自画像の描けない日本

 安江良介 論楽社ブックレット1500円

 竹下元首相が各自治体に1億円ずつばらまいた。自治体をしばりつけ、飢えさせたままで、御下賜的に「ふるさとを創生しなさい」という。しばりつけられるのに慣れた自治体は、鎖から放たれた飼い犬が戸惑ってウロウロするように、金色のカツオを作って盗まれたり、利用されもしない巨大な建物を建てたりする(なかにはまともなことを考えた自治体もあるけど)。さらに、オカミに従うことに慣れた住民たちも、「役所がやることに間違いはない」と思いこんで、愚かな「村おこし」の責任追及の声さえあげない。
 住民→町→県→国と、上へ上へともたれかかり、政府は政府で「国民に選ばれた」を口実として好き放題する。選んだ国民は行政を監視しないし、悪いことをしても地縁・血縁で投票する。だれも責任を取らないままに、国全体がおかしな方向に向いていく。
 バブルのときもそう。今になって矛盾が吹き出すと、国民の甘さをよいことに、未曾有の不況と失業をもたらした連中(銀行など)は、「日本経済の危機」を叫んで税金をふんだくる。つけは庶民に回されて「失業」という形で現れる。経済人は「構造改革には必要な痛みだ」とのたまう。自分はのうのうと暮らしているくせに。「銀行は助けるのに、失業者は助けへんのか」という言葉は当を得ている。
 国全体に蔓延する無責任と政治の場面での言葉の軽さ。先の戦争へと導いたのも、負けと知りながら終戦を引き延ばして何百万人を殺したのも、こうした日本人の気質を背負った、天皇をはじめとする指導者たちだった。
 中曽根の人種差別発言は、日本の記者が見逃して、アメリカからの批判があってはじめて騒ぎ出した。ジャーナリストまでが、言葉に対する感性を失っている。
   「言葉に対する感性の摩耗」という表現に出会って、以上のようなことを考えた。
  政治の軽い言葉と正反対に、重く心に刻まれる言葉も紹介されている。韓国の民主化闘争を支えた人たちの言葉だ。長いのでここには引用しないけど。

 【以下抜粋】
「どうして子供はもちろん教師たちさえも溺れているその大河のそばに行き、せめて片足だけでもその流れのなかに突っ込んで、苦しむ子供たちを救うのにつながるような、そんな本を出そうとしないのかね」

「お互いに志を同じくするものが絶えず話し合っていく、話し合いながら仕事をし、あるいは仕事を離れても話し合うという形で、主体的能力を強めていく以外ないじゃないか」