■大野和興「日本の農業を考える」岩波ジュニア新書 20040709
戦後、農地改革によって自作農が誕生して農村は活気があふれた。それがなぜ、今のような沈滞に陥ってしまったのか。
その原因のひとつに日米安保体制があるという指摘は新鮮だった。
小麦や大豆などの米国の余剰穀物を引き受ける。輸入物の方がやすい作物は、国内生産をやめる。そのために、米麦二毛作という伝統的な日本の水田農業の形が崩れてしまった。同時に、「選択的拡大」路線がとられ、大規模な畜産に重点を置かれ、キャベツやトマトなどの「指定産地」の制度も導入された。農薬や化学肥料を投じて単一作物を集中的につくることで、コストを削減するという考え方だった。
だが、こうした施策は、土地を衰えさせ、農家の生活をむしろ苦しくした。次々拡大される農産物輸入も農家を疲弊させた。
今、小規模多品種という伝統農業の「百姓」という形の農民を復活させ、地場市場をつくることで、生き残りをはかろうという動きがある。そのなかで、大規模農業で生産から排除されていた女性や高齢者が活躍する場となった。愛媛県内子町の「からり」もその成功例のひとつである。
−−−−−−−−−要約・抜粋−−−−−−−−−−−
▽戦後 増産にはげむ農民。兵隊から帰ってきた若者たちによる青年団活動が展開する。さまざまなサークルが産まれ、家と家ではない、個人と個人の結婚式が公民館などで催された。食糧危機をこえ、1955年には大豊作に。化学肥料や農薬、保温折衷の苗代という技術の導入による。
▽日米安保。日米相互防衛援助協定(MSA協定)は、米国の余剰農産物の処理もねらいだった。5000万ドル小麦を日本が輸入し、一部は防衛産業育成に使われ、自衛隊創設の資金にまわった。またこの小麦が、パン食を普及させる端緒になった。1955年には、米国の農産物貿易促進援助法による余剰農産物の受け入れを調印した。……54年施行の学校給食法では学校給食はパンであることが明記された。……日本政府は、自作農体制を基礎に、米麦に小規模畜産を組み合わせた有畜複合経営による食糧増産を目指していたが、MSA協定後は農林予算はいっきょにへる。かわりに防衛予算がふくらんだ。麦が輸入されるため、日本の農地から麦は次第に姿を消した。
▽農産物輸入。60年に121品目、61年に大豆、生鮮野菜、63年に砂糖、バナナ、ハチミツ、64年に配合飼料用グレーンソルガム、レモン……。食料自給率は60年以降、急速に下がった。
▽農地改革による自作農体制のもとでは、1戸あたりの経営規模はほぼ1ヘクタール。それを一気に大規模化して、数を減らそうとした。
「選択的拡大」 畜産と果樹をのばす方向が決まる。野菜も、大根や白菜などから、トマト、キャベツ、ブロッコリーといった西洋野菜に重点を移した。輸入した方が効率がいいものは他国にまかせるという方向に。
▽安保条約には「経済協力条項」があり、防衛での貸しは経済で返される、との期待が米国にはある、という。
▽農業基本法のもとで、機械化・化学化・装置化・大規模化・専門化・単作化の6つがすすめられた。
▽都市に若者がでてきて、3世代が普通だったのが、2世代の家族が主流になる。大消費人口ができ、食費を安くする必要がでてくる。食費が高くては給料も高くなり、工業製品が高くなり、国際競争に負けてしまう。そのため、輸入したほうが安いものは輸入農産物に切り替えることになり、単一生産物を大規模に作る農業が広まった。嬬恋村のキャベツ、レタスの長野県川上村など。1966年に公布された「野菜指定産地制度」によるものだ。農産物の規格化が進み、見た目や形のよい品種改良が進んだ。みばえが悪いが、おいしく病気や虫に強い農作物は姿を消した。
▽農民から意欲を奪った減反。その原因は、単なるコメ余りではない。米麦二本立てだった水田農業から麦が消え、稲の作付け期間に余裕ができ、収量を増やせるようになった。さらに、外国麦のシェアがのび、米の消費を減らした。
