■「ジャーナリズムの条件3 メディアの権力性」岩波書店 200505
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まさに副題のとおり。今の大手メディアがどんな状況なのかを、大手メディアの内部から、あるいはフリーの立場からつづっている。
結局、ゲリラでなければならない、ということだろう。「人権」を盾にしてしんどい被害者取材をやめてしまうわけにはいかないし、「上」から何を言われようと、やるべきことをやらないといけないし、時にけんかしないといけない。だが喧嘩するためには取材の蓄積と人間としての力の蓄積がいる。そうした喧嘩をした末にフリーになったのが、安田純平氏だった。
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□佐野眞一
▽やくざだけでなく、政治経済分野の著作もある溝口氏。仕事の間口を広げておくことは独立性を守る条件になる。
▽ダイエー中内 国家による統制経済的なるものに挑戦し、力づくで流通業界の扉をこじあけた。そのダイエーが、ついに国家期間の産業再生機構入りした。中内の2度目の敗戦だった。
▽個人情報保護法 国民の多くは、この法律があれば、安心して眠れますよ、という言い分を易々と受け入れてしまった。個人情報保護法とはIT時代における治安維持法である。治安維持法も、成立当初は、個人情報保護法同様、たいへん耳あたりのいい言葉だったはずである。
▽桶川ストーカー事件 真実を明らかにしていったのは、フォーカスフリー記者の清水氏であり、フリーの鳥越俊太郎氏だった。遺族に対する「過剰」で「粘り強い」取材を続けた結果、何度もストーカーの被害届けを受けながら、これを無視しつづけた警察の隠蔽体質をついに突き止めた。
▽東電OL事件 ゴビンダ被告の再拘留決定に関わった村木保裕判事は、1年後に14歳の少女を買春した容疑で逮捕された。だが東電事件と結び付けて報じるジャーナリズムはなかった。
□北村肇
▽役員対社会部という対立構図がしばらく続いたが、人事権によるパージで「気骨ある社会部記者」が徐々に減っていった。権力犯罪を暴く調査報道が、役員の意向を反映して社内で評価されなくなった。社内民主主義が失われていくとともに、上司とも権力とも闘わない記者が増えてきた。
▽現場記者は知っているはずだ。取材を尽くさない限り「評論」はできないことを。逆に言えば、十分な取材をした時には、論評せざるを得ないことを。
□大滝純治 日本海新聞、について
▽1975年に倒産したが、労働組合が復刊運動に立ち上がる。全国の新聞労組を回ってカンパを訴え、社屋をロックアウトして輪転機を債権者の処分から守った。翌年、紳士服製造業者を社主に迎え復刊にこぎつける。部数躍進。ところがカリスマ経営者となった社主によって、組合つぶしが始まる。組合が弱体化すると、96年に娘婿の田村耕太郎が入社し、突然「特報部」が設けられ、田村が部長代理に。すぐに大型コラムが始まる。選挙では社員総出で選挙運動をする。自民党入りして当選を果たす。
□宮本雅史 東京地検と記者
記者が接触できるのは特捜部長と副部長だけ。もし第一線の特捜検事に接触した場合は「出入り禁止」となる。処分の軽重は特捜部長の専権事項。特捜部が認めた情報以外の記事を掲載すると、取材拒否という処分を受ける。
□森達也 オウムの映画
□吉岡忍
▽個人情報保護法 民間部門には罰則つきできびしく求めているのに、役所には規則がない。個人は個人情報開示・訂正・利用停止を求めることができるとは定められているが「当該事務」や「適正な執行」に「支障をおよぼすおそれ」があれば請求に応じなくてもよいと例外規定まで書き込まれている。罰則も、処罰されるのは不正を行った当人のみ。民間は当人とその組織の代表者も罰せられるのに。その不正の中身も、「自己の不正な利益を計る目的」「職務以外の用に供する目的」に限定されている。これでは防衛庁が情報公開請求者リストをこっそり作成していても自己利益ではなかったとされ不正の範囲に入らないだろう。改正案ではマスコミや著述関係が例外規定とされた。だが、表現の自由などの人権は、ジャーナリストなどの専門家だけのものではない。ここには機関や専門家を別扱いにして、ほかの個人や市民社会から切り離そうとする意図が透けて見える。
