■雁屋哲「マンガ日本人と天皇」講談社+α文庫 20040312

  江戸時代までは庶民レベルでは認識さえされなかった天皇制が、明治以降、教育と暴力によって押しつけられた。いつの間にか科学的思考を阻害する宗教のようになり、日本に破滅をもたらした。
 維新の立役者は天皇を「玉」と呼び、権力獲得の道具としてしか思っていなかった。そのくらいの存在だった天皇がしだいに神格化し、昭和天皇になると、自らが神だと思いこむまでになった。だから戦後「人間宣言」を作るときも、「自分が神の子孫ではないと言うことには反対である」(木下道雄「側近日誌」)と述べ、戦争責任について記者会見で問われると「そういう言葉のあやについては、私はそういう文学的方面はあまり研究もしてないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます」(75年の訪米後の記者会見)と答えた。神様に「戦争責任」などあるはずがないからだ。
 軍部の独走を批判したのに戦果をあげたら「よくやった」とほめたたえ、戦後になると「平和主義者」を装うなど、昭和天皇には日和見主義・ご都合主義的な個人的な性格的な欠陥があった。だが、そうした個人の人格の欠陥以上に、「天皇制」という制度じたいが問題だ。天皇制の怖さは、天皇自身も含めて洗脳してしまったことにあらわれているという。
 いま、復古主義が華やかになりつつある。
 教育勅語の「兄弟姉妹仲よくし、夫婦互いに睦び合い…」という部分だけを取り上げて、「素晴らしいじゃないか」という政治家が多い。愛媛県知事もそんな趣旨の発言をしていた。だが、こうした「いい部分」は教育勅語の一部でしかない。教育勅語の趣旨は、「天皇のために死ねる」臣民を作ることにあった。そのために、天皇は万世一系であるというウソを述べ、天皇家は代々すばらしい倫理を体現していたというデマをまきちらした。白いものでも「黒だ黒だ」と百万回くり返せば灰色に見えてくる、そういう論理をもののみごとに体現したのが、教育勅語による教育だった。
−−−−−−−−−−−−抜粋・要約−−−−−−−−−−−−−−−
 ▽安康天皇は皇子を殺し、その妻を自分の皇后とする。その天皇も眉輪王に殺され、さらに彼を殺した男が雄略天皇になる……。(中国やローマの残酷物語と同じ)
 ▽万世一系もうそ。武烈天皇と、次の継体天皇では断絶がある。王朝がかわった。
 ▽明治天皇自身も、正妻の美子がいたのに、数人の側室のうちの1人に大正天皇を生ませた。妻妾同居させていた。これが「夫婦相和す」(教育勅語)と言えるのか。
 ▽日清戦争は、日本軍の朝鮮侵略が原因だった。朝鮮王朝は、日本に対抗するために清国を頼った。なのに、「弱い朝鮮をいじめる清国をこらす」と国民は信じた。(「坂の上の雲)も同じ感覚では?〓)  ▽軍隊内のいじめ。「上官の命令は天皇の命令」という軍人勅諭があったから、いかなる私的制裁を加えられても上官には逆らえなかった。アジアの非戦闘員への残虐行為も、自分たちの受けた私的制裁のうっぷんをより弱い立場の者に噴出させたものともいえる。
 ▽ノモンハン 決定的な敗北をしたのに、敗北から学ばず、無謀な戦争に突入した。服部卓四郎、辻政信という参謀は、ノモンハンの責任を取ることもなく、太平洋戦争を指導し破滅に導いた。
 ▽インパールの作戦計画をたてた、第15軍の牟田口廉也司令官は、周囲が「無謀」というのをきかず、猪突猛進した。補給をまったく考えない作戦で、無数の兵士を死に追いやった。科学的思考能力がまったくなかった。
 ▽君が代は、もともとは天皇をたたえる歌ではなかった。お祝いの歌であり、「君」とは、その対象ということだった。「ハッピーバースデイトゥーユー」みたいなもの。将軍家で正月に歌われ、庶民は宴会のお開きに歌ったりした。君が代がはじめて登場したころは、天皇は「大君」だった。だから、「君」は天皇ではありえない。
 ▽日本人は、これが偉い、権威だ、といわれるとその意味も確かめず無条件でありがたがる。1人の人間が初詣で神社に、葬式で寺に、結婚式で教会へいく。  ▽国会図書館HPで国会会議録を検索できる(Javaはonに)http://kokkai.ndl.go.jp/
 ▽統帥権。軍と天皇だけで物事を決められる。実際は、軍は、自分たちが勝手に行動するために統帥権の独立を主張した。
