■辺見庸「いま、抗暴のときに」毎日新聞 1030717

 近現代史の知識のなさが自信のなさにつながる。弱さを自覚する大切さ。自分の弱さを知らず、「あいつらはばかだから」と右翼をそしる弱さ。かつて先輩記者が「近代史を勉強せよ」といっていた意味がわかる。
 ルーティンワークを優先し、本当に大事なことを忘れ去る記者たちを徹底的にこきおろす。耳が痛い。でもまさにその通りだ。徹底して「個」を問わねばならない時代なのだ。
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 ▽湾岸戦争を検証するデータ。「湾岸戦争における米国の戦争犯罪」(世界戦争犯罪事典所収)〓
 ▽(開戦直前)国連監視検証査察委員会ブリンクス「米国の兵力増強をだれもが案じてる」「査察は8千万ドルと250人でできるが、武力行使は1千億ドルを使い、25万人の兵士をまきこむ」
 ▽わけ知り顔で世を憂えるふりをして、そのじつただの現状追随者にすぎない編集者や記者やディレクター、口先だけ体制批判を語り、実際はでたらめな大学行政に従う腐れ学者。その類に限り、デモに、なにをいまさら、とこばかにしたように苦笑する。
 ▽絶対暴力に抵抗することは、人間の抽象化、数値化を拒み、想像力の射程を無限にのばし拡大することにはじまる。
 ▽20年前、マイケル・ムーアのような男たちが、米国には今よりはたくさんいた。軍産複合体を支えるGMやロッキードを嫌い、全米ライフル協会を軽べつし、大枠で民主党を支持したり同党の欺瞞性を糾弾したり、……北部には社会主義を信じる市長だっていた。かといって、軍は人口10万人程度のグレナダに侵攻して総員600人ほどの軍隊をやっつけて「勝った、勝った」と大喜びするほど大バカであった。
 ▽「ボウリング・フォー…」で私が身を乗り出したのは、マリリン・マンソンの語りだった。「メディアは恐怖と消費の一大キャンペーンをつくりだす。人々を怖がらせることにより消費へと向かわせようという発想に基づいている」
 ▽湾岸戦争: いったんはクウェートからの即時撤退に合意したイラク軍に対し物理的に不可能なほど短い撤退期限を突きつけて、地上戦に突入し、劣化ウラン弾を撃ちまくった。
 ▽世界の反戦運動の高まりを「不幸な事態」という官房長官、ブッシュ盲従の首相、「わが国も核ミサイルをもつこと」の必要性を力説する拉致被害者救援団体の会長、戦術核保有は憲法違反ではないといってのけた官房副長官、徴兵制肯定論者にして拉致救援団体幹部と気脈を通じる超タカ派防衛庁長官。彼らの舌鋒に憶しへつらいこびるマスコミ人たち。アフガン爆撃を支持した過去には口をつぐみ、世界の大勢を見て今ごろイラク攻撃にささやかな疑問を呈してみせるマスコミ論調。
 ▽メディアの最大関心は、戦争発動の是非ではなく、発動された戦争にどう対応し組織が不利益をこうむらないようするか、なのだ。戦争に反対し苦悩する人間的感情が消し去られ、乾いた損得感情と円滑なルーティンワークだけが最優先されていく。21世紀の戦争メカニズムは、それに反対しないメディア、企業、市場を地球規模でまきこみ、戦争構造自体を肥大させ、あたかもそのプロセスがなんらかの人間的理性でも体現しているかのように見せる。戦争に備え、対応しようとする円滑なルーティンワークが戦争メカニズムを支える。
 ▽米国防総省が募集した600人の「従軍記者」に競って応募した一方で、かなりの確率で死が運命づけられているイラク軍従軍を主要メディアが申請しているとはきかない。……戦争へのルーチンワークの現場から逆らい、敢然と反戦を表現しようとする「個人としての魂」はどこにいるのか。はっきりした反戦の自社主張を第1面に掲載するよう上部に提案するべきである。〓
 ▽想像すべきは爆弾の下の風景であり、散乱する死骸である。国家は新型爆弾の威力を誇示しても、殺した人間の様を決して見せない。「デイジー・カッター」。アメフト場5面ほどのクレーターをつくる。さらに、空中爆発弾「MOAB」はキノコ雲もまるで原爆のよう。想像力は、投下されるイラクの人と大地に及ばなくてはならない。MOABの開発は「イラク軍の戦意を喪失させる・・・ため」。(原爆と同じ〓)
 ▽大量破壊兵器による爆撃を「解放」と、米国への隷属を「自由」といい、常人なら悪魔とでも述べるところを「神」といいなすブッシュという男には、悪意は微塵もなく、「善行」をなす晴れがましさに心が満たされているだろう。
 ▽前回の湾岸戦争でも、ラムゼー・クラーク元司法長官らの調査により、40数日間に少なくとも10万人以上のイラク人が爆撃などにより直接に殺されていたことが明らかにされた。…コソボで重大な放射能被害をもたらした劣化ウラン弾をイラクで用いたことも米軍当局は公然と認めている。バスラでは、クラスター爆弾を使用し、多数の住民を殺傷した。
 ▽NHKワシントン支局長らのブッシュ寄り報道などを例にあげ、報道が公正を欠くし虫酸がはしるとして支払いを拒否したら、集金人は「あんたみたいな人が増えたら日本は北朝鮮のようになる」といったそうだ。
 ▽残虐な死体の映像は流さないという「人道的配慮」が非人道的殺戮への怒りを薄め、米軍のいう「きれいで迅速な戦争」というありえもしない宣伝の手助けをしている。
 ▽「従軍記者」と自称して恥じないばか記者らが伝えるインチキ記事を大量消費している読者らは、イラクのろくに敵にあたりもしないローテク兵器より米空母や精密誘導兵器に多くの人間理性がこめられていると勘違いし、虫けらのように殺されたイラク住民よりも、ペンタゴンによって捏造されたリンチ上等兵救出の美談に胸おどらせる。
