■沖浦和光「瀬戸内の民俗誌−海民史の深層を訪ねて」岩波新書 10310
平家の落人のことを知りたくて買った。
落人のムラは被差別部落の源流と重なることが多い。「沖浦」という地名も、周囲から一段下に見られる地域が多かった。家船に住んでいた人々も、その人たちが定住したムラもそうした目で見られたという。
実はそれは、村上水軍などの末裔じゃないか。秀吉に反旗をひるがえして過酷な運命をたどった人々ではなかったか……、と論を進める。
また、中国の儒教に影響を受けた農本主義によって、田畑をつくる農民が、漁師や猟師より身分が上とされ、さらに仏教の影響が加わって、山の猟師や海の漁師は不浄扱いされるようになった。そうして虐げられた人々に救いを与えたのが「悪人正機説」を唱える浄土真宗だったという。
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▽沖浦という地には、平家落人伝説が伝わるところが多い。住むのに適した浦浜なのに、突然無人浜になった所がある。
▽漂海民として知られた「家船」が定住した漁村や、エタとされていた海村の被差別を訪れた・・・
▽芸予諸島は「藤原純友の乱」の主戦場となった。日振島に結集した。純友軍の主力は、海民だったのでは。ヒブリ島は給水、中継地だったのでは。
▽源平合戦時、旧越智水軍を統括していたのは、伊予の河野氏だった。源氏にくみして勢力をのばしたが、承久の乱では、京方について所領の大半を失った。一遍は、この没落期の河野氏の出だった。モンゴル襲来で活躍し、回復。
▽鞆町から歩いて十数分の「平の浦」。近世では「後地村」。原村と平村が合併してできた。鞆の町からは、「漁師村」として一段低く見られてきた。屋島落ちの平家落人伝説と、豊臣秀吉の海賊停止令で壊滅させられた村上水軍の末えい説も。
p28「平家の残卒とどまりし所を平といい、源氏の廃兵残されたところを原という」
▽平の浦のすぐ背後は、沼隈半島の山深い里で今でも「平家谷」と呼ばれる山村がある。
▽平家落人伝説の伝わる場所は、人里離れた場所がほとんど。周囲の住民から常民と異なる者と見られることが多かった。…ハレの日以外は米も食べられなかったから「平の芋喰い」と軽べつされた。(沼隈)
▽落人伝説は、薩南半島や八重山群島から、岩手・山形まで200カ所をこえる「隠れ里」がある。伝説のあかしとして、系図や旗、弓、甲冑などを保管されているところも。熊本の五箇荘、徳島の祖谷、岐阜の白川郷は「平家谷」。祖谷では、剣山の名の由来も、安徳天皇の剣を隠したからと伝えられる。落人伝説が、平野の農村に伝わっていることはない。
九州の硫黄島にも安徳天皇と平家の墓地がある。天皇の末裔と称する「長浜氏」が古くからの神事を伝えてきた。そういう山の集落では、猟師、木地、たたら師、炭焼きや竹細工、焼き畑でくらす人が多く、海辺の落人の里は、漁業権ももっていない貧しい漁村だった。
▽琵琶を抱えた盲僧の「平曲」。人里離れた僻村にも伝わっていった(p36)。わびしい狐村の人々は、平曲の流浪の落武者の身に、自分たちの命運を重ね合わせたのあろう。いつしか、祖先が落人という口伝をつむぎだしていった。
▽伊予にも上蒲刈島にも弓削島にも大島にも「沖浦」がある。長浜町には沖浦観音と呼ばれる「瑞龍寺」。ここにも平家伝説が(39)。藩から漁業権を認められない貧しい村だった。江戸後期に藩に願い出て、ようやく漁業権が認められた。「沖浦」という名の地の多くが、海民にはかっこうの地なのに、今では無人の地になっている。
▽小さな離島。全住民が島を去ったところも。防予諸島の南端の大水無瀬島は1958年に無人島に。
▽18世紀はじめになって、芋が本格的に導入され、島民の命がなんとか維持できるようになった。それまでは慢性的な飢餓状況だった。芸予諸島のあちこちに、「イモ地蔵」がある。
