2004年6月

■姜尚中「在日」 講談社 1500円 20040622

  在日問題に限らず、イラクやアフガンなど様々な問題で辛口の発言をしている筆者の基盤は、ふたつの故郷の狭間にいる「在日」という境遇にある。インサイダーでもアウトサイダーでもないからこそ、どっぷりと日本に浸りきっている日本人には見えないものが見えるという。
  「狭間」の境遇を積極的に生かす筆者はしかし、子供のころから自分の置かれた状況に悩み続けてきた。そんな半生を、格好つけず、てらうことなく、赤裸々につづっている。
 在日2世として朝鮮戦争の年に熊本に生まれた。学校では歴史の授業に疎外感を覚え、家では、かたくなに朝鮮半島の因習にこだわる母に違和感を感じた。
 一世にある「朝鮮民族」としてのアイデンティティは欠落している。かといって日本人にはなれない。根っこがない不安定な感覚に悩み、ときに過剰なほどにナショナリスティックにもなった。
 「在日」としての自分、「在日」からの世界観にしばりつけられていたことに気づかされたのが、30歳を前にしたドイツ留学のときだった。
 在独ギリシャ人の友人の父母は、ドイツでは差別され、それでもギリシャの文化を頑固に守りつづけていた。まさに自分の父母ら「在日1世」と同じだった。在日は孤立した存在ではない。全世界に「在日」がいる。在日の問題は普遍性のある問題なのだということに気づく。
 今は、一世の思いを胸にしっかり抱いて、しかし、彼らにできなかったことをやっていこう、「東北アジア人」として生きていこうと思っているという。
−−−−−−−−−抜粋・要約−−−−−−−−−−−
 ▽母は旧暦にこだわり続けた。半世紀以上におよぶ「在日」の歴史の中で、すべての祭儀や法事をやってのけた。神経症的ともいえる故郷の習俗や祭儀への執着が、あまりにも不合理に思えて仕方なかった。祖先崇拝と土俗的なシャーマニズムの世界は、常軌を逸した迷信意外のなにものでもなかったからだ。
 母は異国の地で根こそぎもぎとられた記憶に生命を吹き込むことでかろうじて自分がだれであるかを確かめながら生きていた。
 「在日」から逃れたい。母たちの黄泉のような世界から逃れたい。鬱屈したわたしの願いは、上昇志向の果てに翼をなくし、地に墜ちてしまった。母たちの無知と迷信をしたり顔で見下してただけではないか。激しい自己嫌悪に襲われた。
 ▽失郷者として日の当たらない場所でひっそり生きた「おじさん」。日本の妻や子と離れ、韓国にわたったおじさん。歴史が強いた過酷な人生に打ちひしがれながらも、ふたりはそれぞれの作法で精一杯生き抜いたのだと思う。苛酷な人生を生き抜いた「鬼胎」たちの記憶を、彼らが生きた場所にとどめておきたい。
 ▽学校での歴史や社会の時間は、苦痛であった。なぜ自分は「在日」なのか。どうして父母の国は分断され、おたがいに殺し合いをしたのか。なぜ自分たちはみすぼらしいのか。それらを口に出して言える友や先生はいなかった。帰属すべき国は2つに分断され、異国の地でも同胞相争う。まるで「歴史の屑」のようなイメージが広がっていた。
 ▽「在日」は、ディアスポラ(民族的散在)状態に置かれた被差別的少数者だった。…本国からは「在日」は「よそもの」扱いされていた。総連も民団も本国から介入を受けていた。
 ▽昔子供であった大部分の者が今は忘れてしまった何ものかを、ずっと保存するよう努力したいと思ってきた。在日1世との記憶が、ずっと引き続き確証しようと願ったものである。
 ▽イラン革命。「アラブ人(ペルシャ人)は悪魔」というイメージ。集団としての彼らは個性のない病理的な群衆によって表象されていた。それを素朴に受け入れていた。あれほど、「在日」の他律的なイメージに悩まされたことがあるにもかかわらず。
 それでも、イランからの留学生と接触するようになってステレオタイプなイメージは壊れていった。アメリカに敵愾心をあらわにするには理由があった。秘密警察に家族を殺されていた。その警察を訓練を施したのがCIAやモサドだった。
 イスラム復興主義のもとに、恐怖政治がしかれた。しかしそれでも、イラン革命は、湾岸諸国の中で相対的に民主化されたイスラム共和制をもたらした。そのころ、イラクのフセインが、イスラム革命の輸出を阻むように、イラン・イラク戦争を仕掛ける。湾岸地域のアメリカの失地回復の切り札としてサダムが注目を浴びた。
 ▽独裁者という「壁」を少しでも突き崩すことが、未来を約束するに違いないと信じ切っていた学生時代が、朴大統領暗殺によって突然幕をおろそうとしているようだった。そして、何かより大きな悲劇がはじまる暗い予感がしていた。予感どおり、無差別の市民殺戮がはじまった。
 ▽ドイツでギリシャ人の友人インマヌエルと知り合う。当時はギリシャ人をはじめとする南欧系労働者の差別は根強かった。トルコ人は不可触賎民扱いされていた。  彼らには、ドイツ人の上役たちは尊大で横柄な、冷たい合理主義者にうつっていた。ドイツは金を稼ぐ国ではあっても、人のぬくもりの感じられる永住の地とはみなされていなかった。 インマヌエルの両親は、ビール工場で働いていた。廃品回収をする「おじさん」と似通っていた。彼の母の「おふくろの味」は、サンゲタンを思わせるギリシャ料理だった。彼らがドイツの「在日」のように思えた。ここにも故郷と異郷の狭間に生きる人々がいる。…世界史のなかの「在日」ということについて考えられるようになっていった。「在日」は、決して孤立してはいない。その確信が芽生えようとしていた。