 ▽1930年代、15年戦争のとば口という重大な歴史の結節点にあって、仮構された日常と楽観が支配していた。〓31年10月には大リーグの選手団が来日し、銀座をパレードしている。浅草オペラ館と新宿ムーラン・ルージュが登場したのもこの年。日本ダービーがはじまり、NHKがこれを実況したのは、「満州国」が建国され犬養首相が殺された32年のことだ。日本の非日常は、今日同様、日常という安穏のジェリーで覆い隠され、人々は事の軽重をひっくり返し、ひたすらそのときの欲情に生きたのだった。
 ▽阿部定事件の翌年37年には、「国体の本義」を発行して、天皇への絶対随順を説き、個人主義、自由主義を排撃しはじめた。日本中にセンセーションをまきおこした38年の津山連続三十人殺し(八墓村のモデル)のわずか半年前、南京虐殺があった。当時のマスコミは、犯人を「鬼畜のごとし」と報じ、南京攻略は「一大慶事」と伝えた。
 ▽永井荷風の「花火」、太宰治の「十二月八日」、石川淳の「マルスの歌」〓
 ▽北朝鮮に限らず、国家とは、拉致、連行、監禁、謀略のたぐいを隠された本質とする装置なのである。とりわけ「戦時国家」はそうだ。米軍と南ベトナム軍のフェニックス作戦で、特殊機関により拉致、投獄、謀殺された人々は5万人。アフガン報復攻撃でも、タリバン・アルカイダ兵と称して400人を氏名を公表もせずグアンタナモ米軍基地に不法に拉致。9.11テロ事件捜査の過程で1200人以上のアラブ系の人が秘密裏に連行され、過酷な取り調べがなされた。90年に韓国の盧泰愚大統領が来日したさいに、朝鮮人強制連行に関する資料提出を日本に求めた。日本政府は「公的資料はない」とそれまで言い張ってきた。連行されたおびただしい数の人々は、戦火とともに、その悲惨な物語を消されていた。
 ▽1965年の日韓条約〓は佐藤首相と朴独裁政権の間でつくられた不平等条約だった。韓国政府が賠償請求権を放棄すると宣言した。社共もアジア諸国も激しく反対した。日本政府は、北朝鮮が国交正常化交渉開始のハードルをこの条約レベルまで下げてくるのを待っていた。そうなった現在、日韓条約そのものの不当性を問う声は皆無に近い。皆が頬被りして、過去を隠そうとしている。金正日の崩壊と同時に、現代史の暗部、とりわけ日本に都合のわるい部分がなかったことにされてはならない。
 ▽三浦朱門は「強制連行は国民徴用であり合法だった」という。……若い記者たちは、「三浦吾楼」も「乙巳保護条約」も「安重根」も「三一運動」も「光州学生闘争」「創氏改名」も知らずに、薄っぺらな記事をかきまくり、尊大な国家意思に奉仕している。
 ▽福岡の小学校「国を愛する心情」を3段階で評価する。ここには「定義」がない。「思想および良心の自由」をおかすものだ。……小泉が小学生だとしたら、Cにも値しない。ブッシュの戦争政策に組み込まれ、日本を直接参戦に導いたのだから。
 ▽レーニン。列強内に生じる高い利潤が一部の労働者に特権的な位置をあたえ、さらには「労働貴族層」を生み出し、国際労働運動に分裂傾向をこしらえる、と当時から読んでいた。
 ▽「ならずもの国家」を撃つというなら、すでに200発以上の核弾頭を隠し持つイスラエルはなぜその対象からはずれるのか。
 ▽経済制裁をすれば、制裁を受けた国の指導者は必ず屈服するだろうという単純な誤解がある。民衆は困窮し、飢え、指導者は豪邸に住んでいる。サンクションは責任ある指導者ではなく、まったく罪のない民衆を直撃する。
 WFPのモリス事務局長は朝日新聞に「北朝鮮では食糧支援が不足しているため400万人の子どもが餓死する恐れがある」と述べた(02)。「コメは一粒たりとも送るべきではない」といった発言は、何万人の子が餓死するかもしれないという想像を排除している。北朝鮮への義憤をこえて、非人間的な域まできている。
 ▽日本軍の軍医による「生体手術演習」の告白。  軍医が「生体」に腰椎麻酔をほどこし、さらに全身麻酔に入ろうとした際、A氏は「あ、消毒は?」と声を発した。先輩軍医は「どうせ殺すんだから」と笑いかえした。  「生体」の腹に銃弾を撃ち込んでから麻酔も酸素呼吸もせずに摘出の手術演習をして、悶絶のうちに死亡させた。
 ▽9.11は米国に異様な愛国主義を、9.17(日朝首脳会談)も奇妙なナショナル・アイデンティティーを強いる空気を一気にかもした。両者に共通するのは、あまりに一方的な被害者意識。加害者としての歴史の忘却。自国中心主義。国家の台頭、個人の衰微。マスコミの迎合。こうした全景を国家権力が徹底して利用して、軍を拡大し、戦争を構え、民衆監視体制を強化する。
 ▽1999年の145通常国会で、戦後民主主義という名の堤防は決壊した。日米ガイドライン関連法、国旗・国歌法、盗聴法、改正住民基本台帳法などが一気に通ったのだから。戦後民主主義という言葉は、なにをもってそれを意味するかしっかり明示しないままだらだら生きながらえてきた。存在を賭けるほどの価値観を伴うことがない。「戦後民主主義」は思想ではなく「気分」ではないか。「鵺のような全体主義」も戦後民主主義の集合的な気分とじつは非常に似ている。責任主体のないことが。(経営失敗しても責任とらず、ずるずると合理化だけ進める企業の在り方も)
 戦後民主主義は、敗北の責任の所在についてさえたがいに問わず問われず。責任ある個体の問題をつくこともつかれることもない。そこにも「鵺のような全体主義」に転化する要素があった。この国のネオリベラリズムも、こういういいかげんな言説の土壌から生じたのではないか。
 ▽戦後民主主義がイデオロギー的に負ける前に、スト権ストが大敗北した75年から80年代にかけて、資本によって批判的労働運動が解体されてしまった。国家と資本がついに社会の全域をとらえた。87年の国鉄解体にしろ日教組の屈服にしろ、たかだか戦後民主主義の気分くらいじゃ抗しきれなかった。