▽有史以前、家族集団を中心とした自己防衛的なグループ。その後、海賊に。さらに、水先案内をして警固料をとる「沖衆」になり、リーダーとして海の武士があらわれる。中世後期になると、陸の権力と結びついて水軍に。純友の乱は、2つめの海賊の段階。日振島。朝廷の軍もこられない辺境の孤島。純友の乱は、慢性的な飢餓に苦しみ、漂海民として卑賤視された人々の日ごろの不満が爆発したのではないか。
▽天武4年、675年、わが国初の「殺生禁断」令。これが、後の「けがれ観念」による狩猟民、漁民差別の1つの端緒となった。禁断令を守れば漁民は生活できない。
▽律令制は、米作を中心とした農本主義。中国のジュンシから韓非子につらなる農本主義のながれ。唐時代、「商、工、医、巫」が卑賤の身分として例示されていた。農耕に従事するものだけが公民である、となってきた。民俗儀礼でも、稲霊信仰が中心になり、山の神や海の神をまつる山海民の儀礼はマイナーとされた。
▽家船衆は、定住してからも、「間人」とされ、村の祭祀組織から排除された。秀吉に反抗的だった旧海賊衆の一部は、漁業権も与えられず、賤民とされたのでは。現在も、瀬戸内沿岸部に300、島嶼部に200にのぼる海辺の被差別部落がある。おもに沖合警固役として使役されたが、そのなかには、旧村上水軍系がかなり含まれていたと考えられる。
天皇を頂点とした貴ー良ー賤という身分制の理念と構造は明治までかわらなかった。国家法としての律令制が建前としては明治維新までずっと存続した。
▽村上水軍 因島と能島、来島を拠点とした主自が異なる村上氏が連合し、16世紀半ばには「三島村上水軍」に。来島は小さな漁村が残るだけ。能島は無人島。
▽瀬戸内には、いたる所に海の神々。宗像神(遠洋航海が得意で潜水漁ろうが得意)、住吉神(沿岸航路)、八幡神、オオヤマスミ神(隼人系、後に水軍の核になる戦闘的な集団)、綿津見神が多いが、漁村で目立つのは、金比羅と恵比寿さん。
ワタツミ神が、海人たちの海神の原像ではないか。もともとは南方系海民が奉じていた海神だった。ワタツミから、宗像や住吉、オオヤマスミというようにわかれたのでは。
▽親鸞。禁忌をおかした悪人を救うことこそ、阿弥陀物の本願の対象。こういう教えは、底辺で苦しむ人にとって、救いの言葉だった。不殺生戒をおかす猟師も漁師もすべて平等であるとといた。一遍も日蓮も。
▽村上水軍の末路。特定の地域に囲いこまれ、被差別部落の起源となった、とも類推できるのでは。彼らは、本願寺の熱心な門徒だった。今も離島の海民は浄土真宗の熱心な門徒だ。
▽家船 「関サバ」の一本釣りの記述は、能地浜を拠点とした家船漁民の技術が沖家室島に伝わり、そこから佐賀関に伝承された。
〓 第2次大戦後でも、家船民俗が残っていたが、海上安全と義務教育完遂という名目で陸上がりが促進された。学寮ができた。70年代になると、海も汚染され、打瀬網や一本釣りの家船稼業ではやっていけなくなった。工場地帯ができて就業構造もかわった。
ただ1つ、広島県の豊浜町の豊島には、長期出漁者の子たちのための学寮が残っている。家はあるが、2ー6カ月も船で寝泊まりするからだ。佐多岬の漁村の松崎にも家船が姿をみせた。
家船漁民は、長男から順に嫁を迎えて別船し、末子相続だった。アジアの漁労民や狩猟民に広く見られた慣習だった。日本では、隼人の末子相続が知られていた。そこが、発祥後だった可能性が大きい。
▽家船の本拠は、能地浜(三原市幸崎町)と忠海の二窓浦(竹原市)。能地には、家船漁民の菩提寺「善行寺」。盆と正月には必ずかえって、旅先で死んでも骸はここまで帰ってきた。壇家数を減らさないために寺が漁民たちに義務づけた。だが最大の理由は、「宗門改帳」に登録されないと、「帳はずれの無宿」と見なされたから。
