200504

■本田靖春「我、拗ね者として生涯を閉ず」講談社 20050412

 93年に透析を始め、5年後に肝臓ガンが発見され、右目失明、結腸ガン手術、右足切断、左足切断……「寿命がつきる時期と連載の終結時を両天秤にかけながら」昨年末の死の直前までかけてつづった文章をまとめた。けっきょく最終回までたどりつけなかった。
 闘病記や貧乏物語が大嫌い、といい、自分の病気の話はほとんどふれない。そのダンディズムというか意地っ張りというかやせ我慢がかっこいい。突っ張り通した人生だったんだなあとよくわかる。
 「由緒正しい貧乏人」を自称し、権威も権力もきらい、「社会部記者」であることに誇りをもって生きた。
 朝鮮半島で豊かな子ども時代をすごしたが、戦後、引き揚げ者として貧乏のどん底に。徹底的にいじめられ友人ができなかったが、この体験があったから他人の痛みがわかるようになった、という。
 戦後民主主義の熱気が残っていた1955年に読売新聞に入る。「二流紙」と自称していて、やさぐれていて稚気あふれる集団だった。「新聞記者の末路なんて哀れなもんだよ。定年になって小さなおでん屋でもやってるのはまだましなほう」などと言う先輩もいた。鼻っ柱の強い筆者は、「生意気でいいんだ」「生意気でいいんだ」と支えられて遊軍記者として育てられた。
 世の中全体が、民主主義への希望にあふれていた。筆者が一生安アパートで暮らしたのは、「いずれ通勤に便利な場所に、質のよい公共住宅が、手頃な家賃で豊富に提供されるようになる。ならなければ政治にそれを要求すればよい。そう楽観的に考えていた」からだという。国民の意思によって政治はかわり得ると信じていた。
 ところが、貧しく純粋だった都市部の「お仲間」は、「うさぎ小屋」を取得したころから保守化し、自らが「中流」と思いこむ。
 「民主化は精神的近代化に始まる。しかし、日本人の多くは、民主化する手前のところでポチ化していった。所得倍増という餌にころりと行ってしまった」と筆者は言い、「お仲間たちよ、憲法の前文をしっかり読んでみなさい」「お仲間たちは痛い目にあわないとわからないから、不況がつづき弱者に辛い社会になればよい」と書く。
 世の中が保守化するのと軌を一にして、昭和30年代後半から社会部の衰退が始まる。気が付いたときには、主張すべきことを主張しない人間が圧倒的多数派を形成していた。
 そんな状況のなか筆者は、「野糞の精神」を若い仲間に説く。
 ……上に噛みつくには勇気がいる。お互い、そういうものはたっぷりとは持ち合わせていない。だが、空元気にせよ勇気を振り絞らないわけにはいかないではないか。言論の自由を金看板にしている以上、まず、自由な言論の場を社内に確保しなければならない。全員で立ち上がって欲しい。できないなら、せめて野糞のようになれ。それじたいは立ち上がることはできないが、踏みつけられたら確実に、その相手に不快感を与えられる。お前たち、せめてそのくらいの存在になれよ……なるべく量と面積を稼いでおいて、踏んだヤツが味わう不快感を、少しでも大きくすることである……。
 ナベツネが全権を掌握すると読売社会部は死に、粛正の嵐が起きる。「交通戦争」という名前を流行させた小倉貞夫記者は窓際に追いやられ、封筒貼りといった仕事を押し付けられた。
 −−身内にむかって、批判はおろか意見具申もできない腰抜けどもが、戦前のように国家権力が牙をむいて襲いかかったら、いったいどうなるのか。社内権力を批判したところで、最悪の場合でも、通信部あたりに飛ばされるのがせいぜいであろう…せめて記者ならば、空元気でいいから物を言えよ−−
 内向きにだらしない新聞記者を全編を通して何度も激しく批判している。
 読売を退社してフリーになり、物書きのだれもが憧れた「文藝春秋」に執筆の場を与えられたが、路線が合わないために手を切ってしまう。
 「私は世俗的な成功より、内なる言論の自由を守りきることの方が重要であった。気の弱い人間だから、いささかで強くなるために、自分に課した禁止事項がある。欲を持つな、ということであった。金銭欲、出世欲、名誉欲。これらの欲をもつとき、人間はおかしくなる。そういうものを断ってしまえば怖いものなしになるのではないか……その私にやがて救いの手が伸びる。それがなかったらいまごろホームレスにでも転落して、のたれ死にしていたであろう」
