■辺見庸「永遠の不服従のために」毎日新聞社 20030415
痛烈。「有事法制反対」と言いながら、日常のルーティンワークを淡々とつづけるマスコミ人への批判。「おかしいよな」といいながら、なにもしないことへの罵倒。若い記者が平気で自分の属する社のことを「うちは……」と語り、マスコミへの批判を他人事のように流してしまう感性の鈍磨。
型どおりの批判や非難ではなく、個々人の感性にかかわる細かい部分をぐさぐさと突いてくる。絶対安全圏からグチを言うのではなく、個として戦っているか? 抵抗しているか?
身を挺しているか。さらりと逃げる個の生き方こそが、ファシズムを招くのではないか。
戦前だって、いきなり軍国主義という鬼の顔が降ってきたわけではない。社会主義者や朝鮮人が拷問される刑務所の横でも明るい日常生活がくり返されていたのだ。
日常にじょじょに浸透していく軍国ムードは、当時と今のどこがちがうのか。
かつて有事への抵抗は、マスコミ人にとっては常識であり、最低限の作法であった。いまは、朝日新聞でさえも賛成派と反対派を並立して紙面に紹介する始末だ。
辻元清美や鈴木宗男らの小悪にぶんぶんと記者たちがたかっている間に盗聴法などが審議され、サッチーの仮釈放で数百人の記者が群がっているそのすぐ横で、だれにも知られず死刑が執行される。
そういう記者たちを彼は「糞ばえ」と呼ぶ。 まさにその通り、と思うと同時に、俺のことでもあることに気付かされるのだ。
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▽(白秋)人妻に手を付けて姦通罪でブタ箱にぶちこまれるのは、業さらしかもしれないが、(晩年に)戦争賛歌をみんなでうたいあげるより万倍もましだ。問題はいまなのだ。気持ちがこれまでになく怒張気味のこの国で、トホホの私的過去をかなぐり捨てて、妙に勇ましくなってしまった物書き、評論家、記者が増えている。俺もあんたたちも業さらしの昔のほうが、よほどましだったのに。
▽欧州評議会(CE)。日米はオブザーバー国なのに死刑制度を存続している。「2003年1月までに改善が見られない場合は、オブザーバー資格に異議を唱える」と、CE議員会議が明言している。
▽個人情報保護法 もっとも戦慄するのは、政府各機関、警察など公権力が抱える膨大な個人情報に関して保護義務を課していないということだ。国家はあらゆる個人情報を専有し、どのようにでも使用できる、と宣言しているようなものだ。
▽幻想の体内機制は、天皇制を決して支持はしないけれど、それと身を賭して闘いもしない知識層の体内深くに埋め込まれている。とりわけマスメディアで働く人間の大半がそうなのである。……怯えを隠さず表現すること、その根源を解析し、抑止機制を徐々に解体しなければ。「表現の自由」を喋々するだけなら、この益体もない憲法違反列島においては、昼下がりの茶の間で一発ケチな屁をひるくらい、造作もないことなのだ。
▽ベトナム戦争当時より、湾岸戦争のころより、米国の唱える「善」には、今日、厚みも道理もなく、よくよく考えれば、それは限りなく悪に近い。……面相からして、私は「善魔」ブッシュより「悪魔」ビンラディンに万倍も人間的魅力を感じる。前者には「病むべく創られながら、健やかにと命ぜられて」の意味がどうあっても理解できないであろう。病むべく創っておきながら、健やかにと命じているのが善魔たちだからである。
▽コイズミの内面国家には敗者ではなく勝者ことが主人公でなければならないのである。「悪」とはなにかの想像力が彼の大好きな保安官ブッシュ並みに欠如している。靖国神社、神風特攻隊、プレスリー、ゲーリー・くーぱー、保安官ブッシュ……など、刺身とハンバーガーと山葵とマスタードが渾然一体となったような、不気味な味にまみれて、ひとり悦に入っているだけである。
▽(朝日の社説で)「アフガン国民を攻撃している、と言われないためにも、食糧を投下するのは一つの方法であろう」のくだりは、後世に残る暴論である。投下された食糧にたどりつくのに、場合によっては100個の地雷を踏まなくてはならない、という。殺しながら同じ手で、食べ物をあたえ、慈しむことこそ、もっとも非人道的行為だ。
▽今の米国社会は、ハリウッドが政府の意を受けて、都合の悪い映画の公開を控え、批判的なコメンテーターが番組をおろされ、反戦・厭戦の歌の放送を自粛し……ますます警察国家と化しつつあるようだ。
