2004年8−9月

■「日本残酷物語1−貧しき人々のむれ」平凡社ライブラリー 20040808

  明治は「坂の上の雲」を夢見て理想に燃えた時代だった、という権力者が増えている。一方で、一部の学者のなかには「江戸時代はのどかな平和主義だった」と言う人もいる。
 例えば女工哀史、例えば日清日露戦争、例えば大飢饉……、例をあげるだけで愚かな憧憬であることがわかる。過去の民衆の生活実態を知りたくて読んだ。
 その昔、夜盗があたりまえだった村があった。自衛するために武装し、強盗をして力をつける。島には、難破船を生活の糧にしていた海賊のムラもあった。海賊をやめた後も、沖から漂着するものを心待ちにする気風が強く残ったという。
 山では、石を築き上げて段畑をつくることさえできずに、丸太を杭でとめて、土のずり落ちるのを防ぐような山畑も少なくなかった。飢えたときに自分の親を食うという事例もあった。
  「火葬せよ」と言われ、もったいなくなり家族の死体を食べる。それで人肉の味をおぼえ、誘拐して食うようになった。それがばれて、その本人ばかりか、その一家一門のものまで私刑にあって虐殺された。
  明治になっても、東北では飢饉で餓死し、天草では女が身を売らされ、人身売買が横行した。機織りの女は早朝から深夜まで働かされ、炭坑では逃げだすとやくざに殺された。嫁は姑にいじめられ、夫婦の会話さえする時間もとれず、姑から主婦の座を継いだ後はホッとするものの、子どもの嫁に代をゆずれば、うとまれ、いじめられ、厄介者扱いされ……。
 いったいどこに夢を追いかけた理想の時代があったのだろう。坂の上の雲を歴史の事実だと思いこんでいるおろかな政治家にこそ読んでもらいたい。
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 ▽海賊は16世紀終わりまでさかんだったが、内海ではその後も多かった。姿を消したのは、明治も中頃以後で、為替や小切手や貯金通帳を身につけるようになってからだ。
 ▽高知の本川村の寺川は、四国の屋根のなかでも僻地と言われた。そぎとった盗伐者の耳は、以前は城下までもっていって奉行に見せたが、国境に近いところにたてられた耳塚に埋めるようになった。樹下などに自然石の立っているのがあれば、たいてい盗伐者の墓であると見てよい。(本川村)
 ▽寺川から愛媛県の石鎚山の東麓に通じる道。ライ病人だけの歩く道が決まっていた。
 ▽土佐源氏も。喜多郡や宇和島を舞台にしている。
 ▽享保の飢饉。西日本には田植えのあとに虫送りをするところが多いが、それは、享保の飢饉の被害の大きかった地方とほぼ範囲が一致している。飢饉のときに年中行事化したのだろう。
 ▽江戸時代は、食物の備蓄という消極的な手段しかなかった。幕末、開国して「外国米を買え」と言った。明治2年の飢饉では、中国米を輸入して救われた。明治になると、変化する。…中国米は俵ではなく南京袋につめて凶作地帯に送られたから、袋が村に残った。苫の帆をはっていた沿岸の漁船が南京袋でつくった南京帆をあげるようになって帆走効果があがったという。男鹿半島では、南京袋をぬいあわせてシベをいれてふとんにした。藁の寝具よりあたたかで喜ばれた。東北地方の農民は、凶作じゃなくても、自分の作ったうまい米を売り、安い外米を買って食べるようにしたという。流通が自由になって、江戸時代ほど深刻な飢饉はなくなった。大きな被害をのこすのは東北地方にかぎられるようになった。
 明治38、昭和9、昭和31に凶作があった。昭和9年の飢饉のときの、飢えて脚気になり35歳で死んだ女教師の句。
 ▽ツツガムシ病の恐怖。治療法は第2次大戦後の47年ごろから薬が輸入されて解決した。
 ▽明治12年のコレラ暴動。県が隔離しようとしたら、村民は生肝をとられると誤解し患者を奪い返した。消毒薬をまくのを毒薬散布と誤解する。「毒物を入れてない」といって疑われ殺されそうになり「入れた」とウソをいい、思いついた人の名をあげると、大挙してその家をおそって破壊した。(集団ヒステリー グアテマラの日本人観光客殺害)…身を守るためのエネルギーの爆発。そこには無知の暗黒と、仲間以外の者に対して冷酷なまでの非情が見られる。
 ▽ライ病患者をやっかい払いのために、四国巡礼させることも少なくなかった。熊本市の本妙寺は、ライ病患者の信者を集め、寺院裏に部落をつくり、昼は参道で物乞いをした。昭和16年に一斉収容によて部落が撤去されるまで続いた。
 ▽子供の間引き「へしご」
 ▽天竜川の中流。急崖の上の集落。生き抜く力を失った老人の多くは縊死した。その多くが身よりのない者だった。老残者にたいしてみずからの命を処置させることによって世の秩序を保とうとした政治の貧困は、武家政治終焉の後もつづいた。
 ▽除草機が入ったとき、その家のばあさんが「おれが草どりする分だけは残しておいてくろ」と懇願した。今までは畑の草取りをすることで、存在価値を確保できた…。商品生産が奥地の村にまではいりこみ、糸つむぎ、機織り、わら細工など、老人でもやれる仕事を奪ってしまった。「おらあ、死ぬのを待ってるばかりでがんす」という言葉は、冷酷無残なこの世への痛烈な抗議ではないだろうか。
 ▽周防大島では、嫁にいく前には四国遍路の旅に出たという。
 ▽嫁の立場 舅との肉体関係(粟まき)。嫁が寝るときには夫が眠っており、朝は夫が目覚めないうちに起きる。そんなことで1カ月も口を利かない夫婦すらあった。農家の女性に青春があるとすれば、主婦の座についたときであろう。40−45歳のときだ。60−65歳で主婦の座をゆずると、嫁の仕返しにあう。「なにも仕事ができなくなると、だれも用がないもんだもなぁ」となげきながらいろりばたでつくねんとして…
 ▽白川村の女系制大家族。通い婚。男も女も、家を離れることも他国で移住することも禁じられていた。が、明治になり軍隊生活で他国を知った若者をとどめておくことは困難になった。次第に逃亡する男が増える。学校教育が行き渡ると「なじみ(通い婚の男)」という関係が正常でないと教えられる。戸籍面では子供は私生児になってしまう。大正末期から昭和になると、家長自ら傍系家族をナジミと結婚させ、自立させるようにしてきた。そうしなければ一家の経済が立ちゆかなくなっていたのである。
 ▽明治の子守奉公。盆と正月に家に帰ると、機屋にもどるのがいやで死にたいと思いました。朝は暗いうちから夜は12時まで。正月三が日は朝飯後20分くらい外を歩かせるのでそれが楽しみでした。…若い衆がきていると織り方がはずむので、機屋で御馳走したり泊めたりする家がありました。それが唯一の楽しみでした。
 ▽炭坑。事故続き。死人つづき。逃げおおせるもんはいいけど、見つけ出されりゃおしまいたい。棍棒で力任せになぐりつける。きちがいになったりかたわになったりするものもいたけど、泣き寝入りだね。こんなひどい山のことを「圧政ヤマ」といいよった。
 ▽独り者の「ゴケ」。たやすく女を買うことのできない田舎では、村の青年たちとゴケは、男女の要求をともに満たしていったものと思われる。
 ▽天草の貧しさ 下島西海岸の深江、大江、崎津などの村は耕作地がいたって少ない。良港に恵まれず漁業もふるわない。キリシタン殺戮は、天草の人口を半減させた。長崎へ出稼ぎに。さらに中国へ、マレー半島へ。太平洋戦争末期には、日章旗の下おびただしい娘子軍が占領地へばらまかれたが、天草女に関しては、日露戦争前後より第1次大戦にかけての10年間が最盛期であったとみられる。