 これが絶筆となった。
  「救いの手」とはいったい何だったのか。知りたければ、彼の著作を丹念に読み直すしかない。


 ▽能書きをたれる料理人を取材した門田勲の記事の締め「ところで先生、どういうところを差し上げましょうか」「何でもいいから、なるべく能書きのつかないところをくれ」
 ▽蜷川府政 釜座幕府と言われ、おそれられる。新聞記者や町中にまで権力に対する恐怖感がある。「京都文化人」も表だって批判せず沈黙している。学問的業績がどれだけあっても尊敬する気になれない。良い面をよく聞いたが、逆の面もある。
 ▽敗戦直後の朝鮮半島。夢にも見たことのない砂糖の小山が突然目の前に現れる。「朝鮮」がたくましく生き続けていた。白いチョゴリのオモニたちは顔いっぱいに喜色を浮かべていた。
 ▽終戦。生徒会の力が強まる。長髪の是非を投票。学校側はすぐ腰がひけた。GHQににらまれるのをおそれていた。
 ▽歌舞伎町 地元に戦前から住む人が、復興のため客足を呼び寄せる目玉として、歌舞伎の小屋を建てることを思いついたところからできた名前。だが歌舞伎座は実現せず、かわりにコマ劇場ができた。
 ▽きまじめな朝日にでも入っていたら、終生、芽を出すことなく、くすぶり続けて人生を終えることになっていたに違いない。
 ▽52年のサンフランシスコ講和条約から旧勢力の復活が始まる。読売社会部は警鐘を鳴らし「逆コース」というタイトルの連載をした。それが流行語になった。殺しやタタキを追いかけるばかりが社会部の仕事ではない、と。
 ▽派閥も親分子分もない。仕事さえできればよい。酒の上の蛮行とか、男女関係のもつれからくるごたごたとかの「些事」は、不問に付される。…28歳でデスクになった辻本
 ▽入社1年目の甲府支局で 業者からの歳暮、のし袋を受け取る記者。クラブ総会に「金品を受け取るべきではない」と提案したが、支持したのは朝日一社だけ。
 ▽退社してフリーになって、文芸春秋の若い編集者につれられ取材先に行くと、タダ酒を飲むことに。帰る道すがら自分に言い聞かせる。お前はもう新聞記者じゃないんだ。タダ酒を飲んでも差し支えない身分になったんだ−−。心が晴れるはずはなかった。落魄の思いが深くなった。
 ▽活動家の歌で好きなのは「心はいつも夜明けだ」。私も、若者や娘たちの胸に灯をともしたい、という気持ちに変わりはなかった。「夜明け」がくることを信じていた。しあわせな時代。
 ▽「癒し」という言葉を耳にするたび、胸の中で罵声を発する。バカヤロー、甘ったれんじゃねえ。
 ▽安保闘争 5月の統一行動では17万人のデモ隊が国会に押しかけた。6月4日の全国統一行動には、近畿圏を中心になんと560万人が参加した。信じられるか、遊びほうけている若者たちよ。
 国会突入。学生たちは勢いよく突入したわけではない。50人がおずおずと入り、警官隊の存在に気付き、引き返しにかかった。だが、すでに数百人が門に押し掛けていて、引き返せない。機動隊に尻を向けたまま構内に押し込まれる形になった。学生たちと向き合ったことのない方警隊もおじけずいていた。あわてふためいて後退した。だが1人の機動隊員が「下がるな」と飛びだし、それを見て、引き戻しに飛びだしたはずの残りの退院たちも彼につづいた。…乱闘へ。
 ▽同期の小倉貞男記者の「交通戦争」 茶封筒に入った分厚い原稿をデスクにもっていき説明する。デスクは見ようとしない。2,3日して小倉はその原稿を引き取り、かわりに新しい原稿をさしだして説明を始めるがm、またとりあってもらえない。その繰り返しが10回も続いたろうか。その18回の連載記事が「交通戦争」という題で、流行語となった。
 ▽「東京の素顔」 上野駅周辺にいる怪しげな人物たち。マッチを擦ってそれが消えるまで股間を男に観察させる女。ストリップ小屋「カジノ座」の人間模様。
□黄色い血
 ▽93年に透析を始めたとき、平均余命は5年、10年生存率は10%と言われた。……肝臓ガンは取材で何回も血を売ったのが原因であろう。
 ▽売血問題で山谷へ。底辺にある人の怠け心につけ込み、1本400円のエサで釣って、廃人同様になるまで血を抜きまくり、肥え太り続ける商業血液銀行。買血を利用した化粧用クリームも。