 ▽85年、指紋押捺拒否者に対して「日本の法律に従わないならば、自分の国に帰ればいい」という反応が大方の世論の風向きだった。「在日」を「第三国人」と蔑称していた時代の記憶が生き続けているように感じた。
 母「やっぱりいかんばい。こがん制度は。なんで泥棒のごつ扱われるとかね。オモニも押さんけんね」と断言した。そうしてわたしは埼玉県で押捺拒否の第1号になった。
 さまざまな住民が支援してくれた。「在日」が同じ目線で顔のある「住民」としての日本人とはじめて出会ったように思った。  …1年後、逮捕される苦境にあえて身を置くのか、回避するのかのジレンマに立たされた。逮捕されれば「拒否運動」にも弾みがつくに違いない。でも、生活のメドすら立たない「オーバードクター」の身で、そんな「リスク」を抱え込めるだろうか。「在日」が「犠牲」を甘受することで持続する「運動」なんて、いったい何になるのだ。…押捺することを告げると、支援者のなかに重苦しい空気が広がっていった。そのとき、土門先生(牧師)が口を開いた。
「市民の運動はね、国家権力と対峙するとき、敗北するに決まっているんです。負けて、負けて、負け続けて、しかしいつの日か勝てないけれど、負けてもいない、そんなときがくるはずですよ。だから姜さん、あなたが今犠牲をこうむる必要はないんです。姜さんがこんなふうに悩まなければならない状態を作っているわたしたち日本人こそ、問題があるのですから」 (同じころすぐ近くで高校生だった僕はこんなことがあったとは知らなかった。知らぬことの罪)
 ▽昭和天皇の死 「自粛」の総動員体制の息苦しさに辟易しながら、自分の育った日本という社会を見つめ直す必要に迫られた。日本人とはなんだろう、在日とは。インサイダーであり、アウトサイダーでもある「在日」の目で、見つめ直してみたい。 (在日、は外国人ではない。住民である。それが普通なのだ)
 ▽企業や組合、地域などを中核とする共同体意識がくずれ、社会的なセーフティーネットが、ほころびはじめるようになった。日本国民の「在日化」と言えるような現象である。
 「在日」は長い間、社会的なセーフティーネットの張られていない状況の下で生きてきた。わたしの父母らの1世はそうしたリスクの高い状況を否応なしに受け入れざるをえなかった。つねに「明日をも知れない我が身」の境遇だった。それと似通った境遇が大方の日本人にふりかかろうとしているのである。
 ▽ザイードから学んだこと。「在日」は、いわばアマチュアとして日本で生きなければならなかった。日本人であるということは、それだけで日本社会についてのエキスパートだる。
 つねにインサイダーの中につからずに、どこかでアウトサイダー的な面を保ち続けることは困難がともなう。しかし「亡命」のような境遇を生きるものにしかわからない歓びがあるという。そう思えば、父母や「おじさん」たちは、ただ辛かっただけではない。底なしに明るい笑いと屈託のないたくましさがあった。
 自分はアマチュアでも発言できるはずだと思うようになった。エキスパートも多くの場合過ちを犯したり、権力に逆らうことを抑制する場合が多いのだ。
 ザイードは亡命者のようにアメリカの中で行き、インサイダーであると同時にアウトサイダーであり、パレスチナに行っても、彼はアメリカ人として見られなかったのではないか。  わたしは80年代まで、つねに「在日」という回路を通じてしか日本をみていなかった。アマチュアとして発言するということのなかに知識人という一つの役割を見出そうという彼のメッセージは、非常に胸にこたえた。だからこそ積極的に発言したいと思った。
 ▽日本とも、南北朝鮮とも折り合いがつけられないまま、半世紀余り「在日」で生きてきた。しかし、今ではこの折り合いの悪さは、新しい可能性に通じているのではないかと思うようになった。その可能性が「東北アジアに生きる」ということなのだ。
 ▽学生時代まで、二世は一世の「欠落体」と思っていた。一世がもっている、祖国への愛着や民族への帰属意識を持ち合わせていなかったからだ。その欠損を埋めようと、過剰にパトリオットになったり、民族主義になったりしたのだが、所詮借り物だった。一世たちの記憶を抱きしめて、しかも一世たちが思い描けなかった「在日」を生きることで、東北アジアにつながっていけるのではないか。これは失郷者のひとつの夢だと思う。 

■Joan Jara「VICTOR--An unfinished song」 20040526

  ビクトル・ハラの妻で、イギリス人のホアンが夫の生涯を描いた。
 貧しい田舎の家に生まれ、首都ではスラムに住み、市場の屋台の仕事をする母を手伝った。貧しい暮らしのなかで唯一ふれる「文化」がカトリックの青年活動「アクション・カトリカ」だった。ここで育った人たちは後にキリスト教民主党の活動家になった。ビクトルも宣教師になろうと考えていた。
 恋人からもらったギターを、幸せなときも不幸なときもつまびいた。音楽は耳で覚えたから、曲をつくっても楽譜に落とせない。母のうたう田舎の民謡がビクトルの音楽の土台となった。
 当時、米国資本のレコード会社が支配し、米国風の歌でなければ人気が出なかった。歌手はアメリカ風の名前にかえて(エンリケがヘンリーに)、ブロンド髪のヤンキー風にすると成功すると言われた。逆にアルゼンチンのペロン政権は、アルゼンチンのアーチストが音楽番組の最低5割を占めるようにすることを義務づけた。それがフォーク運動の刺激になっていた。
