に通っているという官僚がいる。島をつぶさに歩く。と、港湾事業一辺倒の政策がいかに間違っているかがわかったという。1人1人の要望は実に多種多様だということがわかってくる。
▽田畑やせんたくものを一瞥しただけで、その集落の貧富や嗜好、歴史的変遷まで言い当て、「あの人は千里眼か」と驚かせた。
▽「空からの民俗学」(岩波現代文庫)
▽日本の「店」は、「見せる」ことから発している。そこでは、品物だけでなく作っているところを見せる場所でもあった。こういうあり方は、デパートがショーウインドウを採用するようになったころから廃れた。「物はウィンドウへ並べられて人間が奥へ入り込んでしまう。そのときに日本の伝統的工芸が滅び始めたと思うのです」
▽「土佐源氏」にはオリジナル版があった。そのまま出したら発禁処分になったろうというほど、ポルノチックな作品だった。チャタレイ裁判があて、オリジナルの発表を控えたのではないか、と。
▽宮本は、実は病気の絶えない人でした。彼は絶えず死の恐怖と背中合わせになりながら歩いた歩いた。旅の原点にはきっと、生と死というものが背中合わせにあるような気がします。
▽渋沢は宮本に「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役を務めていると多くのものを見落としてしまう。そのなかに大切なものがある」と言った。父の言葉と同じだった。
▽宮本さんを追う旅をつづけて、珠玉のような人に会う経験をしてきた。しかし、そういう人は忘れられた人なのです。私たちがその人たちを忘れ去った当事者なんです〓。
▽下北半島の三沢の古牧温泉には、渋沢敬三の旧宅が移築されている。「没落するときはニコニコしながら没落すればよい」「小川原湖民俗博物館」〓
▽宮本講演「首相と民間人の対談。3回くらいリハーサルします。これはいけない、と、質問のなかでみな削っていきます。そういうことが行われている間は、世の中の進歩はなくなるんじゃないかと思います。大事なことは規格化することではなくて、今の生活の場をもとにして、その中から新しい生き方を見つけてゆくこと」
■佐野真一「凡宰伝」(文春文庫) 20030629
「真空総理」「鈍牛」「政策がない」とののしられながら、国旗国歌法や住民基本台帳法などの重要で危険な法案を次々に通した。
マスコミの薄っぺらな「茶化し」と、その裏にあったリーダー待望論(小泉賛美)の危なさは僕も感じたが、佐野は、さらにその裏に、庶民全体の劣化とそれに伴うマスコミの劣化を感知する。
小渕の生い立ちをさかのぼり、群馬という風土を徹底して分析したうえで、小渕を「ハイパー庶民」と位置づける。「ブッチホン」をはじめとする気配りと、敵対者を脱力させてしまうボケと、本音とタテマエの使い分け。庶民の知恵を武器にしてきたのだ。
その「庶民」が権力とふれあったときに、ある種の化学反応をおこし、執念深さや権力への執着……といった怪物性に変容した、という。
「小渕はバカだから」と「国家」を語る庶民を「いつからそんなにえらくなったのか」と嘆く。暮らしの知恵、歴史に根付いた珠玉のような知恵を忘れてしまった一方で、自分がまったく傷つくことのない安全圏から権力者をばかにする。それを佐野は「大衆の劣化」と呼ぶ。
それと軌をいつにするのが、マスコミの劣化だ。小渕を薄っぺらにバカにしたことの結果が、小泉賛美であり、それが、有事法制やイラク戦争参加などをはじめとする「今」をもたらしている。
−−−−−−−−以下抜粋・要約−−−−−−−−
▽小渕:(国旗国家法案)野中さんに通る可能性はあるかといったら、ないということだった。だから99年2月の時点では「いまはやる気はない」といった。その後公明党の理解も得られるようになったから、提出しようと。