 ▽輸血を受けた人の少なくとも2割は血清肝炎になった。
 ▽保存血液の薬価は200tで1650円、うち500円が血液代金。業者は残りから利潤をあげる。うち100円は医師へのリベートにまわされる。
 ▽献血を受け皿は日赤にしようと考えた。が、当時の日赤は眠っているだけのやる気のない無用の長物そのものだった。従軍看護婦が日赤のイメージだったが、敗戦でむかうべき方向を見失った。
 ▽移動採血車の配備予算を獲得するため大蔵省主計局次長と渡り合う。
 ▽献血受け取り拒否をする病院 厚生省薬務局長とかけあって、献血使用の局長通達を出してもらった。それをニュースとして伝え、その末尾に「献血の受け取りを拒否した病院は、読売新聞がその実態を調査して、定期的に違反リストを紙面に公表する」と書き添えた。(そんなことができた)この一発で受け取り拒否はぴたっとやんだ。私の書く原稿は主観の塊のようなものだった。
 ▽献血戦争は大勝利、と思いこんでいたが、思わぬ大どんでん返しを食う。日ブラ(ミドリ十字)の内藤は、血漿分画製剤の時代が来ると見抜いていた。その量産態勢が整ったところでミドリ十字に改称し採血部門から撤退した。血漿分画製剤という抜け道に私は気づかなかった。製剤の需要の伸びが急増し、アメリカから血漿の輸入を始めた。何のことはない。ルートをかえて買血は生き残った。この製剤によって血友病患者がエイズになった。その責任の一端は私にある。

 ▽まだ力の残っているうちに、護憲派が改憲に打って出ていたら、政治が変わる可能性は少しはあったような気がする。自衛隊を合憲とし、法的に正当な地位を与える。合憲とした自衛隊に海外派兵禁止の網をかける。常設の国際貢献隊を創建する。
 ▽豊かになるにつれて「連帯」の思想が色あせ、自己中心的な生き方にとってかわる。荒れる中学生の問題に取り組んだとき、「自分のお子さんをどういう人間に育てたいですか」と尋ねると、一番多かったのは、「ごく平凡でいい。他人に迷惑をかけない人間になってほしい」だった。がっかりした憶えがある。他人に迷惑をかけている人間がいたら、進んでそれを改めさせる。そういう人間がいれば、いじめ問題なぞ起きない。
 ▽広告ばかりだった1面をニュース面にしたのは正力。
 ▽「正力物」を紙面に載せることに反対する。読者から批判の電話があると、隣の編集局長室に聞こえるよう、とうとうと自分の気持ちを述べる。「不買運動をしてください」「正力宛の手紙にしていただけませんか。自宅の住所をお教えします」…。私は、読売の社員である前に新聞記者でありたいし、日本人である前に、人間でありたい〓。
 ▽正力にごまをする専務を、正力の目の前で一喝する。後から上司から「君、ああいう場所で、あんなことはいわないもんだよ」と言われ、「私だって、ささやかに新聞記者ですからね」
 ▽昭和33年といえば、警察まわりが自由に出入りしていた所轄署の取調室や留置場から、締め出されはじめた時期だ。
 ▽三河島駅の列車事故 新聞記事の定型化、類型化に疑問を持っていた私は、意識的に型破りの原稿を送った。
 ▽33歳のとき。欧州へ出張命令。12月に出発……
 ▽前妻の浪費癖と、サラ金からの借金。いきなり会社にサラ金業者からの催促の電話がかかってくる。家庭を顧みない私に不満を募らせ、その一つのはけ口をサラ金の融資による浪費に求めたのであろう。負債が片づくには10年を越す歳月が必要であった。
 …私は闘病記と貧乏物語がきらいである。
 ▽「南京大虐殺のまぼろし」の鈴木氏 なるほど「百人斬り」は彼が説くように虚妄であったのだろう。だが鈴木氏は、「百人斬り」の大状況である中国侵略という事実に触れていない。「百人斬り」はなかったのだから、南京大虐殺もなかったのではないか、といっているがごとしである。…サッカーアジアカップで観衆から反日の声を浴びせられたとき、正直にいって腹が立った。だが、考え直した。中国側がいう通り、日本人の歴史認識は甘い。どころか、無知がまかり通っている。それでも国際社会で通用するとはき違えている愚民たちにとって、日本をこれほど嫌っている国が隣にある、ということを知ったのは、学習のきっかけになりはしないか。

■吉岡忍「奇跡を起こした村の話」ちくまプリマー新書 20050529

