■佐高信「スーツの下で牙を研げ」集英社文庫 20031113

 こわもての評論家が、けっこう繊細な自らの弱みや体験をさらけだして、サラリーマンたちの相談に答える。
 27歳で教師をやめ、同時に離婚して、家族までが後ろ指をさされるような状況で、東京に逃げだしてきたこと。10年つとめた会社は、孤立無援となって退社せざるをえなくなったこと。30代半ばで職を失うというのは、非常に不安で、胃痛がひどかったという。
 ひといちばい怒るが、泣き上戸でもある。大学に入ったばかりの飲み会で、スナックのママさんに「おかーさーん!」と泣きついたという。
 俺もそれに近い体験はあるけど、今思い出しても恥ずかしい。
  最近大泣きしたのは6年ほど前に大阪の天下茶屋の居酒屋でのことだった。互いの仕事の話をするうちに、腹が立つやら情けないやらで涙が止まらなくなった。思い出すだけで赤面する。そのとき一緒に飲んだ同僚には翌日、「酔っぱらってよく覚えてない」と言い訳した。
 ことほど左様に、自分の弱みや感情をさらけだすというのは大変なことなのだ。さらけださないといけないのだけど、さらけだすたびに後悔する。
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  ▽今いる場所が苦しいと、どこかにパラダイスを求めたくなる。しかし、そこでもがかなかった人間が、他のところではつらつとできるはずがない。
  ▽久野「職業や公生活や公務といったものから自立した私生活をもたなくては自由も何もあったものではない」 ▽これが私の故里だ。さやかに風も吹いている。……ああ、おまへはなにをして来たのだと……吹き来る風が私に云ふ。
  ▽ほとんどの会社の中は、言論の自由なんてなく、民主主義なんていうのが立ち入ることができない。平成維新の会は、こういう会社国家の問題を脇において、官僚が全部悪いんだという言い方です。

■大山勝男「あるシマンチュウの肖像」みずのわ出版  20031207

  奄美の沖永良部島から神戸に出て、ペンキ職人として生きた父の半生を、息子がつづった。
 戦前・戦中の島の暮らしを経て、集団就職で神戸にわたり、「いつか島に帰ろう」と言いながら果たせず、震災後に避難所暮らしをしているときに事故で亡くなった。そんな父の生い立ちをたどる中年の記者の切ない思いが伝わってくる。
 ただ、島の民俗文化を掘り下げ、自分のなかに埋もれている「シマンチュウ」的なものとの関連をもっとつむぎだしてほしかった。父が亡くなる場面以外がちょっと淡泊すぎるような気がした。

■宮田登「妖怪の民俗学」ちくま学芸文庫 20031207

  妖怪の話って、どんな背景から生まれてきて、現代の妖怪はどんなところから生まれるくるんだろう。「妖怪と世相」みたいな記事を書くうえで参考にならないかなあ、と思って買った。
 著者は、妖怪の発生を「場所」との関連で説く。あの世とこの世の境界、内と外の境界、都市と田舎の境界……。そういった「境界」に妖怪が出るという。具体的には、辻であり、井戸であり、橋であり、都市と田園の境界にある新興住宅地であり、T字路である。
 江戸時代の妖怪は江戸の周縁部に多く、現代の妖怪は、町田のニュータウンなどの新興住宅地に多いという。神々の領域であった自然をつぶすときに、それとの摩擦のなかで妖怪が出る。人間の不安感が妖怪を生み出すというのだ。
 また、怪談奇談には「下女」がかんでおり、現代も、占いやカルトは若い女性がはまりこむなど、妖怪と若い女性とのかかわりも深いと指摘する。……
 農村部よりも、開発と旧来からの自然とがせめぎあうところが妖怪スポットであるという指摘や、「現代の妖怪」についての論考は興味深いものがあったが、なにもかもを「境界」こじつけたような印象もないではない。口裂け女の話などは、そのルーツを探ってくれたらおもしろいのだけど、抽象的な推論しかなくて物足りなかった。
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 ▽口裂け女 いつも母親を怖いと感じている子供たちの心意の投影か。勉強しろ勉強しろと責め立てられるイメージが口裂け女の姿をとった。山姥のイメージにも似ている。
 山姥は、お産をするときに里におりてきて、出産の手助けを求める。この話は熊本や大分に多く分布する。口裂け女の話の根底には、山姥やウブメの系譜をひいた妖怪の1つの表現があったのだろう。母と子の関係を考えさせる1つの警告を発していた。
 ▽辻 葬式のとき、村の辻に十数本の竹串がさされていた(柳田)。…辻堂というように、小さなお堂は辻に建てられた。沖縄の「石敢当」や、屋久島の辻神、辻占い。今でも大道易者の繁盛する場所は四つ角に多い。
 ▽将門の首塚 大手町の首塚では、昭和59年になってもなお慰霊祭がおこなわれる。祟りを信じている。「首切り」という勤め人の不安が語呂合わせで結びついたこともあるが、首塚の場所性に境界性が維持されていたこともあるのだろう。
 ▽那覇の町 細かな迷路をぐるぐる歩くと「石敢当」が必ず目に入る。ユタは特に那覇に大勢いる。石敢当は、台湾、沖縄、鹿児島、長崎に分布。ユタに警告されてつくる。沖縄各地にブームが起きたのは4,5年前のこと。(昭和50年代?)〓