 エンツェンベルガーによると、資本主義は、本源的蓄積の段階を終えると、人々の意識の収奪に入る。その時代には、階級的観点が後退して、マスメディアと知識人によって「消費者」という「超階級」的概念が導入される〓〓。これが「市民」幻想と二重化し、資本対労働の観点を徐々に溶解してしまった。「消費者」という概念は大資本家までも包含できる非階級的な無限概念。敵と味方の関係性を資本の側にたって解消してしまったのは、強権というより消費者意識を注入された労働者であった。マスメディアの記者たちも意識を収奪され、「超階級」的意識というか無意識の判断の過程で大資本や支配する側にくみするようになっていった。(〓規制緩和や構造改革を無批判に「正義」と信じる感性)
 ▽北朝鮮の拉致問題。この国にとって都合の悪い歴史的過去をほとんど消去したうえでものを語っている。長期にわたる加害の歴史を短期的な被害の事実によって塗り変えてこちらの被害者感情のみを無制限に増幅している。北朝鮮に対する「公憤」はそうやって目的意識的に醸成された。
 ▽組織化の前段で、自分の怯懦、無知、個体の存在のありようを徹底的に凝視することによって、自分を解析する作業がいる。それによって、抵抗の橋頭保を内面的に作れるようにする。
 住基ネット反対を組織として叫んでも、1個人としては役所に行って、自分の住民コードを削除してくれなんていう気もない。これも戦後民主主義そのもの。組織としては主張する。でも、個体の主体的、自発的表現としてはたいしたことはやっていない。要するに個体としてはなにも率先して決めない。ロジックを超えた卑怯さ、集合的気分としての戦後民主主義の表現の回路が完全に目詰まりしている。(〓住基を拒否するとき、受信料を拒否するとき戸惑い、赤面……の感覚)

■石川文洋「石川文洋のカメラマン人生−旅と酒編」笊カ庫 1030724

  戦場カメラマン、といういかめしいイメージとは異なり、酒が好きで旅が好きで、肥満してきた自分を情けなく思い、怖い取材にはひるんでしまい、見知らぬ人と会うときは緊張してしまう。ごく普通の人なのだ。
 すごさというよりも「ああ、俺とおんなじだ」という親しみがわく。
 フリーカメラマンとしてベトナム取材をしたあと、カメラ技術を勉強したいという気持ちで31歳で朝日新聞に入社した。スケールはずいぶん違うけど、俺も文章の勉強をしたいと思って新聞社に入った。その後、もう一度独立した石川氏を習いたいものだが、このままじゃミイラ取りがミイラになってしまうかな。
 50歳を超えても93年にカンボジア、94年にはサラエボとソマリア、そしてアフガニスタンを取材している。すさまじい気力だが、年を経るごとに次第に腰が重くなってきたという。「見たい」という衝動に従わず、いろいろ理由をつけてすぐ行動に移らないのは年を取って気力が薄れているからだ、と自らを分析する。
 俺自身、もう一度、ダニやノミだらけの中南米の安宿を渡り歩き、市街戦やゲリラ戦の取材ができるかと自問すると、自信がない。この2年間けっきょく中南米に行かなかった。往復1日半の飛行機とわずか5日間の滞在時間を思うと気が重くなるのだ。やばいなあと思う。
 石川氏は、戦争に徹底的にこだわっている。南太平洋の日本軍の動きをたどり、沖縄出身の犠牲者を訪ね歩く。そうした息の長い取り組みをすることで、30年前被写体になった人と写真展会場などで再会するといった喜びが生まれる。ひとつの場所やテーマを見続ける大切さよ。
 彼には天才的能力はない。写真の技術も平凡だし、運動能力が高いわけでもない。凡人が、精いっぱい努力しているからこそ非凡なのだと思う。
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 ▽EOS55を使って、露出、ピント共にカメラ任せの全自動撮影をしている。おかげで被写体や構図に専念してシャッターを押せる。
 ▽小諸の喫茶「ユニコーン」  塩尻のワイン「葡萄棚」1升1350円
 ▽泡盛は昔も今もタイのインディカ米で作っている
 ▽那覇の県庁に近い、ビジネスホテル「まるき」。近くの「山猫屋」。
 ▽先斗町の「ますだ」「八文字屋」  ▽宮城の松島海岸の「たからや」  ▽福岡市の能古島渡船場にある「糸山食堂」、尾道市土堂の「清水食堂」、那覇公設市場の「すえひろ食堂」
 ▽沖縄戦では沖縄人の59万人のうち12万人が死亡した。本土出身兵士の死者のほぼ2倍だった。・・小禄の海軍壕。民衆が砲弾に追われ地上を逃げ回っている間、司令官はこの安全な場所にいて持久作戦をとっていた。ベトナム戦でも民間人の死者が多い。カンボジアでもサラエボでもソマリアでも、沖縄戦同様に兵士は民衆を守ることはできない。

■稲葉峯雄「草の根に生きる−愛媛の農村からの報告」岩波新書  030806

  個人の自助自立、地域の自立、自助努力……。「自立」「自助」という言葉が今ほどうさんくさく感じられる時代はない。なぜか。能力主義や管理教育、君が代の押しつけで個性の圧殺をはかり、規制緩和や輸入自由化、強制的な市町村合併によって農山村を疲弊させる当人たちが「自立」叫ぶからだ。
 昭和30年代、衛生教育という分野で、真の意味での地域と個人の「自立」をはかる取り組みが愛媛にあった。全国的に有名になった「地区診断」である。
 最悪の衛生状態と、健康知識の欠如と、封建的な家族制度がはびこっていた農村に入り込み、住民たちと語り合い、問題点をえぐりだし、自らの力で健康問題に立ち向かう力をはぐくんだ。
 健康問題だけではない。著者は宇和島保健所に勤務していたとき、「草の芽」という読書グループ結成にもかかわった。
 最初、参加者は記録係になるのをいやがった。「世界一の、よみかきそろばん、の日本の教育が、なぜこのように生活のなかから話すこと書くことを奪ってしまったのか。それを取り戻す運動だった」と活動の意義を位置づけた。
 読書会の助言者の心得として「まず自分の言葉を捨てなければならない。ところが、自分の言葉を捨てられるのは、自分の言葉をもった人にしかできない芸当である。……生活環境を無視して助言しようとしても、本音はしぼむばかりだ」という。