   「戦争になだれ込み破滅していった昭和史を少し丁寧に読み解けば、その前段に地方行政の手詰まり、怠慢、無能力があったことがわかるだろう」
 冒頭、こんな言葉が出てきて、そうだったんだ、と目の前が開けるような気がして買った。
 新潟県黒川村の物語だ。豪雪と天災とに悩まされる貧しい出稼ぎの村だった。そこにあらわれた31歳の村長が中心になって、集団農場をつくり、冬場に出稼ぎをしないですむようスキー場をつくり……いつしか過疎から脱却し人口増に転じた。その足跡を何年にもわたって関係者に丹念に聞き取ってまとめている。
 まずは青年たちを集めて集団農業の新しい村をつくる。冬場の働き口を求めて手作りでスキー場を開き、泊まってもらうためにホテルを開く。減反対策と農家の収入安定をはかるため畜産団地をつくり、その肉を生かすためにソーセージ工場、さらにそれと関連してビール工場、そこで使う原料を供給するために大麦を植える……
 「村おこし」は全国的に盛んだが、ほかと違うのは、施設のすべてが村営で、働いている人も村の職員であること。スキー場の整備をするのも山を切り開くのも村職員、インストラクターも職員、ホテルのコックも職員だ。
 若い職員には海外の研修をつませる。1年間、ヨーロッパなどの農家に住みこませる。帰ってくると「チーズ工場をやらないか」などと何億円の事業を丸ごと任せてしまう。必死になって勉強してその期待に応えようとする。海外で勉強した内容よりも、異文化のななかで1年間すごした経験じたいが大事なのだという。それはよくわかる。職員の4分の1がそうした海外経験を積んでいるという。
 愛媛の内子町や久万町に似ている。
 内子町でも、海外に研修に出している。久万町も以前はそういった「人づくり」に力を入れてきた。
 国の補助金をいかに活用し、ぶんどるか、という工夫と経験の積み重ねも、久万のWさんの話と一緒だ。
 過疎の山村に民間企業が入ってくるわけがない。 「役場がやるしかなかった」という。
  「村おこし」で建てたハコモノが全国各地で無残な末路を歩んでいる。そういう事例とのちがいはどこにあるのか。
  農民との生活、できた産品の活用、家畜の糞尿などの活用、それと村民の生活向上との関連づけ。水ものの「観光」に過度に寄りかからず、たえず村民の生活とのかかわりのなかで考えている。この感性は内子町に近いものがある。だがヘルパーを民間にゆだねてしまった内子町にはない「役場」の責任感と意欲をも感じる。
 バブル崩壊を乗り越え、多大な成果を積み上げてきたそんな村も、2005年夏に合併でなくなるという。その寂しさや悔しさ。これが危ない時代への第1歩なのではないといいのだが。 

 
 ▽戦争になだれ込み破滅していった昭和史を少し丁寧に読み解けば、その前段に地方行政の手詰まり、怠慢、無能力があったことがわかるだろう。当時の国家指導者はたしかに間違えたが、市町村行政に携わっていた者たちも同じ程度に愚かで無責任だった。…いま、同じことが起きていないだろうか。シャッターが降りたままの商店街や寒々しい風が吹き抜けていく住宅街を歩きながら、人々の鬱屈と不安がしだいに臨界点にむかって渦巻いていくさまを感じ取る。
 ▽黒川村 75年に6389人、今は6750人。80年代の終わり、過疎地指定を取り消されている。
 ▽31歳で就任した伊藤村長「高度経済成長という魔物から、村を守らなければならなかった。役場がやらなければ、村がつぶれてしまうことはわかっていたんですよ。一生懸命考えてやっているうちにこうなった。これしかやりようがなかった」
 ▽1959年、若者を集め「青年の村」を建設。開拓して田圃を造成し、共同経営の機械化農業を目指す。…収支を考えた農業に、と、村の商工会から簿記の専門家にも来て貰う。座学のあとは2,3人ずつ組んで北海道などの先進的な農家に行って1カ月くらい泊めてもらい、乳牛の乳搾りや農業機械の操作を勉強する。
 ▽2年連続の水害 「単なる復旧ではなく、改良復旧を」。「そのころは災害復旧の制度など全然知らなかった。建設省や農林省や県でもよくわかっていなかったと思いますよ。陳情に行くと、「こんな補助金の制度がある」「この制度の解釈をこう変えれば使えそうだ」と教えてくれる。1年かけてお互いわかってきたところだった。だから次の年、もっと大きい水害がきたときは、両方がある程度勉強できていたんです」。伊藤は被災地視察に来た政府要人や県知事をかき口説いた。中央官庁にも何十回となく通った。「私も勉強したし、国や県の職員も勉強していた。こちらが何をしたいかはっきり打ち出し、向こうはどの制度を使えるかを提示して、おたがいが具体的に噛み合わせることがだいじだった」