 ビクトルは、農民に伝わる音楽を丹念に掘り起こして歩いた。文化の根をさぐり掘り起こす活動は、米国の音楽が支配する時代だからこそ、左翼の運動と結びついた。
 1970年、人民連合のアジェンデが選挙に勝ち、世界初の選挙による社会主義政権が誕生する。スラムでの生活改善や教育の充実、銅山の国営化など、一定の成果を収めたが、右派勢力はCIAなどの資金を得て巻き返しをはかる。タンクローリーの経営者によるストは、輸送をまひさせ、燃料を運べず種まきも遅れることになった。食糧も日用品も店頭から姿を消した。
  それでも人民連合が地方選挙などで勝利を収めた。
  従来、チリ軍は政治に介入しないという伝統があったのだが、次第に不穏な空気が覆う。「憲法擁護」を唱えていたプラッツ将軍が引退させられ、ピノチェットが権力を握ると、クーデターは秒読み状態になり、アメリカ海軍は公然とチリ沖で「演習」をした。
 ひたひたと内戦が間近に迫る。アジェンデ支援のデモなどを時折組織しながら、重苦しい日常を生きるしかない。たぶん日本で戒厳令が敷かれたとしても、海外に逃げられる余裕のある人以外は、そんな日常の連続を生きることになるのだろう。僕もおそらく自分の無力さに絶望的になりながらも、日々の生活を送らざるを得ないのだろう。
 73年9月、クーデターが起きる。いつものような朝、時折爆音が響き、ラジオが急変を告げる。ビクトルは職場の大学へ急行する。それから2度、電話があったが、二度と会えなかった。
 次に会ったときは、長い長い死体の列のなかの1体だった。殺されるまでのできごとを、欠けたパズルを拾い集めるように、再現していく。
 拷問され、腕を砕かれ…それでもうたい…。細かな描写に圧倒される。これはチリだけの話ではない。日本の未来を暗示しているのだとも思えた。
−−−−−−−抜粋・要約−−−−−−−−−
 ▽結婚してからも家事をこなす。料理も掃除も。市場で母を手伝ううちに習った。チリの男には珍しかった。  ▽65年に開かれた、Pena de los Parra は、音楽運動だけでなく、左翼の集まる場になった。そこでは、若者の多くがチェの真似をしてひげをたくわえた。ベトナムやウルグアイの人も来訪し、民衆芸術のクラフトも売った。  民族の村をまわり、歌にする。
 ▽ビオレッタは難しい性格だった…。自殺の数ヶ月前、「グラシアスアラビーダ」をつくった。ビクトルはそれを聞いて涙を流した。まもなくテントで自殺した。その後、高く評価されるようになった。  ▽(米国訪問)「チリ人なのに文明人なのに。でもスペイン語訳なんてナンセンスよ」という。すかさず「チェーホフの英訳よりはまし」と答えた。「アメリカはみんなが孤独。チリは文明化されていないというが、自然の生活があることは喜ばしい 」
 ▽「アマンダ」 病気の娘、母、家族への思いをうたう。未来を予見するかのように。
 ▽アメリカが軍や警察を支援。「内なる敵」となった。なのに、チリ軍は憲法と民主政府を守るもの、という幻想があった。軍にも貧困層が多い、仲間が多いはずだと思いこんでいた。軍の規律への誤算があった。
 ▽1970年 人民連合 0.5リットルのミルクを子供に配給する。国営化…。69年に1930年代以来はじめてクーデター未遂。以前にはないことだった。
 ▽大統領選。メディアはほとんどが保守派が握り、反人民戦線だった。これに対抗して、スローガンの落書きをするようになる。右翼や警察を警戒して素早く描かないといけない。ヘルメットをかぶり、チームで警戒して夜のうちにかく。落書きチームは全国に展開した。
 ▽「人民連合の音楽」はインディオの楽器だったが、同時に行進曲が必要だ、となり、「ベンセレーモス」ができた。ビクトルが作詩し、一気に広めた。右翼は小グループで出現しては暴力をふるった。人民連合はすさまじい動員力だった。右翼は実はほかの部分に少しずつ力を伸ばしていた。それを我々は見誤っていた。
 ▽人民連合が政権をとり、それまでの「抵抗」の歌から建設的な歌へと転換しなければならなくなった。そう簡単には転換できずに悩んだ。El derecho de vivir en paz
   ▽農作業、収穫の手伝い、文盲撲滅キャンペーンに学生が出かける。天災救助のボランティア(ニカラグアと同じ)
 ▽1971年、銅山の国有化。それまで国の輸出収入の4分の3をこの銅山が占めていた。右翼も法案に賛成し全会一致だった。
 ▽サボタージュとマスコミによって作られた物不足。新聞が「歯磨き不足」と一面記事に載せ、あわてて買うから店頭から消える。…「ビクトルはホモ」といったデマを載せる。マチスモ社会では効果的なデマ。「ビクトルは共産党から追放された」とも。
 ▽人生に何の希望ももてなかった貧困層に希望をもたらした。72年、かつてのメイドに久しぶりに会うと、家を掃除して修理して、彼女自身が生き生きとコミュニティ活動に参加していた。「セニョーラ」ではなく「コンパニェーラ」と私を呼んだ。
 ▽El pueblo unido…のスローガンは、キラパユンが歌った。右翼の暴力と左翼の分裂という状況で、「団結を!」と呼びかけるものだった。
 ▽ネルーダは、内戦の危機を警告していた。ストライキの影響で買い物は一日がかり。ブラックマーケットに行くしかなくなってきた。10月の交通ストで、小麦を播種する量が足りなかったから、パンも不足していた。
 ▽ビクトルがペルーにいたときにクーデター未遂。戦車隊が進軍するのを、プラッツ将軍が説得した。そのときのスローガンが Soldado amigo el pueblo esta contigo。しかし、右翼の秘密拠点には着々とマシンガンなどの武器がためこまれていた。