□斎藤貴男
▽朝日新聞内部の共用パソコンにこんなことが印刷されたマウスパッドが置かれ始めた。「それは、読者の力になれる情報か。それはすべての点で選ばれる品質か。それは世間から支持される行動か」。こんな指針の下で新聞記者たりえるだろうか。世間すなわち権力に従順な多数派の白い目など気にしたらやっていられない取材活動。せめて己だけでも権力のチェック機能たらんとする志。時に功名心になりもする個人の思い。それら諸々が混沌となり初めてジャ−ナリズムは成立する。最近の新聞記者たちの多くが、恵まれたエリートサラリーマンの視点からばかり世界や社会を捉えている。土建政治には怒りや正義感をぶつけることができた彼らが、社会的弱者の存在をあからさまに軽んじる昨今の構造改革路線には実に寛容なのはこのためだ。
(このマウスパッドを見せてもらっときのざらざらした違和感。気持ち悪さ。あのときそれを言葉にできなかったが…)
□中村信也 東京新聞記者 NHK番組改ざんについて
▽「本件番組についてその概略を説明したことについては…業務の遂行の範囲内」との記述は、憲法が明示的に禁じる検閲を通常業務と位置づけていると言わざるを得ない。
□丸山昇 芸能プロとテレビ 娯楽重視し報道の軽視へ。
□上丸洋一 朝日「論壇について」
▽1950ー60年前後の「世界」について 「読者から感想を寄せられる数も、日々十数通に達し」(51年)、「……今日の読者の関心が現実の問題に著しく目覚めて来ていること、日を追って急速に延びて来ていること。もう二度とだまされるのはいやだ、私たちもそう思い、読者もそう思っておられるにちがいないのである」(52年) すさまじい熱気。
□瀧井宏臣 フリーの苛酷な現実(元NHK)
▽納得のいく水準のルポを書き、月収30万円を稼ぐための必要条件は、取材経費が全額出て、原稿料が1枚1万円だ。
▽東京新聞の名前で取材以来を出せば数日でOKをとれるものが、ルポライターでは断られる比率が高まり、OKが取れるにしても2,3週間もかかってしまう。
□溝口敦
▽暴力団取材の基本は、取材する側される側をしっかり区分けすることである。取材する側はあくまできまじめさと野暮を通し、依頼ごとをされても、ジャーナリストとしてやってはならないことは断固断る。変に仲間意識を持てば、彼らはバカにするだろう。バカにされたら暴力にさらされる機会が増えると受け取るべきだ。
□曽我部司「一人社会部」
▽マスコミが道警の犯罪を追及しないのをいいことに、「地方公務員法違反の教唆」などと称して、任意で私を取り調べたりもした。警察官舎で張り込んで、帰り際の警察官に取材するときも「住居侵入」で逮捕するとまで言われてしまう。
▽ロシアマフィアや中国マフィアと接するときは防刃チョッキを着ている。覚醒剤をススキノで裁いていた中国マフィアを取材したときは、翌朝、取材車両を金属バットのようなものでつぶされた。以来、3カ月ごとに登録ナンバーをかえている。
□安田純平
▽イラクが冬山などに例えられ、自然発生の「危険な場所」として語られた。だが、イラクは米軍らによって人為的につくられた、イラク人にとってこそ危険な場所ということだ。米・イラクの大学の共同研究チームは、イラク戦争始まって以来のイラク側死者数を10万人以上と推計した。日本国内で「3人を助けよう」という運動が広がっていることは知っていた。それはわかるが、違和感も。
▽信濃毎日 2002年に休暇を取ってアフガンを訪れた。帰国後に異動した先の上司が「あいつは使いづらいから潰せ」とデスクに指令を出し、以後、日常の仕事にも支障を来すようになる。休暇でイラクに行き原稿にしようとすると「長野県と関係ない」「二度とイラク関係の取材はさせない」と門前払いとなった。社は「休暇であっても何かあれば社の名前が出る」と自粛を求めてきていた。翌月、フリーに。