▽穀物輸入。85年までは、飼料用を含む穀物がほとんどだったのが、それ以降は、生鮮や加工野菜、果実、畜産物が伸びた。カロリーベースの自給率は53から88年には49%に。農産物支持価格は、85年を100としたら90年には米88,小麦83,生乳86、牛肉70、豚肉67に下がった。
▽WTOは、農産物価格支持制度は非関税障壁であるとしてイエローカードをだした(高関税をかけなければ制度がなりたたないから)。日本では85年ごろから、各種支持価格は軒並み前年より下げられ、制度そのものが壊れた。欧米も同じ問題が突きつけられ、これらの国では、農産物価格に直接介入するのではなく、農業者の所得確保のため「直接支払い」制度に切り替えた。これだと国境での輸入規制が必要ない。
▽土地生産性は、10アールあたり玄米300キロだった平均収量が、現在は500キロ水準に高まった。化学肥料や農薬、品種改良によるものだった。…化学肥料で窒素肥料を与えすぎると、アミノ酸や糖が葉や根から分泌され、虫や病原菌を招き寄せる。…硝酸態窒素の蓄積で死ぬことも。牛の腰抜け病も。
▽牛1頭から搾る量は40年前は4,5千キロだった。今は1万キロが常識。乳質も脂肪分やタンパク質などが高く決められ、高カロリーの飼料が与えられる。乳をたくさんしぼるとカルシウムが出てしまう。それを補うために、動物性たんぱく(共食い)を与えることになる。BSEの背景。…抗生物質を与えるだけで耐性菌をもってしまい、それが人間に移転する。院内感染の原因のひとつになっている。
▽輸入窒素116万トンを農地にまくと、1ヘクタール当たり232キロ。これは日本の平均的な窒素肥料施用量の2倍強にあたる。地球規模で農産物が移動するなかで、一方で土の荒廃、一方で過剰窒素による環境破壊がおこっている。
▽漁師が山に木を植える運動。気仙沼湾のかき漁師・畠山重篤さん。
▽水田二毛作 熱帯性の水稲と乾燥冷温帯性の麦を1年のうち同じ耕地でつくれるのは中国のごく一部をのぞけば日本くらい。世界でも希有な高い生産力をもつ農業をつくりあげていた。
「つくりまわし」 稲のさまざまな品種、麦、雑穀、豆、野菜、菜種…。稲は品種をかえ、大麦と小麦は交互に…。
▽林業不振、山の荒廃、大規模密飼い畜産、抗生物質…の矛盾を断ち切る構想が、農地、林地、草地を一体としてとらえる「林内放牧」。下草刈りは牛がしてくれる。〓三瓶山麓の野草放牧地で肉牛経営をする川村千里さんは、冬の舎飼いもやめ、放牧地で越冬させている。
▽山形県長井市 レインボープラン。生ゴミを堆肥にして生産者へ。レインボー野菜は地元店や朝市などで売る。…市の青果物自給率は、市民が購入する青果物年間10億円のうち6千万円前後。遠くの産地のものを買って食べていた。このゆがみにレインボープランは異議を突きつけた。ラーメン屋が「レインボーラーメン」、豆腐屋は「レインボー豆腐」…地元商店街は「むらまち交流事業」を始めた。
▽山形県高畠町の農事組合法人・米沢郷牧場 大型畜産経営に失敗。大規模経営のもろさ、生産資材も資金も売り先もたよることのもろさ、自分でつくったものの値決めができない弱さをいかに克服するか。農民がいかに自己決定権を獲得し自立するかが課題だった。自給できるものはすべて自給する。誰かのための原料提供者にならない。
▽地場市場づくり。からり。大規模化の農業のなかで、生産主体から排除されてきた高齢者や女性が主人公に。少量多品目という自然条件にあった土地利用の復活が求められる。
■白い鴉 Human stain 20040709
黒人の家に生まれたが肌の白い主人公は、黒人であることを理由に婚約破棄されたのをきっかけに、「ユダヤ人」を名乗って大学教授になった。家族とは絶縁し、妻にも母や兄たちと会わせなかった。
黒人実業家だった主人公の父親は、事業に失敗して列車食堂のボーイをしていたが、子供には死ぬまで隠し通していた。
主人公はやり手だが、それ故に敵をつくり、「黒人差別」発言を理由に大学を追われる。同時に妻も死ぬ。