 ▽「大学の自治」を無視して、「赤い大学」の捜索に何度も警察が踏み込む。ファシストのギャングは施設を破壊してまわった。…ローリーのストはCIAなどの支援があった。…暗殺や暴動が次々に起きた。  海岸の町へと避難した。その数マイル向こうにはアメリカの軍艦がバルパライソに近づいていた。その海岸での思い出が、8歳の娘の最後の父の記憶となった。「遅すぎることにならないように」と遺書としての歌をつくる。「私の歌う意味」という内容だ。
 ▽73年9月3日、バスオーナーのロックアウトで公共交通機関がない。食糧もガスも不足。大統領がテレビで演説中に停電する。右翼系のラジオは「外へ出ろ!」と扇動する。内部事情にくわしいテロリストの犯罪だった。軍の助言がなければそんなことはできない。「内戦」が語られ、食糧や薬品を備蓄した。
 ▽9月3日、アジェンデと閣僚たちと人民が出会う巨大デモ。そのなかには、新しい陸軍司令官のピノチェットらはいなかった。それがアジェンデの見納めとなった。
 ▽9月11日、クーデターの朝もいつものよう。「いつもより早くアジェンデの車が走っていった」「バルパラで異常な動きがある」。レッドアラート、で、労組は招集をかけた。
 ラジオでアジェンデの最期の演説。「私は降伏しない。人民の忠誠に私の命でおかえしする。我々が数千人のチリ人の意識にまいた種は完全に消去されることはない。…」  ビクトルは職場の大学に出ていく。が、「さよなら」とはお互いに言えない。「できるだけ早くもどるから」「ちゃお!」
 ▽「マルクス主義のガンを切除する。アジェンデは死んだ。アジェンデの家は廃墟になった」と何度も放送。「過激派」を逮捕していった。ボクシングのチリスタジオに連行されていく。そこはビクトルらが何度もうたったところだ。
 ▽拷問のあと、鉛筆と紙を貸してくれ、と、たのんだ。最期の詩を書くためだった。最後の行に来たとき、警備兵がやってきてチリスタジオへ連れ出そうとした。ビクトルは同志の1人にすかさず髪を手渡した。彼らは二度とビクトルを見ることはなかった。
 ▽プリンスと呼ばれる将校が拷問する。「歌え! できるならやってみろ」。4日間の拷問の後なのに、ビクトルは人民連合の歌ベンセレーモスを口にした。そしてぶちのめされた。
 ▽ネルーダの葬式。人々が集まり、軍隊の前で、「パブロ・ネルーダ プレゼンテ」「サルバドール・アジェンデ プレゼンテ」「ビクトル・ハラ プレゼンテ」と叫び、最初はおずおずと次第に全員が「インターナショナル」を歌った。人民連合の最後の公的なデモであり、ファシスト体制への最初の公的なデモとなった。…名前も知らない人たちが励まして、抱きあってくれた。そのなかには、後にあ「行方不明者」リストに載った人たちも少なくなかった。

■福岡正信「自然に還る」春秋社 20040618

  「分別知は否定している」と口癖のように言う。神をしばしば口にして、現代の「知」を否定する。だから、学者が周囲から遠ざかってしまう。でも、読めば読むほどまっとうなのだ。
 科学者は物を分解していけば生命の根源がわかると思い、陽子や電子を発見した。遺伝子をも解析し、改変さえするようになった。だがどんなにミクロにわけいっても「生命」は見えてこない。むしろ、遺伝子操作や核など、自然=神を崩壊させる方向に向かった。
 天文学者はより遠くの宇宙を観測できるようになったが、ナゾはますます深まるばかりで、宇宙の始まりと終わりは永遠に解明できそうにない。
 農業技術者はよりよい収穫をあげようと肥料を開発し、その肥料で育った稲を病気から防ぐために農薬をつくった。だが、肥料によって一時的に生産量が増えても、長期的には地力が衰え、それをカバーするためにさらに多量の肥料や農薬を必要とするようになった。「何もしない」福岡さんの自然農法の単位面積あたりの収量を大きく上回ることはできないどころか、一定面積に投入するエネルギーが、収穫がもたらすエネルギーを上回るようになってしまった。その結果が、アメリカなどの砂漠化だ。
 筆者はもう40年近く、「いかに何もしないで作物を作るか」を実践してきた。人間が汚す前のように豊かな大地をつくり、果樹や野菜の「自然型」をさぐり、神が創った「自然」を取り戻せば、何もしなくても最高の環境ができるはずだ。野菜も果物もたわわに実る、エデンの園のような世界が実現できるはずだ、と努力してきた。
 事実、彼の「山」は、大根やゴボウ、スイカやメロン、麦やハヤトウリが混在して、豊かな実りをもたらしてくれる。
 福岡は、あらゆる「知」を否定する。神を理解しようとすることじたいが無意味だという。では生命や神を「知る」ことはできないのか。彼が言う「いっさいは無」とはどんなときに感じられることなのか。
 土を耕し、草を抜いているとき、何も考えずふっと意識がとぶ一瞬がある。小鳥の声、虫の羽音、そういったものが伝わってくるときがある。禅をするよりなにより、百姓こそが神に近い存在だと彼は言う。
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 ▽表裏2面の矛盾に翻弄される私は、家族の者からみても疎ましい存在でしかなかった。この数十年、安穏な日は1日もなかったのです。
 ▽稲は毎年枯れるが、米粒は毎年生きつづけている。今日の私は今日死に、明日の私は今日の私ではない。生きるということは、今日に徹する以外に道はないんです。