■マイケル・ムーア「華氏911」 20040824

  2000年の大統領選の映像から始まる。民主党のゴア当確を多くのテレビ局が報じていたのが、FOXテレビの「ブッシュ当選」報道をきっかけにどこの局もが「ブッシュ当確」と訂正する。
 フロリダ州がキーだった。ブッシュの弟が知事をつとめ、選挙事務局の担当者が関連会社の人間、数え直しを認めなかった最高裁もそう。民主支持層の黒人は、意図的に投票から排除され、それに異議を唱える議員の意見は「上院議員に賛同者がいない」という理由ですべて排除された。
 9.11の当日、ブッシュは小学校で子どもの絵本の読み聞かせに参加していた。1機がWTCに衝突したと耳打ちされたとき、ちょっと眉間にしわをよせて、動かない。2機目の報告があってもそわそわするだけ。5分、10分たっても動こうとしない。「何をしていいかアタマがまわらなかったんでしょう」というナレーション。この映像、この小学校が撮っていたものだという。
 同時多発テロ後、政府高官はすかさず、「イラクとのつながりをさがせ!」と命令する。もともとイラクを攻撃したくて仕方ない。オイルマネーが狙いだった。だが、アルカイダとイラクの関係を示す証拠は出てこない。そこで「大量破壊兵器」を理由にする。けっきょくそれも出てこない。
 すべての航空機の離着陸を禁止していたとき、ビンラディン一族の24人だけが特別に許可されて、自家用機でサウジに帰っていった。「せめて事情聴取したかった」というFBIの捜査官の思いを後目に。
 父ブッシュ時代からのサウジの富豪とのつながりと、ビン・ラディン一家がいかにブッシュの会社経営を助けてきたかが暴露される。
 ブッシュは「なになに市がアブナイ」「レッドアラートだ」と、テロへの恐怖をあおり、「愛国者法」を成立させ、盗聴や一方的な逮捕といった国民への監視を強める。戦争反対を訴える市民団体にはスパイが入り込む。「愛国者法」は、その条文さえ読んでいない議員が通した。「いちいち読んでいられない」という議員の証言も撮影している。
 「北朝鮮のテロ」を理由に、有事法制やらなんやらを次々に通した小泉とうりふたつ。「たまちゃん騒動」「白装束集団」なんかでごまかす、というメディア戦略も似ている。
 軍隊に行く側、行かされる側にも取材している。志願兵のほとんどは、貧しい地域の若者だ。「軍に来ないか。海兵隊ならバスケットチームもあるぜ」「音楽やりたいなら、海兵隊はいいぞ」。そうやって貧しい地域のショッピングセンターにリクルートに出かける。
 実際にイラクに行った兵士たちは、「こんなんでいいのか」「解放するために来たのになぜ嫌われるんだ」と疑問をつのらせ、爆弾の餌食になる。空母の上でブッシュが戦争終結を宣言したはずなのに、犠牲者は200人、500人…と増えつづけている。負傷して後送された兵士はわずかな年金で放置される。
 一方で、上院議員のうち子弟を戦場に送っているのは1人だけ。
 金持ちは「国のために」「正義の戦争」と言いながら、戦争に利権を求める。そんな企業家たちの赤裸々な映像も出ている。貧乏人は「愛国心」にあおられて戦場にでかけ無為に殺される。
 繁栄の裏にある冷酷な階級格差を、具体的な映像で表現しているのがすごい。軽快で、ときに笑わせてくれるが、後味が悪い。作品のせいではない。現実の後味が悪いからだろう。

■佐野真一「だれが『本』を殺すのか」新潮文庫 20040830

  本は、再販制と委託返品制に守られてきたという。。売れなかったら返品してもよい、定価が決まっていて不当なダンピングがないから良質だけど売れない本を扱える。もし書籍独特のこうした制度がなければ、「売れる本」しか作らなくなってしまう−−。再販制撤廃に反対する出版者のそんな声をきいて、なるほどそんなもんかな、と思ってきた。
 ところがそう単純ではないらしい。「売れなければ返せばいい」と思うから、売れる見込みのないものまで注文して、それをどんどん返品してしまう。だから書店から取り次ぎに本の注文が入っても「どうせ返品やろ」と取り次ぎは信用しない。その結果、店頭で本を注文しても消費者に届くまで2,3週間もかかってしまう。
  流通という血管が目詰まりをおこしているのだ。返品が可能だから、「仕入れ」に対して書店の甘えが生じる。売ろうという努力しない…