 ▽(昭和51年ごろ共同農場だったのを、個人に分配する)「自分で流した汗が、自分にもどってこない。仕事の配分で楽な班と苦労する班の差が出てくる。個性もちがえば、欲望の中身もちがう、生活力の差もある。大人はやっていけるかもしれんが、やがて子供が大きくなったとき、親の世代がはじめた共同労働に入ってこれるか、入るように強制できるかどうか、という問題もあった…」(共産主義の国の共同農場が直面した壁と同じ問題を抱えていた)…共同の生活と作業の場になっていた知新寮は取り壊され、跡地はスキー客用の駐車場になった。
 ▽減反対策で79年、畜産団地を村が建てた。村採用の職員や獣医が和牛繁殖をおこない、8カ月になるまで育て、農家に販売する。農家は生産者組合をつくって同じ敷地内の肥育牛舎に毎日通ってきて世話をし、およそ2年半をかけ成牛に育て上げる。繁殖と肥育を分業するこの仕組みは、朝暗いうちから夜遅くまで働くという畜産農家の苦労を少しでも軽減し、畜産をさかんにしようと考えられたものだった。 (〓Y町の大規模な養豚は失敗したが……)
 ▽スキー場。草刈りなども村職員が作業着に着替えて働く。コースやゲレンデ整備で走り回っているうちに、スキーが上達し、インストラクターになった。それも村職員としての仕事だった。
 ▽新人の職員は、高級リゾートホテルに半年間研修に行かされる。(K町と同じだ)「ほんとにサービス業をやったことのない公務員は口では『公務員はサービス業』と言っても実際はなかなかできません。お客に頭を下げたり、膝をついてコーヒーやお酒を出したりなんて、すぐにはできないんです」…給料は村から出ているので、受け入れたリゾートホテルにしてみれば、ただ働きしてくれる従業員が増えたようなものだった。
 ▽村に瀟洒なホテルを建てることで、因習的な狭さや古さを変えたいと。家に帰って「こんな客がいた」と話題にするでしょ。そうやっているうちに本人の関心も広がるし、家のなかの話題も変わってくる。ホテルの料理を見ていれば、「家でもこういうふうにつくってみようか」とか。戦後のいっときあった公民館運動的な社会教育にもなる〓。
 ▽中央官庁からの出向者を伊藤村長はほんとうにだいじにしてきました。
 国の省庁にいくと、関連する部長、課長、係長クラスまであいさつしてまわった。県庁でもそう。「課長や係長が大事なんですよ。彼らは2,3年後に動き出す精度や補助事業の案をあたためている。村長は立ち話しながらキャッチしてくる…新しい制度ができたら最初に利用するんだ、と」
 ▽「力のある村長の下で働くと、大変ですよ。『それはできません』なんて言えないってことですから。村で何かつくりたいと言うと、われわれ事務屋は国や県のいろんな補助事業の書類をひっくり返して、何かに該当しないか、ここの表現をちょっと変えれば、こちらの補助制度に、と一生懸命さがす。何とか修正して、制度の上にのっける。それが仕事ですから」「ひとつの施設がひとつの補助金でできるなんてこと考えてません。この部分はこの補助金、こっちはこの補助制度を使おう、と…そば店の水車をつけるには、本当に川の水で動かすようにして、農業構造改善事業では無理そうだから、と思っていたら省エネ補助事業があったと思いつく」
 ▽村長は毎日3時間睡眠。公用車のなかは資料や本ばかり。移動のとき彼はいつも何かを読んでいた。「人生は、知らないことを知る、そこに意味がある。その繰り返しが人生だと思いますね。いかに多くのものを知って吸収するか、それが生きている証拠だと考えているんです」
 ▽「やっと若者たちが村に定着するようになったといっても、国内にいる限りはぬるま湯ですからね。自分とはどういうものか、外国で生活してはじめてわかる。自分の価値、置かれた立場、そこから自力ではい上がっていかなければ、まわりはただの一般的なアジア人としてしか見てくれない。そこで苦労しながらコミュニケーションできるようになって、何かをはじめると、周囲の見る目が変わってくる。個人としての注目や尊敬を集めるようになる。私は若い職員にそういう経験をしてほしいと期待している」本人は費用の一部として数十万円から百万円近く負担するが、村はその間、出張扱いにしているので、毎月の給料を支払わなければならない。
