2004年12月

リチャード・ウィーラン「キャパ その戦い」文春文庫 20041208?

   フランコの反乱軍が優勢になり、共和国側が絶望的なスペイン内戦。フランコをドイツが積極的に支援したのに対し、共和国側を本来支援すべき英仏は及び腰だった。
 そんな戦場でキャパは生涯でただ1人の本物の恋人ゲルダを失う。
 その後も、キャパは快活でみんなを楽しませたが、その裏で本当の自分であるアンドレ(キャパ)は孤独を深めていった。
 戦場独特の高揚感のなか、ヘミングウェイらとのつきあいが生まれる。そう、戦場は悲惨であるけれど、独特の楽しさがあるのだ。
 独ソ不可侵条約によってフランス共産党はナチスに近い立場にかわる。それくらい、「人権」や「民主主義」の意識は希薄だった。「独ソ不可侵」というスターリンの決断が、ナチスのポーランド侵攻をもたらした。同時に、共産主義者の弾圧がフランスで始まり、共産党系の雑誌に寄稿していたキャパはアメリカ渡航を余儀なくされる。
 米国に渡り、「敵性外国人」とされながら第二次大戦に従軍し、ノルマンディー上陸作戦などで戦場カメラマンとしての名声を確立する。そのときまだ30歳。ちなみにスペイン内戦の「崩れ落ちる兵士」を撮ったのは22歳のときだった。
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 ▽11月6日、フランコ軍がマドリード郊外に達したとき、共和国軍の守備隊は弱小で貧弱だった。高性能のドイツ製機関銃の砲火に対し、原始的な散弾銃で応戦した。マッチが不足したからタバコの先でダイナマイトや火炎瓶に火をつけた。
 ▽激しい空襲。…前線への行き来は、路面電車に乗るだけ。
 ▽いかに生命を危険にさらしたかによって、編集者は多くのカネを払わざるを得ない。伝説の偽造はビジネスの問題にもなっていた。
 ▽恋人のゲルダ。キャパがパリに帰っても、ゲルダはマドリードにとどまった。それが別れ。ゲルダは共和国軍の戦車にひかれて26歳で死亡。殉教者となった。
 ▽ゲルダが死んで以来、愛情にとらわれることも将来の約束をすることもなかった。ゲルダの死に深く傷つき、深い悲しみに沈むアンドレ・フリードマンとしての一面を持ち続けることになった。
 ▽中国における戦争は、スペインの戦争のアジア版とみなされるようになった。国際的人民戦線の潮流と国際的なファシズムの潮流のぶつかり合いであると。スペインと同様、人民戦線の連合はきわめて不安定なものだった。しかし中国では、優位に立っていたのは共産主義者ではなく、蒋介石だった。
 ▽1938 南昌では、川、山、ゲリラ、飛行機、戦車…すべてのものが撮れるはずだった。(Mさんと重なる)
 ▽バルセロナの雰囲気は9月の漢口とほとんど変わらない。激しい空襲を受け、数千人がフランスへ逃げ込んでいた。…敗走してきた共和国軍兵士20万人はキャンプに収容された。「フランス人はボロボロになった亡命者たちを慈悲心のない冷淡さで扱った」…ソ連とドイツが8月23日に不可侵条約を結んだ。共産党のナチス寄りの新見解が戦争の際に危険な分裂をもたらすことを怖れたフランス政府は「ユマニテ」と「ス・ソワール」の休刊を命じた。ヒトラーはポーランドに侵攻。2日後、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告した。フランス政府は、ドイツ人亡命者と共産主義者を検挙しはじめた。キャパはドイツ人の移民社会のメンバーとして活動しており共産主義者のシンパとして有名だったため、アメリカに渡ることにした。
 ▽キャパは女漁りぶりを非難されるたびに「困ったことに、僕は女性から身を守るのが下手なんだよ」と答えた。

リチャード・ウィーラン「キャパ その死」文春文庫 20041215

   ヨーロッパの戦争で連合国軍が勝利し、仕事もなくなり、ピンキーという恋人も失った。何をしていいかわからなくなり、途方にくれ、気力を失った。まだ31歳だった。