 「自分の言葉を捨てよ。そのためには自分の言葉をもて」という指摘は、記者にこそ求められる。頭はからっぽなくせしてわけ知り顔に、効率よく(と思い込んで)取材をするコザカシイ記者がはびこっている。相手を理解し寄り添うためには、自分自身の哲学や視座が明確でなければならない。記者にこそ、こうした読書会や綴り方の訓練が必要だと思う。
 また著者は、「知り合うということは、相手と自分の違いがはっきりすることである。『草の芽』も1年たてば1年の溝ができている。溝が深いほど、愛すること理解することの必要性がはっきりする。助言者は溝を超えて手を結ばせる役目がある。こうして結ばれた手こそが民主主義をささえる」とも書く。
 孤独であることの自覚があるからこそ、話し合い理解しあうことの大切さがわかる。それが民主主義の第1歩である。健全な意味での「個人主義」(個人の尊重)に根ざした民主主義を、衛生活動を通して農村に広げようという悪戦苦闘が活写されている。
 「生活のなかで衛生問題を解決していく以外にない。地区衛生の出発点は、生活状況や歴史性を含んだ問題にある。住民が参加し受け取るものであり、人間変革のプロセスでなければならない(一部略)」という一文にも著者の思いは端的に示されている。
 著者が衛生教育をはじめた昭和30年という時代は、今と同様、強制的な市町村合併が荒れくるっていた。合併しても生き残る自立した地域づくりをしようと、青年団や公民館が熱心に議論した。
 だが、「戦後」が終わり、革新勢力が推した愛媛県の久松知事は2期目は保守に転じた。地区診断も「役所の権威を失墜させる」などという批判を浴びるようになった。農協もボス支配が進んだ。地域住民の自立よりも、政治ボスを通じて国の金を引き出すことに重点が置かれた。
 いま、政治ボスの権力の源泉であった国家予算は危機に瀕している。内子町や宮崎県綾町の「自治会」「自治公民館」という地域自治組織が脚光を浴びている。50年前の民主主義を基盤とした地域自治活動にどれだけ学べるかが、平成の合併を前にした農村の今後を占う鍵になるだろう。
 「あとがき」に、著者の人間性がよくわかる文章がある。
 「私が最も闘った相手は『役人であるもう1人の自分』だった。どんな役人であるべきかの迷いと闘いがあった。しかし私の周囲には、医師と闘う医師や保健婦と闘う保健婦が1人また1人とふえていった。自分と闘うことの勇気や試練こそが、生きることの正体であることを、農村の一角から、そこで働く人々によってわからされてきた」「私は人一倍孤独であったから、みんなと一緒に生きるために、自分のなすべきことを夢中に探し求めてきただけなのです」
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 ▽吉田町奥南地区(旧奥南村)
 出征の激増と農村恐慌の兆しで、生活はどん底へ。人工流産が増えた。闇医者代が払えず、あきらめて出産する人も。村を救うには受胎調節しかないと児玉保健婦が考えた。妊娠可能社の7割りが運動に参加。……漁業は夜の作業で、海にでないときしか夫婦生活ができないから、荻野式は困難だった。……「母子愛育会」
 ▽草の芽会
 宇和島保健所に転勤して、衛生教育係として、年間で200カ所、多いときは1日に4カ所の部落やグループを訪問した。……公民館の社会教育と保健所の衛生教育を一緒にして、読書と家族計画というテーマで結びつき、読者会のグループ「草の芽」が結成された。それが保健婦や教師を媒介にあちこちに広がる。 岩波新書を読む、マルクスを読む、画をかく……さまざまな読書会が生まれた。
 松浦訓子「日教組の教育方針を正しいと思うより前に、草の芽のお母さんたちにうそを言えなかったから、日教組に残ったのです」
 ▽宇和島市の石応地区
 公民館中心に地区集会をつづけ、「きれいな生活環境を自分たちで」の気運を盛り上げ、ある地区が「どうせやるなら私たちの地区がモデルに」と立ち上がり、力を合わせて下水道をコンクリートとした。「この部落は、何一つ市からしてもらったことはない。なのに、部落になにか問題が起きると、なしのつぶてと知りながら市にたよった。そしていつも泣き寝入りだった。しかし今度は、部落の問題を自分らの力で解決するのだ」
 ▽戸島の地区診断・宇和海村の小内浦診断
 打合会30回。組集会14,5人の会。現地調査、2人ずつペアで1戸に1時間。調査会。研究会。報告会。1年間かけて。
 ▽地区診断の報告は「住民にかえしていく」  「行政の責任問題になったらまずい」といやがる。
 地区診断では、困難な水利権などの問題も克服して、いくつもの水道をつくりだしている。
 ▽広見町下大野の地区診断
 岩村昇「ネパールと同じような農村が残っているのに驚きました」
 結核患者が23人。赤痢の集団発生が昭和37,8年に3回も起きていた。寄生虫の保卵率が30%。開拓地の農民が、農業政策の棄民的な形相のなかで危機にさらされていた。
 昭和41年に下大野健康会議が結成。昭和45年には愛治地区の地区診断(畦屋組の診断が突破口に)。
 ▽久万の和田保健婦の死  二名地区黒沢組の婦人グループ「十日会」。  地区全体の健康と同じように、一人の健康や生活が守られることにできるかぎりのことを惜しんではいけない。
 昭和43年、4人いた久万の保健婦は1人になってしまった。保健福祉課長も長期入院。  「衛生教育係の私が、住民の健康のどん底を支える仲間たちのところまでくるのに、休暇を取らなければこられない。県庁の役人が町村や地区まで行くと、頭ごし指導だとか過保護だといって叱られる。
 ▽宇和町の明間地区の公民館
 合併で、役場からもっとも遠い部落に。民主的自治活動の未熟さの上に合理化による中央集権的支配体制が押し寄せて、二重構造的な僻地のむらがつくりだされた。