□山岡俊介 武富士
▽リークしてくれた武富士元課長は武富士恐喝未遂事件で口封じ逮捕された(後に無罪)。内部資料の持ち出しが業務上横領にあたるとして再逮捕、盗聴容疑でも再逮捕され、けっきょく、有罪に。警視庁クラブの記者は、元課長を悪人に仕立てる報道をしただけでなく、武富士から警官に提供された金券、警官から提供された「前科カード」以外に資料が流出してないか、警察のために情報収集していた。一消費者金融のスキャンダルさえ、大手マスコミの大半は、当局のお墨付きを得るまで一切報道しなかった。
▽02年1月から「東京アウトローズ」というメグマガを立ち上げる。これをやめたあと04年からは日刊情報誌「ストレイ・ドッグ」を立ち上げた。
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■佐野眞一「遠い『山びこ』」新潮文庫 20050620
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戦後民主主義教育の金字塔と言われた「山びこ学校」。青年教師の無着成恭が、山形の山村の山元村の中学で、貧しい子供たちに自分たちの暮らしを見つめさせ作文を書かせた。
貧しさと悲惨さを正面から客観的に見すえ、どうしたらそこから抜け出せるかを考えるなかから生まれた作品であり、どん底に生きる子や親、教師たちに希望を与えた。
筆者は、43人の卒業生の全員をさがしだし、若き日の無着がつくった学級新聞「きかんしゃ」全刊をさがしだす。
貧しさ故に満州への移民を大量に送り出した村の歴史や、戦後民主主義から逆コースへのまさに狭間で、共産党に近い人たちからも、文部省的な人たちからも支持されることで「山びこ」が大ブレークし、またその矛盾によって無着はその後、苦しむことになる。さらには、村を追い出され、無着の名を村でかたることさえタブーのようになってしまう。そのへんも、時代背景も含めて丹念に記す。
卒業生たちは、決して幸せな人生を送っているわけではないが、まじめに誠実に暮らしていた。
作文で文部大臣賞をとった江一は、森林組合につとめる。村を豊かにしようと人工林をつくるが、31歳で夭折する。だがもし生きていたら、材価が下落し、間伐もできず、ひょろひょろになった森を見なければならなかったろう。
藤三郎は、「山びこ」の申し子であり、卒業後も村に残って農業に打ち込み、マスコミの取材などの矢面にたったが、次第に無着の教育に疑問をもつ。無着は、具体的に農村の生活を改善するための技術や知識を伝えなかった、軽視したと批判する。佐藤は篤農家の道を歩む。だがその佐藤も農業での暮らしは上向かず、自分の子に農業を継がせることはなかった。
無着自身も、若いときに「山びこ」によって名声を得てしまったがために、苦しみつづける。「アカ」として村を追われ、「山びこを超えた」と自負した「続・山びこ学校」は評価されず、右からも左からもたたかれる。明星学園をも追われ、山元村にはもどれず、千葉の寺の住職となる。
あの時代の、最も良質な教育をほどこした教師とその生徒が、高度成長という荒波のなかで苦闘し、敗北していくさまが描かれている。
3年も及ぶ取材期間で、膨大な資料を渉猟し、徹底的に取材し、それを時代背景と個人の人生が織物になるかのようにみごとに構成している。
たとえば、「リヤカーに布団を敷いて母を寝かせ、あんかを抱えさせた上に油紙をかけ、雨が降りしきる山道を一言もしゃべらすにおりていった」という描写ひとつとっても、いったいどれだけ取材したんだろう、と思わせられるのだ。
□構成 ・やまびこの教育 ・「山びこ」をデビューさせることになるジャーナリストや共産党系文化人 ・無着の生い立ち。敗戦までは型破りな行動力はみられない。山元村赴任まで