 ▽「この村では、6億円、7億円をぽんと27歳の2人に全部あずけて、『さあ、あとはちゃんとやれ』と任せちゃう。任されたほうも、何とかがんばって、やっちゃうんですよ」
 ▽ミネラルウォーターのプラント。農産物をかませて農家の収入増に結び付けようと、薬草をやることに。サル被害が急増していた。人里と山林が混じり合うあたりで生える竹の子や渋柿や栗などを人がとらなくなった。人が田畑で働く時間が短くなり、サルにはおそれる相手がいなくなったことも理由になった。ところがサルは薬草は好きではないから安心して育てられる。

「職業としてのジャーナリスト1−−ジャーナリズムの条件」 岩波書店 200504

 例えば事件の現場や災害現場に行く。気が重い。とくに、被害者や被災者の話を聞くというのは。でも聞かないといけない。
 集中豪雨の取材のとき、亡くなった人の祖父らに話を聞いた。オレの話しているところに他社の記者が寄ってくる。おい、やめろよ、と思う。自分の力で自分の勇気をふりしぼってせめて取材しろよ、と。被災者に話を聞くのはしんどいが、それをやらないでいいわけがない。じゃあどこで線引きする?
 筑紫哲哉は、震災のときに「温泉街のよう」と書いて非難を浴びた。マスコミのヘリによって助けを求める声が聞こえなくなった、とも批判された。だが、では取材しなければいいのか?
 マスコミのヘリが飛ばなければ、政府は被害の全容を把握することさえできていなかったのだ。筑紫はこう書く。
 −−私たちが近づくと、数メートル先から罵声が飛んできた。取材方法ではなく存在そのものが攻撃対象なのだ。このような現象は、いつも起こる症候群であり、義捐金の効果があらわれだすころには、マスコミ報道への評価が好転する、というのが専門家の分析だが。…一体何が起きているか全体が見えないままに、自分の見聞を自分のことばで語らねばならない。「映画のセットのよう」では決まり文句として批判されるし、「温泉まちの上に来たかのよう」などと言うのは論外である。被害が拡大するにつれ、「不謹慎」と見えることはすべてタブーになり、この尺度に従って片言隻句がきびしい吟味の対象となっていく。…なぜ神戸の子供たちが、この国の日常の子供たちよりとび抜けて明るい輝きを目に宿しているかの詮索も無用である。東京にとどまっていると傍観者と批判されるが、現場に行けばよいというものでもない。お偉いさんの「巡行」に映りかねない。服装もそう…。「現地を見て回るひまがあったらシャベルを持って救援作業すべきだった」という声まで出ている。そこには、政府中枢が、情報をテレビに依存して後追いの対応をしたことの認識もなければ、関東大震災のような流言飛語による悲劇が生まれなかったことに果たした役割への評価もない…−−
 外務省の機密漏洩事件をスクープした毎日の西山記者は、検事が起訴状に書いた「情を通じて」の一言で激しいバッシングの末に記者をやめさせられた。
 「市民たちの水俣病」「記者たちの水俣病」という番組をつくり、「中枢神経の障害」なのか「末梢神経」によるのかといった誰もが報じなかった視点で番組をつくった熊本放送のディレクターは「見ようとすれば見える、見ようとしなければ見えない」と書く。
 伊藤千尋氏は、ペルーの大使公邸事件での新聞社を「記者を公邸周辺にはりつけ報道していたが、なぜゲリラがペルーにいるのか、日本が狙われたのか、という問題は無視されていた」と批判。ジャーナリストを自認するなば1人でも行動すべきだと、4時間睡眠で1週間で320枚を一気に書き下ろした。「現地を何度も訪れて実態を自分の目で見ていたことと、その後も、10年以上にわたって各国ごとに新聞や雑誌の記事のスクラップや整理を続けるという膨大な蓄積があったから」できたという。
 公邸への侵入取材を実行した共同通信の原田浩司氏は、イラク取材について「行くな、という社命に反して、僕らが命令違反をくり返し取材を敢行しただけだ」を記す。