 ▽マッカーサー回顧録で、天皇が「責任はすべて私にある」みたいなことを言ったという「美談」があるが、おそらくウソ。昭和天皇自身は戦争責任を認める発言はしたことがない。  ▽謀略を使い、軍部が独走した満州事変で、天皇は最初は喜ばなかったが、うまくいったとなると、関東軍に「勇戦力闘」をたたえる勅語を与えた。これで、天皇が平和主義者と言えるだろうか。
 ▽日和見主義、ご都合主義という人間的弱点をもっていた。だが、あの近代天皇制の下で天皇として育てられたら、どんな人間でも、昭和天皇と同じような人間にならざるを得なかっただろう。
 ▽久野収ら編「『天皇制』論集」(三一書房)のなかに、竹内好「権力と芸術」という論文がある。そこで、「天皇制は…権力がむきだしの形であれば、それに立ち向かうことはできるが、やんわり空気のように充満しているものに抵抗はできない」
 ▽反戦詩人として知られる金子光晴も、戦争中は正反対の詩を作っていた。反戦詩集を出したのは戦後のことだった。

■佐田尾信作「宮本常一という世界」みずのわ出版 20040313

  中国新聞記者が関係者を1人1人訪ねて編んだ本。記事もいいけど、一問一答のインタビューをそのまま載せているのがよい。宮本が種をまいた人たちの証言は何ともいえない味がある。
 ケニア旅行時の宮本の写真がたっぷりある。思わずひきこまれるような人なつっこい笑顔、これならきっと女性にもてたろうなあ。
  ケニアを訪ねたのは、大きな戦争がなく、人が人を支配することが少なく、独立して国民として成長する民族に、日本人が学ぶものがある、という思いがあったからだという。
 軍国主義の時代にも村を歩き、戦後、世の中が革新にふれたときにも村を歩く。一貫して態度がかわらない。「保守革新、関係ないぞ。とにかくその人の人格じゃ」と、立場や地位に関係なく「人」をみきわめて、徹底的につきあおうとする。逆に、地位がある人でも、興味を覚えなければ相手にしない。
 「人間にとって、一番やりきれないことというのはね、忘れられるということなんですね」「人が人を忘れなかったら、人は山の中でもどこでも生きられるんですよ」……。自立した人間と人間のつながりへの信頼感と、それをつぶすものへの怒り、寂しさ……
 あれあれ? と思った。分野は違うけど、石鎚の自然保護運動に30余年の後半生をささげたMさんにそっくりなのだ。権威を相手にしないところ、ケニアを愛する愛情、「個人」をみきわめる目、子供も年寄りも魅了する魅力的な笑顔……。
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 ▽東和町誌の2000枚に及ぶ本編の原稿をほぼ1人で書き上げた。
 ▽10万枚の写真を保管する記念館
 ▽調べたことをまとめるのが大事だ。いろいろな本を読まんでも「高瀬舟」を読めば、文章の書き方がわかる。
 ▽水田がミカンにかわり、スイドウは忘れられる。農民が水を求めてつくったものが、使わないと荒れてしまう。えらい仕事はしたくない。肥料と農薬をだーっとやる。一株一株育てるという考えがなくなった。
 ▽過疎の集落の風景を、宮本は「その集落は川の幅と道路の幅と田んぼの広さが同じくらいだった」と描写した。
 ▽宮本先生は旅姿で県庁においでになるが、「宮本先生、課長に挨拶されますか」というと「課長に挨拶なんか必要ない。あんたがおりゃええ」という感じ。
 ▽原稿も船中で書いている。出歩くときでも机がなくても書く。宮本先生には「見たこと聞いたことを書いとけよ」と言われた。
 ▽古書店主石踊一則「塩を調べるときは、1万冊あつめた。宮本先生は『体系的に集めい。味噌も醤油も関連するものは何でも必要だ』」
 ▽先生は柳田民俗学の項目主義的な調査に疑問をもち脱却する。アチックは、地方の普通の人に民俗誌を書くことをすすめ、出版した。ライフストーリーには、人の生きる知恵が集積されています。  ▽映画監督の姫田忠義 高知家の椿山の焼き畑。岐阜県美並村粥川で住民と話し合いながら生まれた自主制作の「粥川風土記」。「平成の合併に向かう時代こそ、新たな風土記が必要だ。いずれ日本は隅々まで目が行き届かなくなる」]。「地域社会の人たちが自主性を失った時には、民俗はぼくらの研究対象にならなくなると思うんです」(宮本)
 ▽(対馬で)宮本は集まった青年をうんと叱りつけた。聞いてきた人の言葉を使うな、自分の言葉でしゃれと。自分で体験して、自分の本当に思っていることを自分の口でしゃべれと。そうじゃないと地域はよくならないよ。
 ▽佐渡・相川郷土博物館の柳平 裂織 木綿が栽培できない北日本、日本海側の人たちの衣類の素材としての歴史があります。(佐多岬にも])
