■山本純一「メキシコから世界が見える」 20040405
■丸山静雄「インパール作戦従軍記−新聞記者の回想」岩波新書 20040414
インパール関連の本は3冊目。チンドゥイン川、コヒマ、メイミョウ……といった地名の位置関係がだんだんとわかるようになり、生々しい死の描写が、頭のなかで像を結ぶようになってきた。
これまで読んだ体験記とちがい、従軍した新聞記者が書いているから、描写が客観的でわかりやすい。作戦の背景なども理解しやすかった。
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▽歴戦の名大隊長・伊藤少佐 攻撃失敗をののしられ、「最後の突撃」をいいわたされた。「どうしても死ねということでしょう」とさびしそうに一言をのこして前線に帰っていった。
▽ナガ地区。日本軍がマニプール州に進入したというニュース。恐怖をかきたて村を逃げだすもの、逃げ込んでくるもおが絶えず、部落の20%が死ぬところもあった。…工作班、縁故関係をたよって接触の輪を広げ…。しかし、工作は力の反映である。戦局が不利になると、山地の人々も親英色を強め、工作網は次々に破られた。
▽ビルマ国軍 義勇軍の司令官はオンサン将軍。その任務は日本軍の後方警備だった。日本軍のもとではビルマの真の独立はありえないことを知った。折からインパール作戦は失敗し、連合軍が迫りつつあった。オンサンは、日本軍の指揮系統を離れ、日本軍に向かって攻撃を開始した。日本軍の「傀儡」でないことを示す「あかし」はそれ以外にないと考えたのだろう。
▽ウィンゲート空挺部隊 最初の作戦は、第15軍がインパール侵攻を決意する契機になったし、2回目の作戦は、15軍の防衛圏のただなかに長く踏みとどまって、15軍の補給機能を低下させ、指揮系統を混乱させ、15軍の敗退を決定づける契機をつくりだした。
▽イギリスは、兵力を機動力がつかいやすいインパールに集中させ、そこに日本軍をおびきよせる「内線作戦」をとった。15軍は完全にわなにはまった。
▽チンギスハンの故事にならって、牛や馬をつれていこうと思ったが、川におぼれ、ジャングルで迷い、チンドウィン河をわたれた牛はなく、馬は半分に減じ〓(峰gumo)、象はジャングルに入る前に全部引き返した。
▽チン高地のチャモールから私の退却行ははじまる。山からカボウ谷地へ。白骨街道と言われたカボウ谷地をチンドウィン河畔のシッタンへ。チンドウィンをわたりメイミョウにたどりつくまで。……雨期最盛期の敗走時に戦闘部隊にいたものによって書かれた記録がないのが不思議だった。…結局、戦闘部隊はほとんど死んでしまったからではないか。カボウ谷地をぬけでても、チンドウィンの渡河がひかえ、さらにシュエボーまでが難行軍。そこで生きながらえてもイラワジ会戦
…。
▽〓飯ごうと水筒をぶら下げた兵隊が三々五々下っていく。小銃も帯剣も背嚢もない。杖をついてヨロヨロと夢遊病者のようである。チャモールからシボンをへてモレーまで50キロを、乾パン1袋もらって、2,3日がかりで下るのである。
▽P151 〓カボウ谷地のところどころに「野戦病院」。身動きできない重症患者たちは「遺棄」されたものばかりだった。戦友もなく、回復の望みのないものはおきざりにされた。とくにモレーの野戦病院はすさまじかった。…熱帯マラリアで狂い死にするもの。1日4,50回もトイレにゆく赤痢患者。前線からは下がってくるが、後方に送る手段がなく、病院に患者があふれる。死臭と糞便の臭気がただよう。「水を」「水をください」かすれた声がよびかけてくる。
▽p154 そこここに死体が横たわっていた。白骨と化したもの、腐乱しはじめたもの、一瞬前に自ら生命をたったのか、まだ蠅さえついていないものもあった。おや、頭がないと思って近づいてみると、首から上には蠅が真っ黒にたかっていた。
死体の横たわっている側はやや高く山径に面して勾配があり、樹木がなく、比較的明るくひらけていた。山径に直角の形で仰向けに横たわっていた。やはり、こざっぱりした、少しでも美しいところで最後は息を引き取りかったのであろう。