▽秀吉に解体された海賊と、この家船漁民と深い関係があったのでは。瀬戸内の被差別部落の発生も、秀吉の海賊停止令がかかわりがあるのではないか。
▽〓大分の海辺村(佐賀関町)の津留には、シャアと呼ばれる漁村があり、平家落人伝説がある。
▽家船漁民に伝わる「浮鯛抄」。平家落人伝説も(192)。各地の被差別部落に伝わる「河原巻物」とよく似ている。
▽能地浜から善行寺をとおって、筆影山の裏山のほうへ2キロのぼると、沖浦という小字がある。そこにも平家の伝説がある。
▽港の一夜妻 おちょろ舟
▽豊後御前座、「役者村」の一座。地元では、豊後高田の散所芝居として知られる。農耕で生きる田畑がすくなく、村のすべてが遊芸に従事して巡業した。2つの系列があった。1つは、中世末期に大寺社の散所に住んでいた陰陽師の人たち。近世に入って、人形芝居や歌舞伎に進出した。もう1つは、空也念仏聖の流れをくむ「遊行念仏衆」。
長門の国の川棚芝居の若嶋座の記録には、「先祖は平家の落人」と書いてあった。
■五木寛之「風の王国」新潮文庫 20030923
{本文
■網野善彦「日本社会の歴史」(上)(中)岩波新書 20031101
井上清の「日本の歴史」は、「英雄が歴史をかえました」という教科書的な史観のおかしさを気づかせてくれる民衆史だった。
この本は、天皇や武士などの英雄の動きを豊富な資料にあたって登場させつつ、その経済的な背景やアジア社会の変動との関連などをダイナミックに記している。
たとえば教科書では積極的な意義が付与されている「大化改新」を、中大兄皇子が独裁体制を確立させた「大化のクーデター」と呼ぶ。
また、鎌倉時代後期の幕府と王朝の政権のゆらぎを、貨幣経済の進展によって出てきた重商主義的な政治路線と、従来の農本主義的な政治路線との葛藤のあらわれとみる。重商主義路線を支えたのが「悪人」であり、親鸞らの鎌倉仏教は、その人たちの救済を図った故に力を持ち得たという。
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▽旧石器時代から縄文時代にかけて、東北の方が西日本よりも豊かで人口も多かった。落葉広葉樹林のほうが照葉樹林よりも、木の実や根茎類などの食料が豊富にとれたからだ。川をさかのぼるサケやマスも捕獲し、世界の先史時代の狩猟・漁労・採集民の文化のなかでも、その成熟度は最高の域だった。
西日本の照葉樹林では、採集すべき堅果が乏しかったため、次第に雲南や揚子江の南の照葉樹林文化に影響され、雑穀の焼畑農耕をはじめる。数千年つづいた縄文時代は、中国大陸と朝鮮との交流のなかで列島西部で終末を迎え、農耕を伴う社会が展開しはじめる。
逆に、元々豊かだった東の社会は弥生文化の受け入れに抵抗を見せ、しばらく縄文文化が続く。旧石器時代から見られた東西の違いはさらに明確になっていった。(塞翁が馬)
▽「魏志」に描かれた倭人社会は、父子男女差別なくみな酒をよくのみ、酒宴では差別はなかった。現実社会では、下戸と大人の区別がはっきり表れていたが、大人は4、5人の妻をもつことができ、下戸も2、3人をもつことがあるとされ、経済的には大きな差異はなかった。農耕だけでなく漁労などのさまざまな生業に支えられれ、呪術に支配された社会だった。
▽527年の磐井の乱。近畿の大王が百済と関係をもったのに対し、磐井は新羅と独自の外交を展開した。長年の近畿と北九州の首長対立はこの戦争で近畿の優位が確定したといいうる。
▽大嘗祭などの儀礼は、人の力の及ばない世界、神々の世界と結びついた神聖王としての天皇の一面とつながり、未開な呪術的特質を認められる。(中国の皇帝とのちがい)
▽710年ごろから、蝦夷や隼人を圧迫。