 ▽人知で人間の食物を作りうると思い始めたときから、……食物を加工し、料理して食事せねば生きていけない動物になって、しかもそれらの努力が、天につばする結果になり、自然を滅ぼし……。人知はもう、自然発生の智の域を超えている。神の智から逸脱した人知を否定するんです。
 ▽原始的な野生の小麦は、メソポタミアに発達し、野生稲の発祥地は、中国南部やブルマやアッサムの奥地。アフリカのサハラにも古代から稲があったと言われている。米麦の発祥地にすみついた古代の人間は、文明を築いた。が、いずれも砂漠と変わり果てた。
 ▽アメリカ 大農場経営は、毎年小麦やトウモロコシばかりつくる単作になる。地力を消耗させ、10年ごとに収益率(投与するエネルギーに対する収穫の比)は半減する。数百ヘクタール耕作する農民が、1,2ヘクタールの日本農民ほどの収入が確保できず、離農してゆく。
 ▽有機農業は、欧米でも、日本の一昔前の堆肥農業をまねたもの。牛の糞尿を堆積するまでは機械化で何とかなるが、それを広大な畑にまくことで失敗している。……「緑肥草生の方が重要だ」と話したら感心された。
 ▽1,2ヘクタールの園では、鶏でさえも多数放すと、土が悪化する。一番いいのは、果樹園の下に緑肥草木や野菜をまいておけば、誰もいない方が、早く土地が肥沃化するということ。各種の果樹の中に肥料木を混植し、緑肥や野菜の種をまいておけばよかった。……ミカンの虫の天敵がいたというのは、この自然農園がいよいよ自然にかえり自立しはじめたということになる。一時は園が荒廃するように見えたが、土が肥え、草木が茂りだし、果樹、野菜も無肥料で成長しだし、無消毒でも天敵がいるようになって、きれいな実がなりだした。
 ▽科学的には雨は上から降るが、哲学的には下から降る。砂漠化を防止するために水をひくと、塩分の集積を招いて失敗する。砂漠帽子にはまず、地表を緑の草で被覆する。あらゆる種類の種子を集めて、飛行機から、雨期の直前、いっぺんに見渡す限りの全土にまいて、どれが生き残り、どう育つかテストすることから始める。1年に1%でも生き残るものがあったら、翌年もやる。3年失敗するつもりでまく。本当の自然をさぐって、その土地の自然がどうであったかということをキャッチしていく。その土地に今、何が生えるかということを知るために、各種の種をばらまく。これはお賽銭です。自然に教えてもらうための材料を提供する。それで、土地の神様の好みの物を食べてもらう。
 ▽日本食 気になるのは、五穀のなかの雑穀が忘れかけられていること。アワ、キビ、ヒエ、アズキ、ソバのように、小粒で原始の自然に近いものが健康にいいと思う。小さい物ほどエネルギーは凝結される。
 ▽アメリカの自然食 自然食から、玄米をよくかんで食べる習慣ができてきた。アメリカ人の味覚が違ってきた。スーパーには、米の並ぶ上に甘酒やライスケーキがずらりと並んでいる。自然食から始まったために、日本人の昔の食事みたいなものをうまいと言う。欧州のイギリスでは、フランスやイタリアから米が運ばれる。売られている物の主流は自然農法の玄米になっている。イタリアのミラノの自然農法の玄米が貴重がられている。
 ▽都会のなかにあって、玄米・菜食なんていっても、意味がないとも言える。
 ▽日本の農法ほど、土地を大事にした農法はなかった。黒土を保って、毎年米が作れる田畑は世界中にもなかった。その黒土の上にできた食物は、世界最高のものであったが、その食が消え、百姓の幸せも急速に消えた。
 ▽人は何をささえに生きているかというと、根底に、自然に生まれ、自然によって生かされている確信があるからだと言ってもよいでしょう。しかし人造人間は、神の御手によって生かされているという安らかさを一生もつことができないでしょう。
 ▽ヨーロッパ 全体が放牧場。牛が喜ぶスロープはあっても段々畑はない。ため池がない。だから土が流れっぱなし。だから土地がやせている。ブドウは土が流れて堆積した土のところで作らないといけない。ワインと牛が土地をダメにした。……
 ▽放牧牛が多くなるほど、草の緑の色があせてくる。多頭飼育ほど、濃厚飼料の麦、トウキビに依存するようになり、経営は苦しい。実際に、2,30頭くらいまでの小農のほうが安定していて、何百頭も飼っているものが苦しんでいる。(コーヒーもそう]、ミカン農家も])
 ▽日本人は、もともと宗教的風土はあっても、確固とした宗教心はなかったのでは。だから、邪教の混迷のなかに埋没して、脱出できなくなっている。
 ▽工業社会の分業による生産方式が農業にも適用された。農民の就労時間の短縮と農民の失業率増大に役立っただけで、実質的にエネルギー多投の農業に転落した。労働生産性が向上したと思ったら、土地の生産性は低下してきて、エネルギー収益性は逓減した。終戦時には投入エネルギーの4倍のエネルギーが収穫された。20年後にはゼロになり、近代大型化農法では、投入エネルギーの半分という状態になっている。  ▽うまい米は原則的には弱い米で、農薬多投の公害米。農民の負担は増大する。……農業予算赤字は農民のせいだろうか。米国農民は設備の2倍の補助金を受けている。
 ▽何もしなくていい、という考え方が正しいのかどうか、般若心経のある言葉が本当かどうか試してみたかった。何もしなくて米ができるかどうか試してみようと思った。終戦後、ああしなくてもよかったんじゃないか、こうしなくてもよかったのじゃないかという追究をしてきた。田を鋤かなきゃいけないということがほんとうだったのだろうか…。