▽マスメディアで働く人は、戦争構造に加担しているなどと、ゆめゆめ思いもしない。彼ら彼女らに悪意などない。誠実で勤勉で従順でちょっと不勉強なだけである。しかしこれは、全体主義運動参加者にとって、不可欠な資質である。米国の軍需産業を支える研究者の多くが、エコロジストであり敬虔なクリスチャンであることと、関係性がどこか似ている。日常にある戦争構造は、表面は醜悪でもなんでもなく、微笑みと誠実さに満ちている。……みずからの日常とけだるいルーティンワークを覆すことができないでいる。誠実に勤勉に従順に、翼賛報道の片棒を担ぎつづけているのである。世界同時反動、という世にも珍しいこの時期に、そのわけを探る姿勢などあらばこそ、おのれの瑣末な日常にどっぷりと没するばかりのこの国のマスコミの知的水準は、いま、絶望的に劣化している。……「個」というものの無残にすり切れた、思えば、哀しき群体ではある。
▽マクロのメディア批判など、現場で働く者たちには屁の河童である。やるなら個別の記事、番組、その責任者を(十分な理由と根拠をもって、かつ体をはって)指弾すべきだ。権力と権威に庇護されている者ほど、差しの喧嘩には弱いからだ。
▽死刑囚との交流
▽文章を書くために足かけ3年も旅をしたとき、なによりつらかったのは、我が身を戦場に置くことでも、飢餓地帯に入ることでもなく、人や風景に向き合ったときの私自身のにべもない無関心であった。
▽大衆とマスメディアがつるみ、両者の欲情の結託によってできあがった作品第1号が、あの凡庸なるファシスト、コイズミであった。メディアは庶民のせいにし、庶民はメディアの尻馬に乗り、あろうことか80%以上という支持率をあたえて、ろくに労働もしたことのない無能な七光り男をすっかりその気にさせてしまった。「デスポット(専制君主)が群衆を創り出すのではない。群衆がデスポットを生み出す」
▽賛否双方が同じ土俵で議論する方式は、米国のテレビジャーナリズムが採用する著しく阿呆な民主主義の典型だ。。報道する側の主体的判断を民主主義を装って放棄するのである。……なにより社、記者、論者のだれも傷つかない。人間的に卑怯。有事法制という記者生命を賭けるべき重大なテーマを、ふやけた識者にあずけてどうするのだ。
▽(君が代の原型の歌詞を含む詩を「いみはわからなくてもきもちがいい。たんかも、はいくも、にほんにむかしからある、詩のかたち」と書く谷川俊太郎を批判して)私はこれがドスの効いた脅しに聞こえてくる。押しつけがましい情緒。……詩人たちは、かつてこの国に「国民士気の昂揚」という国策にのった「詩歌朗読運動」というものがあったことを忘れてはならない。
▽(絞首刑)「昨日までは『風邪ひくなよ』と言われていた人間が、そう口にしていたほうの人間によって突然連れて行かれ、吊されてしまいました」「外ではサッチーが保釈になり大騒ぎ。ヘリまで出して、高速を追いかけていきました。今朝刑場で吊された人間のことなど、誰一人目もくれません。本当に異常なほど平和です」
▽代議士の公設秘書給与の流用疑惑って、あれほど大がかりな特別企画を組んで対処すべきほどの歴史的大事件だろうか。どこか不審船騒ぎと似てないか。政府権力にじつに都合のいいタイミングで、「事件」が出来し……。
▽地方自治体がどれほど中央権力に抵抗できるかが有事法制の緊要なテーマだったのに、選挙となるとろくな議論もせずに自民党と事実上手を結んでいる。
▽記者や編集者は飲み屋で「うちはだめになった」と皆が言う。「うち」ってなんだ、うちて。出社すれば、だれもルーティンワークに逆らいはしない。……ファシズムの透明かつ無臭の菌糸は、実体的な権力そのものにではなく、マスメディア、しかも表面は深刻を気取り、リベラル面をしている記事や番組にこそ、はびこっている。あれが敵なのだ。あれが犯人だ。そのなかに私もいる。
▽安倍晋三官房副長官は「有事法制を整えたとしてもですね、ミサイル基地を攻撃することはできます」「先制攻撃はしませんよ、しかし、先制攻撃を完全に否定はしていないのです」「(ミサイル)基地をたたくことはできるんです。憲法上ですね」「戦術核を使うことは、違憲ではない」……。
▽多数者を怖れて沈黙し服従することが、少数者としてどこまでも抵抗することより、何万倍もひどい害悪を後代にもたらす。
▽(有事法制の言う)「社会秩序の維持」「警報発令」「避難指示」「被災者救助」これが「国民保護法制」の中身なのだと若い記者たちは報じる。戦争も戦場も知らないのだ。そのじつ、灯火管制、夜間外出禁止令、立ち退き命令、疎開命令などの国民に対する命令の法規であることに気付いていない。「社会秩序の維持」も、労働・社会運動の抑圧、思想・言論統制、スト禁止につながることに思い至らない。「民間防衛組織の確立」にいたっては、住民相互監視、告げ口、軍事教育、防衛訓練を導くことになることに思いを馳せていない。要するに記者達は、不勉強であり、事態をなめてかかっているのである。