 大型店のジュンク、老舗の海文堂、こだわり書店、ユニークな地方書店、取り次ぎ、出版社……。下流から上流まで徹底的にさかのぼって取材して、「本」の危機を浮き彫りにしている。
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 ▽自費出版ビジネス。売れたぶんはわずか3%の印税。
 ▽ジュンクの社長「紀伊国屋、旭屋の強みは、人材、歴史的蓄積、首都圏に旗艦店を置いていること。うちは一気に広げたから人材がうすい。役員の人材もいない」
 ▽神戸の海文堂の最大のセールスポイントは、海事関係図書の充実、震災コーナーなどの地域へのこだわり。
 ▽銀座の教文館書店の中村社長「効率の競争になると、やわらかい本ばかり売る結果になる。私は意地でも岩波の全集はそろえて、平凡社の東洋文庫も切らさない。客注があったら2日以内に取り寄せる。版元に取りに行くんです」
 ▽盛岡市の「さわや」店長 「必ず4時に起きて、1冊読んで店に出る。これと思った本は人が驚くほど高く平台に積む。へたな字でもいいから、書店員がPOPを書く。
 ▽再販制は「定価販売しても違反にならない」という考え方。定価販売しなくてはならない、というわけではない。再販制がないアメリカでは、撤廃後一時期混乱したが、その後安定に向かった。値付けの必要のない再販制をこれ以上意地することは、小売業者に仕入れの緊張感と熱意を失わせる。
 ▽書店の生き残り「自分たちが発注して、本をそろえるという発想がなく、取り次ぎから送られてくるものをただ並べている。これじゃあ生き残れない」
 ▽名古屋の三洋堂「普通の人の意識を変えて、社会を変える。限られた一部の人が専門書によって洗練された知識をつけても世の中は大きくは変わらない。それよりも少しずつでいいから、普通の人に社会の不条理に目を向ける習慣をつけてもらいたいのです」
 ▽秋田の無明舎「自分の土地を百姓のように耕していくだけで、おれは障害、ここで本屋として食っていける」
 ▽幕末、地方の藩校などによる文化活動の勃興が近代化を成功させる要因になったことは知られている。ところが明治に入り、それが上からの近代化を強力に進めるという方向にかわった。中央からの一方通行という情けない状況は、ここから生まれた。
 ▽地方出版ひしめく沖縄 30社近くの地方出版社がひしめく。地方出版のうねりのひとつに地方百科事典の出版があった。沖縄の地方百科は一番よく売れた。
 ▽(編集者の)石原は、これはという新人をみつけると、どんな小さな記事にも目を通し、手書きの感想文を送るという。「マメに手紙を書くというのは、編集者の大事な仕事だと思います。それに約束は絶対守らないといけない」
 ▽「自分の考えと上の考えがぶつかったとき、辞める覚悟までできるのが編集者です。でなかったら編集部員でしかない」
 ▽「五体不満足」の編集者 ミーハーでありつづけるために「37,8歳のころ、ちょっと煮詰まってきたような気がして、映画は1年で200本見た年もありました。英会話はジャパンタイムズを7,8年ほど読みました。変な人が自分のまわりに集まってくる磁場を形成するための自己変革はします」〓
 ▽新潮「きみは人殺しのツラが見たくないのか」「売れる本なんかつくるな。買いたくなる本をつくれ」
 ▽大阪府立中央図書館 96年開館。図書館王国・滋賀県
   ▽浦安市立中央図書館も視察が殺到。人民日報などの主要海外新聞もそろっている。
 ▽書評 文春の書評担当者「週5日は書店に足を運び、2,30冊買って読む」
 ▽生活クラブ生協がつくる書評紙「本の花束」。勧めた本を野菜と一緒に宅配する。「本選びの会」のボランティア25人が、自分の読んだ本をみんなで読んで、だれに書評を書いてもらおうか、話し合う。
 ▽著作権の切れた作品をボランティアで電子化した「青空文庫」
 ▽前川恒雄らによって提唱された市民図書館運動が、貸し出し至上主義に変貌するのは、税金を使っている以上利用効率をあげなければならないとする中曽根民活路線からである。
 ▽新書ブーム 雑誌感覚でつくる。
 ▽自費出版ビジネス「あなたの原稿を出版しませんか」。文芸社商法。2%の印税じゃミリオンセラーにならない限り黒字にならない。

