2004年10-11月

■辺見庸「独航記」角川文庫 20041015

  感性がすごい。表現がすごい。俺の文章はあかんなあと落ち込む。そもそも「すごい」と書く時点で失格なのだ。「顔のでかい女と別れた」なんて書き出し、どきっとさせられる。私生活を赤裸々にすることと、その直接的な表現と。夕暮れ時は「顔の輪郭がどろろとにじんでいく」のだそうだ。うーん。
  山谷に住み、犬の大量虐殺を見学し、その灰のぬくもりを手で味わう。ゴミの山にのぼる……。身体感覚、対象の立場にどっぷりとつかる感覚を徹底的に大事にしている。外見とちがって、きわめて繊細な人であることがわかる。
 ▽山谷のアパートに警察が来る。「子どもいないの?」「女もいないの?」と身元を探る。「言いたくありません」というとき、「ひどくおどおどした」と言う。ひるみの感情。国勢調査を断るとき、警察の巡回連絡の調査を断るとき、NHKの受信料を拒否するとき、同じようなひるみを感じる。今はサラリーマンであり、元気であり、カネもあるからよい。が、離婚して、職をなくし、ボロアパートに住んでいたら……。そういう弱さを共感する感性が、新聞社なんかにいると麻痺してしまう。
 ▽道端にごろりと横になる男がひどく気になる。義理チョコやコンビニおにぎりを運んでやろうか、などと思う。しかし、歩道橋を上がるうちに、男への思いは少しずつ弱まる。−−人間の弱さ、忘れやすさ。釜ケ崎で凍死しかけた人を見たその1時間後に、焼き肉を飲んでビールをあおっている自分がいるのだ。
 ▽戦場のヘリに乗る。頼まれもしないのに「あれはパキスタン部隊だ」「あれはソ連製の武器だ」などと解説するヤツがいる。戦場取材に酔い狂った記者たち……そう、戦場には感性をまひさせる魔力がある。異常な興奮状態になる。ハイになる。身勝手な興奮。
 ▽野良犬をガス室で殺し、焼却処分にする。その灰は人知れず庭の花壇にまかれる。ボタンを押す職員の気持ちはいかばかりか。死が壁の向こうに隔離されている。死刑と同じだ。
 ▽土葬の村。人を埋めた土はほんわりやわらかく、あたたかい。植えた木がよく育つ。やさしさ。
 ▽退社から半年。平日の昼間に町を歩くのが後ろめたい。会社では「勝手気まま」と呼ばれていたのに、それでもそうなる。束縛の絆でありながら、安心の絆でもあった。−−辺見でさえそうなのだ。自分が退社したらさぞや落ち込み、自分を見失うのではないか。無意識のうちに首輪を快適と感じるようになってしまっているのではないか。
 ▽家とも会社ともうまくいかず、独居となった自分。女と暮らすか犬と暮らすか、と考える。
 ▽東京拘置所。死刑は抽象化され、概念化され、残虐性が希釈される。絶命まで平均14分間のむごい実相や執行官の苦悩は伝わらない。
 ▽虫けらのような記者は、虫でいなきゃならないんじゃないかと思う時がある。つぶされても、虫は懲りないですから。
 ▽「北東アジアを戦場とすることにたえられるか」おびただしい死傷者、数十万の避難民が逃げまどうことを正視できるか。
 アメリカはすでに北朝鮮爆撃を正当化し、かなり具体的に先制攻撃を考えている。戦場にすることに耐えられないから、ガイドラインに反対した。アメリカはたいていは先制攻撃をする。北朝鮮は先制攻撃されるのではないかとの恐怖感がある。だったら先にやってしまえ、となる可能性がないわけじゃない。
 そんなとき、何をするのか。著名人の意見広告、というのもいいが、何か違うな、傷つかないものな、とも思う。もっと個として責任の及ぶ行動を発想したい。
 ▽メディアは自己規制する。自分の主体を隠していく。慰安婦と死刑と天皇制は堂々と語れなくなっている。なんとはなしに、なし崩し的に、やらずにおきましょう、となる。
▽書評など
 〓映画「アンダーグラウンド」 無差別空爆はナチスよりもセルビアへの連合軍の方が猛烈だった。
 〓映画「SHOAH」 ホロコーストを扱っていながら、まがまがしい映像はない。収容所などの「今」の映像があるだけだ。悲惨を受け止めるには想像力が必要だ。日本人があまり衝撃を受けないのは、、安手のヒューマニズムに徹底的に慣らされているからではないか。想像力の射程が短くなっている。迂遠の論理を嫌い、即効性の浄化を欲しがる。日本では記憶の浄化作業が行われている。時代はいつになく情緒的だ。
 〓石牟礼道子「十六夜橋」