 映画や回想録づくりなどを試みるが、戦場写真ほど満足できる場が見つからない。稼いだ金は女漁りとシャンパン、ギャンブルにつぎこむ。そんなとき、イングリッド・バーグマンと出会い、愛し合った。
 貧乏カメラマンのアンドレだった時代に夢見た地位も名誉も女性もすべて手に入れたのに、キャパの内面は空虚だった。
 マグナムを創設し、レッドパージで弾圧されかかり、建国されたばかりのイスラエルをユダヤ人の立場で取材する。それでも空虚さは埋まらない。
 そんな状態で日本を訪ねたとき、「急用ができたカメラマンのかわりにちょっとだけベトナムに行ってくれないか」と頼まれる。再び名声を確立し、自ら復活するきっかけになるのでは、と判断したのだろう。インドシナに向かい、敗色濃厚なフランス軍を取材することになった。20日もたたない5月25日午後3時、地雷をふんで死亡した。
 「ロバート・キャパ」という伝説にしばられ、最後はあがいていたように見えるという。
 筆者の細かい取材による、場面の再現。その綿密さと莫大な労力には舌を巻くしかない。
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 ▽アーニー・パイルが沖縄の伊江島で死んだ。
 ▽ピンキーとの恋愛。結婚しなくては、という重圧。彼女が友人と結婚することになり、悩み苦しんだが、開放感も感じていた。
 ▽十数年ぶりに故郷のブダペストを24時間訪問。ハンガリーのユダヤ人。友人の多くは殺されていた。その翌年に訪ねたときは、共産主義者ががらりとまた雰囲気を変えていた。
 ▽イスラエルへ。民族の故郷。アラブ人に囲まれ、マドリードに似ていると思った。イスラエルに住もうか、という考えも芽生えたが、すぐに霧消した。
 ▽いつも快活そうに楽しんでいる。だが朝だけは「眼はうつろで、夜のつらい夢にとりつかれている。絶望し、苦しみ、悲しんでいる。酒脱でも快活でもない。生ビールをのみほし、勢いをつけ…服を着て、風来坊然と、装われた快活さでバーに向かうのだ。家を持たない男がくつろげ、友人たちを見つけ楽しませることのできる場所であり、これからやってくる夜のことを、少しでも忘れさせてやれる場所だった」
 ▽日本に出発する前、「写真を撮ったり報道したりすることに疲れたよ」「パリに美しいアパートメントを見つけるんだ。結婚だってするかもしれない」ともらした。…写真はガキのためのものだ、僕は飽き飽きしている。しかし僕は、僕の伝説の囚人なんだ。
 ▽戦場での写真と、それ以外の写真の出来の差が激しい。

姜尚中・テッサ・モリス-スズキ「デモクラシーの冒険」集英社新書 20041223

  政治に対する無力感が蔓延している。どうせ何をやったって世の中は変わらないよと。
 80年代は、無気力とか言われながら、ユニークな市民運動が各地に生まれていた。だが90年代に入ると、世の中全体を無力感が覆うと同時にナショナリスティックな言説や、外国人差別、弱いモノいじめが広がった。
 なぜそうなったのか。
 経済のグローバリゼーションがその背景にあるという。大工場などを背景に発展した労働組合は、よりコストが安い国や企業に生産をまかせてしまうから、労働者同士の団結がなりたたず、力を失う。矛盾は弱いところへ弱いところへと押しつけられる。
 WTOでは企業の論理ばかりが幅をきかせ、国民国家が判断をできる幅が狭まってきた。アメリカ以外の政府は、どんな政党が権力をにぎっても、WTOの権力に対して、ほとんど影響力を行使できない。与党でも野党でもグローバルな権力を変えられない。何をやってもムダという意識が浸透した。
 政党も、差異がなくなってきた。日本では小選挙区制の導入が大きかった。が、オーストラリアでも「イラク戦争反対」を言えば票を失うため、労働党でもそう主張できなくなっていった。あえて「戦争反対」を主張したために、先の選挙で右派に負けたという。