▽p161,164 渡河点〓mine 船、夜になると「受付所」ができ…。ひたすら渡河を待つ。草むらには点々と死体が横たわる。
▽p181 生還者数
▽p189 戦後、インパール作戦関係の各種の会合に出席しても、ほとんど前線にあったものに会うことはなかった。
▽p199 指揮官、参謀、将軍たちはいちはやく下り、残っていなかった。いつも戦いの犠牲は兵隊に押しつけられる。有力な参謀、部隊長になると、一地域に長く固定化されることはなく、経歴に箔がつく程度の任期を終えると、ほかの任務にうつっていく。危険な任務につくことがあっても、短時日に限られる。インパールの部隊長、参謀、司令官たちは栄進するか、他に転勤した。敗戦の責任をとるものはなかった。しかし戦場の兵隊には転勤はめったにない。五体満足な限り戦場から抜け出すことはできない。
■佐野真一「旅する巨人」文芸春秋 20040427
宮本常一と、物心両面で彼を支えた、実業で民俗学者の渋沢敬三の歩みを描いている。
宮本は柳田国男と渋沢の導きで民俗学の道に入った。
柳田はハイエリートという立場で地元の史家らを利用して民俗資料を収集した。「常民」を研究対象としながら親近感を感じることはなかった。宮本はそんな柳田から次第に疎遠になり、柳田的な民俗学に疑問を感じるようになる。「日常生活の中からいわゆる民俗的事象をひき出して整理することで民俗誌というのは事足りるのだろうか。村人の一番関心が深いのは自分自身とその周囲の生活のこと、村の生活のことである。まずそういうものから掘り起こしていくこと、そして生きるとはどういうことかを考える機会をできるだけ多く持つようにしなければいけないと思った」とつづる。柳田民俗学と決別することで、自らの地歩を築いていった。
農山村の人々の知恵に深い関心を示し、肯定的な面を積極的に評価した。
たとえば対馬の村で、宮本たちに資料を貸か否かを丸2日にわたって話し合う寄り合いの様子を宮本は詳細に書きとめている(p261)。アメリカ直輸入の戦後民主主義を謳歌し日本的伝統を封建遺制として全否定する風潮への批判であり、村の伝統のなかにも民主的要素があることを強調したかったのだという。
読んでいて、中南米の最近15年ほどの先住民族運動を思い出した。グアテマラでは90年代になって、マヤ系先住民族が自らの歴史を「抵抗の500年」と積極的に評価し、伝統的な知恵や文化に価値を見いだす動きを活発化させた。メキシコのサパティスタ運動も、型どおりの左翼運動を反省し、先住民族の文化や価値の見直すことから発展した。1960年代に先住民族に伝わる民謡を発掘して歩いたチリのビクトル・ハラやビオレッタ・パラとも重なる部分もある。
渋沢は、百姓の動きをみれば日本の将来の動向がわかる、という信念があった。終戦直後、「うん大丈夫だ。日本はもう一度立派に立ち直れるよ」とうれしそうな顔で言うのを宮本はしばしば聞いた。貧しくても、村人が知恵とエネルギーを寄せ集めて自立して生きる姿を見たためだろう。そんな「民衆」を支えたいと願って、宮本は離島振興法の成立に向けて走り回った。
だが、高度成長と補助金行政によって農村が急激に疲弊する姿を宮本は目撃することになる。
田中角栄の地元、新潟3区の村で村長が宮本に「角さんの悪口だけはいわんといてください」と釘をさした際、「あの男がやればやるほど村は過疎になり、人々の活力が奪われるのがまだわからんのか!」と激怒した(p332)。たまたまその村で集中豪雨があり、家が壊れたのに出くわしたとき、住人も近所の人も「家財道具を運び出せば補助金がでない」と家財道具を運ぼうとしなかった。「角栄の補助金行政は村の活力を根こそぎ奪い取ってしまうものだと思い知らされました」と同行した須藤護は後に述べている。
晩年、故郷の東和町の沖家室島に橋ができることになったとき、宮本は「政治家の頌徳碑はどこでも建てますが、政治家や知事は世話をして口をきいてくれただけで一文も金を出してはいません。金を出した者にお礼を言った例は公共事業にはないのです」と「自立」を阻む補助金行政に痛烈な批判を浴びせている。