▽都と各地域を結ぶ直線的な大道「官道」をつくった。都にのぼる平民たちは、村々の社に供え物をしなければならず、食料を持参するが、餓死する人もいた。8世紀後半には官道は荒廃し、9世紀にはいると、「伝路」をふくむ自然の道があらためて表にあらわれる(五木寛之の「風の王国」の世界)。河海湖の交通が再び大きな役割を果たすようになる。
▽日本国の確立にともなって受容された中国風の制度・文物は宮廷中心に浸透。下級官人が氏名を中国風に改め、実名も動物や自然の名を用いるのをやめ、抽象的な漢字をつけるようになった。
▽最澄や空海の密教。「王でも奴隷でも、男でも女でも仏陀と同じ境地に達することができる」という平等な思想だった。身分制度を前提とする従来の仏教に対する解放原理となった。だがその後、天皇や貴族の求めに応じて祈祷を行うようになり、密教が、現世的な利益を得る加持祈祷の宗教ととらえる傾向が顕著になりはじめる。
▽陸上の大道が荒廃しつつあったころ、海上を往来する船を襲う海賊が瀬戸内を横行しはじめる。海を舞台にする商人の性格ももっていた。東国では、騎馬の武装集団が活発に。これも、貢納物を輸送する運送業者でもあった。
▽東北人「俘囚」の反乱が相次ぎ、郡司などの国家内部の地位を得た東北の首長たちは自立性を強める。その背景には、オホーツク文化を北海道に波及させた北東アジアの動揺があった。東国に伝わる西日本と異なる製鉄技術は、北方から伝わった可能性もある。鉄と馬を基盤とする武装集団が育った。
▽律令制の「公地公民」、租庸調は「人」の支配。いわば奴隷制。それが田地を基準に税が賦課されるようになる。
▽自然神への素朴な信仰は平民の間に根強かったが、首長によってまつられた神は次第に特定の人格になり、それが、富豪や有力者に支えられる。そうした神観念の動揺のなかで、遍歴して信仰を広める僧侶があらわれ、「神が苦悩しており、その苦悩を仏が救う」という論法で仏教の布教をすすめた。神宮寺の建立の動きが各地でみられるようになった。また、仏教と習合して人格神の性格をもつようになった神を「神像」に彫刻することもおこなわれた。
▽菅原道真の進言で遣唐使は廃止された。危険や財政上の問題だけでなく、すでに商船が往来しており、必要なものが入手できるようになってきたことや、唐や新羅が衰えつつあることを認識したうえでのことだった。決して「鎖国」ではなかった。
▽平将門は、北東アジアの王朝の交代を自分の正当性の根拠にしていた。何らかのつながりをもっていた。短期間ではあれ、東に独立国家が誕生したことで、この後、東国が自立に向かおうとするときの精神的な支えとなった。
1028年には平忠常が房総で3年間、王朝の命令に従わず支配しつづけた。
1051年「俘囚の長」といわれた安倍頼良父子が、国守の軍勢を撃破。その後1062年に討たれる(前九年の役)。その後、東北全体が王朝から離れて自立する動きをみせはじめる。
▽平安後期の京都は、鴨川の東の白河が新たな都市に。京と琵琶湖の坂本を結ぶ要地だった。古都の右京が荒廃後、北野神社を中心に西京が新たな都市に。宇治川・淀川の水運と結びついた南郊。
▽1126年ごろ。オホーツク文化人が大陸から金属器などを北海道にもたらし、北海道東部に定着した。漁労を中心に雑穀の農耕もする擦文文化人の社会には、本州からの影響がうかわれる。
▽奥州藤原氏は自ら「俘囚の長」と号し、独自の権威に。
▽保元の乱では長く行われなかった死刑が実行され、上皇が流された。武将の力で政権が左右されるに至った。
▽鎌倉時代。職能民の主だった人は、西国では、天皇や神仏などの直属民とされ、供御人、神人などの称号をもっていた。たとえば油売りの多くは石清水八幡宮だった。鋳物師は広域に遍歴した。職能民の遍歴を支えた廻船人は、西国では神人、寄人となって、年貢などの輸送にあたった。