 安定はしているけど、どうせ選択肢はない、という閉塞感に覆われたとき、安心して叩ける「敵」を見つける。北朝鮮であり、人種差別であり、学校のいじめでもある。
 こんな社会で私たちは何ができるのか。
 デモクラシーの「消費者」であってはいけない、という。
 企業の知的所有権は、グローバル企業の利益を守るものだ。ことにエイズ治療薬は、企業の知的所有権強化のせいで、安価なコピー薬品が製造できなくなり、途上国では薬ものめずに多くの犠牲者がでた。ブラジルと南アフリカが反旗をひるがえし、安価な薬を使えるようにした。NGOなどのネットワークが両国を支えた。ブラジル憲法が88年に生存権の規定を入れていたことも、その支えになった。ナショナルな憲法とグローバルなNGOなどが結びついて闘った成果だった。
 一歩でもいいから、ホームページを作るだけでもいいから、動け。発信せよ。「デモクラシーの消費者」であることから脱せよと説いている。
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 ▽イラクに派遣すべきか否かより、なぜこういう状態が引き起こされたのか、米軍が占領を続けたらどうなってしまうのか、イラクの状態をよくするために日本が何をできるかを考えるべきだ。(意外に見落としがちな考え方)
 ▽公的領域が市場に侵食されていくなかで、安直な対応策はナショナリズム。サッチャーやレーガンの新自由主義がマイノリティへの差別をともなったのは象徴的。
 ▽レーガン 刑務所や「不法」移民収容施設を民営化する。ワッケンハット社はそれで拡張する。カナダ、オーストラリア、ニュージー、南アフリカ、イギリスなどで、3万人の収監者を管理する会社に。
 ▽ポスト・フォーディズム 新分業体制を支えるのは、世界各地の低賃金工場を結びつける情報網の発達。そういう職場では、同じ企業やグループだからといって、労働者同士が単純に連帯することが難しくなってくる。賃金体系も異なる。
 ▽60年代の福祉国家構想は一方で植民地からの収奪を伴った。行政部門の肥大化が起きた。そんななかサッチャー・レーガン登場。福祉国家を否定する。労働組合は反対したが、新国際分業が誕生し、大規模工場での集中した生産ではなくなるため、団結が困難となって力を失いつつあった。
 ▽戦時中のコーポラティズムが、経済成長に向けた国民の総動員体制となる。教育を充実させて労働能力を底上げして、労働者が商品を購買する余裕がもてるように、ある程度生活水準を高める。革新政党の基盤そのものが、ネオ・コーポラティズムに支えられていた。
 ▽「市場の社会的深化」 80年代以降に急速に進み、90年代になると加速化。公的領域のデモクラシーが、国家と企業が癒着したグロテスクなステージに押し上げられて根本的な部分で組み替えられる。たとえば政治家も、経営手腕を求められる。刑務所が職安が民営化された場合でも、実際は政府が関与する。民営化といっても、政府や官僚、企業が渾然一体となったシステムとなる。しかも、「企業秘密」の壁によって、民主的な存在でなくなってしまう。企業や政府にとって、知られたくない情報の隠れ蓑になる。
 ▽イラク戦争に寄生する企業。捕虜収容所の経営も民間業者。市場は自己調整メカニズムがあるどころか、政治や戦争に寄生して、そこで膨大な利益を生み出す企業が増えている。
 ▽「効率」を重視するから、二大政党制がよいとされる。迅速な決断、を求めるあまり「細かいことは我慢しろ」となる。疑似独裁政治
 ▽豪州の労働党の多くの人は、イラク侵略に反対しているが、反アメリカの立場を明確にするより、選挙戦略としては反対しないほうが有利だと考える。だとしたら市民運動がするべきは、侵略を支持する政治家リストをネット上で公開するとかいうことになる。それによって風向きがかわれば、今度は侵略に反対したほうが有利となり、党の戦略に影響を与える。…日本では逆に、拉致問題について、経済制裁を望むか否かを議員にアンケートするという動きがあった。