 ▽「自然は寂しい。しかし人の手が加わるとあたたかくなる」。棚田やミカン山のように、人の手が加わった景観を少しでも取り戻す実験場になれば(大島の交流館)

■深沢卓男「祭兵団インパール戦記」光人社NF文庫 20040314

 「祭兵団」の大尉が中国戦線からビルマやインパールに至る経過をつづっている。
 昭和13年5月に第15師団野砲兵第21連隊で中国へ。昭和18年に南方にうつり、バンコクで終戦を迎え、昭和21年6月に復員した。知人のMさんから聞いた体験談ををなぞるように読んだ。
 特にインパールの描写は悲惨だった。牟田口司令官というおろかなトップをもったばかりに、武器・弾薬・食糧の補給もない、飛行機による支援もない裸同然の状態で、重装備の英印軍に肉弾戦をいどむことになった。
 前線の悲惨な現状をわかろうとしない軍中枢からは「突撃せよ」「臆病者め」といった命令ばかり。しかも朝令暮改。「対戦車弾を補給する」といった約束はことごとく破られる。
 一方の英印軍は肉弾の突撃などは絶対にしない。物量による理性的な戦いをしていた。
 烈兵団長の佐藤中将は第15軍の牟田口司令官によって更迭され、「われわれ将兵は英印軍との戦いには勝ったのだ。第15軍に負けたのだ」と飢えた兵に告げて退いたという。
 敵に殺されたのではない、味方である日本軍に殺される−−。15年戦争全体をまさに象徴している。「英霊」という言葉は、日本の軍国主義・天皇制という最大の加害者・敵をごまかすために使われているのだ。
 慰問文に胸をときめかせたり……といった何げない描写も印象深かった。
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 ▽南進論によって祭兵団(第15師団)は南方に転進。米英と戦争に入る。昭和18年5月、第15師団は南方転進を開始。上海に終結する。6月7日に南方方面軍の戦闘序列に入ったが、兵には知らされなかった。昭和18年9月、深沢輸送船団は出帆し、南方へ。10月2日、サイゴンに上陸。鉄道などを利用し、プノンペンへ。さらにバンコク。タイ北部のランパーンに到着。師団司令部はチェンマイ西部にあった。サイゴンに上陸した祭兵団は、一部隊ごとに終結し、何週間おきかに三々五々部隊ごとにチェンマイに到着した。現地特産の竹筒でもち米を蒸かした食べ物や、果物などを売りに来る婦人も多かった。
 ▽インパール 昭和18年12月10日、チェンマイを出発、列車で北上して12日にメサイに到着。そこから徒歩でタカオを通過しビルマへ。タカオは高原地帯で美しく、野生のミカンやお茶の大木があり、郷愁をおぼえた。メイミョウは高原で涼しく、軽井沢といわれた。ここから西へ下りマンダレーへ。サガインの渡河点をわたり、ビルマ北西部のピンレブの一寒村へ。司令部はピンレブ村の東7,8キロの森林内に設けた。
 昭和19年1月7日、大本営がインパール作戦実行裁可。
 ジピュー山系の7,80キロをこえ、チンドウィン河へ。補給はなし。食糧や兵器資材は各自で携行する。食糧25日分、毛布5枚、天幕1組、携帯燃料缶数個、手榴弾数個、小銃と弾薬……約60キロになり、手助けなしには1人では立てないほど。野砲はすべて残さなければならないばかりか、連隊砲や大隊砲も3分の2が残され、重機関銃でさえ大部分が携行不能。チンドウィン河以西のアラカン山脈は、ジピュー以上の標高がある。
 ▽敵の捕虜のゴルカ兵は、3日前までパキスタン国境にいた。それが大型輸送機でカソムに移送去れ、一夜のうちにこの戦線に投入された。英印軍のなんたる機動力だろう。それに比べ日本軍は、チンドウィンを渡ってから3週間もたっている。ビルマのピンレブからは3カ月もかかっている。
 ▽朝令暮改の軍の命令。「突撃せよ」ばかり。軍司令部は、はるか後方のビルマの軽井沢といわれるメイミョウにいる。軍参謀は何度か前線に来たが、軍命の伝達程度で、状況には耳をかさない。「各兵団とも臆病で忠誠心を忘れている。軍司令官の言う通りに実行していれば、天長節にはインパールに入城し祝杯をあげられたはずだ」と豪語する始末だった。
 ▽烈兵団は、コヒマ付近から撤退し、祭兵団のわきをボロボロの服に、軍靴の底のはがれたのを木の皮の繊維などでしばり、ふらふらになって後退していく。
 ▽ミッションには、第1野戦病院があった。
 ▽昭和19年7月10日、第15軍から、インパール作戦中止の命令が届いた。だが、牟田口司令官は7月1日に方面軍より出された作戦中止命令を10日間も握りつぶしていた。その間に尾本連隊は壊滅……