・山元村の歴史、恐慌、経済状況。 ・大本営発表。小作人と地主の争い。 ・そんな村での教育のやりとり、綴り方の発展 そして卒業式 ・「きかんしゃ」発掘 卒業生の行方調べ
・「きかんしゃ」が「山びこ」として世にでて、爆発的な流行となる経緯 ・村から追放へ(生徒が「載せないでくれ」という。親から反発を買う…) ・江一のその後。藤三郎のその後。無着との激論
・無着の明星での経験。最後に成田の福泉寺へ
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▽「子供が、花が咲いたと書いてくる。無着先生の指導はそこからはじまる。どんな花かな、白いの、赤いの、とたずねる。作文という素材をとおして、現実を見つめる目を養うのが本当の教育ではないか、というのが…」
▽無着は全国の綴り方教師たちに、綴り方研究誌をつくろうと呼びかけた。ガリ版を切り、「つづり方通信」という個人誌を発行した。児童雑誌が次々と廃刊に追い込まれ、最後に残った「少年少女の広場」まで昭和25年5月に廃刊となった。
▽戦後青春をおくった師範時代の3年間。…生まれ故郷の本沢村の青年団活動や文化活動への没頭。村の青年たちも、戦後派の村のリーダーとしての無着の帰郷を待っていた。無着は、河上肇の「経済学大綱」などを教材にした読書会を開くようになっていた。
(公民館運動、綴り方、憲法……村おこしの原点〓)
▽無着は山形新聞の須藤を通して、生活綴り方の手ほどきを受ける。それまで、綴り方とは、小学校時代にさんざん書かされた戦地の兵隊向けの慰問文だとさえ思っていた。
▽山元村は平均反収3俵しかない。県は5俵。ところが、「山びこ」の子が母親の胎内に宿された昭和9年は1俵強だった。286戸の村から、出稼ぎが206人を数える。娘をひそかに身売りする家も。
▽満州開拓団 青少年義勇軍に参加した男の体験。「母も私も満州行きについては相当に悩んでいました。けれど、山元村にいたんじゃ食えない。それに先生からいわれればいやとはいえなかった…」ソ連抑留…。当時の教師「連れて行った子供たちには本当にすまないと思っています。しかし、県からの圧力にはとても抵抗できるような状態ではなかったんです。あれは完全な棄民でした。…民間人という理由で、今もって恩給も年金もつけられていないんです」
▽「昭和23年春、まんさくの花が咲く山道をやってきた新任教師の無着成恭が見たのは、そういう歴史を背負った村であり、そういう歴史をくぐった子供たちだった」
▽戦後、小作人の農民組合と地主との間に、農地解放をめぐる争いがおきる。「農民組合は共産党だ」という流言や脅迫で、組合は解散を余儀なくされる。地主の力が強かったのは、村の大半が山林で占められていたからだ。小作人たちは、炭焼きでも下草とりでも山を利用させてもらわなければならない。農地解放の対象はあくまで農地のみ。全面積の9割が山林で占められる山元村の場合、不徹底な農地解放はむしろ村民の間の不公平をさらに広げる役割を果たした。山林地主たちは、朝鮮戦争特需で急騰したパルプ材収入によって脱穀機や製粉機などを買い入れ、機械力で零細農民に対する支配力をさらに強めた。
▽綴り方で、農地の大きさや家計の収支をくわしく調べさせる。「だが、おっつぁは「ごまかしや、ヤミがなければ、今の世の中ではくらしてゆけない」という。村の一軒一軒を回って調査したときも、どこの集落がいちばんうそつきかということがわかっただけだった」と少年。
▽家の仕事がたまって学校に来られない子を、みんなで手伝いに行く。
▽卒業式。藤三郎「私たちの骨の中心までしみこんだ言葉は、『いつも力を合わせていこう』『働くことが一番好きになろう』『なんでも何故? と考えろ』『いつでも、もっといい方法はないか探せ』ということでした。そういうなかから『山びこ学校』という本が生まれました。…かなしいことも、恥ずかしいことも沢山書いてあります。しかし恥ずかしいことでも、山元村が少しでもよくなるのに役立つならよいという意見でした」の母ひとり。