 〓吉本隆明「大情況論」 民営化を評価し、資本主義は「最高傑作」と言い…「現在」のすべてを受容する。不思議な説得力がある。
 〓「チベット死者の書」 映像にできないと思われた「死」を映像化した傑作。  〓「難民」 日本の30万民衆は「国内難民」である。

■斎藤貴男「機会不平等」文春文庫 20041003

   よくこれだけの本を読み、人に当たったもんだ。斎藤の本は何冊か読んだけど、これが一番力が入っている、と感じた。
 日本が「平等社会」を離れ、階級社会に向かっている、という現状を教育や派遣労働、老人福祉などの現場を当たり、新自由主義を標榜する経済学者たちの履歴をたどることで実証する。ヒトラーらとともに消えたはずの優生学の復権も淡々と説明し警鐘を鳴らしている。
 もともと保守系の経済畑の人だから、斎藤茂男や鎌田慧ら社会派系のライターのようなぬくもりやしめりっけはない。経済系の記者らしく、かわいた数字で淡々と述べているのが、かたくもあり、説得力もある。読み進めるうちに、乾いた文体の裏にある彼の怒りがじわじわと伝わってきた。
−−−−−−−−−−−抜粋・要約−−−−−−−−−−−−−
□教育
 ▽文部省の「新しい学力観」 98年に栃木県鹿沼市立東中が定期テストを廃止した。「新学力観」に沿ったもの。栃木県の教職員の95%は、自民支持の組合に加入。東中は国策のシミュレーションだった。
 ▽三浦朱門 「ゆとり教育」を深化させる学習指導要領の下敷きになる答申をまとめた責任者。「戦後50年、落ちこぼれの底辺を上げることにばかり注いできた力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。100人に1人でいい。やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえればいいんです…それがゆとり教育の本当の目的。エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」
 ▽遺伝子診断で選別化。人生を踏み出したばかりの年齢で、格下の人間として扱われる子どもが抱く屈辱や怨念…。
 ▽兵庫県朝来町立山口小学校の陰山英男教諭〓。読み書き計算の基礎を徹底的にたたきこんだ。課題の限定、方法の単純化、学習の反復継続。100マス計算、百人一首による記憶力訓練、地域特産物を多角的に研究する社会科学習。
 ▽品川区の小学校選択自由化。…不利な立場にある子どもを特定の学校に集中化させ、人気のある学校を富裕層、啓発された家庭の子どもに独占させることになる。アメリカの70年代の「ゆとり教育」は、学力を著しく低下させ、経済に非効率を、社会に荒廃をもたらした。そのことを反省した政府報告書を日本でも読むべきだ。
 戦前の複線型システムは、戦後の改革で6334の単線型に改められた。上級学校への進学機会が全員に開かれた仕組みだ。ところが今、複線型に改めようという。
 ▽意欲や態度を評価する成績表。その点数が、高校進学に大きく影響する。その結果、先生に従順でお利口さんでいる方がいいと考える。「意欲」を点数にしようと、授業中に手をあげた回数を点数化した教師。部活動のキャプテンをたらいまわしにして平等に得点を与えた中学校。100メートル走の進歩ぶりをアピールしようと、はじめは軽く流し、学期末になると真剣に走ってみせた生徒…。「生徒会には自分で立候補」などと書かれた教師に気に入られるためのマニュアル本が飛ぶように売れる。学校の成績というより、企業の人事考課、処世術と呼ばれる領域に限りなく近い〓。上司ならぬ教師の顔色をうかがうサラリーマン的な中学生が確実に増えていこう。
□派遣
 ▽労働者派遣事業法は派遣先による事前面接を禁じている。スタッフの雇用主はあくまで派遣元であり、スタッフはあくまで技能や経験を評価されてマッチングが行われるという趣旨からだ。「とりあえずトライアル」は明らかに事前面接だった。
 ▽給料と別に支給される交通費は非課税扱いなのに、交通費込みの時間給で給料が支払われると、その分にも課税される。
 ▽派遣先の横暴を派遣元に報告しても、かえって不利な扱いをされかねない。派遣元の営業マンに付け届けを欠かさないスタッフも当たり前。現代のドレイ労働。「正社員が一番偉くて、次に契約社員、パート、アルバイト、派遣…って身分制度ができている」