 どれも刺激的だ。でも何か、喉に刺さった小骨のようにひっかかりを感じるのはなぜだろう。


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□筑紫哲哉
 ▽同期の上前淳一郎は早めに社を去った。途中で辞める人よりむしろ、私が気になるのは辞めない人たちのことである。
 ▽ネットの発達に押され、新聞のマガジン化が進んでいるアメリカ。比べると日本の新聞は「官報」を読まされている感が強い。
 ▽入社9年目、沖縄特派員に。日本型記者クラブのない別天地だった。
 ▽アメリカなどで、ジャーナリストが情報の出所を法廷、議会で証言拒否すれば法廷侮辱罪で罰せられるのが普通である。それでも「生命線」を守った記者が出獄する際には、同業ライバルたちが拍手で出迎えるという。残念ながら日本では、ライバルの失点は絶好の機会とばかりにバッシングに走る場合が多い。
 ▽〓韓国の「オーマイニュース」に触発されて、竹内謙氏が「JanJan」を立ち上げた。

 ▽毎日新聞元記者の西山太吉氏、「国家も官僚も保身のために事件の本質をねじ曲げてしった。彼らこそが有罪になるべきなんだ、わかるか?」
 ▽我部教授 アメリカ公文書館、米軍基地などの現場を訪れ、沖縄返還に関わる日米の公文書を自分でさがす。
 ▽「情を通じ」という忌まわしい言葉で飾られた起訴状でキャンペーンは崩れた。「誰も救えなかった。読者にまけた。週刊誌に負けたんですよ。読者は新聞よりも週刊誌のスキャンダルを選んだんですよ」事件当時の毎日労組の人は肩を落とした。「情を通じ」という言葉に週刊誌が飛びつき、プライバシーを暴かれバッシングの嵐が吹き荒れた。
□藤井誠二
 ▽ドラム缶コンクリート詰め殺人 加害者の同級生を訪ね歩き、街でたむろする少年に声をかける。公判を傍聴し、準主犯格の少年と文通する。加害者を長期にわたってインタビューする。 加害者の背景報道から被害者の思い報道へ。
□熊本放送ディレクター
 水俣を追う。報じられてない水俣を。
 患者の取材をする。予想に反してはつらつとした漁師。「市民たちの水俣病」「記者たちの水俣病」。水俣病の年表をつくりつづける全国紙の西村幹夫記者。
 関西訴訟。「中枢神経の障害」なのか「末梢神経」によるのか。
 「見ようとすれば見える、見ようとしなければ見えない」
□台湾在住・柳本通彦
 ▽日本総督府。全土掌握まで20年かかる。帰順した部落では、民俗伝統の生活や風習を制限した。先住民族子弟にとって、日本人教師や警察が親以上の存在となる。太平洋戦争が始まると、高砂義勇隊が募集され、根こそぎ激戦地に送られた。戦後も、民俗や血縁を断ち切って注入された「日本精神」によって、疎外される。
 ▽台湾を完全な日本人にする、という目標のもとに進められた。人々の精神世界に踏み込んだ徹底したものになった。
 ▽小林よしのりの「台湾論」。宴席を設けて歓迎してくれる台湾人の間を日本語で徘徊してまわり、そこで交わされた話をそのまま一冊の本にまとめてしまう無神経さ。…「血書を携えて志願した」という元日本兵の言葉を利用して「大東亜戦争の大義」を正当化するより、不毛の侵略戦争に異国の民を動員してしまった罪に胸を痛くすべきでは。…鉄道をひいた、学校をつくった…それらの事業は基本的に日本側の都合によっておこなわれたものであることこそ伝えないといけない。中国国民党は日本の支配を否定し去ることで自らの支配の正当性を確保しようとしてきた。独立派はそれに反対するかのように、日本時代を肯定し、戦後の国民党の統治を否定的に描こうとする。独立派の企業家たちは実にたくみに日本の作家らを手玉にとっているといっても過言ではない。
  □石川文洋
 ▽朝日新聞に15年勤務したあと、46歳にフリーに。私の定収は厚生年金、国民年金も合わせて月に15万7683円。報道カメラマンは常に貧乏である。しかし、時を記録したネガと貴重な体験というすばらしい財産をもつことができる。
□後藤勝
 ▽コロンビアの人権団体。地元紙の記者も兼ねるフリオが案内してくれるが暗殺される。
 ▽カンボジアへ。その後、タイ在住。バンコクにはフリーのフォト・ジャーナリストが多くいて、肩書きなど関係なく、良いものは認めようという雰囲気がある。タイでは周辺国で内乱が続き、難民が流れ込んでいる。人権擁護団体も積極的に活動している。