 ▽米麦連続の不耕起直播。中国・四国の県立の農業試験場が取り上げるようになった。田植えは無用だ。収量が田植え栽培より直播の方が上になっている。全く耕さない方が楽で得。不耕起直播の、10月12月に種をまいたのが一番収量が多かった。麦と米とを一緒にばらまいて作るやり方。  稲がある10月のはじめにクローバーの種を2,3合、指の先でつまんではパッとふる。稲を刈る1,2週間前に麦をもっていって、ザルにいれてばらまく。そして稲を脱穀するのにそのわらをふりまく。長いまま。…田んぼから麦と穂をとって帰るぐらいで麦、わら1本も持ち出してはいけない。
 ▽私は田を鋤かないけれど、クローバーをまいておる。春になったら急に繁る。そのなかに籾種をばらまく。そうしといて水をためてやる。クローバーは枯れてくる。そしたら水を落としてほっとけばいい。
 ▽自然農園には、農業技術者、役人、ジャーナリスト、学者、若者、黒人ミュージシャンなど、いろんな人が訪れる。(〓峰雲)
 ▽自然と人為が調和した最高傑作が千枚田である。それに宿る心と自然即神が、全国で滅びようとしている。シルクロードの遺跡は滅びても、滅ぼしてはならない。
 ▽アカシヤモリシマの種を毎年1粒まくだけで、風流な山小屋くらいだったら、一生の間に何回でも建て替えられる。地震が来れば、その都度新しい家になるといって喜べるようになる。
 ▽自然農園づくりは、外人にとっては、理想郷づくりになっている。…オランダの牧師さんが、芝生を掘り返し、家庭菜園を作り、そこにエデンの花園を見出した…。(自然農法の庭づくり〓)
 ▽農民同士の土地の売買には、昔から今も限界があって、10アールあたり、米で50俵(3000キロ、100万円まで)が相場だたのです。…だれでもどこにでも、わらぶき竹の言えでも建てればよい。1家族10アールの土地をもち、米、麦、野菜、果物の食物があり、綿で衣を、家のまわりに竹やアカシアがあれば、1年間の衣食住、燃料には事欠かない。
 ▽私は「神仏を愚弄する神社仏閣はいらない」と言いたい。神社仏閣の前で手を合わせている人を見ると、まだわからないからお参りしているか、自他を区別する神仏の傍観者だなと、私は解釈するんです。…神に祈っても戦争の回避はできない。そんなものが、助けてくれるのではないかという甘えが、戦争のもとになるのでは。平和と戦争を論じるほど、平和は遠のいてしまう。
 ▽「座禅で10年座っても1分か2分、無心になるのが難しい。それだったら、底抜けのバカになって鍬をふって、仕事をしているときのほうが、まだ、忘れる時間がある」…
 ▽自然農法はそのルーツが聖書の次のような啓示にあると言えるかもしれない。「空の鳥を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたは、彼らよりもはるかにすぐれた者ではないか」…。「一切が無」という釈迦の教えを真実と考える。神の叡智から逸脱した人知は無用です。
 ▽25歳おとき、結核で倒れたのをきっかけに「全てのことは無意味」とさとる。説いてまわったが変人として扱われ、ついには山小屋に引っ込んでしまった。果樹園を放っておいたら枯れ始めた。「すでに手の入れられている木を放任したらだめ」と気づく。…何もしないで育てることができるようになるまでに、田圃と同様に何年もわたって試行錯誤がつづいた。
 ▽粘土で種を包むことで、虫やねずみなどの動物を妨害した。異常に雨が多くても腐らない。しかし、自然のバランスが保たれてきたために今はほとんどそうしないようになった。
 ▽エチオピアの難民キャンプでは、砂漠化した大地に、野菜の種をまくように教えた。まもなく小さな緑の畑が、村の周りや川岸の近くにできはじめた。
 ▽食糧は本来を商品化を目的とするべきではない。その郷土の自然食品が最善の健康食。自給自足を目指すことは、単に国の安全確保のためというより、民族の文化、生き方、働き、宗教に直結する命綱なのです。…(工業とちがって)単位面積あたりの収量には一定の上限の極がある。
 ▽外貨を獲得するために、コーヒー、紅茶、砂糖、綿…に限られ、自給用の穀物や野菜は栽培が禁止された。自給用の作物の種がなくなれば、農民は支配者の命ずるままに有利な作物だけ作らざるを得なくなる。そのとき、貿易商品でもうけるのは、価格決定権や水利権をもつ西欧人のみで、農民は、単一作物の連続で衰亡せざるをえない。…かつてフィリピンが、米国の植民地になったのも、米作を放棄して、砂糖やコーヒー、花作りに転換したのが出発点だと聞いてます。

■ポール・クルーグマン「嘘つき大統領のデタラメ経済」早川書房 20040628

  右派からは社会主義と言われ、ラルフネーダーからはグリーバリゼーションだと非難される。彼自身は自由貿易を肯定的にとらえ、政治的には民主党のクリントンに近い。ブッシュ政権の経済政策と政治のめちゃくちゃぶりを斬るとともに、ラルフネーダーらの反グローバリゼーションの勢力も批判している。
 大部分の学者やジャーナリストがブッシュ政権を正面から批判できなくなっていた時期、彼は「ブッシュはうそつきだ」と痛烈に指摘していた。
 「コラムニストらの多くはワシントンに住み、同じティーパーティーに行き、集団的思考を産む。9月11日まではブッシュは、阿呆だが正直者というのが共通の理解だった。それが9月11日以降は、タフな英雄で、決断力があり、清廉な『世界のテキサス・レンジャー』になった。…ジャーナリストの仕事は内部情報を取ることだが、私の場合、ほとんどは公表されている数字や分析に頼っている。だから政府高官に気に入ってもらう必要もないし、ジャーナリストのように人に気を遣いながら書くこともない」
