200503-04

■佐野眞一「小泉純一郎−血脈の王朝」文芸春秋 20050329

 秘書官の飯島勲、田中真紀子、姉の小泉信子の3人に焦点をあて、関係者のすべてを当たる綿密な取材で出自と経歴を暴いたうえで、小泉の力の秘密と、血族以外を決して信じないその孤独さを浮き彫りにする。
 小泉は、中学高校時代、まったく目立たない生徒だったという。十代から父の純也の政治活動を支えた姉の信子の指導によって、政治家として階段をのぼっていく。
 小泉姉妹が一人残らず取材を拒否するなか、純一郎の祖父の又次郎にまでさかのぼって調べる。又次郎の正妻には子ができず、純一郎の母を生んだのは、石川ハツという女性だった。その後、ハツはほかの男と結婚し、3人の子を生んだ。その末娘に会う。
 小泉の母、芳江は、美男子の純也にのぼせあがって結婚。純也は政治家になったが、小泉家のなかでは孤独だったという。
 純一郎の姉の道子は、竹本公輔という慶応大出身の男と結婚するが、6年で離婚する。人事興信録を調べ、行方を尋ね歩き、竹本の義理の姉に会ったが、「まだ生きてるんですか。小泉さんのお姉さんと結婚していたんですか?」という反応だった。竹本については、小泉家のごく近い親族でさえ知らなかった。竹本と道子の娘は、純也の籍に入れられ、純一郎の「妹」になった。小泉家のなかでは、竹本の存在はタブー中のタブーになっていた。
 竹本が離婚後しばらくして怪しげな男が出入りする安アパートに転がりこんだところまでは確認したが、その後の消息は誰に聞いてもわからなかった。
 純一郎自身は、エスエス製薬創業者の娘の大学生だった宮本佳代子と福田赳夫の仲人で結婚した。が、信子の君臨する小泉家の雰囲気と合わず離婚したらしい。佳代子に引き取られた三男の佳長が「父親と2人きりで会いたい」と事務所に電話で訴えたが、信子は「血はつながっているけど、親子関係はない」と冷たく言い放ったという。
 すべて血族で固め、他人は絶対に入り込めない小泉陣営では、秘書官の飯島にしても、「奥の院」は絶対に覗き込めず、強力な「門番」という立場にすぎないという。
 その飯島は、貧乏な家で育ち、障害者の兄弟をもって苦労した。不幸なおいたちを経て、独特のすごみをもつ異形の秘書官となった。周到なマスコミ対策によって、小泉を支えた。
 田中真紀子は、小泉が総裁選で勝つ原動力になった。彼女を切ったことで、世論は一気に離反した。実家の元お手伝いさんや元秘書、同級生らに話を聞くことで、彼女の独特のヒステリックなキャラクターが作られていく過程を再現する。
 父の角栄亡きあと、ファミリー企業のトップも、角栄を支えた早坂茂三らの側近も、「越山会の女王」と呼ばれた佐藤昭子も切る。親族をも粛正し、自分の息子さえも切り捨てる。「新聞の切り抜きをやってない!」といってファミリー企業の社長を怒鳴りちらし、社長が夫の直紀氏と一緒に飲んでいて夫の帰宅が遅れたことで、その社長を突然解任してしまう。角栄の介護をした凱皇という元力士とのエピソードなど、知られざる角栄の横顔をも紹介している。
 「小泉さんという人は、基本的に人の話を聞かない人です。あんまり人の意見を聞いて知識をもったり、専門家の意見を聞いてしまうと迷いが出て、メッセージ性が弱くなる。それでは政治家としての意味がないんだ、というのが彼の考え方」 という政治家の発現はなるほど、と思った。

■渡邊修孝「戦場が培った非戦」社会評論社 20050402

  筆者はイラクで人質になり、「自己責任」のバッシングの嵐にさらされた。だが、テレビの画面からは頑としてゆずらない意思の強さが伝わってきた。同じようなめにあったら、私ならばめげて形だけでも謝ってしまうだろう。彼はなぜこれほど確信をもって堂々と行動できるのか。そう思っていたとき、この本を知った。
 筆者は陸上自衛隊の精鋭部隊の第一空挺団に入隊し、戦場に行きたくて右翼団体に入ってビルマに渡った。新右翼の一水会をへてサヨクに転向して、東アジア反日武装戦線の受刑者の救援運動や、中東にいる岡本公三の生活支援……。普通の人間の何倍もの密度の時間を駆け抜けている。これらの体験を「論」ではなく、かっこうの悪いことを含めて自分をそのままさらしているから面白かった。
 「暴力」と直接対面する経験のなかで、「非戦」の思いを強めたという。
  抽象的に「平和」を唱える運動や護憲運動にはない具体性と重量感がある。
 彼の生き方から私は何を引き出すか、というと、ハタと困って、うつむいてしまうのだが。 