▽法然や親鸞、日蓮は「仏陀の精神に帰れ」と説いた。社会に銭貨が流通し、交易が盛んになり、新技術が導入されるなかで、古くからの権威や呪術的な力も動揺しはじめたことが背景にあった。
▽宋から銅銭が大量に流入し、広く流通することで、商業や金融の質を変化させた。絹や布の流通していた東国では13世紀前半には銭貨が流通していた。西国は、しばらくは銭とともに米が流通し続けた。だが、13世紀後半になると、銭そのものを神仏と敬うほどに、銭貨への欲望がかきたてられるようになり、商人や博打、悪党・海賊の動きを活発化させた。こうした動きが、幕府と王朝を根底から揺るがした。
幕府や王朝は、農本主義的な立場から、神人、供御人、商人、金融業者、悪党、博打、人身売買を禁じる動きを示す。これは、悪党の力を借りて商業・金融を積極的に肯定する動きがあらわれたことを示す。やがて、農本主義と重商主義の政治路線の対立として王朝・関東の双方にはっきり姿をあらわしてくる。
▽上賀茂・下賀茂の供祭人、石清水八幡宮神人、熊野神人、西大寺流の律僧らが、商人・職人・金融業・廻船業の担い手だった。
▽かつて「穢れ」は畏怖すべき事態とされた。葬送や斬首をおこなった刑吏、牛馬の皮を扱う河原細工丸などの人々は、神人、寄人の呼称をもち、天皇や神仏に結びつきキヨメに携わる職能民だった。だが、文明化の進展とともに「汚穢」として忌避する空気が強まる。13世紀末になると、河原細工丸を「穢多」と表現する例があらわれる。やがて、牛馬を扱う馬借・車借や、遍歴する芸能民・宗教民にもその賎視は及ぶ。
神仏に対する畏敬、呪術的な力に対するおそれが薄まり、神仏への畏怖によって規制されていた富への欲望が表に出てくる。こうしたえたいの知れない力を穢れを含めて「悪」「悪人」として排除する動きが、農本主義的な政治路線の側から顕著になった。
■日本社会の歴史(下) 20031105
「百姓イコール農民」というのが間違いだ、ということを網野はあちこちで強調している。なぜそれほどこだわるのか、よく理解できなかったが、この本を読んで少し見えてきた。
江戸時代や明治の戸籍に「農業」と記されている人でも、実は漁労や塩田などの複数の生計の手段をもっていた。コメだけが、主産業ではなかった。
水田農家イコール百姓というイメージは、平安期から昭和期まで、権力者がたびたび押しつけようとした「農本主義」的な考え方だった。
海運や金融などの発展とともに、平家の時代から次第に重商主義的な動きがあらわれ、鎌倉時代には通貨が流通し、廻船業者や金融業者、都市の商人らの層がつくられてきた。それらの層や被差別民たちの心をとらえたのが、「平等」を説く浄土真宗や日蓮宗などの鎌倉仏教だった。
呪術社会では、畏れの対象だった牛馬の処理や葬送、芸能などを生業とする人々が、農本的な揺り戻しがあるたびに、賎視されるようになる。
室町時代、村落共同体が安定すると放浪する人々への差別意識が育った。典型的なのが遊女だ。かつては天皇や貴族と接する人々だったのが、いつのまにか賎視の対象とされる。
江戸期に入って社会が平和になり、儒教的道徳を広める手法として綱吉が「生類あわれの令」を出したりする。こうした動きも、差別を助長するようになった。
明治になると、「瑞穂の国」「孤立した島国」という誤った意識がますます植え付けられる。アジアとの広大なネットワークのなかで歩んできた歴史が捨象されてしまった。
それによって、中国や朝鮮への蔑視がはぐくまれ、「狭い国土で食糧不足を防ぐには植民地を広げるしかない」という意識が蔓延した。周辺諸国との共存と協力によって生き残るという感覚にはならなかった。
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▽教科書では正義のようにかかれる建武新政は、武家社会だけでなく、広い社会の慣行を無視した、後醍醐の専制体制だった。