 ▽木に首をつる者、手榴弾で自爆するもの、1人こっそり通路外に入りこみ、飲まず食わずで自然死する者……。「助けてくれ、置いていかないでくれ」と泣いてたのむ者もいた。いたるところに死体が残り、古い死体は、金蝿の白いうじが真っ白に群がり、白骨があらわになり、残肉は3分の1以下に食い荒らされ、比較的新しい死体は、黒紫色に大きく肥大し、金蝿が群がり、うじがその肉の中に食い込んでおり、新しいのは、やせ衰えた骨と皮ばかりの死体であった。
 ▽歩いてる傷兵も、ほとんどが下痢をおこし、栄養失調。マラリア熱にかかり、脳をおかされる。夢遊病者のようになり、山中に水源があれば、その水を求め、行ってみると、水たまりに数十人も顔を水を突っ込んだまま、折り重なって死んでいた。
 ▽雨期に入ったミンタミ山系は、泥沼化、崖崩れ、濁流、霧雨、夕立、豪雨。一寸先も見えないジャングルを進むのだから、前の人と離れたら行く先がわからなくなってしまう。
 ▽患者護送隊、野戦病院も、乏しい野草や、小動物、昆虫類などの食糧にたえ、アラカン山脈中でも最も複雑で峻険な山や河谷を越え、チンドウィン河畔に到達した。
 ▽最後尾部隊。チンドウィン河は雨のため増水し、道も泥沼化し…栄養失調者の多くは、またここで足腰をとられ力つきて悲惨な死をとげ、新旧折り重なった死骸の惨状は……。腐乱した死骸には、真っ黒に蝿が群がり、なかには白骨がむきだしているものもあり……。栄養失調になっている者は、軍医の厳命にもかかわらず、食事をむさぼり食べてしまう。せっかく生きながらえたのに、そのために死んでしまう。……つねに食べ物のことばかり考えている。だから帯剣をもっていない、ふらふらの傷病者でも、飯盒だけは必ずもっていた。
 ▽丸腰同然アラカン山脈の峻険をこえ、所定の時期に所定の地点まで進出してがんばった。だが、参戦した将兵の8、9割の死体をアラカンのジャングル内にのこしてしまった。亡くなった者の6割以上は餓死であった。
 ▽昭和19年8月30日、祭兵団最後の古北大隊の渡河が完了した。
 ▽昭和20年7月末、祭兵団第15師団は、タイ北西地区に終結を命じられた。8月2日、バンコク北部の集結地に到着した。
 ▽(捕虜収容所)昭和21年の年が明けて、半年がすぎた。(それまで徐々に復員して)最後の復員指示が達せられた。乗船地バンコクに向かって進んだ。昭和21年6月15日、浦賀港に上陸した。

■ノーム・チョムスキー「メディア・コントロール」集英社新書 20031211

 第一次世界大戦中、参戦に批判的だったアメリカ世論を、ありもしないドイツ兵の残虐行為をでっていあげて「反ドイツ」の好戦的な世論に変容させた。「ドイツ兵の残虐行為」の多くは、イギリス宣伝省によって捏造されたものだった。
 湾岸戦争では、オイルまみれになった水鳥の写真がそうした捏造だと後にわかった。今回のイラク戦争も「大量破壊兵器」というウソに始まり、リンチ上等兵の英雄物語というウソが戦意を高揚させた。
 国家による組織的宣伝は、インテリ層に支持されて反論しがたくなったら、大きな効果を生むという。まさにインテリが動かしているマスコミが宣伝のお先棒をかついだ。
 メディアによる宣伝によって、政策がいかにゆがめられ、権力者に都合良くされてきたか、その手口や実例がこれでもか、、これでもか、と出てくる。
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 ▽民主主義  とまどえる群れ(一般市民)を飼い慣らさなければならない。メディアと教育機関と大衆文化は切り離しておかなければならない。大衆の注意をそらしておく必要がある。
 貧困や教育水準低下のなか、スーパーボールやコメディをあてがうだけでは十分じゃない。敵に対する恐怖をかきたてる。ヒトラーは、ジプシーやユダヤ人への恐怖をかきたてた。我々も同様に、1、2年ごとに強力な怪物をつくりつづけた。ロシアがそうでなくなり、麻薬密売組織やアラブの狂信者、フセイン。そして、グレナダやパナマなどの無防備な第3世界の軍隊に大勝利をおさめ、とまどえる群れの注意を周囲の現実に向けさせない。