 ▽地方自治体の方が、国よりはるかにおもしろい動きがある。1つには、政党の権力があまり顕在化していないからでしょう。地域レベルではあたらしい社会運動が生まれやすい。EUを見ると、地域レベルの運動が、NGOを通して、国境を越えてむすびつくケースもある。…政党の存在意義が少ないと、いろいろな社会運動を政治に反映させる可能性が高まる。
 ▽大新聞 読者のニーズを調べて、記事の内容を考えるようになる。次第に、反発ない記事を書くことがいい記者の条件になる。……みんながニュートラル・コーナーに身を置くような発言をするようになった結果、違いがわからなくなって、それが逆に、非常に強いインパクトをもった発言が受ける土壌になっていった。ポピュリストの登場へ。
 ▽メディアがスター政治家をつくりだして、それをたたくというサイクルが目立つ。世論を加熱させて、失望を生み出す。それが、政治へのニヒリスティックな感情をますます増大させ、最後はポピュリズムの力さえ落ちてくるのではないか。
 ▽人民投票の結果選ばれた1人の賢者による専制支配への待望論のようなものがある。「決断主義的」な政治を求める風潮は、ナチス待望論に似ている。
 ▽マルクスの影響力が強かった時期は、生産的な視点から暮らしを考えることが普通だった。しかし、グローバル化による社会運動の構造的な衰弱の結果、消費生活的な視点で暮らしをとらえることがスタンダードになってしまった。
 ▽現在では、消費行為以外に生活を実感する術がないと思っている人が増えつつある。しかし、どんな金があって消費生活を満喫できても、肝心の自分自身が代表されていない。
 ▽先進国は途上国からの収奪で成り立っているのに、政府高官が自分たちが収奪しているところにでかけていって、こういうことをやってもっと発展しなさい、という。
 ▽アメリカ独立革命やフランス革命直後は、現在のように国民と外国人との間に区別はなかった。国籍も税関も存在しない。ヨーロッパの貴族や王族はほとんど外国人。今のイギリス女王も、もとはドイツ人の家系。  19世紀後半になると、各国で徴兵制が整備され、さらに国民国家レベルで、教育制度や福祉制度ができていく過程で、外国人が軍隊にいると裏切られるかわからん、とか、教育を受けて国の要職についたら何をされるかわからんとか、そういった警戒心が広がっていった。「国民の立ち上げ」を意味し、自国民と外国人の間に境界線をつくらなくちゃいけないという動きが活発化する。
 ▽在日の人が、有権者になりたい、公的存在と認められたい……という思いを抱いて、権利を要求していく背景には、自分たちはただお金をもうけて、物を食べて死んでいくだけの存在ではないんだという、切実な感情がある。でも今、公的存在と認められている国民たちが、福祉国家理念の崩壊によって……。
 ▽韓国の朴政権が言ったのが「民主化は安保の後」ということ。セキュリティーがあってはじめて、デモクラシーが存在しうる、とプロパガンダを繰り返した。9.11テロ以降の米国デモクラシーの危機的状況を見事に先取りしている。セキュリティが優先されて、その果てには、デモクラシーが息絶えてしまう。
 ▽足りているときは意識しないけど、デモクラシーは酸素のようなもの。社会が酸欠状態に陥ったら苦しくて死んでしまう。
 ▽ある事件の被害者に対する過剰な感情移入がわき出てくるときは、まずは自分に対して冷静になったほうがいい。そんなときは往々にして、自分のなかの加害性が見えなくなっているときが多い。韓国の宥和政策、太陽政策を「平和ボケ」と鼻で笑って北朝鮮への経済制裁の必要性を声高に叫ぶ。だが、実際に南北で400万人もの犠牲者を出した朝鮮戦争を想像すれば「宥和政策」が身を切る思いの決断だったことがわかるはず。北朝鮮が完全に孤立してしまったら、朝鮮全土を巻き込む戦争を誘発する可能性もある。今のメディア関係者に、このイノセントな第三者意識について、少しでも意識的になってもらいたい。……たとえば長野の松代大本営には7000人くらいの朝鮮人労働者がかり出されたが、その後の行方はまったくわかっていない。