福田官房長官は「(思想・良心の自由も)外部的な行為がなされた場合には、それ自体としては自由であるものの、公共の福祉による制約を受けることはありうる」と語った。憲法だけでなく言語そのものの否定である。「外部的行為」とは、物資の保管命令のことのようだ。思想・良心・信仰がどうあれ、拒否したら懲役刑だというのである。
■「建てどき」 {日付}
{本文}
■五木寛之「風に吹かれて」 20030415
{本文}
■ジョージ・オーウェル「1984年」 20030428
十数年ぶりの再読。
スターリンの圧制をモデルにしたと言われているが、盗聴や監視、無気力化した大衆、まじめに考えるほど閉塞感にさいなまれる世相、メディアによるマスの操作、政府の言うがままに「2+2=5」と信じ込めばそれなりに幸福になれると思い込ませる洗脳……。
あれ、あれ、あれ。全部いまの日本、あるいはアメリカじゃないか。
エシェロンあり、盗聴法あり、FOXあり、うそ八百の政府発表を垂れ流すマスコミあり……。イラク戦争を見られるように、戦争を起こすことが平和であり、侵略が正義である。それを信じ込む人こそが立派なアメリカ国民(日本国民)である。
オーウェルは1940年代にこの時代の到来を予想していたかのようだ。唯一のちがいは、物理的な拷問は少なくとも先進国の表面からは消えたこと。拷問さえ必要としないほど、世論誘導や洗脳技術が発展したとも言えるのだ。
■神野直彦「地域再生の経済学」 20030506
世銀やIMFに象徴されるブレトン・ウッズ体制は、固定相場制を維持するため、資本の移動を国民国家が統制した。国民国家が土地・資本・労働の3つの要素を統制下におけた。そこでは所得再分配が可能だったため、第2次大戦後は、中央集権的な福祉国家が機能した。
ところが、71年の米国の一方的な通告によってこの体制は崩れる。西欧や日本は相次いで変動相場制に移行した。それによって、金融自由化の波により、世界の資本が国境に関係なくグローバルに動き回るようになった。経済システムがボーダレス化し、「国民国家による規制を緩和せよ」が合言葉になって福祉国家体制を崩した。
崩壊した地域を再生するには、市場にゆだねる米国型と脱市場をはかる欧州型がある。著者は後者をすすめるべきだとする。
原料のあるところに工場ができ町ができるという時代から、管理部門のある場所に大都市ができる時代へ。そのなかで新居浜や北九州、大牟田などの原料立地都市は衰退した。
今は、さらに先の時代に移りつつある。知識集約型になり、生活環境のととのった人間的な都市に人材が集まる時代になりつつあるという。それが今、欧州の町が進みつつある道だ。
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▽アルザス・ロレーヌの固有文化の再興をめざすストラスブールや、バスクの伝統文化を復興しつつあるスペインのビルバオは、都市再生に成功した都市として評価されている。
優秀な人材が終結し、新たな産業が芽生え、ストラスでは雇用も増加している。一方日本では、市場主義による構造改革が順調である証拠として倒産が相次ぎ、失業者が激増している。
▽グローバリゼーションで国民国家が動揺するほど、人々はアイデンティティを求めて地域社会への帰属意識を強め、地域紛争は激化する。しかしその裏では、ストラスやバスクのように地域再生のドラマが始まっている。
▽地方自治対は国境を管理しない。1つの県が所得再分配を強化すれば、豊かな者が流出してしまう。
▽福祉国家は中央集権である
▽加工された消費財が大量に購入されると、生活領域での生産機能が縮小し、地域社会の共同作業や相互扶助が劣化していく。生産財を所有する農民や自営業者が減り、家族内の無償労働の生産機能も減る。地域社会のコミュニケーションに代替するラジオやテレビ、自動車が入り込む。社会システムの市場化は家族やコミュニティーの縮小をもたらす。
疾病や老齢などのリスクから家族を防御できなくなる。近隣同士どころか家族相互の関係も希薄になり、孤立化する。福祉国家による現金給付は、市場経済によって引き裂かれた地域共同体によるセーフティネットの代替なのである。