 ▽大衆の組織化はあってはならぬ。傍観者にとどまらず、参加者になる恐れがあるからだ。組合員数は、第2次大戦中に増えて以降は減り続けた。財界は、スト参加者への反感を世間に広める。「私たちはアメリカニズムの名のもとに団結して調和をはからなければいけない。なのに破壊分子が問題を引きおこす」と。だれが「アメリカの人を支持しますか」といわれNOといえるだろうか。湾岸戦争のときのように「われわれの軍隊を支持しよう」と言われてだれが反対できるだろうか。だれも反対しようとしないスローガン、だれもが賛成するスローガンが必要なのだ。その決定的な価値は、それが本当に重要な「私たちの方針を支持しますか」という問いから人々の注意をそらすことにある。
 ▽アメリカの異議申し立て活動の大半は教会から起こっている。そこに存在し、そこで人々が話をするからだ。中米連帯運動はほとんどが教会を起点としている。
 1960年代に異議申し立ての運動の波がおきると特権階級は「民主主義の危機」と呼んだ。人口の大部分が組織を作って活動するようになり、政治の分野に参入しようとしたからだ。この慢性病を打ち負かすために、この現象のある側面に「ベトナム・シンドローム」という名をつけた。「軍事力に対する病的な拒否反応」とレーガン支持の知識人が定義した。
 ▽エルサルバドルでは、制服を着た米国の陸軍小佐に拷問された囚人も。(俺もその1人)
 ▽インドネシアは東チモールで20万人殺した。米国は積極的支援を与え続けた。
 ▽湾岸戦争。イラクは、国連安保理がアラブ・イスラエル間の紛争と大量破壊兵器問題を検討するのと引き換えに、クウェートからの撤退を申し入れた。これを受け入れていればクウェートは早くに解放され、1万人も殺されることなく、環境破壊もなかった。
 ▽パナマ侵攻で何千という人を殺した。全体の8パーセントにしかならない白人の少数独裁政権にもどして、米軍将校にパナマを支配させた。「自分たちを守るため」といった。その1年後、同じことをサダムはクウェートに対しておこなった。
 ▽1985年には、毎日のニュースの第2位は中米テロが占めていた。シュルツは「西半球に巣くう癌(ニカラグア)を切除しなければ」と。85年には大統領が「国家非常事態」を宣言し、その後、毎年発令されるほどだった。シュルツは「均衡状態における力の要素を無視して、国連や国際司法裁判所など、外部調停に解決を求める非現実的な法律尊重主義」を支持する人を非難した。
 ……国際司法裁判所は、アメリカに、国際テロ犯罪をやめて多額の賠償金を支払うように命じた。アメリカは攻撃をエスカレートさせ、癌が破壊されるまでつづけた。00年の選挙では、「誤った結果を受け入れるつもりはない」と警告し、その理由として「ニカラグアが80年代に国際テロで果たした役割を見逃せない」と国務省が説明した。そのころニカラグアは国際的なテロ攻撃に抵抗していたのに。
 ▽鳩派は、ニカラグアを中米モードに引き戻し、地域標準を課すべきだと提案した。エルサルバドルとグアテマラの状態にしろ、ということだ。大虐殺が進行したいた国だ。
 ▽証拠の提供も引き渡しの要求も拒否するアメリカに、アフガンに対する対テロ戦争をする資格があるとすれば、ハイチはアメリカが殺人者のエマヌエル・コンスタンを引き渡すまで、アメリカに対する大規模なテロを実行する資格があることになる。ハイチの再三の引き渡し要求をしてきた。
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□辺見庸との対談
 ▽ブッシュ(息子)政府は、9.11を絶好の機会として国民への攻撃を強めた。富裕層対象の減税や軍事費の膨張によって、社会政策費は削られる。そういうことから国民の目をそらしたい。エンロンが税金を払ってなかったことからも目をそらしたい。「悪の枢軸」への恐怖に陥れば、国民は指導者のいうがままになる。炭疽菌パニックのとき、たちまち国外のテロリストの仕業にされたが、実はテキサスの国立研究所が出所だった。判明した時点で、新聞の一面から抜け落ちた。
 サダムがクルド人に対して毒ガスによる虐殺などのテロをしたとき、米国は強力に支持した。
 ▽インドネシアが最悪のとき、米国は支援した。日本のおこないはアメリカよりもさらに悪いですよ。クリントン政権は、世論の圧力に負けてインドネシア軍との公式な関係を断った。だが、対テロ戦争を利用して、血にうえたインドネシア軍の将軍たちと再び手を結ぼうとしている。彼らは日本とアメリカによって、虐殺の責任に関して西側の調査の手が及ばないよう守られている。
 ▽パナマ侵攻で、パナマのスラムを空爆し、2000人余りが犠牲になった。