 昭和34年、22歳の三好則保さんが青年団活動から主事に就任〓〓。「みんなが集まって話す場所を作ろう」と呼びかけ、住民が力を合わせて公民館をつくった。  出稼ぎ者の生活と健康を守る取り組みを始めた。
 ▽減反の強行は、農村にとどめをさしたも同然だった。1本でも多く植えようと骨身をけずるように山頂まで耕してきた農民の心臓はその瞬間から止まってしまった。さらに、農村工業化のかけ声。結果的には魂を失った農民たちに新たな低賃金の時間労働を押しつけた。とりわけ、主婦たちは、留守農業・家庭経済・家事育児・賃労働の4重苦を要求された。
 ▽農村健康問題懇談会  「一番大事なことは、組の人たちの発言を助けることです。身の回りの話をできるだけ多く聞き取って、それをメモして」  「南予の農村では、生活保護を受けている人に福祉事務所が給付額をあげようとすると、民生委員が、周囲とのつりあいがとれなくなるから困る、と止めている。以下に地区全体が貧しく病んでいるか」
 ▽農協生活指導「農協生活指導員への手紙」
 ▽農村で生活することの肉体的、精神的、社会的不健康さについて、自分ならどうするか、を言わねばならない。部落を捨てれば解決するという声は聞こえる。コンビナートができるから解決するという声もある……。【過疎地なんかに住んでるからいけないんだ、という今の合併論者の考え方と似ている】
 ▽昭和40年11月、北宇和病院に農村医学センターが設置。鳥取大から、、山根・岡田両医師が赴任。
 ▽戦後の公衆衛生は、取り締まり衛生行政から脱皮し、結核対策や母子衛生対策で成果をあげた。だが、高度成長による地域格差の拡大や公害など、新たな状況に対応しきれなくなり、「保健所たそがれ論」がささやかれた。昭和35年、地域住民の主体性、自主性を尊重し、地域特性をふまえた活動である「共同保健計画」を厚生省が打ち出した。愛媛県でも昭和38年から取り組んだ。が、全国的にはうわすべして、地域住民の生活に定着しなかった。
 地区診断からセンター活動が始まり、健康に対する住民意識がかわった。
 広見町では「健康手帳」を配布。それを持参して検診などを受けることが習慣に。
 ▽圧力  「市町村の指導は保健所にまかせよ」  「宇和町であれ以上健康の話をしたら、大変なことになる。町長が立ち往生するし、保健所もつぶれてしまう」  共同保健計画が、行政のルールや体質から否定しつづけられる。そこに住民が参加することで、役人の権威や専門家の特権がそこなわれるような被害妄想があるのではないか。「行政の守備範囲ではない」「価値の多様化時代にそくさない」と、新しいアイデアで健康意識を高めるべきだという。
 宇和町河内谷地区の婦人グループの武田和子さん「私たちの地区では自分たちの健康を守る方法は地区診断しかないのです。なにかの間違いか行政の立場では都合が悪いように言われますが、なぜ住民の自覚による健康活動がいけないのですか。一言でいいから、私たちの地区診断による町づくりを励ましてほしかった」

■佐高信「面々授受」岩波書店  20030803

  哲学者・久野収を弟子を自認する佐高が描く。
 戦前から軍国主義と徹底して闘いながら、共産党のような唯我独尊的な正義に陥らず、形式的な闘争方法に陥ることを拒否し、自らの弱さを直視し、大衆文化のなかに新たなヒントを探し求めた。
 だから自分の思想すらも疑い、敵の思想のなかに敵をうち破る契機を見いだそうとする。左翼が「ナショナリスト」と唾棄する北一輝のなかに、下からの革命的な思想の萌芽を感じとり、北を一定評価したうえで「ファシズムによってからめとられてしまった」と説く。
 官僚批判も、佐橋滋といった異色な官僚を対置することで説得力をもたせる。外からの言いっぱなしの批判ではない。
 「ファシズム=人民は苦しんでいる」というステレオタイプを批判するのも印象的だった。軍備に力を入れるなかで、逆に経済的に豊かになる面もでてくる。実際に「独裁政権」の国を訪れたら、けっこうみんな裕福な暮らしだったりする。
  ファシズムの権力者は、民衆をうまく操りながら批判的な人たちを孤立化させ、そこを徹底的に弾圧することで政権を持続させる。それでもごまかせないようになると、戦争に流れ込む。
 戦前の日本、いや今の日本にそっくりではないか。
  「ファシズム=苦しい人民」というステレオタイプの危うさは、エルサルバドルをはじめて訪ねたときに実感した。「これだったら、飯もうまいし、ディスコも楽しいし、ニカラグアよりいいじゃん」と、のめりこむ日本人旅行者はけっこう多かったのだ。
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 ▽竹内好は「敵対者」をつねに頭の中におき、それへの目配りを忘れなかった人である。左翼のニュースを反共的な立場で速報するからと読売を購読していた。
 ▽〓チラシで読む日本経済(光文社新書)。久野は広告を丹念に読む。チラシはその商品のわかりやすい見取り図。地域、時候、社会状況によって違いが出る。きちっととっておき、比較検討すると、その時々に直面する問題への対応のしかたも教えてくれる(沢田求)。
 ▽〓「ドキュメント昭和天皇」田中が独力で身銭を切って取材した。
 ▽佐橋滋「軍備を保険であるかのように唱えるものがいるが、詭弁だ。軍備が戦争を生むことを忘れてはならない」「武器をもって戦った場合と相手の蹂躙にまかせた場合のどちらがより被害が大きいか」「軍備に要した膨大な財源が、文化国家建設にあてられ、近隣諸国への援助にあてられる」
 ▽久野は、佐橋のように異色であってはならない「異色」の存在に目を配っていた。その存在を例にして腐敗等を批判した。
 ▽その人が敬慕したり、持ち上げている人のことばで、その人を批判する、という、内在的批判の重要性を久野は説いた。
 ▽マキャベリは、「フィレンツェ史」のなかで、メディチ家をほめごろす。羽仁五郎は「明治維新」でほめることで限界を明らかにしようとした。