 前文のこの指摘は、密着する政治家にひきずられて「政治家報道」に流れ、有事法制や改憲を正面から批判できない日本の新聞にもあてはまる。
 ブッシュは、「まさかそこまでは」ということをやってきた。
 例えば減税の目的は、「財政黒字の還元」だったのが赤字に転じると「短期的景気刺激策」にかわり、さらに「長期的な経済成長」へと変化した。イラク侵攻の理由も、「アルカイダとフセインの関係」から「核疑惑」になり、「化学兵器を含めた大量破壊兵器」へとかわった。実は、(金持ちへの)減税もイラク攻撃も、ずっと以前から計画されていたことだった。
 さらに、政権幹部は、企業への露骨な利益誘導が明らかになっても開き直って辞任しない。エンロンの元トップが政権幹部に居座りつづけた。あまりの恥知らずさに周囲があっけに取られているうちに、事態は進行し、ずるずると押し込まれることになったという。
 「恥知らず」の強さである。厚生年金の不正加入が見つかった小泉が「人生いろいろ、会社もいろいろ、社員もいろいろ」と開き直り、イラクで大量破壊兵器が見つからないことを指摘されて「フセインが見つからないからといってフセインがいないことにならない」と詭弁を弄したのとそっくりである。
 しかもその詭弁を恥知らずに援護するマスコミが力を持っているところまで似ている。
  イラク戦争中に「ブッシュよ交替しろ」と発言したケリー上院議員は「愛国心を疑われる」と猛烈なマスコミのバッシングにさらされたという。
 規制緩和によって、テレビやラジオが一部の大資本に支配され、ブッシュ関連のラジオ局が戦争支持集会を組織した。権力とマスコミが結託して不条理を条理としてしまう様子はまさに、オーウェルの「1984年」の世界である。
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  ▽ルーズベルトが始めた社会福祉と失業保険、ジョンソンがはじめた老人医療保障メディケア。ブッシュのイデオロギーの支柱になっているヘリテージ・ファウンデーションはそれらを廃止したいと思っている。外交でも、第2次大戦以降、アメリカは国際機関を外交政策の中心にすえ、軍事力を自国の都合のよいように行使する帝国主義国家ではないと明確にしてきたが(本当にそうか?〓)、イラク戦争を手動したネオコンは従来の外交姿勢のすべてを否定している、「国際法による安全など、リベラル派のごまかしでしかない」とリチャード・パールは指摘する。宗教と国家の分離もないがしろにする。「コロンバインの銃撃事件は、聖書的な世界観を共有しないからだ」とまでいう共和党の有力議員。
 マイアミの票の数え直しを暴徒が阻止したことを「ブルジョワ暴動」としてほめたたえる。実は彼らは雇われた政治工作員だったのに。商務省長官のドン・エバンスは「大統領は神の啓示で当選した」と信じているという。
 彼らの目標は、失業者や弱者に対する社会的セーフティーネットがなく、外交は軍事力に頼り、学校では進化論を教えないかわりに宗教授業があり、選挙は形式的なものでしかないような国。 (福祉も外交も政教分離も常識をくずす。「常識」をぶちこわし、多国籍軍に参加させ、米軍追従を簡単な言葉で押し切ってしまうコイズミと相似形。「聖書的」を言い出すのは「国を愛する心」と、教育基本法改悪の動きに似ている。)
 ▽ブッシュの減税のねらいは、資産からの収入に対する課税をすべて排除すること。働かずに得た収入は課税されない、ということ。だが、既成の政治組織もマスコミも、本当にそんな所までやるとは信じられなかった。
 穏健派は融和策を探り、ブッシュの要求の半分くらいを受け入れ、妥協したという印象を弱めようとした。だが、安定に慣れ親しんだ人々は、革命勢力に直面しても何が起きているか信じられず、それにうまく対抗できなかった。
 ▽かつてワシントンでは、不祥事がばえると、その高官はひっそりと辞任した。だがブッシュは、エンロンの元トップが陸軍長官にとどまり、贈収賄の疑いがある人がとどまった。
  ▽小泉の構造改革。銀行に不良債権を処理させることと、巨額の公共事業を縮小することは理にかなっている。だが、銀行が債務不履行に陥った企業を倒産させるときや、不要な公共工事を中心するとき、失業が増える。購買力はへり経済はさらに悪化する。竹中の供給サイドの政策は、暗闇の中へ飛び込むほど無謀に覚える。「改革か破綻か」ではなく「改革と破綻」になる危険性が高い。
 ▽戦争は不況の解決策になるか。ノー。第2次大戦によって、ニューディール政策が達成できなかったことを達成できたのは、経済を活性化する大規模なプログラムを実行に移すだけの法的影響力も決断力もなかった大統領尾が、戦争によって、膨大な規模で支出を増やすことができ、初めて完全雇用を維持できたからだ。経済が政府による支出増大を必要としているとしても、戦争という形で行われる必要はないのである。
 ▽相当規模の財政刺激策が必要。まず失業手当の給付。次に財政的に厳しい州政府の援助。これによって公共事業費(貧困層への医療費など)削減を阻止でき、需要が喚起される。その予算は、将来予定されている減税を中止することで捻出する。大金持ちのあめの5年間におよぶ減税などいらない。
 ▽コーポレートガバナンス。経営トップは、会社が成功しているように見せることで株価を高め、それによって報酬を得る。企業トップは株価上昇に必死だった。