 
 ▽跳びだし塔からの「跳び」。もしあのまま、とびだすことができずに訓練途中で辞めてしまっていたら、現在の私の人格はなかったであろうとさえ思うのだ。
 ▽御殿場の飲屋街 米軍の演習時期になると、真昼間でも若い米兵が道を歩く若い女の子に平気で声をかけ、絡んでくる。
 ▽カレン民族 95年、マナプロウ陥落。10万人の難民がタイ領内へ。
 ▽やくざ右翼をやめる。所詮、政治的求心力のない彼らは、構成員を繋ぎとめておくためには「義理と恐怖」しかないのである。自衛隊で合理的感覚になじんできた私にとって、やくざ右翼の面子などどうでもよかった。カレンに行くために彼らと接近した。ただ、それだけだ。
 ▽一水会の運動は、いかに世間から目立つかということに手段が集約してしまっていた。「目立てばよい」というものでしかなかった。
  ▽代々木公園のイラン人と語る。代々木公園はイラン物産展のようになる。
 ▽このときの私は「戦争は攻撃する者がいれば、守る者がいる。それは必要悪であり、殺す者がいれば殺される者もいる」といういうように、まるで自然災害であるかのように観ていた。なぜ戦争が起こるのかという問題意識がなかった。
 ▽一水会 武闘派が牛耳ること、外国人労働者を排除することなどへの反発。自己批判。
 ▽右翼活動に区切りをつけるには、天皇制批判が不可欠だった。「古事記」からしても、天皇の祖先は「まつろわぬ神々を初めとする国津神ら」を騙し討ちで殺し、その土地を侵略してきた内容が描かれている。我々日本人は、そんな歴史に対して悪びれることすらない。神武東征、琉球侵略、蝦夷反乱の盗伐、アイヌ支配…。そういう社会構造のなかで生じる弱者切り捨ての身分制。被差別部落の存在。こういう社会の矛盾を踏み台にして、天皇を価値観の頂点に掲げる社会が存在している。日本が侵略国家であることは、大和朝廷のころから。そういう日本国家と天皇家に「誇りを持って」生きている者すらいる。
 ▽拘置所 差し入れの委託業者が販売する品の値段は、市販の倍以上。そこで購入しなければ差し入れができない。 ▽野宿者支援にも。段ボール集めを手伝う。
  ▽岡本公三と同居。岡本はパレスチナでは英雄だった。重信房子が逮捕されたとき、黙ってうつむいて目頭をぬぐった。
  ▽軍隊の合理主義に身をゆだねるとどうなるか。「弱い者は切り捨て、強い者だけが生き残る」ということだ。このような、人間性を喪失した先にある社会は、人間の情緒的交流を遮断された「閉じた関係」しか残らない。
 ▽イラク入国直後は、立ち入り禁止の廃墟ビルを撮影しようとして「劣化ウラン弾で攻撃された可能性が高い。広島・長崎と同じ問題だ!」というと警備の民兵は「他の者が来たら許可しないが、お前は日本人だかr許可しよう」と案内までしてくれた。ところがわずか短期間のうちに、「敵」となる。

清沢冽「暗黒日記T」筑摩書房 20050408

 「危険だ」と忠告されながら、現代史を書くための材料としてつけた昭和17年から18年の日記。細かな日々の事件やできごとの記述とともに、大量の新聞記事のスクラップを一緒に添付している。
  「戦争」を記した本は通常、後の時代からふり返った記録ばかりだが、この本は、現在進行中の日記だ。戦時中でもゴルフや軽井沢の別荘生活を楽しんでいたことがわかるし、それが次第に「ゴルフをやるとは非国民」と言われ、畑にするよう求められるなど、身の回りにじわりじわりと「戦争」が浸透していくさまがよくわかる。
 清沢は、長年アメリカですごし、朝日新聞につとめたが右翼の排撃にあってフリーの評論家となった。人一倍愛国心をもち、皇室を崇拝し、局地戦に勝利したときは素直に喜んでいる。そうした愛国的リベラル保守、あるいはプラグマティズムの立場から、反憲法的な軍部のありかたを批判している。
 旧憲法の統帥権などの条項が表現の自由をおかし、軍部の独走を促したという見方が戦後は一般的だが、清沢は、条件つきとはいえ表現の自由や民主主義的な政治を定めた旧憲法を評価し、それをふみにじることで戦争と破滅への道を邁進したと見ている。経済を統制しようとする軍部を「アカ」と位置づけ、共産主義と封建主義の合体だと認識している。
 三木清や長谷川如是閑、中央公論の嶋中雄作、近衛、石橋湛山、小林一三ら、著名な文化人や政治家、経済人、軍人らと直接懇談し、さまざまな情報を仕入れ、米国の国力や軍事予算を冷静に把握する。日本に勝ち目がないこと、イタリアの降伏、ドイツの敗勢をも予見している。
 戦時体制下では、「そんなバカな」という非常識なことが次々に起きる。
 たとえば、北アルプスを世界に紹介したウエストン胸像を撤去したり、ジャパン・タイムズがニッポン・タイムズに改名したり、中央公論の「細雪」が「決戦段階たる現下の諸要請よりみて、或いは好ましからざる影響あるやを省み」と掲載中止になったり、それまで日米友好の象徴だったペリーが侵略者の象徴に急転したり。
 撤退や敗北は「転進」といいかえられ、生活はどんどん苦しくなるのに、勝利へと前身しているかのような楽観論が流布され、敵をあなどる。一般庶民だけではなく、政府の高官や議員、インテリでさえも「アメリカ国内の反戦機運が盛り上がる」などと信じてしまう。情勢の厳しさを知るごくわずかな人々は、「非国民」とされるのをおそれて口をつぐむ。戦争を有利に運ぶために敷かれた情報統制によって、トップリーダーたちまでもが無知蒙昧へと陥っていく様子がよくわかる。