 ▽労組 年俸制、成果主義による収入ダウン。改正労働者派遣事業法など、企業がリストラをすすめるための環境整備も一気に整えられてきた。
 ▽従来の給与体系の基盤は職能給だった。能力に対して賃金が支払われるのであるから、配転で職務が変わっても同一賃金でよい。職務より人間を中心とする人事管理の考え方。一方、人間でなく職務に格付けをおき、難易度や責任の度合いを評価するのを「職務給」という。成果主義とは相性がよい。
 ▽管理職ユニオン「業績をあげていないから、と、2,3割の収入源を強いられる。社内いじめ、リストラへと続く。年俸制や成果給は、そのための入り口に使われる」
□老人と子どもの市場化
 ▽学童保育をつぶす。東京都は、指導員も常勤の専門職で区の正規職員として雇用された。ところが、90年代に入ると、正規職員が補充されなくなる。
 ▽健康学園 自分の成長プロセスを実感しながら体験していける。それが廃止されつづけている。筆者自身も小学生のときに通った。
□経済学者
 ▽中谷巌。平岩研究会で、派遣労働者や契約社員の活用などを含めた雇用形態の多様化。成果主義の導入……などがすでに出ていた。企業側の都合次第で労働者をいつ馘首するかもわからない、けれども、労働者の忠誠心だけは維持したいという、きわめて虫の良い話である。
 ▽竹中教授「アメリカにいると、普通に学歴を積んで、プロフェッショナルとして仕事をしている人々の生活水準がいかに高いかということを痛感します…日本は、一生懸命働いている人が怠けている人の分まで稼いでいる。生産性の低い産業が、高い産業の負担の上で淘汰されずに残っている」(想像力の欠如)
 ▽フリードマン 「国家も民族も一切力を持たない、一つのメカニズム(市場)が人間社会を結ぶということが最も幸福であるという、ヒトラーやスターリン治下のユダヤ人の血の叫びである」。かつてフリードマンは、極貧のユダヤ人たちに対して涙する人間でした…
□優生学の復権
 ▽遺伝病、あるいは「好ましくない性質」の胎児を中絶する?
 致命的な疾患をもつ胎児の中絶を許容したとして、その後、社会はどこで線引きができるか。AはいいけどBの疾患ではいけないという理由はなにか…坂道をすべっていく。「すべり坂理論」
 ▽グローバリズムの中での生き残り、という議論。今日の機会不平等主義者たちも、「グローバリズム」「世界市場の中での競争」というレトリックをもって、自分の欲望を正当化する。持てる立場の彼らがさらに得をするルール変更がさも公のためになされたかのような装いを得ることができる。
 ▽日本の社会ダーヴィニストたちは、オレは強いだろう、と叫ぶ。その表情はいつも何かにおびえている。一方では徹底的な自由放任を強調しつつ、他方では、教育や労働、ボランティアなど、あらゆる分野で個人の生き方に対する過剰な誘導が推進されるのは、そうしたジレンマの産物である。
 ▽グローバルスタンダードがうたわれる一方で、国家主義的な動きが強まる。フリードマンらの全体主義に対する憎悪を源に生まれたはずの思想と、現実の政策との間に横たわる矛盾をどうして新自由主義経済学者たちは許容することができるのか。ヨーロッパ的な階級社会への伝統的なあこがれ。
 ▽〓明治の徴兵制。中等以上の教育を受けた者に対する徴兵猶予や免除の特権がはじめから定められた。官立府県立学校を出て服役中の食糧被服などの費用を自弁するものは兵役は1年に短縮された。「特権の前提とされたのは、学歴と同時に、服役中の費用を負担しうる経済力である。社会の富裕層にとって、きわめて有利な制度だった」(天野郁夫)

■「戦後を語る」岩波新書 200411025

  いろんな人が戦後50年について寄稿している。以下、抜粋と要約。
 ▽網野善彦  マルクス主義的な歴史観で動いていた過去を「自らは危険な場所に身を置くことなく、口先だけは革命的に語り、封建革命、封建制度とは何か、などについて愚劣な恥ずべき文章を得意然と書いていた」と強烈に反省する。
 1956年まで常民文化研究所につとめていたころ、全国の海村から借用した古文書のある部分が未返却のままに残ってしまった。それを何十年もかけて返却してまわった。かつて「庶民」を軽視していたことへの贖罪だった。