 ▽州と地方政府は、景気後退と新たな安全保障費増大という打撃を受けたため、教師を解雇し、行政サービスを縮小した。ブッシュの選挙公約−−社会保障の確約…−−はウソだった。減税だけは実行されたが、そのためにほかは犠牲にされた。
 ▽アメリカはますます不平等化している。その結果はある種の階級闘争といえる。経済的エリートが、特権を拡大しようという試みでもたらされたものだ。「特権を相続するのはよいこと」とか政治の場で言われるようになってきた。  ブッシュは9.11を政治の道具に利用した。星条旗に身を包みながら、環境規制を弱体化し、富裕層と企業への減税を実施し…、それはテロが起きて数時間のうちに始まっていた。
 ▽経済問題に関しては、20世紀初頭以来、これほど共和党と民主党がかけ離れたことはなかった。共和党が右に寄ったのに、民主党がそれに付いていかなかった。その理由は、所得と富の不平等の拡大ではないか。多くの評論家は、両党の対立は一時的なものだと都合のよい思い違いをしている。だが残念ながらそれはちがう。
 ▽アメリカ中の空港の安全は、1時間6$の警備員が守っている。数時間の訓練しか受けていない。欧州では、利用客のバッグをチェックする検査院は時給15$をもらい、長期の訓練を受けている。欧州では空港の安全にかかる費用は政府か空港が負担しているが、米国は航空会社が負担している。公共部門に属するはずの仕事を民間企業に負わせている。  ▽減税と軍事支出。社会保障の黒字を使って政府支出の穴埋めをはかる。減税を中止し武器購入に歯止めをかければ赤字はなくなるはずなのに。
 ▽ブッシュは保護貿易主義者。鉄鋼へのセーフガードや、農産物への補助金を増額した農場法、カナダの軟質木材への厳しい関税、カリブ地域に対する特恵関税の廃止。
 ▽テレビ報道  対立した二者の両方に意見を言う機会を与える公平原則が義務だった。それがこの15年で崩壊した。今後3大ネットが互いに買収しあうことも許されるかもしれない。連邦通信委員会は「新しいメディアによって、多様な情報源にアクセスが可能になったからルールは必要なくなった」という。ところが事実ではない。5大テレビ局が、巨大なコングロマリットの一関連会社となっている。AOLタイム・ワーナー・ゼネラル・エレトリック・ディズニー・ウェスティングハウス・ニューズ・コーポレーションからニュースを得ているのである。  アメリカのテレビは、イラク侵攻は決定事項であるかのように報道してきた。視聴者の多くが、9.11のハイジャック犯の全員か数人がイラク人だと思い、フセインが関与していると考えている。ブッシュでさえそうは言ってないのに。
 ▽カリフォルニアの電力危機。規制緩和によって独占企業が市場操作をしたのが原因だったのに、ネオコンたちは「規制緩和が本物じゃなかったからだ」「環境に関する規則を撤廃して、エネルギー産業に数十億ドル規模の補助金を与えろ」という。カリフォルニアの規制緩和は、電力不足と天井知らずの高値をもたらし、大気汚染に対する規制の緩和の要求を突きつけた。
 ▽10年前、米国は中南米諸国に対し、外国資本に門戸を開き、国営事業を民営化したら経済成長を期待できると喧伝した。だが、アルゼンチンは大惨事に見舞われ……社会の不平等が急激に広がって人々の生活は20年前より苦しいだろう。私自身もそれ(アメリカの喧伝)がよい助言と思ってきた…、ラテンアメリカの政治指導者は道生に値する。彼らは、貧困層への保障を増やすため、自由市場の推進を後退させなければならない。アメリカが自らの能力以上のことをこれ以上約束すれば、信頼のすべてを失うだろう。  ▽私は自由貿易を擁護し、ラルフ・ネイダーらの敵意を買った。この意見はかえていないが、貿易だけでは不十分であり、貧しい国を援助するのは人間としての義務である。
 ▽輸出関連の仕事ができるようになる前は、労働者はもっと貧しかった。グローバルマーケットにアクセスがある国よりもない国の方が状況は悪化している。97−99の金融危機も長くは続かなかった。将来の危機への対応策となるのは、全面的にグローバル市場から後退することでなく、短期の資本移動を監視することである。マレーシアですら、長期の海外投資を歓迎し、製品輸出に経済発展の可能性を見いだしている。環境問題でもそうだ。環境問題に無頓着な政府は、多国籍企業が進出してこなくても自然を破壊している。今日の第3世界の自然の略奪は、WTOとは何の関係もない。むしろ、国家の行動を国際的な監視下におくことになる世界経済の統合こそが、すぐれた環境政策へと導いてくれるだろう。  ▽アメリカは国家予算の0.5%としか対外援助していないが、国民の多くはアメリカは10%の援助をしていると思いこんでいて、これを「引き下げるべきだ」と思っている。
 ▽アメリカは、WHOへの援助によって毎年800万人の命を救うことができるのに、それを拒否し、その2倍に当たる税収を減らすことには躊躇しなかった。しかもそれは金持ちが払う相続税だ。
 ▽イギリス料理がまずくなった理由。早期に工業化と都市化がおこり、多くの人が伝統的な食材が手に入らない場所に急速に移動した。都市部への食物供給技術が未発達だった。そのため、缶詰や冷蔵の必要がないジャガイモを中心とした食事を強いられ、フィッシュアンドチップスなどが産まれた。技術が進歩し、まともな食材を得られるようになったころには、その味の違いを見極められなくなっていた。その後、移民流入もあり、裕福になって海外で美味なものを食べるようになったこともあり、イギリスの食べ物もおいしくなってきた。