 ▽韓国のオンライン上の落選運動。政治家の過去の行動を報道するなかで、政治家や財閥とつながる大新聞が伝えないことがあまりに多いことが明らかになった。そこで、大規模な不買運動が展開された。
 ▽薬は開発に金がかかるが、製造費や原料費は安い。だから製薬会社にとっては、開発に経費をつぎ込んでもいない別会社が安易に類似品を製造するのは許し難い。そこで80年代に、製薬業界の経営者が主体になって「知的財産委員会」が結成された。彼らは企業の知的所有権という概念に注目し、新製品の特許権をもっと厳密に保護せよと主張した。その結果、「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPS協定)」が発効された。企業の知的所有権に、個人の創作物を保護する著作権の概念を導入しているところに一番の問題点がある。この協定の結果、エイズ治療薬の値段が、先進国と途上国でほとん同じになってしまった。
 途上国では、非常に高価になるから、大多数の患者は手を出せない。ブラジルと南アフリカ政府はしかし、TRIPSの条項を自分たちに有利なように解釈し直して、特許権をもつ企業の許しを得ずに、治療薬の値下げを断行した。アメリカやWTOなどからの強烈な圧力に抵抗。NGOや組合などが国連を巻き込むキャンペーンを展開した。米国はブラジルはTRIPS違反で提訴するに至ったが、その後の交渉で提訴を取り下げた。……ブラジルの場合、88年に憲法が改正され、国民が健康にかかわる保護や援助を受ける権利を保障するようになった。ナショナルな憲法が、グローバル権力への抵抗運動に大きな力を与えた。
 ▽移民問題や難民問題はありえない。存在するのは、非移民問題や非難民問題だ。オーストラリアのホイットラム首相は「オーストラリアに黒人(アボリジニ)問題などない。あるのは白人問題だ」と言った。
 ▽わたしたちがデモクラシーの「消費者」に甘んじて、その殻を破ることに臆病だったり、その居心地のよさに慣れてしまった。この無力感こそ、デモクラシーをむしばんでしまった元凶だったのだろう。
 国際的な機関や組織、グローバル企業などの巨大な影響力を考えると、深い無力感が浸透しても不思議ではない。無力感は孤立感を生み出し、時には自己嫌悪すら引き起こす。自己嫌悪は、場合によっては自分の外に恐怖や憎しみのターゲットを見だしたとたん、それらに対する排斥のエネルギーに反転することになりかねない。デモクラシーを否定する「反デモクラシー」のエネルギー放出によって、自分たちが孤独でないことを確かめ合う倒錯したコミュニティが作られる可能性がある。
 ▽不満をもちつつもどこかで無力感と裏腹な居心地のよい「消費者」であることから抜け出さなければならない。国境を越えた対話が成り立つことに、グローバル・デモクラシーの可能性の予兆を感じる。

■佐高信「逆命利君」岩波現代文庫 20050112

  異色商社マン鈴木朗夫を描く。
 若いころから上司を肩書きではなく「○○さん」と呼ぶ。ずけずけと物を言う。社長の伊藤に「あなたの服装はひどい。上から下までコーディネートしますからまかせてください」などと直言する。
 エリート商社マンでありながら、日本人の会社への奴隷根性を「家畜ヤプー」と評し、「日本人はどうしようもない」とバカにしつづけた。深紅の裏地の上着を着て、スペインやフランスをこよなく愛した。女性遍歴も華やかだった。
 当たり前のように遅刻する問題社員だが、仕事が抜群にできる。それを認めた伊藤がいた。
 仕事のしかたもこだわった。英文の手紙徹底して直す。事実だけでなく格調の高さを求めた。フェアプレーであり正々堂々とすることを徹底した。
 だが30代前半までは、「もうやめたい」「奴隷労働だ」と悩みつづけ、30歳代半ばで、会社をさぼって何日もぶらぶらしていたこともあるという。