▽室町時代、夢窓疏石らの禅僧のすすめで足利直義は天竜寺を建立。その費用調達のため、元に唐船を派遣した(天竜寺船)。は禅律僧を通じて大陸との貿易を掌握しようと試みた。
▽鎌倉に比べ、室町幕府は王朝の権力を奪い、将軍と守護大名による分権体制になった。
▽南北朝が一緒になることで、天皇家の分立が解消され、同時に、天皇の権威は完全に地に落ちた。天皇の地方行政機関国衙は、守護の支配下に実質的に吸収された。
▽銭貨はいっそう浸透。各地の荘園の年貢が市場で売却され、公事、夫役などの負担もすべて銭に換算されて支配者のもとに送られる。13世紀後半にはじまった貫高表示が一般になった。替銭、割符といった信用取引も。海上交通を中心とした交通網の発達による、商人、金融業者、廻船人らのネットワークに支えられて発展。取引・交通の安全を保障していたのは「悪党」「海賊」といわれた人々のネットワークだった。その源流は、12世紀、独自に訴訟を採決したといわれるほどだった神人、山僧の広域組織にさかのぼる。北条氏の海上交通支配に反逆した熊野海賊が瀬戸内中心に海の縄張りを確保するほどになった。
▽金融業者、問丸という倉庫・交通業者、商人、手工業者のなかには、僧形の人々が非常に多かった。
▽百姓請、地下請など、村落じたいが年貢などの負担を自律的に請け負う動きも。
▽村や町の安定化と同時に、漂泊する芸能民、商公民への警戒をつよめ、差別の原因になる。かつて人の力を超えた畏怖すべき事態であった穢れは、汚穢として忌避されるようになる。セックスじたいを穢れと関連させる見方も強くなり、血の穢れと結びつき、女性に対する差別が強くなりはじめた。ただ、私的世界では、金融や商工業での女性の活動は活発だった。
かつて天皇や貴族とも接した遊女は穢れた生業とされるようになった。牛馬を扱い革をつくる河原者への差別も厳しくなってきた。文明化する社会が一面に生み出した暗い陰。
▽遊女は光孝天皇の皇女の流れをくみ、塩売りや非人は醍醐天皇によって特権を与えられ、説教師や琵琶法師は醍醐天皇の架空の皇子蝉丸に起源がある……といった伝承が伝えられ、賎視の対象となった人々の心の支えになった。鋳物師、轆轤師(木地屋)、織手も、職能の起源を天皇などに結ぶ伝承をもつ。それによって、組織拡大をすすめた。
▽浄土真宗は、商人、手工業者、廻船人などに浸透。賎視の対象になりはじめていた職能民や芸能民、女性に広い支持を得るようになる。
真宗や日蓮宗、キリスト教は、重商主義的思想に肯定的で、農本主義と対立。(宗教改革のようなもの)
▽細川氏と大内氏の争いは、貿易船をうけおった堺商人と博多商人の競合であり、寧波にも波及した。……このころの倭寇は、壱岐や対馬、九州、和泉、紀伊商人、朝鮮、中国大陸人までを含めた、商人、廻船人、海の領主の広大なネットワークになっていた。(教科書的「海賊」のイメージのちがい)(「孤立した島国」ではなかった)
▽日本の銀は、世界に知られるほど大量に流通し、世界経済に影響を及ぼす。
▽江戸時代の寛永通宝。宋銭、明銭の流通を禁じ、独自の通過を幕府がつくった。近世日本国の統一的通貨という意味があった。
▽綱吉の生類あわれみの令などは、西日本ですでに浸透しつつあった穢れを忌避する感覚を東日本にもちこみ、牛馬を処理する人を「穢多」とよび、種々のキヨメや葬送にたずさわる人を「非人」として差別する意識を制度化させた。ただ、アイヌや琉球王国ではこうした差別はなかったらしい。
▽田沼時代の重商主義政策で経済は成長した。大都市に人口が流入し、食糧をもっぱら購入する層が広範にあらわれる。そうした人たちに、凶作や米価の騰貴は打撃を与える。大飢饉。米の買い占めなどに反対して、米商人に対師る打ち壊しが増える。年貢軽減を求める一揆も。幕府の支配、武家主導による支配は根底からゆらぎはじめた。