 「封建社会」論のなにが間違っていたのか。「百姓=農民」という常識が誤りだったことだという。日本社会が人口の8−9割を農民が占める農業社会だったという通説も、根拠のない「神話」だった。そうである以上、封建領主による農民の支配関係を基本に展開されてきた論は根底から再検討されなければならなくなった。
 −−僕自身も「左翼」というだけでまともな人・団体かなあという幻想を抱いたことがある。だが本当に大事なのはイデオロギーではなく、実際に現場を見て、意見をかわし、悩んでいるのか、ということだ。「民主的」な弁護士がけっこうえぐい商売をしていたり、自分の名声のために庶民を利用する場面もその後に出くわしてきた。比較的ましな人が多いのは確かなのだが、やはり、個人を見なければならないのだと。
 ▽永六輔  勤労感謝の日は新嘗祭、文化の日は明治節、昭和天皇の誕生日はみどりの日…、天皇制がこういうところでしたたかに生き続けている。ないはずのものがあって、あるはずのもの−−民主主義であれ平等であれ自由であれ−−がない。
 卒業式で蛍の光と仰げば尊しが唄われなくなった〓。若い人たちはもう知らない。その理由を文部省に聞いたら「先生はいま、仰げば尊しという存在じゃないっていうんです」。そういうものをなくしたくせに、皇室関連のもので生き残っているものはたくさんある。
 ……戦後50年、というと、「民主主義とは」「我が国の進路とは」とか正面きっちゃうでしょ。重箱の隅を拾い集めていくと「戦後50年」は別の切り口でみえてくると思う。
 戦争はラジオではじまり、ラジオで終わった。テレビはいまの天皇の結婚式を見ようと一挙に広まった。また天皇なんですよ。テレビとどういうふうに関わってきた50年だったのか。そういう見方からすれば、また別の50年がみえてくると思います。
 〓阪神大震災で被災者への補償がなぜ難しいのか。奥尻や島原だけではなく、広島や長崎、沖縄、そしてアジアまでさかのぼっちゃうからだと思うんです。沖縄県民などまったく補償されていない。この50年、国家的災害に対する補償をきちんとしてこなかった。だから今、阪神大震災の被災者の人たちが困っているんですよ。何もしてこなかった戦後50年、それは、外にはアジア、内には阪神大震災の補償一つとってもわかる。
  ▽大野和士  「恐怖のアウシュヴィッツ」「戦後こんなに経ってるんだ、もう忘れましょう」といいます。しかし、知らなかったことを忘れることはできるでしょうか。忘れるにはまず、知らなければなりません。
  ▽小川武満  天皇は1932年、〓「満州事変に際し関東軍に賜りたる勅語」を発して激励した。「衆を制し、…匪賊を掃討し…」。この勅語により、関東軍の侵略行為に対する批判的言論は封ぜられ、平頂山村民3000名の虐殺がおこなわれた。悲劇が各地で多発した。
 石井部隊で有名な北野政次教授から「原地猿(満州人)」を使用した生体実験の講義を聴いた。
 サイパンのバンザイ峠の悲劇、沖縄のひめゆり部隊、渡嘉敷島の集団自決について、金城重明牧師はこう告白している。「天皇陛下のため、お国のために死ぬことは、最高の栄誉であると信じて疑わなかった。このような異常信仰が幼い小学生の精神まで徹底的に支配していた」
 マレー半島に敵前上陸した部隊の証言によると、華僑の村の住民を全部森に集めて、部隊長が全員を殺すように命じたが、兵隊は誰一人動かなかった。怒った部隊長が声高く「天皇陛下の命令だ」と叫んだとき、兵士たちは狂気のように村民を刺殺したという。
  ▽姜尚中  いたずらに貴重な時を空費し、天皇の統帥権の護持にこだわり続けた国家の論理は何にたとえたらいいのだあろうか。その非情さは、当の日本国民にヒロシマとナガサキの悲劇を強いることになったが、それでも大方の国民は戦争の終結を「聖断」による天の声として受けとめ、戦後の復興に「前向き」に取り組んできた。そこにあるのは「現在」が点となって孤立したまま、点と点があたかも切れ目のない線のように続いていく惰性態としての歴史である。
  ▽佐伯輝子(ドヤ街の医師)  寿町には、戦後の混乱がそのまま置き忘れられている。「現代社会はどこか行儀よく、とりすまして、格好つけた人間ばかりになってしまったから、つまらぬ」寿町の人間の臭いがプンプンする人たちが光り輝いてくるからふしぎである。近代化から置き忘れられている。それゆえに、熊さん八つぁん的な人間が生きてゆける街なのである。
