遠野物語・山の人生

   柳田国男著 岩波文庫 560円 

1999/8/29

穴場の旅「遠野」のページ

  江戸幕府は倒れ、自由民権運動は盛衰し、鉄道が通り…、明治・大正・昭和は、今以上に時間の流れが早く、それ以前の時代との断絶が大きかったにちがいない。歴史の表面をのぞるとそう思える。
 だが、太古から断絶せずに日本人のなかに潜む基層が、無名の民衆「常民」のなかには綿々と流れている。そこに柳田の研究の対象と手法がある。彼の文章のなかには英雄は1人として現れない。天狗やらザシキワラシやらカッパやらと、それらを怖れ、それでいて闘いを挑む百姓や漁民や猟師が主人公である。司馬遼太郎の小説と好対照をなしている。
 「うちのおやじが天狗に会った」「40年前に村の女がカッパの子を産んだから切り刻んで捨てた」「天狗に娘がさらわれた」といった、普通なら「迷信」と切り捨てられる証言や民話を収集する。偏見にとらわれずに、語られた事実を丹念に記す態度に柳田の誠実さがあらわれている。「これらの民話や証言の裏には文化の基層をなす何かがあるはずだ」という問題意識がそれを支えている。
 たとえば天狗(山人)にしても、全国の言い伝えを詳細に比較検討し、ほかから借用したような話、できすぎたストーリーなどを切り捨て排除し、「確からしい」と思える情報について検討する。その結果、日本の先住民族のうち、里の文化に同化しえなかった一部が「天狗」と呼ばれるようになったのではないか、と推察する。
 かつての地方の神々が、次第に軽んぜられて絶縁し、いつしか妖怪変化の範疇にされてしまう道筋も追う。日々の自然な要求から出た村々の信仰は、日々の不安を避け、幸福を求めるものだった。対象は山や海、川の神だ。一方、八幡や熊野、天照大神などは、中央から派遣された神である。前者を後者が駆逐することで、地方の神々は「妖怪」とされていった。
 「鬼」もそのひとつだ。金太郎は山姥の息子であり、一種の鬼である。力が強く生命力あふれる「鬼」を待ち望んだ時代もあった。中央の神が君臨することで酒呑童子のように「鬼退治」の対象となり、世の中が平和になるにつれて妖怪として扱われるようになったのだろう。
 徹底的な事実に即した取材は、今なお新鮮で、学ぶところが多い。