そんなとき、清掃業者につとめる34歳の女と出会う。子供を事故で亡くし、暴力をふるうベトナム帰還兵の夫と別れ、一人で暮らしていた。「夫に殺される」とおびえ、亡き子供を思って泣く。異常性格にみえる夫もまた、「子供を抱きたかった。いっしょに釣りをしたかったんだ」ともらす。
それぞれが傷を背負い、それがまた新たな悲劇を生み出してしまう。天童荒太の「永遠の仔」とどこかだぶってみえた。
■高橋哲哉×斎藤貴男「平和と平等をあきらめない」晶文社 20040731
どの業界にも「能力主義」が蔓延している。どこかの新聞社でも、ますます「能力に応じて」給料や退職金、ボーナスの差をつけるのだという。
自己申告書、自己評価。そして毎年ふってくる「評価」。気にするのはばからしいとは思っても、平均点を超えればうれしいし、下回ればいい気分はしない。何とか気に入られる仕事もしないといけないか、今の自分はまだ甘いんじゃないか、と多少は考えてしまう。
さらに「能力」による賃金の差がつけば、アイデンティティーや誇りのみならず、生活がかかってくる。
どこの新聞社や放送局にも、年に1,2本しか原稿を書かない長老記者がいたもんだが、今はほぼすべて払拭された。そういう人が消えたあと、活力ある職場になったか? 逆だ。「仕事をしない」とレッテルをはられたら閑職に飛ばされるという恐怖感が一気に広まった。
自分が「勝ち組」だと信じているのか、能力評価をする上司の力量を信じているのか、社員の5割近くが能力主義拡大を支持しているという。そんななかでは、「能力主義反対」は負け犬の遠吠えとしか思われない。
時流に乗らない仕事ばかりしていたら飛ばされるから、萎縮する。人権やら憲法やらという問題は、「時流に乗らない仕事」の最たるものになりつつあるようにみえる。
国立大学法人化のとき、あまりに流れが速いので避けられない流れだと教員たちは思いこんでしまったという。あらゆる分野で同じことが起きている。
職場でも、国全体でも、地域でも、戦後「当たり前の価値」と思われてきた平和と平等が危機に瀕している。そんな今だからこそ、せめてマスコミや弁護士や教育者といった一定の教育を受けてきた人間は、ちゃんと声をあげよう、それが責任じゃないのか、と本書は問いかけている。
速度違反で警察につかまったとき、職場の連絡先まで聞いてきた。よく考えれば答える必要はないのだが、つい、答えてしまった。たぶんこれは個人情報の蓄積に使われるのだ。
警官の巡回連絡で勤め先を尋ねられて回答を断るときや、NHK受信料を「うちは払わないことにしています」と断るとき、君が代斉唱のときに座りつづけるとき、上気して顔がかっかとしないだろうか。興奮とも恐れとも言えるそんな気持ちを一人一人が乗り越える義務があるのだ。
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▽支配する国、される国ができれば、貧者はテロしかなくなる。ある国内で不満層が反体制活動を試みるとき、そこで副産物的に出てくる犯罪という要素を前面に出すことで、権力は反体制的な動きも封殺しようとする。
▽江崎玲於奈「ヒトゲノムも解析できたし…就学時に遺伝子検査をして、できる子にはそれなりの教育をして、できない子にはそれなりの教育をすればいいんだ」。
早期選別になったとたんに、競争原理といいながら、その子を取り巻く家庭環境の勝負になってしまう。小学校に入る前から、子供の未来を読める先生なんかいない。ということは、最初から親次第。金持ちかどうか。競争と言いながら、目下の教育改革などは、特権階級が自分たちの利権を強化しようとしているだけだ。この教育改革がもたらすのは、もっとも愚かな形の貴族社会。
▽三浦朱門「落ちこぼれのための金をエリートのために割り振る。エリートは100人に1人でいい。そのエリートがやがて国を引っ張っていく。非才無才は実直な精神だけを養ってもらえばいい」。ところがこの発言を差別と感じない先生や生徒がでてきている。