 ▽江藤淳 竹中労、の人斬りの手法。
 ▽大学教授やフリーライターといった宮仕えの経験のない自由業者には、ビジネスマンの屈辱感は理解できないだろう。多くの人は窮屈なかっこうをしたくてしているのではないということを理解しない限り、ラフな人たちを中心にした運動は広がらないだろう。
 ▽五木寛之〓「風の王国」。サンカを描く。明治政府が新平民として戸籍に入れたのも、兵隊にとり税金をとるためだった。
 「僕らの仲間でも、官の飯をくう人や、大学の籍をおく学者は、運動に善意がある人でも、民衆の権威主義の上に居座ってリーダーシップをとってしまう。市民の一員として加わらない」
 ▽「権力者は昔からうそをついてきた。人民には『うそをつくな』という教育をすれば、人はうそをつかないものだ、と思い込み、どんなうそでも信じるようになる。権力者に対してうそをつかないから、まことに支配しよくなるのは当然だ」「うそをつくな」は支配者に都合のよい教育。被支配者のための教育は「うそを見破れ」だ。
 ▽イギリスの反ファシズム週刊誌「トリビューン」アメリカの「ネーション」「ニュー・リパブリック」……
 ▽天皇の側近や周囲の補弼機関からみれば、天皇の権威はシンボル的・名目的権威であり、実質的権力は、機関の担当者がほとんど分担し、代行するシステムが作り出された。現実に天皇を知る者にとっては、天皇は神でなく人間である。しかし、臣民には現人神という存在として押しつけられた。そのズレを「顕教」(絶対君主)、「密教」(制限君主)のちがいにたとえた。膨張する軍部だけは、密教のなかで顕教を墨守しつづけ、文部省を支配下において、顕教による密教征伐を企てる。国体明徴運動。
 逆に密教によって顕教を征伐しようとしたのが北一輝だった。「上からの官僚支配のシンボルだった天皇を、下からの国民的統一のシンボルにたてなおすこと」が北のねらい。危険視される思想のなかにその「危険」を取り除く契機をさぐる久野の発想。
 ▽左翼が崩壊した理由を追求すれば、ナショナリズムを避けて通ったからだと思う。北は、ナショナリズムに立脚しながら国家機関を倒すような革命的ナショナリズムへの道を構想したのではないか。ファシズムというのは、旧体制の本質を温存して、そういう下から上がってくるナショナリズムを全部収奪してしまう運動ですから。北は、結局統制派の思うツボにはまった。
 ▽自衛官合祀訴訟。原告の中谷さんへのいやがらせ。「あなたの行為は非国民的行為である……」「ソ連にでも出ていけ」  「労働組合の場でさえ、団結だけが表面にでる結果、意見や路線に関する違いは、排除や分裂にもとづく分派的団結しか結果しない。日本人である以上、同じ考えをもつのは当然で、みんなの考えに反するのはまちがっているだけでなく、道徳的にも悪いことをという通念が、どんな組織の中でも自明の道理としてまかり通ってしまう」
 ▽モーガン・ヤングの記事を読んで「中国攻略の本質が、実は旧満州のアヘンを軍部が独占し、中国本土へ売りさばくルートを確保するためのアヘン戦争なんだと知らされた」
 ▽ファシズム。「軍事中心の生産力を高め、民衆を自分の方向に引き込んでいる。抑圧を加えるのは、批判する政治家やインテリたちで、この人々を民衆から孤立させる手を打ってくる。政権が危なくなると戦争にもっていく」。ファシズム国家では、民衆の大部分は塗炭の苦しみを味わっているというイメージだけもっていると、生産力が高まっているところだけ見てきて「ファシズム、ファシズムというけれど、韓国はけっこうやってるじゃないか」という印象になる。
 ▽ナチスを権力を掌握したとき、ドイツ共産党の党員も増えている。一方で古い党員は抜け出していく。歴史と伝統を知らない若い党員がふえた共産党はかえってナチスに食われることになった。
 ▽「商品主義による生産者と消費者を隔てる壁を崩そう」。
 ▽「僕らが勝ったのはった1つ、警職法だけやったなあ」。「こんな話も久野さんがすると、希望のにおいがするから不思議だ。そうか、負けが普通なのか、じゃあ負けてもめげることはないんだな、と明るくなる」(中山千夏)
 ▽自分たちを打倒しかけるような強い反対勢力を育てることが、保守主義には必要だということが、イギリス流保守本流の常識だ。「民主主義があれば革命という付帯条件は必ずついているはずなんだ。これ以上侵害されたら革命を起こすというのが民主主義でしょう。日本では、革命は共産主義だけに縁があり、民主主義とは縁がないと思っている」
 ▽「心」グループへの「驚くべき自己満足性」「ほめられて育った」「自己批判能力が喪失している」という指摘は、隔世遺伝のように小泉純一郎や安倍晋三らに受け継がれている。心グループは、民主主義には原則的対立が必要だとは知っている。しかし彼らは「陛下に対する反対党はあってはいかん」という。陛下への翼賛の中での意見の相違なら認める、のである。
 ▽2年間悲惨な獄中生活を送り、ある日突然、なにもかもがばかばかしくなって、「転向いたします」と頭を下げた。「自分はかくのごとく情けない男なのです。学問研究者の風上にも置けません。偽物です。羽仁さんたちのように最後までがんばり通した人もいたのですから」
 ▽魯迅的ノンコンフォルミズムの特徴は、たえず反抗するだけでなく、その反抗のフォームがマンネリズムになることにもたえず反抗する。旧文明の権威にたえず立ち向かうのみならず、新文明を作る場合のマンネリズムにもたえず立ち向かう人であった。
 久野も「ボクは飲んでクダをまく人民派は嫌いなんだ」。久野は「自分の本を読まれないのは、筆力が足りないんだ」と考える人だった。

■姜尚中・森巣博「ナショナリズムの克服」集英社新書 1030826

 日本人って? 日本民族って? 定義は思いの外むずかしい。
  「国籍を持っている人」を「日本人」というなら、サントスは?ロペスは?。少なくとも「日本民族」ではない。