  ▽坂本義和  戦争中に「政府にだまされた被害者」が、戦後は「主権の存する国民」となった。これが、民主主義土着化の第1歩だった。しかし、ここで生まれた、戦争被害者と日本国民との等置には、盲点があった。それが次々に表面化するのがこの50年だった。
 まずは被爆者。その存在を知ったことは「世界で唯一の被爆国民」という意識を形成した。これは、戦争被害者意識を、より普遍的な平和思想へと鍛え上げた。
 さらに盲点が明らかになってきた。安保運動で基地反対、軍事同盟反対を主張しながら、沖縄を視野から欠落させた。反核や全面講和といった主張は、米ソという超大国への抗議と訴えであるために、米ソ中心の世界像に基づく、意識せざる大国への関心集中が潜むことになった。
  ▽高野雅夫  戦争孤児。やさぐれた日々。21歳で夜間中学で文字を学ぶことで「人間」になった。日本に憲法があることを、生きる権利と学ぶ権利があることを初めて知る。
  ▽知里むつみ  現行法である「北海道旧土人保護法」の骨子はアイヌを農耕化することにあった。生活のすべてのスタイルを和風化することに力点が置かれていた。異なった民族の文化を村長するということは、まったく念頭になかった。
 長いこと劣等視されると、本当にそう思いこんでしまう。私の世代のアイヌには、とくに、この劣等感が植え付けられている。アイヌであるということだけで、学校や社会でいじめにあってしまったから。
 ▽長倉洋海 ▽星野昌子

■憲法再生フォーラム「改憲は必要か」岩波新書 20041118

   数人の筆者が、「9条は非現実的では」「新しい人権を入れるべきでは」「なにをやってもかわりゃしないよ」といった「常識」に対して答えている。
 武力の放棄を定めた9条は非現実的だというが、イラク派兵でさえもまわりくどい表現をしなければ派遣できなかった。自衛隊は60年間1人も殺さなかった。いずれも9条があったためだった。「9条1項だけ残せばいい」という意見もあるが、戦力放棄をせず、「戦争はしない」というだけなら、大日本帝国も「パリ条約」で約束していた。
 プライバシー権や環境権などは、幸福追求権などに包含できる。「新しい人権」は、国際法を国内法秩序に導き入れることを宣言する98条によって対応してきた。それによって、「雇用機会均等法」ができ、在日朝鮮人が国民年金に加入できるようになり、外国人の利用を拒否した銭湯が裁判で負けるようになった。
 「有事」には人権を制限してもよい、という意見がある。だが、子どもの権利条約などでは、紛争時であっても、人権を制約してはいけない、と定めるようになった。アフリカの人権憲章?では「人権を制限したからといって紛争がおさまるわけではない。むしろ人権を実現することにょってこそ紛争は収拾される」とまで宣言している。
 それぞれ勉強になる。特に、最後の北沢洋子さんの文章は、いかに、民衆による運動が世界を変革しうるか、という実例を紹介していて希望を持たせてくれる。でもなにかもうひとつ、「下」におりきれていないように感じるのはなぜだろう。急速に力を増している草の根右翼に対抗するには何かが足りない気がする。
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  □樋口陽一
 ▽9条の中心は第2項にこそある。第1項だけなら、他の諸国(フランス、イタリアにも)も採用している規定と同じ意味になる。それどころか、大日本帝国が条約で約束したはずの事柄を繰り返すだけのことになる。「帝国政府」は「締約国ハ国際紛争解決ノ為戦争ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互関係ニ於テ国家ノ政策ノ手段トシテノ戦争ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自の人民ノ名ニ於テ厳粛ニ宣言ス」という「戦争抛棄ニ関スル条約」を1929年に批准していた。
 ▽もし日本国憲法がなかったら、どんな「現実」になっていたか問い直してみよう。米国の学者ローレンス・ビーアが描き出している。「…憲兵隊は存在しないでしょうが、日本の警察は、通常犯罪と思想統制の両方に効果的に対処したでしょう。…独立性を欠いたマス・メディアは、さきの戦争での日本の侵略、大虐殺及び敗戦を隠すことになったでしょう」(「自由と正義」96年5月号)。あるものはかなりの程度、この講演のほぼ10年後の今、現実となっている。
