なぜ江戸幕府が倒れたのか。その疑問から10年ぶりに再読した。
縄文から弥生、大和朝廷にかけての権力の出現と階層分化は、生産力の向上で余剰生産物が出るようになったということで説明できる。平安時代の荘園制度から武士の台頭への流れも、生産現場を直接支配する者が、力を蓄えたと解釈できる。鎌倉から江戸への流れは、小領主を廃して家臣という名の軍隊と官僚組織とし、大名・将軍という大封建領主に土地という財と政治的権力を集中していく過程である。
では、明治維新は?
教科書的な説明では、英雄が現れて、腐った江戸幕府を倒し、近代国家の基礎をつくった、ということになるが、そういう司馬遼太郎ばりの英雄史観は説得力がない。
解く鍵のひとつは貨幣経済の発達にあるらしい。家臣を領土から切り離し、常備軍・官僚として城下に住まわせるには、室町時代以降の貨幣による流通の発展が不可欠である。その流れがいっそう強まる。
封建社会の基礎である自営農民は、時代が進むにつれて、多くは没落して水呑百姓となり、少数は地主となる。水呑百姓は、富農や農村手工業に雇われる。そのなかで、地主や手工業経営者、問屋や高利貸しが成長する。
流通の発達で日本全国が単一の経済圏となれば、各藩の独立は必然性がなくなる。生活に窮した貧農たちは百姓一揆や打ち壊しに立ち上がる。さらに幕末の開港が加わると、生糸の工場制手工業が成長する一方で、生糸の高騰をまねいて西陣などの織物は危機に瀕し、諸物価がはねあがって民衆の生活はいよいよ困窮する。これらが封建制の経済・政治の分解を一気に加速させることになった。
明治政府による封建制絶滅にとどめの一撃を与える施策が、廃藩置県(中央集権と常備軍)、地租改正(年貢から税金へ)などである。
明治以降の歴史は、いまの政治を読み解く上で参考になることが多い。
たとえば「押しつけ憲法」論だ。大日本帝国憲法こそが、ごく少数の権力者が、自由民権運動という国民の意志を無視して力で押しつけた「欽定憲法」である。一方、新憲法は、GHQが起草したのは事実であるが、国会などでの論議の過程で、「国民の総意が至高である」とあったのを「主権は国民の存する」などと修正され、華族制度は全廃され、ひらがな・口語文にされた。旧憲法に比べれば、制定過程に民衆の参加があり、「押しつけ」の度合いははるかに小さい。
あれほど自由民権運動が盛り上がり、選挙では絶えず反政府側が勝つほどだったのに、軍部独裁を許し、いつのまにか人々の心までもからめ取られていく過程も丹念に描かれている。
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