▽清沢洌「暗黒日記」(ちくま文庫)〓
▽久間章生・元防衛庁長官「90人の国民を救うために10人の犠牲はやむをえないとの判断はあり得る」。政府の数字では、日中戦争の全面開始から敗戦までの軍民あわせた日本人の死者数は310万人。とても1割などには届かない。あれよりはるかに甚大な犠牲が出ても「やむを得ない」と明言している。…自分は国に守ってもらえる、と思っている人は、よほど疑ってみたほうがいい。自分だっていざとなれば「やむを得ない犠牲」と切り捨てられる側じゃないかって。
▽栗栖弘臣は00年に「自衛隊は国民の生命、財産を守るものだと誤解している人が多い。自衛隊は『国の独立と平和を守る』のである。この場合の国とは、我が国の歴史、伝統に基づく固有の文化、…天皇制を中心とする一体感を享有する民族、家族意識である…」(日本国防軍を創設せよ:小学館文庫)…最近の自衛隊幹部は「有事になれば自衛隊は敵を殲滅することで手一杯だから、国民の生命・財産を守るのは二の次になる、とはっきり言っている。
▽01年に小泉首相が出てきたとき、朝日は「そして民意は動いた」という見出しを出した。動いてねえよ、と思った。投票権があるのは自民党員だけなんだもん。…小泉首相が改革者だというイメージは新聞やテレビがつくりあげた虚像でしょう。改革なんてしてない。旧来の自民党の土建政治がまだしも伴っていた弱者への再分配という建前をぶっ壊したのは間違いない。抵抗勢力はたいてい「成り上がり者」だから、そういうふうにしないと票が取れなかった。旧来の自民党にはよくも悪しくも富の再分配機能が多少はあった。
▽東京都は「東京教師養成塾」を04年度から始めようとしている。戦前・戦中の師範学校という機関が国家主義の尖兵となったことへの反省から、戦後は教員養成も「学問の自由」を標榜する大学教育の一環として行われてきたのに。
▽02年の改正地方自治法で、住民がまず自治体を訴え、勝訴したら自治体が首長や職員に損害賠償を求めるという二段構えにされてしまった。見張る側である権力側の構成員は個人の責任を免れる仕組みが築きあげられている。敗訴した側が訴訟費用をもつ、というのも、戦後補償裁判のような人権訴訟を抑制することになってしまう。
▽都教委の「基本方針」から「日本国憲法と教育基本法の精神に沿って」という文言が削除されてしまった。
▽公園のトイレに「反戦」と落書きしたら44日間拘留された。しかも、器物損壊が建造物損壊容疑に格上げされて起訴された。戦争中、落書きはすごく罪が重かった。便所に皇族批判なんかした人は全部捕まった。
▽マスコミ人の集まる勉強会。どこの新聞社だろうが、新自由主義でない記者はほとんどいないという。日頃大企業の悪を追及している記者でも、発想の原点はアメリカ流のコーポレートガバナンスであって、勝ち組の論理が幅を効かせている。
▽ある新聞社は1月から社員証をICカード化した。住基ネットの先取りじゃないか、という記事を書いたら、その社から猛烈な抗議が来た。…なんでICカードにするかといえば、管理強化のためだとはっきり明記されていた。個人情報保護法案が成立するから、社としては先取りしなければ、と書いてあった。
労組から頼まれた3月のプレ集会の講師になった。が、上記のトラブルがあって、当日、司会者以外はだれも口をきいてくれない。打ち上げの席でも遠巻きにされちゃった。〓
▽〓全日仏が、教育基本法9条の「改正」を推進している。「日本の伝統文化の形成に寄与してきた宗教に関する基本的知識及び理解は、教育上これを重視しなければならない」にかえてほしいと運動している。仏教者が頼まれもしないのに国家主義者と連帯して、自分のほうから国にすり寄っていっている。
▽都教委。君が代斉唱で生徒が起立しなければ担当教員も処分の対象になる…先生をひどいめにあわせたくなかったら、生徒もおとなしく行政に服従しろというわけだ。