▽「あれでけすごい実践をやりながら、学校の図書室には「山びこ学校」の本すらなく、先生たちも「山びこ学校」についてはふれたくないという雰囲気でした。村を取材しても、あれは「村を売った男」というような冷たい反応しか返ってきませんでした」(NHK記者)
▽無着の綴り方指導は、子供たちが文章のなかに生活をしっかりつかんでいるかどうかの一点に向けられていた。
▽底本である「きかんしゃ」にあった、子供と自然とのつながりを見せる作品や少女の心の襞を伝える作品は、「山びこ」ではほとんど排除された。自分の置かれた状況を冷静に分析した大人びた作品が、集中的に収録された。この微妙な差異は、編集した野口肇の存在抜きには語れない。野口のこの選択は、「山びこ」にたちまち絶賛の嵐をもたらす吸引力になるとともに、やがて「山びこ」を徐々に批判にさらす排斥力の原因ともなっていくのである。
▽松浦総三「戦後ルポルタージュ30選ーその流れと傑作ー」〓
▽「もう発表したくない」という江一。…無着のところに泣きながらやってきた勉は、作文を読んだ父親からすごい剣幕で怒鳴られた。「こだな綴り方、本さのせて、なんだ。孫末代までの恥らさらしだ」…。無着が勉と一緒に勉の家に行くと、父親は「あんな貧乏綴方書かれたんでは、嫁にいけなくなるって、こいつの姉もさっきから泣いている。オレは、本当にいい先生だと思っていた。人の物をとったり、人の悪口さいったり絶対するなと教えていた。でも、なんぼ先生がえらいか知れないけど、もうダメだ。こいつは親を傷つけ、家を侮辱したんだ」 と言って大粒の涙をいろりの中に落とした。
その数日前にもミハルから「綴方を返してくれ」といわれていた。
「ありのままに書いた作品は親から否定される。悲しく貧しい現実が悲しい。悲しい現実をかくそうとすることが悲しい。そこで、教師のできる仕事は、悲しく貧しい生活現実を正しく認識させることと、大人はそれをなぜかくそうとするのかという観点に立って真実の秘密をあばいていくということだけだ。そこでは綴方が必要だ。だから投げられない。ますます勇敢にならねばならない」
「山びこ学校」出版にあたって、子供たちと何度も議論を重ねてきたのも、作文の公表をはばかる村人たちの声が高まっていたためだった。
……マスコミが押し寄せる…とりわけ村人を驚愕させたのは、一種のタブーとなっていた(新興宗教の)「おひかり様」と「やみ」の問題が白日のもとにさらされてしまったことだった。…子供たちがおひかりについてクラス決議、それを村の辻辻にはった。「山びこ学校」にも掲載された。村の古老たちの無着に対する反発は目に見えて強まっていった。「やみ」について作文を書き、それがそのまま「山びこ学校」に載った。(やみを見逃した)巡査は血相を変えて怒り、これ以降、ドブロクづくりだろうとなんだろうと、やみ行為をした村人を片っ端から取り締まるようになっていた。
▽無着とかかわりなく、政治的党派制を帯びた動きが頭をもたげる。それに呼応するかのように、行政側からの山びこ学校批判も高まっていく。東北6県国語教育協議会の批判。
方言を使ってあるのは賛成できない。中学2年であの程度の言葉遣いではだめだ。山びこの作文は、生産と消費に関するものばかりで生徒が美しい世界を見る眼をなくしはしないか。作文教育が生活指導に偏りすぎ、この指導方針は戦前の綴方教育に後戻りするものだ。
その後国語教育界を二分する作文派対生活綴方派の論争を先取りするものだった。作文派は、文部省指導要領に基づく表現指導に重点を置き、計画的系統的な指導を強調。生活綴方派は、表現の裏側にある生活の指導を強調し、国語科のみにとどまらぬ社会科的指導に重点をおいた。
▽無着は一夜にして有名になった自分に戸惑い浮き足立っていた。映画の最終シーンに、実際に教鞭をとる自分の姿を写してはどうか、という提案がなされ、スタッフを唖然とさせたこともあった。