 ▽息子への手紙  「この空気と教育の中に、真っ白なお前の頭脳を突き出さねばならんのか」。人間を敵と味方にわける現代の教育に、お前を託さねばならぬことに言いしれぬ不安を覚えたのだ。壁にかかっている(中国人たちの)写真は、みんなお父さんの先輩や友達なんだ。…お前は一生の事業として真理と道理の味方になってくれ。道理と感情が衝突した場合には、躊躇なく道理につくことの気持ちを養ってくれ。
 ▽米国の軍事予算は1050億ドル。日本の国民収入が450億円だとしても10倍の予算だ。新聞は、この軍事予算はこけおどしだと軽視する。
 ▽今は第五等程度の頭脳が、憲法や法律を蹂躙している。
 ▽山本五十六戦死。山本は日米戦争に反対で一時は非国民とさえもいわれた。
 ▽読売に中井良太郎という陸軍中将が「軍令は国民に通ぜぬというような自由主義的な憲法論を排し、この軍令の中から総力戦下国民の指導せよ」と論ずる。現在ほど軍隊的指揮をしている時代はない。それでなおいけないというならば、その内在的本質に弱点があるのではないか。しかしこの人には左様な反省はない。
 ▽谷萩報道部長「米国はその生産において本年が最頂だ」
 ▽今やドイツと英国とは攻防所を異にしたことはベルリン電報がこれを認めている。(冷静な情報収集)
 ▽アッツ島玉砕 これが軍関係でなければ、疑問がおこり社会問題となったろう。
 ▽武藤貞一のミッションスクール学校攻撃(読売)「帝国憲法は信教の自由を認めているが、『安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ』とある以上は、何を振舞ってもかまわないとする迷蒙を打砕してやらねばならぬ」「国旗掲揚を忌避している学校がある…」
 ▽信州では犬を全部殺しその皮を軍に献納した。…青年団の勢力斯くのごとし。特に信州の青年は、かつて「赤」化しただけに、その行動は徹底的である。知恵がないだけだ。ここから革命までは1歩のみ。
 ▽中央公論社の編集者が休職に。 (軍報道部は)三木清とか、谷崎なんかを養っておくではないかと突かかる由。
 ▽"Books on the Far East"のなかのH.Gウエルズの"The Shape of Things to Come"には、満州事変を起点に中国と全面戦争になり、日本は、中国に3度勝ってナポレオンの如く敗れ、1940年に米国と戦争を始め、日本の終わりはじまる…と書かれ、「将来の歴史家は日本が正気であったかどうかを疑うだろう」と記されていた。日米戦争も予言。
 ▽大学教育を受けた者を、全部飛行人にさせたら、他に穴があく。なのに、そう言い出す人は絶対になく、不合理が訂正されることなく進行していく。ある有力政治家は鶴見祐輔に「米国は、まだ頭を下げぬかのう」と言った。大東亜戦争が無知人の指導による危険さ。
 ▽大本営の中佐の講演 (どうみても戦局は不利なのに)「敵を引き寄せ決戦でたたきつぶす」。それならば先方に出ない方がよかったではないか。(甘い展望にすがり、信じる。甘い見方のほうが耳に心地よいから、つい頼りたがる)
 ▽キスカ撤収の発表 その直前にはアッツ島の玉砕があった。国民を欺き愚弄する発表。「皇軍撤収の事実が完全に秘匿されたことによって、作戦効果に及ぼされた絶大な意義…」「間抜けな敵軍、無人島に必死の攻撃」「アッツの英魂・米鬼を震撼 敵戦意不振・遠方から砲爆撃」
 ▽ドイツが東部戦線をもちこたえられなくなりハリコフ撤収。しかし発表は「独軍にとっては、戦線の凹凸が一応整理を完結した」(すべて都合よく解釈する)
 ▽「自由主義的」と駿河台の文化学院を文部省が閉鎖。日本に憲法は存せず。(戦争という「現実」によって、憲法体制は崩壊していった。大日本帝国憲法のもとでさえも、行き過ぎだった、という認識を抱いていた)