▽戦争で多くの若者が「国を守る」といって犠牲になったと言われるけど、彼らが守ろうとしたその「国」は植民地帝国であったことが完全に忘れられている。彼らの戦いが成功するほど、植民地の人々の解放は遠のいたことになる。
▽思想・良心の自由は憲法上保障されているから、内心の自由はストレートに否定できない。だが、外形的行為については、公務員である以上、職務命令に反することはできないという判決が出た(君が代斉唱の訴訟)。帝国憲法にも、信教の自由は記されていた。「臣民の義務に反せざるかぎりにおいて」。仏教とのキリスト教徒も心の中で信仰を保持していい。しかし帝国臣民の義務としては国家への忠誠と愛国心の表明として神社参拝をしなければならない、と。
■荒垣秀雄「昭和−−人も世も花も」騒人社 20040722
朝日新聞の名物記者。戦前は二・二六事件などの取材の陣頭指揮をとり、戦後は天声人語を執筆した。退職後は、自然保護協会や全国自然保護連合などの結成にたずさわった。
石鎚の自然保護の歴史を調べていると、この人の名前が何度も出てきた。それで、本をひもといてみることにした。
ほとんどが80歳を超えてからの文章を集めている。現役の新聞記者でさえ40歳代半ばになると管理職について筆を折ってしまう人がほとんどなのに、すさまじい意欲と気力だ。
二・二六事件をふり返った文章は圧巻だった。そして以下のような記述は、拉致問題や天皇制など、批判を受けそうな記事は事前にチェックして、危うかったら載せない、という、今の新聞の状態そのものじゃないかと思った。
−−「記事掲載禁止命令書」という分厚い紙片のつづりが整理部に積んであって、神経質にそれと照らし合わせて幾多の「よい記事」をボツにしたり容赦なく削ったりした。時折逸脱すると差し押さえ処分にあって何万何十万という新聞をムダにした。禁止禁止の足かせに慣れてしまって、新聞社全体がちぢみあがって萎縮し、自分で自分の手を縛り、筆と鉛筆とを縛るくせがついていた。利口に立ち回り、あやまちのないことだけを心がけた。新聞界をあげて、「報道の自由」と「国民に知らせる」といういちばんたいせつな「新聞の使命」を失っていたのだ。−−
また、35歳の昭和天皇が決然たる態度で叛乱部隊に同情的な軍部の意見を退け、鎮圧の方針を強行した様子も記されている。荒垣は昭和天皇に好意的に書いているが、時の政局にそれだけ影響力を行使していたことの証であり、ひいては第二次大戦の戦争責任の傍証にもなる内容だった。
その他の随筆は、若いころの文章のようなエネルギーを感じられないが、淡々と、うまい。現役時代に徹底的に書きまくった人が、膨大な知識を蓄積して、年をとるとこんな枯れた文章になるんだなあと思った。
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▽私は80歳を超えてもほとんど毎日原稿を書いている。往年の花形記者も50,60で本社や子会社の社長役員などになりペンを折ってしまう。私は、朝日退社後はどこも勤めず、20年間月給もボーナスもなく、原生林乱伐反対だの湿原埋め立て反対だの山河の破壊汚染反対だの…自然保護一筋の人生で40年余りも安原稿や同人誌などのタダ原稿を書いてきた。おかげで80越してからも(年に1度)4冊の本をだした。
▽2・26事件 社会部次長になりたての32歳。5・15のときは29歳で、首相官邸日本間の凶行現場前の廊下までもぐりこんで、顔見知りの秘書官から「話せばわかる」という犬養毅の名せりふを聞き出した。
「陸軍のクーデターが起こった」との知らせで出社、1週間ほど帰宅できなかった。
朝日新聞にも押し寄せる。印刷局に乱入し、活字ケースを片っぱしから銃剣でひっくり返した。…あの時代は在郷軍人会が全国で朝日新聞ボイコット運動をやっていた。
▽尾崎秀実は入社同期生だった。