 ▽サンフランシスコ講和条約に、アジア諸国は軒並み出なかった。コリアもフィリピンも中国も出なかった。日本がアジアで犯した犯罪の責任をとるように作られていなかったからだ。憲法をかえるのは確かに由々しいことではある。しかし50年にわたってアジア地域での戦争に貢献してきたことに比べたらささいな問題です。

■宮本常一「民間暦」講談社学術文庫 20040401

 ここ2,3年、うちのトイレには旧暦カレンダーを置いている。太陽暦と比べるとはるかに季節感を感じられるからだ。
  だが宮本によると、この「旧暦」さえも民衆の暦ではなく後から押しつけられた「官暦」であるという。
 新暦の元旦は言うに及ばず、新暦より1カ月ほど遅い旧暦の元旦でさえも、たしかに「春」というには早すぎる。1月15日の小正月の方が、実は昔の民衆の暦の正月だったのではないか、と筆者は推測する。その1月15日という日付は、南方の国々では田植えなどの農耕を始めた日付ではなかったか、という。
 祭りや行事は、村の団結を守るための民衆のツールであり、団結がうすれ、個別化するなかで、祭礼の専門家である神職が生まれた。
  神職は昔は女性の方が多く、女性の地位が今よりはるかに高かったという。
 祭りや行事、習慣を観察することで、旧暦のさらに前にあった「民衆の暦」の姿を明らかにしていくダイナミズムに圧倒される。と同時に、民衆文化を「観察の対象」とする柳田民俗学とちがって、「民衆」の生活によりそうやさしさが全編ににじみでている。
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 ▽p12 江戸のような大きな町になると、荒川や利根川奥のタキギだけではまにあわず、早く和泉あたりから船で運んだという記録ものこっている。……
 ▽徳川時代になってタキギのために山を乱伐することが多くなった。瀬戸内海で製塩がはじまると、……内海の周囲の山々が丸裸なったころ、天明年間にやっと石炭の利用に目が向けられて……。瀬戸内海沿岸は木の乏しい山野になってしまった。百姓でさえタキギを買わねばならなくなり、それが囲炉裏をを急速になくしていったものだと思っている。
 ▽p26 腰をのばして百姓をするようになりたい。うつむく作業ばかり多い農民が卑屈になりやすいのも、その姿勢に由来するところが大きくなかろうか。(農具について)
 ▽瀬戸内海の島々の段々畑は……ここ2,30年のうちに果樹園(ミカン)にきりかえられつつある。土砂の流亡がいちじるしく少なくなる。(農民の姿勢と心情にまで心を寄せる)
 ▽私などは子供の折りに無理にヒルネをさせられた。ヒルネに限らず、もとは休み日は厳重にまもられていた。……そのような休みが夏に多かったのも、疲労回復のための手段として、必然的に生み出された制度であったことを知る。
 ▽p46 イモ 享保年間、瀬戸内海でめざましい人口増殖のあったのは、第1にイモの出現をその理由にあげなければならぬ。そのほか、木綿が織り出されたり、塩や砂糖の製造の盛んになったことも忘れてはならない。イモは、中国から琉球へ、琉球から薩摩へと伝播してきた。
 ▽p49 日本にはずっと古くサトイモを常食とした時代があった。山間にはまだそういう地方が残っている。ゆでたサトイモを串にさして、それをイロリの火にあぶってやて食うのである。 □民間暦(昭和17年の文章)
 ▽大正月は元日中心、小正月は15日を中心。小正月は農耕に大いなる関係をもち、……民間にとっては、小正月のほうが大切であったらしい。2つの正月があるのは、今日われわれが太陽暦の正月をおこないつつ太陰暦の正月を併用しているものと同じ理由であろう。すなわち官暦によらないころの名残の正月が15日であり、1日の正月は官暦以来のものであろうというのである。
 ▽稲作は南方より来たもので、南方では、ちょうどわれわれが正月を迎えるころに稲の植え付けをしている所が多い。稲耕種だけでなく台湾の諸蕃などでも粟をまくのが、1月ないし2月ころで、ここを第1の月としている。この記憶と慣習が……あるのではないか。
 ▽官の暦法なきころには、月が生産生活を規定していた。しかし、民間暦のなかにも太陽の運行にもとづく行事の混入がある。……
 ▽p86 太陽暦の制定は明治5年であって……久しく旧暦がおこなわれているのである。今日(昭和17年)までは旧暦のおこなわれている地帯のほうがその面積からすれば新暦よりはるかに広かった。2,3年前までは大阪市付近は一歩郊外へ出ればほとんど旧暦であり、国の祝日には人が田野で働いているのを見かけた。(「国民」の統合を暦で?)