 ▽イラク派兵の根拠の法律「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」には、「現に戦闘行為が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域」で活動をする、と定めている。政府が9条を拡大解釈してもなお、そのような回りくどい法的表現をしなければ派兵を実現することができなかった、と見るべきでしょう。
□阿部浩己
 ▽新しい人権 憲法13条は、国民が生命、自由及び幸福追求に対する権利をもつと定めている。「幸福追求権」。「ドラえもんのポケット」のように、社会の現実に応じて新たな人権を引き出すことができる。プライバシー権(自己に関する情報をコントロールする権利、みだりにその容貌姿態を撮影されない権利)、環境権も。環境権は25条の生存権規定にも根拠をおく権利として認識されるようになっている。
 ▽98条2項「条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」。国際法をそのまま国内法秩序に導き入れることを宣言している。主要な国際人権法は、「自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)、「社会権規約(経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約)」、「人種差別撤廃条約」「女性差別撤廃条約」「子どもの権利条約」「拷問禁止条約」「移住労働者・家族権利保護条約」の7つ。「難民条約」「人身売買禁止条約」「奴隷制廃止条約」も重要。
 難民条約に加入したとき、社会保障関連諸法から国籍条項を削除した。女性差別撤廃条約批准にあたっては、雇用機会均等法を整備したり、国籍法を改正したり、家庭科の男女共修を導入したりした〓。
 人種差別撤廃条約は、公的機関の人種差別を禁じる憲法とちがって、「いかなる個人、集団又は団体による人種差別」も根絶の対象にした。その結果、宝石店への入店や公衆浴場への入場を外国人として断られた人たちが裁判に訴え、勝訴するようになった。
 国際人権法は進化し続ける。先住民族の権利宣言案、「障害者権利条約案」が注目されている。完成し日本が締約国になれば、その内容は、日本の憲法秩序に組み入れられる。
 ホームレスの人にとっては社会権規約の保障する「居住権」〓が特に重要。最低限の居住水準とはどのようなものか、人を強制的に立ち退かせる場合にはどのような基準が守られなければならないのか、詳細に示されるようになっている。
 ▽日本の抱える人権問題を知るには、「政府報告審査」〓。7つの主要人権規約の締約国は、条約の履行状況について報告書を国際機関に提出しなくてはならない。委員会は報告審査の結果を、「最終所見」という形で毎回発表する〓。警察や入国管理施設における虐待、婚外子に対する差別、在日に対する差別、アイヌに対する差別、逮捕・拘留された者への不十分な権利の保障、受刑者・死刑囚の非人道的処遇、女性の人身売買、雇用における性差別、子どもの意見・表現の自由の不十分な保障、子どもの虐待、障害者の差別処遇…など、日本社会の人権問題は枚挙にいとまがないほど。第二次世界大戦期に日本が多くの人たちを強制労働や軍性奴隷(従軍慰安婦)などに駆り立てたことに対する責任。人権条約機関や国連の場でもこうした問題が取り上げられることがあり、日本政府に法的責任をきちんととるよう何度となく勧告が出されている。
 難民問題も。UNHCRによると、難民総数が総人口に占める割合は、150ヵ国中125位、対GNP比でも136位。
 ▽独立した国内人権機関が必要。さらに、個人通報制度と称される国際的人権救済申し立て制度。条約の保障する権利を侵害された被害者が、その国のなかであらゆる手立てを尽くしたけれどなお救済されないというときに、それぞれの条約機関への救済申立を認める制度がある。被害者個人の人権救済が主な目的。だが、日本政府は、個人通報制度をまだ受けいれていない。条約には入っても、個人通報制度の受諾は拒否している〓。自由権規約の場合は100以上の国が受諾しており、先進国で受け入れていないのは、アメリカとイギリスと日本くらい。英米は、それぞれ欧州と米州の地域的人権保障の枠組みのなかで用意された救済制度の利用が可能だから、国境を越えた人権救済制度を被害者がまったく利用できないのは、先進国では日本だけという実情だ。