■ジョージ・オーウェル「動物農場」角川文庫 200311

 イギリスの農園で、人間の農場主の圧政にたえかねた動物たちが革命をおこす。亡き老豚メージャーの理論を後ろ盾に、ナポレオンとスノーボールという2匹の豚が指導した。
 殺さないこと、平等であること、ベッドに寝ないこと、などの戒律をつくった。「四本足はいい。二本足はだめ」がスローガンだった。
 スノーボールは、動物の王国を守るため、各地の農場で同様の革命を起こすよう画策しようとする。ナポレオンは逆に、まず防備を固めることを考える。2匹は対立し、ナポレオンはスノーボールを追い出した。以来、批判的な動物を処刑する必要があるときは「スノーボールの陰謀」を口実とする。
 風車を建設することで、電気をおこし、生産力を増し、豊かになれると説いた。が、人間による侵略や、天災により何度も風車は倒壊する。風車の部品を得るため、雌鶏の生んだ卵を人間に売って金を稼いだ。
 動物たちは苦しい生活だったが、「おれたちはほかの農場とはちがう。おれたちは平等だし、自分たちの農場なんだ」ということを誇りに生きている。人間の圧制からの解放をうたう「イギリスのけだものたち」を合唱する。
 ところが、最初にみなで決めた戒律はいつのまにかゆがんでいく。大量の死刑が執行され、役に立たなくなった馬は「病院につれていく」といいながら屠場に連行される。豚と犬(軍隊)だけは農場主の家のベッドで寝るようになった。
 それでも動物たちは、多少の違和感を覚えながらも、ナポレオンの配下の犬が怖いのと、以前の記憶があいまいになったのとで、「そんなものか」と受け入れる。
 最終章、豚は2本足で歩き、ムチを手にするようになった。人間とワインを酌み交わし、人間から「あなたの農場の支配を見習いたい」と評価されるようになった。「イギリスのけだものたち」の歌は「革命は終わったから」ということで、歌うことを禁じられた。
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 メージャーはレーニン、ナポレオンはスターリン、スノーボールはトロツキー、豚は官僚、犬は軍隊、風車建設は5カ年計画。「イギリスのけだものたち」は「インターナショナル」。スターリニズムへの強烈な風刺だ。
 「人民権力」がいかにしてゆがみ、権力のための権力、ボス支配へと化すか。大量の宣伝と暴力の脅しによって過去を忘れさせ、「これがあたりまえ」というあきらめと惰性の感覚をつくっていくか。
 現代の日本にもそのまま当てはまる。自民党に支配された「安定」状態を守ることが正義とされ、異議を唱える労働組合はつぶされ、個々は享楽にふけるばらばらな存在とされ、権力をもつ者がやりたい放題できるようになる。
 「新しい歴史教科書」を信奉する人が、「南京虐殺なんかなかった」「自虐史観だ」と騒ぎたて、いつのまにか事実をゆがめ、過去を忘却の彼方に押しやってしまう。「白いものでも、黒だ、黒だ、と言い続ければ灰色になる」と言ったナチスと同じやり方だ。そういう記憶のコントロールによる右傾化を、メディアも「現実主義」の名のもとに加速させる。チョムスキーの「メディアコントロール」と「動物農場」に描かれる世界は、前者は現在の米国、後者はソ連をモデルにしているのにきわめて似ている。
 読んでいて、サンディニスタ政権当時のニカラグアのことも思い出した。
 みんなが「自分たちの国をつくろう」という意識に燃えていた。だが、アメリカによるテロや禁輸によって貧困が蔓延する。「苦しいなあ、でも独裁政権のころよりはまだましだから」と国民は我慢する。それでも「もしかして今の政府の問題もあるのでは」と不満がつのってくると、政権は「アメリカによるテロのせいだ。ヤンキーを倒せ!」と喧伝する。事実、米国が経済荒廃の最大の元凶だった。だが同時にサンディニスタ政権自身の腐敗や非効率もあった。外敵をたたくことで、そのことをを隠蔽してしまった。
 「おれたちが主人公だ」というアナーキーな自由さは、戦前のスペインの民主政権やサンディニスタ政権、ベトナム解放直後、日本の終戦直後にもあった。だがそうした熱気は長続きしない。
 どんな理想をかかげようと、あらゆる権力は腐敗するものなのだ。だからこそ、情報公開などの民主主義のツールが大切であり、それ以上に人々の意識の民主化が大事なのである。

■柳原一徳「震災五年の神戸を歩く」みずのわ文庫 200312

 震災2カ月後、家を失った被災者が右往左往しているときに、神戸市は空港をはじめとする大規模開発を進める都市計画をつくった。
 そうした行政のあり方の源流は、旧満州における大規模都市計画があった。植民地ゆえに人権に配慮せずに自由に大地に描いた都市開発の夢を、山を削って海を埋めるという「神戸方式」によって実現した。大規模な「都市経営」の一方で、老朽化した文化住宅がひしめく下町は放置されつづけた。それが、6000人という犠牲者につながった。
 イラクの米軍には莫大な金を送るのに、被災者に与えられた金は数十万円の義援金だけ。政府は「私有財産だから」という理由で、被災者支援の特別法さえ作ろうとしなかった。
 被災地を歩くことで知った、行政の冷酷さへの怒りをぶちまけた一冊。