 ▽2004年、3人のフォトジャーナリストで雑誌を創刊。カンボジアではエイズ患者のフォトプロジェクト □共同通信・石山永一郎
 ▽「国境なき医師団」は、「世界の悲劇はイラクだけではない」と一貫して批判してきた。「伝えられなかった10大ニュース」: スーダン、チェチェン、ブルンジ、コロンビア、コンゴ、ソマリア、北朝鮮、エイズのコピー薬と特許問題、コートジボワール。
□伊藤千尋
 ▽ペルーの大使公邸事件 記者を公邸周辺にはりつけ報道していた。その陰で、なぜゲリラがペルーにいるのか、日本が狙われたのか、という問題は無視されていた。現場を離れていたが、ジャーナリストを自認するなば1人でも行動すべきだ。4時間睡眠で1週間で320枚を一気に書き下ろした。現地を何度も訪れて実態を自分の目で見ていたことと、その後も、10年以上にわたって各国ごとに新聞や雑誌の記事のスクラップや整理を続けるという膨大な蓄積があったからだ。その後、休みを使って自費でペルーに行き、事件現場を取材した。
□長野智子
 ▽アルジャジーラ 90年代、ハマド皇太子が父を追放し首長になると、近代国家にするため、外国人客の飲酒を解禁したり、モダンなまちづくりをしたりする。「情報統制の撤廃」をした。サウジアラビアと決裂して行き場をなくしていたBBCアラビア・テレビ・ネットをカタールに呼び寄せてアルジャジーラを設立した。
 ▽沖縄のヘリ墜落。25メートルプールに匹敵するヘリが住宅街に隣接する大学に墜落炎上。現場は米軍に封鎖され日本の主権をシャットアウトされるという異常事態にかかわらず、東京からの取材クルーは我々だけだった。どの局も、アテネ、ナベツネにつぐショートニュース扱い。 □豊島報道・曽根英二  ▽豊島のゴミのなかに東京の豊島の名前を見つける。ゴミのルーツをさぐる。
 ▽中坊氏と出会い住民が立ち上がる。中坊さんは数時間で具体的班割りまで決めて動き出した。
□石澤
 ▽アメリカのジャーナリズム専門誌「コロンビア・ジャーナリズム・レビュー」 http://www.cjr.org/tools/owners どの会社がどのメディアを所有しているかを示すチャート。
 ▽1970年代以降、150以上の新聞が廃刊になり、1945年は8割の新聞が独立資本だったのが、80年代後半には逆転して新聞チェーンのシェアは、1600弱ある日刊紙の役8割を占めるに至った。
□原寿雄
 ▽三笠宮は1956年に、皇室敬語は廃止を含めて考え直す必要がある旨発言している。
 ▽BBCはイラク戦争に際して「我が軍」という用語をさけ「英国軍」ということを確認した。
 ▽現代日本で危険も不自由も全く感じないジャーナリストは、自分が体制派、多数派に属しているためではないか、と自問してみるべきである。また、草の根の日本社会で市民がどれだけ言論・表現の自由をゆがめられているかに思い至らないため、と考えるべきだろう。公衆トイレの落書きや自衛隊官舎へのチラシ配布で有罪判決を受けた市民がいるのに、その事実に無関心のまま、ジャーナリストを自任することは許されない。
 ▽やりたくないルーチンワークも左手できちんとこなしながら、右手でやりたい仕事をやる。そうしながらやりたい仕事が拡大できるように仲間と一緒に職場を変えてゆく。
 いくら良心的であっても良心を発動させて行動につなけなければ、情勢は変えられない。流れに逆らって泳ぐことのできるジャーーナリスと目指す覚悟がいる。
□竹内謙
 ▽広報戦略に長けた役所は、クラブに大量の発表資料を提供する。提供ネタが少なければ、役所の目の届かないところで意に反するネタを探す記者が現れる危険がある。
□大谷昭弘 北海道新聞について
 ▽道警の道新への嫌がらせ。道新の記者を呼びつけて、ただ怒鳴り散らす。担当記者に「共産党記者め」と罵声を浴びせる。些細な問題で道新の支局を「家宅捜索」。
 ▽取材班が入手した情報を、全社員で共有させた。
 ▽高知県警 地検が捜査員の聴取を行った。が、検事の横に座っている検察事務官は、実務研修の名で検察にいた捜査一課の若手刑事だった。
□共同通信 原田浩司
 ▽(イラク取材)「行くな」という社命に反して、僕らが命令違反をくり返し取材を敢行しただけだ。
 こだわり スクラップ 忘れられた悲劇