 ▽毎日新聞社説「個人も軍隊も精神的に負けた時にのみ負けるのである。十に九を失ってなほかつ意気軒昂たる軍隊が皇軍以外どこにあり得るか。この軍隊がある以上われわれは最後の勝利を握ることができる…皇軍は戦闘に勝ちつつも、鉄量と飛行機のために圧倒されているのである。求めるものは、敵の有するものの3分の1、5分の1でもよいといふのである。われわれはこの程度の要求さへも応ずる能力なき国民であるのか」
 ▽イタリア降伏すると、日本の新聞はイタリアへの悪口を始める。「足手まとい」がいなくなって、むしろ有利になる、とさえ書いている。「こんな国と、然からば同盟条約を結んだのは何人か」
 ▽野村重臣「イタリア上層部の親英主義は、その血管を流れるアングロサクソンの血に原因した。…国民も反戦的平和熱に浮かされた…皇国民はそのおそれは全くない。昭和16年の宣戦の大詔を拝する瞬間まで、根強い親米英論が存在したが…」
 ▽捕虜管理課長(大佐)の講演「日露戦争では、あまりに捕虜を優待した。今回は従来の捕虜に関する規制は御破算して、「国際法に反せざる限り厳格に取り締まる事とした。捕虜に関する条約は、国体に合わせざるものとして御批准を得なかった」
 ▽毎日の余録「米国にはハイ・スクール卒業者で、葉書1つ駆けないというのはざら。…物を考えたり判断したりする能力をもたない」。(冷静な判断を失い、敵をあなどる)物を書くものの非良心的なことが時局を悪化せしめる。
 ▽防空演習 だれも「イザという時にはためにはなりませんよ」と言っている。(この時期はまだ空襲は現実感がなかった)
 ▽日本が宣伝下手であるという事実が、日本人がアドミットする唯一の弱みである。他はすべて日本人が優れていると思っているのに。我等からみれば日本人ほど自家宣伝する国民は他にない。  毎日新聞の軍人(報道部課長)の対談「アメリカのやり口は不利なことは国民に隠そう、有利なことはなるべく大きく吹っかけて欺瞞とごまかしで行こうとする」「日本のほうは反対に控え目控え目になっている。向こうから帰ってきた連中の話を聞いても、日本の大本営発表は信用があるということです」(目くそ鼻くそを嗤う)
 ▽ほかは中国の民衆が日本になついている、という記事ばかり出すなかで、毎日の記事は珍しく、「敵戦力の徹底的撃砕あるのみ」などと書いて表現を遠慮しながらも、抗日戦線が想像以上に手強いことを伝えている。その程度の勇気をふるう記者が、あの時代にもいた。
 □昭和10ー12の日記
 ▽美濃部博士に対し右翼は直ちに結成するが、かれの意見に賛成する者は少しもバック宇しない。けだし自由主義の弱点。識者は何故にたたぬか。インテリの弱味。(今も同じ)
 ▽独裁主義は戦争を誘発する。かれらは国内世論をミスリードする。
 ▽宿命論の横行。易や迷信が流行するのも宿命論の一結果だ。…天皇陛下がお偉いことが明らかになっている。海軍中将山本氏は、宣戦布告には決して裁可遊ばされないだろうと語った。
 ▽左翼論者はすべてを社会的根拠に置きすぎる。226事件も、その重大な原因は軍部の人事の行き詰まりだ。その後、庶政が一新されないで、人間だけが一新されたのでもわかる。社会的でなかったから、社会的に爆発しなかった。…しかし今後インフレの進行とともに、国民的不満がファッショに現れるかもしれぬ。皇室中心主義でなくてはならぬ。日本においては議会に諸勢力が現れておらぬ。そこで軍部と、官僚と、議会の勢力が相会する皇室が中心になることは当然だ。皇室を政治圏外に置きながら、そこでまとめようというのははじめから無理があった。
 ▽ファッショは憎むものを有さねばならぬ。ドイツはユダヤ人、日本は重臣であった。(民衆レベルで重臣を憎んだか? 朝鮮人、資本家……では?)