▽(父)光平が製糸業界に入った昭和初期は、昭和恐慌という未曾有の不況に見舞われた時代だった。社会主義者猪俣津南雄が昭和9年に発表したルポ「窮乏の農村」には、当時の群馬県の養蚕農家の悲惨なありさまが活写されている。「大正14年に10円だった繭は昭和5年には2円以下になった。借金には高い利息がつき、雪だるまのように」
昭和4年、米国の株暴落。アメリカ市場に依拠していた日本の蚕糸業は壊滅的。昭和5年秋に生糸の大暴落。
糸をとりおわったあとのサナギは鯉の餌や製薬会社の薬品原料になるという。ドイツでは結核治療薬のパスの材料。製糸工場の女工さんは昔から結核にかからないといわれたのはそのためだ。
▽小渕の強みは、ちゃっかりしていながら、そう見えなかったこと。何を考えているかわからないぼんやりした風貌と人を煙に巻く発言はそれだけで相手の戦意を喪失させてきた。それが天然もののボケでやってきたようにみえるところがこの男の凄みだった。
▽みんなからバカにされながら、最終的に美味しいところをちゃっかり頂いてしまった小渕という男。その小渕に対し、絶対安全な塹壕のなかにいて利いた風な批判をする大衆には、小渕の愚かしさを笑えないはずだ。日本の大衆はいつからそんなにエラくなってしまったのか。自分の父祖たちが3代前にやってきたことを冷静に考えれば、誰でも自分の中に流れる血を呪って裸足で逃げ出したくなるはずである。そのことに口をぬぐって大まじめな顔で天下国家を論じる庶民大衆の愚かしさには辟易する。だがそれよりも、大衆に迎合して賢しらな言説で批判にもならない批判であおってきた日本のマスコミにはつくづく吐き気がする。……小渕が日本の庶民の美質を保持してきたことは異論のないところだろう。しかし、その美質の多くは、権力という強い触媒にふれることで、化学反応をおこし、老獪さや執念深さ、政界を生き抜くための奸智という処世術に変質していった。小渕のなかの庶民の変貌は、戦後庶民の劣化の過程と対応しているように見えてならない。
▽気の利いたような言葉を振り回して、小渕を批判しているつもりになってきたいい気なマスコミの尻馬に乗るような愚だけは犯したくなかった。
▽恩師、同級生、同窓会名簿でほとんどに当たっていった。
▽小渕は実は合気道の有段者
▽若い頃の世界一周。9カ月で300通のラブレター
▽学生時代から、稲嶺一郎宅におじゃま。沖縄とのつながり
■篠田正浩監督「スパイ・ゾルゲ」(映画) 20030629
{本文}
■城山三郎「落日燃ゆ」新潮文庫 20030703
すさまじい小説だった。司馬遼太郎的な英雄物語になるかならぬかのぎりぎりの線を守りながら、広田弘毅という人物を描ききっている。戦争は、天皇や軍部の一部個人だけの責任ではない、統帥権の独立という体制の問題である、ということが透けて見える。さらにいうならば、権力の大衆操作に加担したマスコミや政治家、そして大衆自身による翼賛的な圧力がなければ広田の外交はここまで破綻しなくてすんだかもしれない。
政府の意向も軍の参謀本部の意思をも無視して独走する軍を押さえ、平和外交をめざそうと努力するが、「統帥権」をふりかざす軍部につぶされていく。まさに「長州の作った憲法が日本を滅ぼす」ことになった。
皇族出身の近衛首相が、大衆的な人気を背に、「革新(皇道)」という時流にのって勇ましい発言を繰り返す。
国民精神総動員運動を主唱し、表現の自由まで圧殺する国家総動員法を「流動的な戦局に即応するためには必要であり、大筋だけでも議会を通して制定したほうが、立憲の精神に沿う」と通してしまう。また軍のふりかざす統帥権に悩んで、首相を構成員とする大本営を作ろうとしたが、陸海軍に反対され、結局、首相参加は除けられ、陸海軍合同の作戦指導部という純粋な統帥機関を作ってしまった。
そして最後は、事態収拾の自信を失い、内閣を投げ出す。その直後に「軍部をまとめられるから」と東条内閣が生まれた。お坊ちゃん人気を背に、軍事独裁への筋道をつけてしまった。広田の主導していた「平和外交」の息の根を止めた。