 そもそも「民族」という言葉の定義があるのか? 「文化を共有するグループ」というなら、「おれは悪徳サラ金業者と文化を共有なんかしてねえよ、渡部昇一なんかと一緒にするな」となる。
 グアテマラで、「先住民族」の定義について考えたことがあった。先住民族の服を着ていれば明らかにわかる。が、両親は先住民族でも、言葉も捨て、服も捨て、「オレはインディオではない」という人は多い。彼らは何民族になるのか。
 結局、民族という概念じたいがつくられたものであり、他者を差別化するためのものでしかない、という。例外は、少数者が「民族」を名乗る場合だ。圧倒的多数から自分たちの生活様式を守るために「民族」を名乗ることはあり得る。だから、日本で「日本民族」はないが「アイヌ民族」はあり得るわけだ。
 姜尚中は、現在の「ナショナリズム」と戦前のナショナリズムとのつながりを論証する。
 戦前のナショナリズムが、戦後、経済ナショナリズムに転換する。大東亜共栄圏のかわりに米国が「市場」を与えてくれた。そういうコロニアルな構図のなかで偶然に経済成長したのに、「日本人が勤勉だったから」「技術が優秀だから」という日本人特殊論で説明しようとする。
 経済がつぶれると、文化ナショナリズム。それがつぶれてグローバル化の時代になると、「治安」という面から「国家」が強化される……。
 右翼の多くが、「明治こそ日本の姿。昭和は特殊」という言い方をする。過去のたった1度の成功だけを持ち上げる。それが、昭和という時代をもたらす元凶になったことも捨象している……。
 目から鱗が落ちるような明快なナショナリズム論だった。  
−−−−−−−−抜粋−−−−−−−−
 ▽2001年5月8日の産経新聞に石原のコラム。「こういう民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質がかえられていく」。その1年前には自衛隊第1師団の式典で「不法入国した三国人、外国人が非常に凶悪な犯罪を繰り返している」。メディアはこうした発言に急速に鈍感になりつつある。ルペンやハイダーを極右というのに、なぜ石原を呼ばないのか。
 ▽9.11後、9人のアフガン男性が難民申請中に不法入国などの疑いで収容され、4人は国外退去になった。なのにそれがベタ記事。有事法制をめぐる議論に日本中が巻き込まれているなかで、たった4人の難民がひっそりと強制退去させられる。〓「国際貢献」の2重基準。
 ▽ほんの一部の人間を除外すれば西南戦争当時には「日本人」など存在しなかった。イタリア統一後の問題を象徴する言葉に「イタリアはつくられた。これからはイタリア人を作らねばならない」というのがある。「国体」概念は1929年の大審院判決で、大日本帝国憲法の1条と4条をもってその定義とした。
 ▽戦後は、アメリカとの談合体制。アメリカの傀儡国家なるがゆえに、ナショナルな言節が欲望された。政治的なナショナリズムがいったん表面から消え、経済ナショナリズムが出現した。
 ▽米国は、敗戦によって傷ついた日本の生産力の捌け口を東南アジアに用意してあげた。八紘一宇のかわりに経済圏を提供した。技術がすぐれているから戦後の日本は経済大国になったという嘘は昭和天皇が死んだときにつくられた。技術力以上に、コロニアルなものにのっかることによって、敗戦後の成長の基盤ができた。ところがコロニアルなものは意識されない。アジアとの関係は意識の上でかき消される。
 ▽70年代末には経済大国として認知される。そこから、日本の伝統や歴史をポジティブに評価しなければ、という方向に進んだ。日本特殊論、日本人論。日本の文化や伝統が日本をここまで引き上げた要因という幻想の登場だ。
 ▽「ヘッドホンステレオは、手先の器用さや誠実さという、繊細で日本的なるものが生み出した」。経済ナショナリズムの時代に、政治的なものの表現を絶たれたがゆえに、イノセントなものに純化した繊細なナショナリズムが、かえって浸透していった」
 ▽グローバル化のなかで、国家はある面で強化されていく。治安や安全保障の面をアメリカに任せてきた。が、そうした国家の機能を引き受けるために国家内部の構造改革をやらざるを得ない。これが上からのナショナリズム。
 一方で、小林よしのりに代表される下からのネオ・ナショナリズム。これが90年代に急激に頭角をあらわしたのは、前者の引き寄せがあったから。
 ▽「新しい教科書」の採択率が低かったのは、現状維持の保守主義が強かったから。今の日本は、ネオ・ナショナリズムもネオ・リべラルも中途半端。すべてがあいまいなまま、戦後的なものが少しずつ終わっていっている。
 ▽グローバル・スタンダードのルールづくりに何らかの決定権をもつために、ナショナリズムが出てきている。
 ▽このままいくと、福祉や様々な保障は先細りしていく。セキュリティの意味するものが、福祉国家的なものから、治安管理の側にシフトしていかざるをえない。そうなるとナショナリズムが必然的に要請される。
 ▽和辻の「おれのちんぽこは大きいぞ論」はバブルとともに破綻。すると、藤岡信勝らの「おれのちんぽは硬いぞ論」に。ところが硬さは不安定なもの。そこで最近「おれのちんぽは古いぞ論」。文化ナショナリズムは「俺のちんぽは繊細だぞ論」。これが90年代になって「硬いぞ論」に戻っちゃう。
 ▽石原慎太郎は安保反対していた。江藤淳もそう。自己批判なしに主張をころころかえる。彼らは真正なものが過去にあったと想定するから「喪失」という。ねじれていない部分があるはずと思い込む。その発想に根拠を与えるのは、さしあたりは明治なんじゃないか。(〓坂の上の雲〓)。それは明治が1回限りの成功だったから。その1回の成功を普遍的なものに切り替える作業があったのでは。だから司馬らは「昭和前期は日本の歴史じゃない」という。藤岡もそういう。明治の帰結が昭和前期になったのに。