情が深くて率直な宮本のラテン的な人間性も描かれている。
婚約者アサ子に宛てたラブレターは8カ月間で100通以上にのぼり、息子への手紙には「ボクは3人の子がすなおに育って、それを一人前にする力があって、おばあちゃんが幸福な晩年をすごして、おかあちゃんといつまでも恋人同士のように愛しあって、君たちのまえでも平気でキスをしたり抱きあったりしてもおかしくないようなあたたかい自然の中にありたいと思っている」(p278)などと書いている。
か弱き者、不憫な者に接すると、どうしても手を差しのべたくなるから、恋愛も多い。結婚前、病気のときに看病してくれた女性の境遇に同情し、飛び込んでくる女性を拒みきれず、知らないうちに父なし子をつくり死なせた。そのことを婚約者のアサ子に赤裸々に告白し、「私は神でないために多くの欠点を抱くことをかなしむと共に神でなかったことを喜んでいます。私は私の歩いて来た道をいとほしく思ひます。傷だらけな血だらけな道でした。時にはいくどもいい子にならうとも思ひました。併し私としては真実に生きて見ました…」(p102)とつづっている。結婚後も妻以外の女性がいたのは周知の事実だった。
人の悲しみをともに悲しんでしまう。飛び込んでくる女性を後悔するとわかっていながらも受け入れてしまう。そんな「弱さ」を抱えながら膨大なエネルギーをもてあますように歩き回った。彼の人間性は魅力的で、強く共感を覚えるだけど、家族は大変だったろうなあと思う。
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▽p10 宮本が忘れられていたのは、マルクス主義を絶対とする人々から保守的というレッテルをはられたせいだろう。宮本が、近代化によって忘れられた土地と人々のなかに、あえて肯定的要素を見出し、人々を明るく励ましていこうとした。…鶴見良行の「バナナと日本人」は宮本の手法を忠実に踏襲し、アジア世界まで拡大した。
▽p67 「民宿」や「春一番」という言葉を一般に定着させた宮本は…。渋沢の言葉「大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況をみていくことだ。見落とされたもののなかにこそ大切なものがある。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。
▽p95 私は街のひからびた生活者たちを思ふ。そこではラヂオの声の如く力なくコマシャクレタ人々が居る。神経だけいやにビクビクして腰のすわらぬイビツになった理知の所有者。…文句なんかいはないで、くだらぬ事はブタに食はせて、まっすぐにふところにとびこんでくるがいい。島の女の様に、裸のままで。詩も真の生活もそこから生まれる。
…ラブレターのなかでかつての恋愛を赤裸々に告白する。女がかわいそうで捨てられない。泥沼のようにはまった。知らぬうちに子供ができ死なせた。「私の欲するものは貴方の身体以外にない」かう言っているのです。
▽p121 敬三はよく「人がすぐれた仕事をしているとケチをつける者も多いが、そういうことはつつしまなければならない」といった。明らかに、柳田が折口に対して燃やした見苦しい嫉妬心への冷静な批判が含まれていた。……柳田は多くの郷土史家に働きかけて民俗学に興味をもたせたが、多くは忠実な民俗資料レポーターとしておわった。敬三は、1人1人が独自の研究姿勢をもっていくようにし向けた。敬三はごくふつうの漁民や開拓農民にまで声をかけ、筆をとらせた。
▽p157 宮本は1度おとずれたところは必ずといっていいほど再訪した。ある村の案内役からは「あの老人はあなたがまた来ることを信じて15年間も待っている」と言われた。…戦闘的な共産党員にまで信用されたのは、この並はずれた律儀さがあったためだった。