そう、孫の細川元首相にそっくりなのだ。お殿様の家系と「政治改革」を標榜して人気を得て、結局は与党権力の独裁化を促す小選挙区を導入した。建前だけでも「平和」を党是にしていた社会党をつぶした。そして最後はあっけらかんと投げ出した。
あるいは「改革!」を連呼する小泉首相にも似ている。「非常時の対応を考えておくのは当然のこと」という論法と瓜二つだ。有事法やイラク特措法などを推進し「戦争ができるふつうの国」にする勢力を「改革派」と呼び、反対する人たちを「守旧派」と呼ぶ現状は、皇道外交を推進する人たちを「革新派」と呼び、広田らを「愚鈍な政治家」とくさしたあの時代と軌をいつにする。
ずるずると軍国への道へと押しやられ、広田は敗北する。そして戦後、「戦争については自分には責任がある。無罪とはいえぬ」といっさい自己弁護せず、最も嫌った軍人たちとともに絞首刑に処せられる。
死刑の直前、他の戦犯が「天皇陛下万歳!」と叫ぶ傍らで、広田は「マンザイ」と言った。最後の最後に痛烈な冗談を放った。
広田らが処刑されたその日、吉田茂は国会を解散した。戦中の指導者は忘れられ、新時代はすごい勢いで流れていく。そのわずか十数年後に僕は生まれた。「戦争なんて遠い昔」と思っていたけど、すぐそばにあったのだ。
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▽戦局とともに、国内も戦時色が濃厚に。近衛は国民精神総動員運動を主唱。有事が有事体制を呼び、民主主義は窒息する。
▽閑職に置かれ、日のあたらないオランダ公使だったとき、「風車、風の吹くまで昼寝かな」とうたう。
▽張作霖の乗る列車を、関東軍が爆破し殺す。田中義一首相は、関東軍の謀略と最初は認めが、軍部のつきあげで、事件を満人の仕業にした。
▽佐分利は支那協調外交を進めたが、変死した。
▽関東軍が独走して満州国建国し、しかたなく政府も満州国を承認。司令官に爵位を与えた。これが戦火拡大をおさえることになると考えたが、ますます思い上がった。「満州事変は天皇のご意志に背いたかもしれぬが、満州建国によって、結局は天皇のご威光を増すことになったではないか」と、日中戦争に突き進む。
▽軍部だけでなく、外務省内にも平和外交をゆさぶる「革新派」が登場し、皇道外交をとなえた。
▽国民は満州事変を、中国軍の一方的攻撃によってひきおこされたと信じた。
▽陸軍中央の穏健派も殺される。殺人者の志士扱いされ罪は軽かった。
▽ひとにぎりの「名門」が、政治の中枢では圧倒的多数になっている。それが2.26の遠因ともいえる。青年将校は、兵士たちの背後にある東北の農民の生活の荒廃を見かねて決起した面があった。底辺の民草が忘れられているという怒りである。……平民宰相は諸刃の刃だった。何かのきっかけで、革新を叫ぶ時代の嵐に加担することになりかねない。
▽「今は外交といっても、陸軍とどういう風にかかわっていくかということしか、やることがない」
▽軍人や官僚、政治家以外にも与えられる階級のない勲章として文化勲章をもうけた。
▽南京陥落を祝う提灯行列。「首都を失った国民政府は地方政権でしかない。蒋介石なにするものぞ」という空気だった。これを背景に、軍部は高姿勢だった。
▽南京虐殺。広田は激怒した。最高司令官の松井は「ぼくの部下がとんでもないことをしたようだな」「上の方にも、わるいことをするやつがいるらしい」
▽さらに、奥地へ戦局拡大。行く先々に日の丸がひらめき、「万歳」の声があがる。和平をいよいよ遠のかせる声だった。
▽近衛は(2度目に)首相になって3カ月で、事態収拾の自信を失い、内閣を投げ出す。「軍部をまとめられるから」と東条内閣が生まれた。言論・出版・集会・結社の自由を剥奪。専制的な憲兵政治をしいた。翼賛政治会をつくって、各党派を吸収し、その推薦議員に臨時軍事費から政治資金をまわして立候補させた。