 ▽明治。日本は独立したのに、朝鮮や中国は(半)植民地に。偶発的な条件が重なったからなのに。自分たちの固有の歴史の結果として説明しようとする。歴代天皇のもと、独立性やオリジナルなものをもっていからだと。そういうものがあったからこそ、バブルが崩壊し、戦争に負けたともいえるのに。
 ▽〓英語圏の批判的な日本文化研究者がメディアに登場しない。〓酒井直樹とか、ハリー・ハルトゥーニアンとかノーマ・フィールドとかジョン・ダワーとか。
 ▽カルチュラル・スタディーズ〓の成果にまともに向き合うと、ほとんどの日本論・日本人論が駆除されてしまう。スチュアート・ホールとか、ポール・ギルロイとか。吉見俊哉。ホールは、大英帝国の植民地で生まれ、やがて、旧帝国のなかでサッチャー批判を展開した。  ▽「日本人」とはなにか、という根本的な疑問が残る。ナショナリストたちは、固有の文化とは何か、固有の国民性とは何かを、ついに教えてくれなかった。
 ▽柳田国男。民俗学に通底する、日本社会のある種の原形を感じさせる。柳田学にはナショナル・アイデンティテイを強化する面とは別に地域社会を見直す側面もあった。方言が国語の成立に向けてどのように簒奪されていったかなど、ナショナル・カルチャーを解体する可能性は十分にあった。
 ▽ナショナルな境界でくるんだ日本人論、日本文化論、日本文明論が、70年代後半のアカデミック・ジャーナリズムのなかではやっていた。
 ▽90年代のネオ・ナショナリズムが戦前の国体ナショナリズムと地下水脈でしっかりつながっている。戦後の日米談合による経済ナショナリズム体制がそれを可能にした。
 ▽西尾幹二も西部も、フィクションとしての国民国家を認める際、その権威なり起源なりを、存在しなかった古きよき時代、に置く。
 ▽ウェーバーもマルクス主義も、文献をみんなで読んで、労働というのはいかに美しいかと議論していた。遊びなんかブルジョワのやることだと相手にされなかった。ウェーバーもマルクスも進歩概念。60年代の構造主義では、すでにその解体作業が進行していた。
 ▽自殺した新井将敬の選挙ポスターに、「41年北朝鮮から帰化」と書かれたシールが、石原慎太郎代議士の公設秘書によって、はられた事件があった。
 ▽構造主義者、ポスト構造主義者、構築主義者の研究によって、民族をはじめとして、文明、文化、国民、国家、人種などの言葉群のもつ犯罪性が次々に暴かれた。・・・いずれも「われわれ」と「かれら」を差異化する言葉。いつのまにか、われわれ、が、かれら(野蛮人)を抑圧するのに都合のよい理屈が、無意識的につくりあげられていく。
 民族という概念は、60年代の構造主義以降、徹底的に解体された過去の残滓だが、どういうわけか、日本の人文社会の領域には伝わってこなかった。川勝は「民族とは文化を共有する集団である」というが、私は彼らと文化を同じくしていないと信じるね。佐渡のじいさんの話す言葉がまったく理解できない。つまり、民族などという概念は、成立しようがない。抑圧と収奪の理念によってたち上げられた差異の政治学なのです。西洋近代が創造した概念のなかでも「民族」はとりわけタチが悪い。大量虐殺は、民族概念に影響されておこっている。ジェノサイド、民族浄化、民族紛争・・・。
 ただ、一方的に抑圧された少数民たちは、民族概念を正のベクトルをもつ力としてたち上げうる。日本と呼ばれる領域内に「日本民族」は存在しえないけれど、「アイヌ民族」「沖縄民族」「在日〓民族」は成立しうる。
 多数者の日本人でありながら、それが民族だと思っている人は、自分の来歴について告白する必要がない。だから、実は、多数者には民族はないのではないか。・・・結局少数者がいなければ「国民」は成立しない。
 ▽ナショナリズムの牽引力は、人種意識と密接にかかわるなにか。自分たちは朝鮮人よりすぐれていると考えるのは、進歩の度合いから判断して、日本人は朝鮮人より進んでいるという意識がある。アイヌは人類学者に頭蓋骨のサイズまで測られている。
 ▽イギリスやアメリカが70末から80初頭にグローバル化への対応としてネオリベラルな改革に乗り出すと、逆に、ナショナルなものやレイシズム的なものが勃興する。
 石原発言も、グローバル化に対する遅ればせながらの反動と理解することも。
 ▽70年代末から、国家が国民を生かすという生命政治から退却する。福祉国家をやめる。公共の福祉とか国民の幸福ではなく、効率性、合理性。それがさらに、自己責任や自己開発にシフトした。結果、国家を意識しないと自分たちの生存が危ういといった議論になっていった。福祉国家の「ソーシャル・セキュリティ」から「ソーシャル」が抜け落ちていった。福祉は限界だけど、外国人犯罪やテロから国民をまもる、という話。〓〓
 ▽福祉国家が破産すれば格差が広がる。国家間の格差が広がることも意味する。社会全体が自然状態に近づいていくという恐れがでてくる。国家は、セキュリティを守ってくれるよりどころになる。今は、「安全か自由か」という2項対立の議論が多い。
 ▽70年代末まで在日イコール犯罪者という図式があった。しかし、今は、在日に突きつけられていた状況が、社会現象化しているようだ。在日的な存在が増えている。それが、イスラムの人や、ホームレス・・・。在日は、福祉国家の外にいた。福祉国家の外にいたから治安管理の一番の対象として見られていた。〓〓年金も失業保険もなにもない。自分で何もかもやらなければいけない。今は、在日だけでなく多くの日本人がこの現実に直面している。日本国民全体が在日化した。
 ▽「新しい歴史教科書をつくる会」に、BMWの支社長とか、ブリジストンとか、キャノンのトップが支援している。あんなことにトップが加担して、ボーダレス企業としてやっていけるのか。
 ▽国家が強くなければ、市場におけるバーゲニング・パワーがつくれない。そういう認識から、ナショナリズム的なものを支援する企業人が表れたのかも。