■佐野眞一「東電OL殺人事件」新潮文庫 20040903

   東電のエリートOLが売春の末に殺され、容疑者として捕まったネパール人が無罪判決を受けた1997年の猟奇的事件を徹底的に取材して、亡くなったOLの生き様を祖父母の世代にわたって浮き彫りにしている。ときに想像力がふくらみすぎて思いこみ過多の文章もまじるが、その取材量の豊富さに圧倒される。
 被害者の父は、東大を出て東電に入ったエリートであり、母も大金持ちの家の出身で東京女子大を卒業した。父親は順調に出世するが役員の直前で病死する。被害者が大学生のときだった。
 溺愛してくれた父の死をきかっけけに拒食症になり、父と同じ東電に入り、エリートを目指すが30歳代半ばで出世の壁にぶちあたる。それが売春を始めるきっかけとなったと著者は想定する。
 この仮説を論証するため、父母の家を3代前までさかのぼって調べ、生家や墓を訪れ、被害者が生まれてから死にいたって住んだすべての場所を歩き、当然、東電の同僚や大学の同級生にもインタビューした。ネパール人容疑者の故郷まで足を運んだ。
 容疑者とされたネパール人が、犯行当日にたどったとされる、勤め先の幕張のインド料理店から犯行現場までのルートを実際に足を運んでみると、犯行時間までに到着するのはかなり無理があることがわかった。
 大堕落した被害者の女性。その周囲には、世間的には「男女平等」を唱えながら昇進差別をやめようとしない東電があり、故国から出てきて性欲をはきだすためにわずかな小遣いをはたいて買春する容疑者がおり、人種的な偏見から無理なえん罪を引き起こす警察や検察の堕落があった。いわば、被害者女性の劇的と言えるほどの大堕落によって、日本社会の構造的堕落、周囲の人間の倫理的な小堕落などが浮き彫りにされることになったという。
−−−−取材先の広がり−−−−
 ▽現場となった旅館街を仕切る人、それを頼って岐阜の山中まで。アパートの所有者や、ネパール料理店の人物のマンション、ラブホテルの支配人。ヤクザの組長。売春の客。SMクラブ、東電の同期入社の同僚。裁判の証人の1人1人。鑑定をした大学教授。拘置所で接見。墓をさがす。