▽遠い中央政府の参加なき民主主義によって保障されることで、地域社会への帰属意識は薄らぐ。地域社会へのアイデンティティ喪失という犠牲を払って実現した福祉国家によるセーフティネットも、グローバリゼーションによって切り裂かれ始めたのだ。
▽1970年代までは、租税負担率が高くても資本逃避という事態を資本統制によって抑制できた。介入・調整手段として租税を活用するために、租税負担率は高いほうがよいとされた。
80年代になると、ブレトン・ウッズ体制が崩れ、金融自由化が進み、資本は一瞬のうちに租税負担の軽い国民国家へとフライトしてしまう。こうして、所得課税よりも消費課税に基幹税をシフトすべきというスローガンが唱えられた。
▽所得分配の不平等を示すジニ係数は、財政介入前ではスウェーデンが高く、日本は低い。日本はもっとも平等ということだ。ところが、課税され社会保障給付のあとでは、アメリカがトップ、中位に日本やドイツ、低位にスウェーデンやフランスが入る。日本の所得再分配効果は、アメリカよりも小さく、これらの先進諸国の中ではもっとも小さくなってしまう。
▽新自由主義に基づく地域再生は、中曽根時代の80年代半ばから始まった。大都市重視の方向にハンドルを切った。3全総までは、大都市から地方に生産機能を分散しようとした。4全総になると、大都市における社会資本整備「都市再生」が打ちだされる。
公共事業抑制もあって、原料立地の工業都市の衰退に拍車をかけ、地域間格差を拡大させた。
「民間活力」という新自由主義的思想に基づいて、社会資本整備がすすめられた。当然、民間活力が導入できる地域は大都市圏に限定された。関空や東京湾横断道路など。
▽食料自給率低下の要因は、伝統的な地域文化が残存していないからともいえる。食生活の文化が崩壊し、大量輸入の原料で食料が生産される。ヨーロッパでは食料自給率は上昇しているのに。
▽ヨーロッパも、工業の空洞化は進んでいる。だが地域文化にもとづく地域産業は残る。食文化も維持される。地域文化の振興は、地域社会における人材育成にも結びつく。北欧で知識集約産業が発展しているのはそのためだ。
▽地方分権のためには、財源の委譲「歳入の自治」を。 税率の自己決定権。特定補助金から一般補助金(交付税のようなもの)へ。日本は集権的分散システム。これを分権的分散システムにしなくては。
▽地方税の根拠を「協力原理」とすると、比例所得税を中心に組み立てればよい。共同作業や相互扶助によって供給されていたサービスを地方自治体がかわって供給するのだから。
▽スウェーデンの人口は600万人。市町村は300。地域開発グループは約4000。協同組合的な組織。 学習サークル運動。成人の2人に1人はサークルに参加。〓〓90年代には情報教育関連のサークルが激増し、産業構造の転換を推進した。
地域住民の自発性と政府の政策企業の経済民主主義的経営が有機的に関連づけられ、産業構造を転換させた。その原動力は、地域社会構成員による運動だった。
▽公共サービスとして供給するかいなかは、それが欲望を充足するのか、ニーズを充足するのかによって決まる。欲望なら市場にゆだねればよい。民営化と税による無償提供の中間が料金による供給だ。この料金は市場価格より低く設定しなければならない。だとすれば、赤字を覚悟しなければならない。利益をあげる事業は民営化すべきである。公営プールのような、グレーゾーンならば、補助金を導入し料金で行うべきだろう。
▽ストラスブール: パークアンドライドで、路面電車の駅前に駐車場がある。そこにおくと、乗り放題の券が支給される。
▽〓ビルバオは、独自の言語を継承しつつ、国民国家をこえた独自の文化を復興させる。97年にはグッゲンハイム・ビルバオ美術館がオープン。地方都市再生の象徴に。バスク政府は独自の徴税権をもち、中央政府から一切補助金を受けていない。これが地域再生の条件になった。
▽掛川市 二宮尊徳 人間として成長できる都市づくり。
▽高知市 〓松尾市長はシネコン建設を拒否。00年には「里山保全条例」市内を35個所にわけ、うち25個所で住民たちによるコミュニティ計画を策定している。
▽札幌 歩行者中心の空間「トラフィック・せんとらる」
▽知識社会では、生活機能が生産機能の磁場となって地域社会を再生させる。
▽地域社会の自然との共生から生み出された特産物を購入するのか、世界の自然を破壊して生産された製品を購入するのか:::からり
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