憲法の本3冊
(書評)


 ■憲法の歴史 杉原泰雄
 近代市民革命以降の憲法の4つ類型と、その特徴がよくわかる。
 市民革命後にできた近代立憲主義型市民憲法は、「自由」を柱とする。封建制度・絶対王政に抑圧されていた企業家たちが、自分たちの経済活動の自由を求め実現させた。
 それに対し、現代憲法は、「社会権」を新たに加え、その立場から自由に一定の枠をはめる。経済活動の「自由」が過酷な労働を生みだし、それが社会主義の温床になっていたため、資本主義の枠内で人権を守ることで体制の安定を生みだそうというなかから生まれた。
 大日本帝国憲法やプロシア憲法は、外見的立憲主義型市民憲法と分類される。外見的には市民憲法の形を整えながら、王政・封建制の維持に役立つ型式である。
 もう一つの類型は旧ソ連をはじめとする社会主義憲法である。
 社会国家の理念を体現すべき日本の憲法のもとで、規制緩和や消費税率の引き上げなど、19世紀の近代立憲主義型への逆コースが見られる、と筆者は指摘している。
  ■憲法第9条 小林直樹 岩波新書
 近代兵器を自給する国では、軍と兵器産業の依存関係が深まり、産軍結合体が形成され、軍事国家家の可能性も増幅される。兵器生産能力をもつことじたいが権力を生みだし、それがある程度の規模を超えると、組織と財力を背景に国民世論を形成する力をもつようになる。また、専門軍人は仮想敵国に対抗するということで無限の拡大欲をふくらませる宿命をもっている。結局、国民を守るべき兵器や軍隊の増強を許せば、それじたいが自己増殖し、その刃はその国に住む人々に向けられることになる。戦前の歴史はまさにそんな過程だった。
 戦後何度も制服組が試みた有事体制の研究は、国民生活全般に渡る統制と動員を前提としていた。日米ガイドライン法案もその流れをくむものだ。軍は国民を守るのでなく、むしろ抑圧する。「死ぬくらいなら降伏を望みたい」という人々には背後から弾丸を浴びせることになる。
 武装は「国」という抽象的概念の防衛にはなっても、日本に住む1人1人の防衛にはならないばかりでなく、有害でさえあることを説いている。
  ■「日本国憲法」を読み直す 井上ひさし・樋口陽一
 わかりやすくておもしろい本である。
 たとえばあとがきで「憲法を『この国の形』と読み替えるとよくわかる」と書かれている。「国」というものがまずあって憲法があるのではなく、憲法が国の形を作っているという、近代ヨーロッパに生まれた社会契約論の考え方だ。
 日本人は「国」を当然の概念としてとらえるが、実は日本という国を我々が意識するようになったのは、せいぜい明治になってからのことだという。「天皇」などは大都市とその周辺の人しか存在さえ知らなかった。千年来の伝統と思いこまされている「日本国民」は、民衆レベルでは実は100年ちょっとの歴史しかない。
 日本国憲法はまさに、新しい「国」を作ったのである。憲法改正とは「この国の形を変えること」。それほど重いものなのだと1人1人が意識しなければならない、と感じさせられる。憲法さえも議論できる社会をデザインしたのも、ほかならぬ憲法である。
 ■その他覚え書き
▽アメリカの憲法改正は、基本的人権の条項を加えた。ドイツもそう。憲法が大事だと思うからさらに大事なことを付け加えるという立場だ。
 ▽国連の実態は伏魔殿。権力政治の場。「国連イコール正義」という単純な思いこみは危ない。「第3世界偏向」と冷たかった先進国がここにきて国連中心主義を唱えだした。それだけでも胡散臭さはわかる。
 ▽ソ連崩壊で、立憲主義と基本的人権が動かぬ価値として確認された。「個人として尊重される」とした「人類普遍の論理」から目を背けて、日本政府は国家主権をいまだに振り回す。欧州を中心に国家主権という考え方は守旧的であるという議論が主流になってきているのに。
 ▽「組織」という単位から離れて、1人ひとりが憲法を背負わなければいけないところに来ている。報道も、1つ1つの事件・事例が、憲法に照らしてどういう意味をもつのか、という発想を持たなければ。