▽寛政の改革は正統的な儒学を柱とした農本主義を打ち出したものだった。商人への統制を強めて立て直しをはかった。
▽「士農工商」という身分制度があった、という認識じたい、事実に反する。明治の指導層が作り上げた幻想だ。明治の指導層は、誤りにみちた「日本国」「日本人」像を意識のなかにたたきこんだ。神の子孫たる天皇の統治する国とし、アイヌや琉球人の民族的個性は無視され、中国や朝鮮の人への軽侮の感覚を生み出した。
「孤立した島国」であり、海は外敵から防衛すべき世界という江戸末期以来の見方を浸透させた。軍事的な理由から交通体系の基本を陸上の道や鉄道においた。これによって、島嶼部や半島は取り残された。列島は「アジアの北と南を結ぶ懸橋」であり「孤立した島国」という認識は、実態を誤認させる。この虚像は、最近にいたるまで研究者をとらえつづけている。
日本を稲作を基本とした「瑞穂国」ととらえ、農業を至上の課題とし、それを基盤に産業を発展させ、強力な軍隊を作った。そういう農業中心の見方が、「島国」で急増する人口を支えるのは困難、という危機感を増幅させることになった。もちろん、市場と資源を求める資本の要求も背後にはあったが。植民地拡大の動機の1つに、こうした農業・食糧問題が意識された。
▽戦後のマルクス主義も、弥生以降の列島社会の歴史を、水田を中心とした農業生産力を軸にとらえる「常識」から脱することができなかった。農地改革が、山林を視野の外におくなどの盲点をもっていたこととも結びつく。
▽被差別部落解放の運動も、差別の起源を江戸時代の幕府の政策に求めるような誤った認識があった。
▽奴隷制、封建社会、資本主義社会という時代区分では、人類社会のありかたをとらえるのは無理。私は、中国の文明が本格的に及び始めた6、7世紀、列島社会全体に文明が浸透するとともに琉球国・日本国・アイヌがそれぞれ自己を明確にした14、5世紀。そして、生活のあらゆる面で根本から変化しつつある現在を、おおよそ、社会の歴史を区分する転換期ととらえる。
■天木直人「さらば外務省!」講談社 20031109
外務省がいかに事なかれ主義に染まっているか、それがいかに外交をゆがませているか、内部から観察したうえで、外務省と小泉首相に対して私怨をぶちまけている。「小泉を許さん」「外務省は腐りきっている」とちょっと感情的にすぎるきらいはあるが、内部にいただけにエピソードのディテールがおもしろい。
ただ、これほど怒りをもっていたのに、なぜ今更? もうちょっと前に、せめて有事法制の前に暴露できなかったのか? とも思った。
「一般の国民も安保を考えよ」という。外務省にあるのは「米国に追随せよ」という方針だけ。信仰のようなものだ。対米追随の姿勢と、それに異を唱える者を排除しようとするゆがんだ人事政策があることが、外務省劣化の原因になっているという。
また、腐りきった官僚機構をただすためには何が何でも政権交代を実現させよと説く。一理あると思う。「官僚改革」のためには確かに政権交代が重要だ。ただそこには、壊したはいいけど、「清潔な右翼」がやってきた、という状況の想定がない。石原慎太郎や戦前の近衛文麿(およびその周囲の「革新官僚」)のような人物が出てくることへの危惧が足りないように思えた。
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▽日米安保の賛成の立場の本の多くが、安保締結が正しかったという賛辞の単純な繰り返しであるのに対して、反対の立場の本は、様々な角度から丁寧に事例を引用し論ずるものが多い。…「外務省職員が読むべき解説書はこれだけさ。いわばバイブルだ」と手渡された十数ページのタイプ打ちの冊子。栗山尚一が条約課長のときにものした「外務省職員洗脳の書」。「米国は日本と共通の価値観を有する信頼できる唯一の国である。助けてくれないかもしれない、などと疑念を抱くこと自体、誤りであり、米国に対して失礼である」と書いてあった。いかなることがあっても、米国に盲従していく外務官僚の原点が滑稽なまでに表れている。まさか国民は我が国の外交がこれほどまでに底の浅いものだとは想像していまい。(p66)