▽東京裁判。検事には、軍部が独走し、政治や外交がひきずられるという構図はのみこめないようだった。…陸海軍が対立し、陸軍内でも参謀本部と陸軍省が対立していた。
▽平和主義の憲法には、軍部の暴走に苦しめられてきた幣原自身がまず乗り気であった。「中途半端な軍備を持っていても何の役にも立たない。国民が一致して自分が正しいと考えて進んでいけば、徒手空拳でもなんらおそれることはない」。
新憲法の公布。木戸は「もう大丈夫、今日は漸く戦いを終わった気がする」。新憲法は軍部の独走を許さぬばかりか、軍の存在さえ否定している。この戦争の責任者は個人よりも、統帥権の独立を許した構造そのものにあるのだと。
■恒さんとえひめの農民運動史を紡ぐ会「恒さんと農民運動」 1030723
田中恒利は、9年前から知っている社会党衆院議員だった。塩崎(衆院議員)やら中村(現松山市長)やらの一見頭が切れるようにみえる保守系若手議員と、西田司や越智伊平(故人)といったギトギトした迫力がある古参自民党議員に囲まれ、好々爺という風情で、人はいいけど切れがなく、迫力に欠けるように思えた。秘書や周囲の人も、60代以上の泥臭いおっちゃんばかりで華やかさもなかった。正直、「もさい田舎のオッサン」とバカにしていたところがあった。
今回、この本を読んで、「人に歴史あり」という言葉を思い返した。「今」の姿だけで人を判断してはいけない。歴史の視点を持たなければ評価を見誤るということだ。(時代もそう)
田中は、戦後の青年団活動のなかで、戦後民主主義の洗礼を受ける。ユネスコが主導した「民主主義の技術」を根付かせようという取り組みをバックにして保守的な愛媛の農村に次々にグループが生まれる時期だった。
民主主義とは議論することである。「夜這い」のような封建的な因習を克服することである・・・。そんな稚拙だけど純粋な議論があちこちで交わされた。
戦後直後の混乱期、田中は「えらくなりたいのはではない。なにが正しいのか……見極める目をもちたい」と明治大学の2部で社会学を学ぶ。当時はマルクス主義華やかなりし時代である。ニコヨンと呼ばれた土木工事のアルバイトで学費を稼いだ。
卒業して今の宇和高校で3年間教鞭を執ったあと、農民運動に身を投じる。
今でこそ自民党が国会議席を独占する愛媛だが、当時は青年団を基盤にした革新の力が強かった。愛媛県南部の農村でも、革新系の県議が当選し、革新系の久松県知事が当選した。田中をはじめ、当時の青年団のメンバーはそうした政治運動に没頭した。
だが、昭和も30年を過ぎると、保守系が強力に巻き返してくる。田中氏らが応援した革新系の佐々木県議は保守に転換し、久松知事も2期目は保守に転じた。
農村でも、革新色が強い青年団系列と、戦前の農業会の流れをくむ保守系の農協幹部との対立が激しくなる。後者の代表が、後に「取材拒否」などで有名になる白石春樹知事だった。行政による介入が強まるのと軌を一にして、次第に後者が前者を駆逐する形になった。
田中は、そうした愛媛でも特に保守的な地区を地盤にして、96年まで、3回の落選をはさんで計20年、代議士をつとめた。田中引退とともに南予地区の社会党(現社民党)組織が壊滅した現実を見ても、個人人気がいかに高かったかがわかる。
僕が9年前に感じたように、田中は背広がまったく似合わない田舎者である。まさにその風貌通り、徹底的に農漁村を歩き、農民の思いを共有し、農業問題に取り組み、自由貿易論者から「守旧派」扱いされてきた。
彼を知る人は、「自民党議員も農村に根をおろしている。でも恒さんは、農村のなかでもさらに底辺の人の思いを聞いてまわった」という。
徹底的に目線を低く保つこういう政治家は2度と出てこないだろう。かつての僕に彼の価値がわからなかったように、今の日本はそういうドンクサイ、モサイ「守旧派」を軽んじる。それが、今の日本の危うさを象徴しているように見える。
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