▽p165 昭和17年になると、世の中は軍事色一色となり、宮本がどこを歩いても、徹底した軍事教育をうけて育った子供たちから「スパイ、スパイ」と石を投げられるような時代となっていた。(グアテマラのよう〓)
▽p200 岡正雄をはじめほとんどの民族学者が、積極的に軍部に迎合していったのに対し、宮本にはむしろ軍部の方が敗戦後の政策を視野に入れすり寄っていった。宮本は彼らのように大所高所には決して立たず、いわば小文字の世界に寄り添いながら、戦前から戦後へと着実に歩いていった。
▽p218 ニコ没時代は、確かに敬三を渋沢家の重圧や、社会的名声からくる様々な桎梏から解放した。だがそれから死に至るまでの敬三の18年は、3人の子供を置いたまま妻から一方的に別離されるという不幸な事態を黙ってじっと耐えていくほかない長い孤影の時でもあった。
▽p220 〓当時の宮本を知る人間はいないかと、大阪府庁に残る古い農務部職員の名簿を入手し、片っ端から連絡をとってみた。
▽p230 農地解放「寄生地主の土地は解放されねばならぬ。大地主や不耕作地主の土地もそうだろう。しかし気の毒であったのはわずかばかりの土地を持っていたのを、夫や子が戦争にいかねばならなくあんって、近所にあずけたのがそのままとりあげられてしまった人たちであった。そうした被害者すらみな悪徳者のように言われていた」 地主=悪、小作=善という風潮のなかで、人の目のとどかぬところで弱い者が犠牲にされながらその声がどこにも届かない現実を、黙々と見て聞いて歩いて記録した。
▽p239 「宮本さんは相手が古文書を出してくるとその場で読んであげるんです。常に相手の利益を考えているんです。初対面の人でも100年の知己のように、真実を語らせてしまうんです。
▽p244 昭和28年。…宮本が柳田と疎遠になるのは、大間知の結核がきっかけだった。病の癒えた大間知が柳田邸に挨拶に行くと、柳田は孫にうつるかもしれない、と露骨なほど不快な顔をしたという。これと軌を一にして、民俗学にも疑問を感じはじめるようになっていた。
▽p252 宮本は富五郎の話を記憶にとどめ、宿に帰って一心不乱にかきとめた。…記憶力は超人的だったという。
▽p274 昭和28年に離島振興法ができて12年になり、離島予算が昭和40年には90億をこえたから、結構なことのように思えるが、私には危惧の念がある。無駄づかいが多すぎるように思える。田舎では貧乏なものが多少金を持つと、何はさておいても家の改築をはじめる。離島振興の実情を見ているとそれに似た現象が多い。家だけはりっぱになるが生産の方は大してのびていない姿である。もっと再生産のための設備投資に本気になれないものか。これではいつまでたっても本質的な力で本土に追いつく日はない。」 ふくれあがった離島振興予算が、補助金行政と政治家の一票獲得の餌にとってかわられてしまった現実に、強い憤りを覚えるとも述べている。
▽p282 「離島が100戸以上の場合にはかろうじて発展します。しかし50戸以下ではどうにもならない」「必要数を得られない島は移住するしかないのですか?」「移住した方がましだと考えられないこともありません」といって、それぞれの島の戸数を正確に並べ、それらの島がいまおかれた資源と、人口の関係を説明しはじめた。…
▽p287 宮本は天皇崇拝を口にする人物でもあった。本間雅彦「左翼の連中は『日本残酷物語』の社会派的側面だけをみて持ち上げていましたが、人を見る力のない連中だと思ってました。」
宮本は被差別部落やサンカなどの非定着民に関心をもって歩いた。しかし、近代天皇制を相対化する視座にはつながらず、父祖から受け継いだ伝統的思考をそのまま継承するように、皇室に絶対的に帰依していた。それが、柳田以来の日本民俗学の限界だといえた。
▽p290 「ナチスドイツの建設」にはヒトラーを称賛せんばかりの論調があった。宮本もまたまったく無傷で戦中を生きたわけではなかった。足を使わずに書いた文章には、ややもすると、悪い部分が露呈して、タガのしまらない上滑りな文章になりがちだった。