▽湾岸戦争時の多国籍軍への130億ドルの財政支援は、米国にとってイラク攻撃を可能にする大きな「貢献」だった。このことは米国自身が議会証言で認めている。とこらが外務官僚はその事実を紹介しようとせず「今度こそ目に見える支援を」と強調するばかり。そのなかで「ショー・ザ・フラッグ」発言を利用して一気にイージス艦派遣の流れを作った。しかし、米国政府はその発言を否定した。「明確なプレゼンスを示す用意があると話を切りだしたのは日本のほうだ。アーミテージ副長官はそのような言葉は使ってないと言っている。しかし、日本政府が望んでいるのであれば、そのままにしておくのが最良なのだ」。米国は日本の外務官僚のねつ造を認めたうえでそれを黙認した。当事者にされた柳井駐米大使は帰国後「この言葉は自分は使ってない」と明言した。しかしそのとき、すでにテロ対策特別措置法は成立、イージス艦派遣は決まっていた。
▽日本はイラ・イラ戦争の最中でさえも双方と等しく友好的にパイプを有していたまれな国だった。イランは今も日本に好意的だ。そのイランの外務次官に対して、野上外務次官は「中東和平問題はイランに関係ないから干渉するな」と言い放った(p82)。…
▽アフリカ2課長のとき、南アフリカの人種差別政策を放棄させようとしたため、外務省を一時的に追われ総理府の内閣安全保障室にとばされた。その後も、再び本省に戻ることはなかった。
▽2002年2月、ブッシュが日本を訪問。「国会の中央玄関に車を横付けできるのは、国家元首とその随行者の車だけという慣例になっていた。護衛車や緊急車は下の正門で待機しなければならない。ところがブッシュ大統領は、テロ対策という大義名分のもとすべての車を中央玄関前に横付けした。天皇陛下さえ1人であがる中央玄関の階段を、10人近いSPを引き連れてあがっていった」
▽常任理事国入り。「カナダ外相の賛意を取り付けろ」という訓令がきた。カナダ外相と日本大使館の大使との会談で、田島大使が持ち出すと、「本気で安保理加盟が実現すると思っているのか」と聞き返してきた。大使が「当然である」と答えると、外相はあきれた表情を隠さなかった。そのやりとりを正確に報告しようとした私の電信を大使は修正し「カナダの外相は本使の説明に同意した」という報告にしてしまった。
▽88年以降の統計で、米軍の犯罪件数でワースト1が169件の犯罪が記録された沖縄の米軍基地。沖縄の倍の海兵隊員がいるサンディエゴ基地でさえ102件しか犯罪が起きていない。…沖縄には海兵隊員になりたての性的欲求の強い若い隊員が集中していた……と書かれていた〓。(p162)
▽外交官には不逮捕特権、免税特権、所持品の秘密保持特権がある。外交旅券が在外公館の職員全員に発行され、外交官を粗製濫造している。
▽社会党があるときは、安保論議は国会論争の花形だった。国会に出向く外務省局長らの緊張度は高かった。だが、連立によって社会党が自衛隊を容認してからは、論議はなくなった。新ガイドライン(97)、テロ対策特別措置法(01)、有事関連法(93)、自衛隊派遣法(03)。国民的議論がないまま次々成立した。
▽平和憲法を守るためにこそ憲法改正が必要だという認識を持たねばならない。憲法改正を頭から拒否し続けることによって、政権与党と官僚による違憲行為をなし崩し的に許してきた。
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