 ▽p93 シナの暦によって四季の概念の入る前は、もともと夏と冬を大きくわけられていたのではないか。
 ▽p95 民間暦は自然現象のなかにわれわれの世界の安寧を処していこうとする規範であるだけに自然と深い関係をもっている。〓
 ▽木蓮やら桜やら、春早く咲く花をもって、種まきの目安にしたところは多いようだ。(自然と暦)
 ▽p100 明治に日本に来たモールス教授は、「日本人は米国人が米国の動物や植物を知ってゐるよりも遥かに多くの日本の動植物になじみをもってゐるので、事実田舎の子供が花・きのこ・昆虫その他類似のものをよく知っている程度は、米国でこれらを研究する人のそれと同じなのである……」。かほど、われわれの生活は自然に深く根ざしていた。  (鶴と松のエピソード]との矛盾)
 ▽不便を忍んでまで、官暦に従わねばならなかった民衆の立場も考えていただきたいのである。(戦時中にここまで……)
 ▽p114 真宗は親鸞上人の当時より異信の神をまつることをきらった。したがって年中行事はいたって簡単なものになり、逆に報恩講が盛んにおこなわれている。真宗信者には盆正月よりも報恩講のほうが大切な行事なのである。(プロテスタントとの相似〓)
 ▽p123 日本は中央の文化が早く地方に向かって伝播して、国の隅々をまで中央化していったもので……、柳田先生が「蝸牛考」で、蝸の方言が古いものは外辺に、新しいものは内部にと、ほぼ分布していることを指摘されて以来、注意をよんだ。東北のナマハゲとか呼ばれる鬼は、屋久島にもあって……かくのごとき国の両端の一致は相当に多く、これが中央からの伝播でないまでも、広く国内に分布していた残存であるといいうる。
 ▽民間暦は、われわれの生活を幸福にするために生じたものだった。これを母体として、佛教的な行事と太陰暦にともなう諸々の思想による行事が……行事の内容と意味を複雑にした。
 ▽p138 山の神祭りには、山に入ってはならないとされるのみで他の仕事はしてもよいのである。この日は山の神が木をを数えなさる日で、山に入ると人が木の中へ数え込まれてかえれなくなるのだなどと近畿の山中ではいっているが……(〓小田町でも)
 ▽かくてわれわれが一定の日に仕事を休まなければならなかったのは、ただ遊ぶためではなくて、物忌みのためのものであったことが大半だった。……日曜日を休むのは明治に入ってからで、それ以前は1日、15日を休む風が広く各地にみられた。
 ▽p146 ネブタはやはり「眠た」であったはずだ。働く者んとってははなはだやっかいな眠気を、睡魔のよって身に憑くものと考えたのである。
 ▽p153 百舌鳥村(現堺市)は一村全体が忌みこもる村の一つで、12月28日から何もかも、こたつのやぐらまで洗う。他村から年末に来たときでも、門の外へたたせておいて水をまき、家人が外へ出て、かけとりに支払いした。……30年前くらい前から掛け取りなどがくると、戸外にたたせておいて塩をまき家に入れるようにしたが、これも10年前からすたれて、いまではただ人がきたとき用件以外いっさいの雑談なしでかえすようにしている。
 ▽p175 山口県大島では、田植えの日に若い男が通りかかると早乙女たちは田の中へ男をひきずりこんで泥まみれにする風があった。早乙女たちが通行人に泥打ちした習慣は各地にみられ……](シーサンパンナの水掛まつり)
 ▽女の位置の零落したのは、男の権力的進出、とくに祭政の分離したこと、2つには佛教や儒教の思想の影響によるものと思う。天平までは女帝きわめて多く、平安朝文学はほとんど女の手によって牛耳られた女性の世界だったのに、鎌倉以後はまったく女性の文学も地位も(農民の姿勢と心情にまで心を寄せる。)位置も転落してしまっている。
 ▽女の尊ばれた名残。全国諸所に月小屋または産小屋とよばれて、月のさわりのあるとき、または出産のとき、小屋に住む風習があった。これは女の穢れが火を汚すからだといわれているが、元来火の管理者は女であり、家の神の祭りは女のおこなうべきもの。月小屋をヒマヤといい、月経の起こることをヒマになるといったのも、家の祭祀を休むという意味ではなかっただろうか。……女の地位の零落とともに、男神主がこれにかわってゆく。
 ▽若者組はもとは祭祀的呪術的な団体だったと思う。……関西から西では盆に加入する例を相当に見かける。