▽岡田首相生存、のスクープは握りつぶされた。朝日は慎重すぎたのではないか。… 「記事掲載禁止命令書」と首っぴきで記事なんかずたずたに削るのだ。……出稿したら、整理部から「違反だらけだ」と突っ返された。社会部長も一読してその原稿を私の前にたたきつけ「なんのためにデスクをやっとるか」とどやしつけた。
▽戒厳令は両刃の剣だ。反乱軍にくっついて軍事政権樹立の方に動くかもしれない。なにより言論統制だ。2月27日朝刊から「戒厳司令部発表以外は禁止」となり3月20日まで続いた。次のような「内務省発表」のしらじらしい文句を新聞に載せたのだ。「さきに陸軍省より発表せられたる事件に関しては、帝都および全国地方とも一般治安は維持せられ、人心は動揺なく平静なり」
▽帰順勧告ビラ「お前たちの父母兄弟は国賊となるので泣いておるぞ」「抵抗する者は逆賊だから射殺する」「今からでも遅くないから原隊に帰れ」。これが決定打になって総崩れになった。
▽35歳の昭和天皇。将軍たちが蹶起部隊だの尊皇義軍だのとおべっかをつかっているのを「叛乱軍」とはっきり焼き印を押し、陸軍首脳が優柔不断でぐずぐずしているのを怒って、「朕みずから近衛師団を引きつれて討伐する」と断言された。
▽関東大震災のとき、私は毎日東京中を視察して歩いたが、肩にかけた水稲はどこにでもある井戸で自由に補給できた。あれほどの大災害でも井戸のおかげで飲用水、炊事用水には困らなかった。だから赤痢、チフスなどの悪疫の流行もなかった。
▽大豆は中国原産。(アメリカの大豆は)ペリーが帰国のとき日本から大豆を船に積んで帰ったのがイリノイ州などで栽培に成功し、今日の大豆王国の繁栄をもたらした。〓
▽漢文が簡潔なのは竹簡・木簡のせいだという。だらだらと長い文は書けない。極度に切りつめ磨きぬいて簡潔な文章が生まれた。大河の上流で両岸の断崖絶壁が迫り、空を仰ぐと「天 帯のごとし」。渦巻く激流を舟で下りキモをひやすと「胆 泡を生ず」。
▽杉は日本特産だが、その原点は屋久島だという。杉、樅、栂は共に屋久島に源を発して北に向い、モミ・ツガは九州をへてひろがったが、杉は九州に寄らず四国に渡り(モミ・ツガも)四国から2つに分かれて、一は山陰道、日本海岸に沿って北上し秋田県を北限として栄え(青森には杉の自生なし)他のルートは和歌山県南部に上陸、太平洋岸を北上、金華山周辺までひろがった。(遠山富太郎「杉のきた道」)
▽ギンナンの実がなるのは雌木だけ。だから街路樹には雌木は植えない。扇形の葉が深く切れ込み「ズボン形」なのは雄木。葉の裂け目が浅く「スカート形」は雌木。…銀杏が中国から伝来したのは室町時代。源実朝が鶴岡八幡宮の大銀杏のかげで殺されたというのは誤り。
▽明治の廃仏毀釈では、全国的に多くの寺院がこわされ仏具、経巻なども無残に廃棄処分された。なかでも奈良の興福寺五重塔は25円で売却され、買い主は金具を取るために焼こうとしたが、付近の町民が類焼を怖れて猛反対したため助かった(安丸良夫「神々の明治維新)(〓タリバンや文革と同じだった明治維新)
▽「日出づるところの天子…」と聖徳太子が随に国書を送り、随の皇帝が激怒したとされるが、実際は、聖徳太子は「自分は田舎者で礼儀を知らなかった」と謝っているのが真相だといわれる。黒岩重吾「聖徳太子−日と影の王子」
▽万葉集には桜の歌は40首だけ、梅は118首、橘68首。古今和歌集になると、春の歌134首のうち桜が73首に。万葉の時代、梅は中国原産で、宮廷などに植えられた。桜の歌は「詠み人知らず」の庶民に多かった。平安になると、唐への心酔も次第にさめて、国産の桜の美意識に目覚めたのだろう。京都の紫宸殿の「左近の桜」もはじめは「左近の梅」だった。
▽富士スバルライン、スーパー林道などで国立公園もかなり荒らされているが、全体的にひどく破壊されないのはやはり国立公園などのおかげだ。もし国立・国定公園がなかったら、今ごろ日本の山河は禿げ山だらけになっているかもしれない。
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