学者は、官庁や業界からの委託研究が増え、それをこなすのに追われている。官公庁の資料を得るために審議委員になる。流行のテーマに集中し、2年もすればだれもやらなくなる。
委託研究をやれば金も入るし、論文も書ける。成果をあげた気になる。が、いざ完全に自由な時間を与えられると、自分でテーマを見つけられない。創造性もなく企業や官庁の下請けばかりでは学者ではなく知的労働者であるに過ぎない。
また、多くの教官は、学生に自分の研究の一部を分担させる。本来は自分の考えでテーマを決め、権威に追随せず、主体的に研究しないといけないのに。
「共同研究」も流行りだという。1人1人が自分のロジックをもって研究したのを持ち寄るのはいいことだが、ただ単に効率的に仕事の分担をするだけでは、論文の生産性はあがるが独創性が消える。
創造的研究を目指すならば、必然的に孤立する。日本の研究者は孤独に耐えられないから学問の流行り廃れに乗り遅れまいとする−−−。
読んでいて、胸をえぐられる思いがした。マスコミの世界と同じなのだ。
「チーム取材」という名の委託研究が増え、記者は将棋の駒になる。「介護保険」というテーマが持ち上がれば猫も杓子も殺到して記事を書きなぐる。しかもほとんどが、制度の解説や紹介だ。
上からの指令で取材をすることが多い記者は、いつの間にか自分でテーマを発掘し、提示する能力と気力を失ってしまう。
独自取材の意欲はあっても、一方で生産性を問われるから、記事になるかどうかわからないような大きなテーマには手をつけられない。畢竟、「切り口」だけで勝負するようなお手軽記事ばかりが増える。
孤独に耐える力を必要とされるのは、ジャーナリズムの世界も同じだ。というより、「専門人しての社会的責任を自覚して仕事をする」には、どんな分野の仕事でも孤独に耐える力が必要とされるのである。
早川和男氏の著書「住宅貧乏物語」「居住福祉」(いずれも岩波新書)は、現代の住宅問題がよくわかり、お勧め。
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