▽p301 浮気。「私が私のなかにあるものを殺さない限り、もう(アサ子の)笑はうまれそうにない。…私の場合は妻を裏切った」とアサ子に手紙を書いている。
▽p309 写真。よく撮ったのは洗濯物だった。「昭和35年ごろまではまだ木綿が多く、手縫いのものが主だったが、37年ごろから既製品が多くなり…」
▽p311 宮本は、民具を集めることじたいよりも、民具を集めるプロセスこそ重視していた。「民具がどこにあるかを知ってるのは主婦です。ところが彼女らはその使い方を知らない。知ってるのは老人です。けれど老人は運搬する体力はない。若者に運んでもらわなければならない。つまり、民具を集めるということは、老若男女の力を結集するということです」「地域に博物館をつくることは、眠っている地域のコネクションを立ち上がらせることにつながる」
▽p331 柳田学派ほど個別の伝承者に頼りながら、個を消去しようとしたものはなかったし、具体的な土地にすがりつつ、普遍化するに急で、個別の地域性をネグレクトする結果に終わったものはなかった。こうした方法論しかもちえなかった柳田学派が、高度成長期以降、壊滅状態に追い込まれたのは当然の帰結といえた。
■「歌っておくれ、ビオレッタ−証言で綴るチリ・フォルクローレ歌手の生涯」 20040509
音楽といえば北米のものばかり。金髪で米国人風の格好をする歌手による、商業ベースの歌が人気を博した。そんな流れに対抗し、チリの農山村に伝わる先住民族の歌を掘り起こして再評価した「新しい歌」運動の旗手ビオレッタ・パラの生涯をつづった。関係者の証言ですべてを構成するという形は最初は読みにくかったけど、読んでるうちに次第に引き込まれた。
ビオレッタは1917年に田舎の貧乏な家に生まれる。母はインディオ、父が白人で教師だった。
子供の頃からサーカスを渡り歩き、14、5歳から、酒場などでうたって日銭を稼いだ。
周囲の人たちがうたう民謡をきいて記録してまわる。それを酒場でうたう。独特のしゃがれた声は「へたくそ」と言われ、テレビや本流の評論家には一切理解されない。それでも貧乏をしながら、田舎を歩いて歌の収集をつづける。その姿は、民俗学者の宮本常一と似ていると思った。農山村の生活や畑仕事を自らの体で知っていたからこそ、貧しい農民に共感できた。歌を収集するときは、まず自分から歌い、「1人1曲ずつ歌いましょう」と相手にうたわせる。そして土産や写真を残していく。そんな態度もそっくりだ。
収集した歌を、当時北米の音楽ばかり流していたラジオに割り込ませることで、田舎の人は、自分たちの伝統に価値があると気づく。
土着の歌に執着し、貧しい農民たちの誇りを取り戻す運動は、社会変革に直接結びついた。世界初の選挙による社会主義政権を誕生させる原動力にもなった。ビオレッタの取り組みをビクトル・ハラたちが受け継いだ。ニカラグアのメヒア・ゴドイや、ハイチのミシーク・ラシーンなども同じ流れのなかから出てきた。
世界的に著名な音楽家なのに、死ぬまで貧乏だった。欧州では場末の酒場で歌って日銭を稼ぎ、晩年はサンチアゴ郊外に歌をきかせるテントの酒場をつくり、自ら料理して客にだしたが、興行的には失敗する。わがままで激しやすい強烈な個性もあって、何度も恋に破れ、49歳で拳銃自殺をとげた。
−−−−−−−−覚え書き−−−−−−−−−−−−
▽19歳で、1歳下のの鉄道員と結婚。酒場で働く。 「1冊の家計簿に私を縛りつけておき、とても優しく甘くふるまった。そして、ビオレッタを地獄行き10年間の刑に処したのだ」
▽一生ずっと闘ってきて、ある年齢になる。仕事も家も不安定で、そのことで、孤独なんだという感じが加わるに違いないよ・・・石を愛し、木立を愛し、人間を愛して、50歳に手が届く。その年になってから恋人をなくすとねぇ。
▽「最後の作品集」と自ら名付けた。「gracias a la vida」もそのなかに含まれていた。自殺直前の最悪の状態で「人生よありがとう」と言う。いったいそこで何を考えていたのだろう。
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