 ▽国際人権法は、非常事態による人権の制限を認めない方向に歩を進め始めている。子どもの権利条約の履行を監視する子どもの権利委員会は、非常事態においても子どもの権利の保障が停止されないことを明言するにいたった。〓最も新しい地域人権条約であるアフリカ人権憲章は、その23条で、すべての人民が平和への権利をもっていることを宣言している。「紛争が起きたからといって人権を制限してはならない。なにより人権を制限したからといって紛争がおさまるわけではない。むしろ人権を実現することにょってこそ紛争は収拾されるのだ」と。
□北沢洋子
 ▽ジュビリー2000のキャンペーン。人間の鎖という平和的手段で貧しい国の子どもが重い債務の支払いのために死に追いやられていることへの怒りを、7人の首脳に直接ぶつけることが情況を動かした。
 ▽サンフランシスコの「直接行動ネットワーク」(DAN)〓がシアトル閣僚会議への政府代表阻止を呼びかけた。非暴力不服従。阻止する方法について研修のテキストをネットに載せた。デモは少人数グループにわかれ、それぞれ自立して行動すること。グループのリーダーはグループ間の調整役にすぎないこと、警察の弾圧への対処法、拘置所内での連帯行動…などの研修をおこなった。
 ▽フランスの失業者協会(AC)は90年代半ばに誕生。数十万人が参加して大規模なデモをしたが、成果がない。グローバリゼーションが生み出したカジノ経済からカネをとろう、ということになった。「為替取引に課税し、市民を援助する協会」(ATTAC)を98年創設した。今日では世界各地に支部がある。
 ▽ブラジルのポルトアレグレ市は、89年以来、市長・市議会ともに労働党が握ってきた。89年には市財政は破綻し、汚職がはびこり、犯罪が多発していた。参加型予算システム、というシステムを導入。市の歳入から公務員の給料分を差し引いた事業費の8割を市内16のコミュニティの運営に任せた(〓内子の実験)。それぞれのコミュニティが代表を選び、交通・医療・教育…といったテーマについて3カ月にわたって議論し、予算額と優先順位を決める。コミュニティ代表と市会議員が共同で。「参加型民主主義」。清潔で夜に女性が一人で歩いても安全。UNDPの人間開発指数では、ラテンアメリカの100万都市のなかで最上位にランクされた。
 ▽WTOと戦う。カンクンの議論で南北が対立したのは農業協定だった。米国とEUが農産物の輸出に支出している巨額の補助金を、途上国側は「廃止せよ」と要求した。補助金づけの安い農産物が入ってくれば自国の農業が立ちいかないからだ。世界各地の農民は、日々の生産の場から、米国などの農業補助金と、それを支えるWTOが敵であることが容易に理解できた。これら農民運動や小農民協同組合は「ビア・カンペシーナ(農民の道)」という国際的な反WTO農民運動に合流した。
 ベナン、ブルキナファソ、マリ、チャドというアフリカ最貧国4ヵ国が、米国に対して「綿花の輸出補助金の撤廃」を要求する表明を出した。4ヵ国は綿花の輸出に全面的に依存し、米国の安い綿花の輸出攻勢によって農民は困窮化していた。アフリカの貧しい国が単独で米国にもの申すことになった背景には、綿花生産小農民協同組合が団結して、4ヵ国政府に対して活発なロビー活動を展開してきた経緯がある。
□水島朝穂
 ▽1953年11月、来日中のニクソン副大統領(後の副大統領)は、「日本の非武装化は米国の誤りだった」と述べた。朝鮮戦争に日本を参戦させられず、徴兵制と軍法会議を含む本格的な再軍備の障害となった9条を日本に「押しつけた」ことを、「後悔」するというのは、まさに歴史の皮肉。
 ▽1928の「パリ不戦条約」が、戦争が違法なものとして扱われた最初。ただそこでは自衛戦争は否定されなかったため、第二次世界大戦はいずれの側も「自衛」を主張した。〓1941年の大日本帝国の宣戦の詔書にも「自存自衛ノ為」とある。
 ▽集団的自衛権は持っているが、使えない、という政府の立場。自衛隊を戦力ではなく「自衛のための必要最小限度の実力」とする1954年政府解釈を前提とする限り、集団的自衛権行使を合憲とする解釈変更はそう簡単ではない。そこで、憲法9条改定となる。