 ▽p183 全村民でおこなっていた祭祀を、だれかに代表しておこなってもらうようになる。行事はどこまでも一村一郷のものであるとの色彩は、漸次くずれてきた。後来混入の行事がふえたこと、新しい思想の流入が大きかった。安寧を祈るのが村全体から個人へとなってくると、社会的連帯感はとくにこわれやすくなる。物忌みや潔斎のようなわずらわしいものは、いっさいを特殊なる人にまかせて、一般は、ただ神えらぎの日ばかりはなやかに振る舞うようになった。神社の祭礼のはなやかになったのは、村人一般の生活から信仰の大半が失われたためで、信仰のとくにうすらいだ都会で、祭礼がいちだんとはなやかになったのはこのためである。
 村人全体の行事だったのが、まったく神社中心になって、社が漸次宏大なものになるにつれて、村との密接だった関係はうすらぎ、民間年中行事と祭礼は区別してみなければならないまでになった。ここに祭政分離がみられる。
 ▽p193 季節季節の祭りにまつる神は祖霊と自然神であろう。オミタマ様は年神様とともに重要な神様であった。われわれが仏壇に祖先を祭る以前の形式がこの御霊棚や精霊棚ではなかったか。
 ▽p198 薩南諸島の宝島、悪石島。沖縄の島々では、春くる神は海の彼方のニライカナイという常世からであり、先祖もまたそこへゆく。仏教の影響の少ない南の島々では祖霊もまた神であった。正月の神が歳徳神であるのは中国の影響であろう。そして正月の神はミタマ様と歳徳神と2つまつらねばならなくなり、西日本のように仏教も濃厚な所では、ミタマの祭りは12月にはみだしてしまって、歳徳神ばかりが祖霊にかわって神棚に座るようになったとみらるべきものではないかと思う。
 ▽p200 神戸長田神社のツイナでは、鬼は追い払われていない。男鹿半島のナマハゲは、子供は恐れているが、家々で酒肴を供えてもてなしたのは1年の預言をきくべく迎えた。鬼はもと神の姿にほかならなかった。節分の鬼も、このときを1年の境とする人たちのために新しい年をもたらした神の姿ではなかったか。豆をまいたのも神への供物であった。ただ追い払うのであれば叩き付けるのに食物を用いなくてもよかったはずである。
 ▽p228
   ▽p257 綱引きのおこり。奈良県天川村では、勝負は二の次だった。若者たちがひきあったあとで、神社の前に張るのである。もう綱引きはおこなわれず、村はずれに引っ張るだけのところも。しめ縄の意義をもってくる。
 ▽p278 招福の思想は後来のものだったと思う。悪しきものさえ祓えば、そこによき生活はあったのであり、招福の気持ちはむしろ個々の希求が強くなって起こったものであろう。厨房の神としてしかめつらをしていた大黒天は、俵の上に座り小判を打ち出すにいたったのは後世である。招福の思想および行事は、自由意識のともなう個人思想の発達につれて、他人よりはよい生活をとの希望とともに漸次強くなったものであろう。
 ▽p284 常民の節日節日の古い行事は、行事をおこなうことで村は一致し、社会的秩序は保たれた。それが同時に個々の幸いでもあった。  かつて、盆のある夜、性の解放に近い行事があっても……。  都会の発達や新しい暦の流入、新しい文化は、こうした晴れの日と平生の日の区別をしだいになくした。大都会はいつみても美しく、いつ行っても田舎の祭りよりはご馳走が食えるのである。また、田舎では買い物は市日ときまっていたのが、いつでも買えるようになった。戒しむべきは、のべつなきこの消費であって、村人が時折の晴の日に、ややはなやかに振る舞うそれではなかったはずだ。
 〓田舎が急にさびしくつまらなくなってきたのは、晴の日の行事がいたずらに制御されて以来である。大阪郊外のある村では、節日の行事節約の取り決めからかえって生活費が高くなったことをきいた。村で遊べなければひそかに町へ出ていって金をつかったのである。村全体でたのしもうとする風はなくなって、1人ばかりが面白がろうとするようになったという。
 さらに今度の戦で真剣に新しい生活を設計しなければならなくなった。
 過去に節日の振る舞いのはなやかであったということは、和平の久しかったことを物語るものである。芝居も人形浄瑠璃も踊りも、みな神を迎えての振る舞いに源を発し、和平とともに芸能として発達した。