いま非情の町で

鎌田慧

(岩波書店)

 鎌田はひたすら現場を歩いてきた。炭鉱の街で、労働者1人1人を訪ね、断られ、また訪ね…。1人1人の暮らしの実態と「思い」を通して、日本社会の「病」を照射してきた。
 たとえば三池。
 戦前は囚人や朝鮮人労働者を酷使し、戦後は与論島からの労働者を使う。爆発で何百人死のうと使い捨て。
 そのなかで労働者が「学習」を通じて立ち上がり、戦後最大の争議となる。
 三池闘争に負け、これをきっちりと総括しなかったが故に国鉄労働者も四分五裂され、労働運動は衰退する。
  これらの時代の激動とまるで関係ないように、炭鉱爆発でCO中毒になった人々は今でも、病院のベッドで眠り続けたり、頭痛と集中力の散漫に悩まされ続けたり、家族崩壊に陥ったり…。
 そんな苦しみが「関係ない」世の中になってしまったのだ。三池と安保で労働運動が敗北を喫したときが、そうした無視と分断の現代につながる出発点だった。
 そういう鎌田の指摘はマスコミに勤める僕にとっても他人事ではない。時代の底に沈みこまされた人に目を向けず、苦しみを放置したままにしている責任の一端は僕らにもあるのだから。
 「放置」どころではない。 一時紙面を華やかに飾った国鉄労働者の「たるみ」キャンペーンは明らかに国鉄や政府側からのリークだったし、生活保護の「暴力団不正受給」キャンペーンも厚生省のリークだった。その結果、本来保護されるべき人までが閉め出され、各地で福祉事務所から追い返されて餓死する人が出てきている。
 学生時代に出会った夕張のおっちゃんはどうしてるんだろう、水俣の患者は、カネミの患者は、国鉄労働者は、エルサルバドルのゲリラたちは…。僕が日々の暮らしにかまけて忘れている間に、おそらくどこかで今も苦しみを抱えながら生きているのだ。