 独特の「ポーズ」を維持しつつ猛烈な仕事をこなし、時間を惜しむように人生を走り続け、50歳代でガンで死んだ。会社社会と闘いつづけ、壮絶な死をとげた、と著者は言う。
 「自分」がないサラリーマンならば会社社会のあり方を疑問にさえ思わずに社畜化していくだろう。鈴木は大学時代に「自分」を確立していたからこそ、「会社」との軋轢に悩みつづけ、体や心に負荷をかけつづけ、早くに逝ったという。
 俺ってなぜ仕事に邁進できないのか、としょっちゅう考えてしまうから、著者の言葉はうれしかった。「自分」をもちつづける努力。豊かな感性と語るべき言葉をもちつづけることの大切さと難しさよ。
 心を打たれるのは、彼の妻へのラブレターであり、愛犬をなくしたときのレクイエムとも言える長文だ。うるおいに満ちていて、愛情と哀しみと悲しみが切々と伝わってくる。猛烈な仕事をしながらこれだけの感性をもちつづけた。
 もう1本の足を持たないといけない。持つよう努力しなければいけない。
 新聞記者は仕事だけしていれば世界が広がる、という思いこみがある。これはまちがっている。最近そう思う。ことに、最近手がけた企画を考えたとき、某有名ジャーナリストの言葉がなければ企画がすんなり実現できたかどうか。
 自分たちの仕事を会社以外の周囲に知らせる。それを評価してもらって、仕事で自己実現をはかりやすい環境をつくる。そういう「外」への指向を持たなければいけないのではないか。そんなことを考えた。
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 ▽伊丹万作のエッセー「騙された、という一語の持つ便利な効果におぼれて、責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見る時、日本国民の将来に対して暗たんたる不安を感じざるを得ない」
 ▽とりわけ肝要なのは「自己主張をするに当たって、相手の言葉と論理を用いること」。日本人の自己主張は、拙劣で、しばしば「言ってみても仕様がないよ、どうせ理解するような相手じゃないよ、式」の逃げ口上を使う。「相手が賢者ならば理解する筈である。相手が愚者ならば説得は更に容易な筈である」「承った、検討する、善処する、式に対応する日本人がいるが、これは自己主張の放棄を意味し、次はこちらから相応の妥協を申し出るという意思表示にほかならない」
 ▽鈴木が「接客態度」を教えたメモ  ズボンには常にプレスをかける。靴下は靴と色をあわせ、たるみのないよう。夕方以降ひとと会う時は、ひげをそり直す。相手のロジック、言葉で説得すれば、相手は、自分でそう決めた、という気分になる。「要するにこういうことですね」とまとめてみることで誤解は避けられる。
 ▽鈴木は12時ごろ風呂に入り、ガウン姿でパイプをくわえ、ブランデーを飲みながら本を読むのが常だった。…10人前後の集まりの時は、よく飲み、よくしゃべったが、50人ぐらいになると、中心の輪を離れて、ひとりグラスを傾けていた。
 ▽結婚に際して夫人に「子どもを作らない」という条件をのませている。「自分の影を見たくない」と。  ▽鈴木は伊藤にいろいろ注文を出した。「今日の会議で、苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたでしょう。ああいうことをやられると、みんな、ものを言えなくなります」
 ▽「人間はみんな外見で判断するんだよ。だって、あんたが誰であるかをわかったのは、外見でそう思ったんじゃないか」
 ▽鈴木は、仕事人間を排しながら、家に持って帰ってまで書類を読んでいた。自分でそれに反発するがゆえに、週末の山中湖の別荘でも精一杯、体を動かしてオフビジネスを楽しもうとした。
 ▽入社1年後の日記 朝早く人々は、朝の気を味わう暇もなく、怒鳴りつけられた囚人のように起き上がる。自分が何のために白いシャツを着、ネクタイを締めるかを知っている人が幾人いるだろうか。…会社の仕事は本当に愚劣で、誰に対しても、おはようとも言う気がおこらない」