▽無着の教育は、山元中学の正門横にたつ二宮金次郎の銅像をいわば反面教師とするものだった。銅像が象徴する忍耐と勤勉のなかにかくされたごまかしを、子供と一緒にあばきだすことが根幹だった。「いつでも疑問をもて」というのも無着の教えの一つだった。だが、問題意識は問題意識のまま残され、それを解決するだけの知識や技術を子供達に修得させるまでには至らなかった。そのかわり、彼らのなかに残ったのは、いつも値AKらを合わせていこう、かげでこそこそしないでいこう、働くことが一番好きになろう、というむしろ二宮金次郎の銅像とも相通じる勤労観と道徳観だった。
無着が植え付けようとした懐疑の精神は忘れても、無着自らが実践した勤労と道徳観だけは忘れずに持ちつづけ、それを心のよりどころにひたむきに生きてきた。というより、東京方面に出た卒業生たちの前に立ちはだかった現実は、懐疑の精神をもとうにももてないほどの過酷な状況だった。資本主義社会の矛盾に眼を開かされる教育を受けた子供らは、皮肉にも、最も禁欲的なかたちで、資本主義社会を支える礎石となっていった。
▽三千代をたずね「山びこ学校」時代の思い出をというかいわないうち、「そっちは関係ない」と言ってすごい力でドアを引いた。…父親に「末代までの恥さらし」と言われた勉も、とりつく島もないまま電話を切った。40年前の痛切な記憶が尾を引いているように思えてならなかった…「山びこ学校」は、貧困のイメージをマスコミから付着されつづける弊害も彼等に与えていた。
▽脆弱な農業基盤しかもてない農業生産のありようもさることながら、市町村合併に際してとられた保守的な選択も、この村が時代から置き去りにされる大きな要因だった。上山との合併か、山形との合併かに割れた。バス路線は山形に通じ、経済は山形と密接な関係をもっていた。一方の上山は、同じ郡であり郡役所も上山に置かれているなど歴史的つながりがあった。上山への合併を主張したのは村の保守派で、山形への合併を主張したのは農協の青年連盟や婦人会、青年団若手だった。…割れたまま時間がすぎて山形と合併できなくなり、けっきょく僅差で上山と合併となった。…山林地主を中心とする保守派の旧弊なものの考え方は、この村の進歩を足踏みさせる役割しか果たさなかった。(小田町の場合との違い〓)
▽江一32歳で死ぬ。彼の死はジャーナリズムからも母校からも黙殺された。当時の校長は、「綴方教育の記念碑的作品」と述べて、母校の教職員と生徒を葬儀に参列させるべきだと意見具申をしたが、教育委員会は「あれは正規の教育ではない」と却下した。
▽藤三郎 反対を押し切って高校へ。往復30キロの山道を通う。藤三郎こそ「山びこ学校」を代表する生徒だとマスコミや訪問客が殺到する。25歳で最初の著作。現在20冊近くの著作をもつ。…マスコミから付着された虚像をこわそうと思えば村から逃げ出せた無着とは違って、藤三郎はあくまで村にとどまりながら、その枷を自分自身ではいでいかなければならなかった。…無着とのつきあいがつづき、生活記録運動や青年団活動にかかわりながら、次第に疑問を抱く。「社会がよくならないと救われない」という性急な結論を出すのではなく、「山びこ」ではほとんど学ぶことのできなかった自然科学の知識を身につけてはじめて、農業問題の解決の糸口がつかめるのでは、と考え始めた。…農業青年たちは藤三郎の講習を受けるにつれ、実践のともなわない無用のたわごとにすぎないように感じ、藤三郎は空論家と冷笑をあびるようになった。
▽無着と藤三郎の対談 昭和45年からはじまった減反政策は経済的側面からだけではなく、農業に生きてきた人々の誇りと意欲まで奪う強烈な一撃だった。
「花の美しさに序列はない、というのは、暮らしに心配のない人間の戯言だ。こういうところに生まれると、受験バカにならなければならない状況だって生まれてくる。たとえば、東大に入る可能性をもった子供には、その可能性をめいっぱい引き出してやることが教育だと思う。…人間は点数で評価すべきでないといって、最初から放棄してしまうのは間違っていると思う」
▽「続・山びこ学校」には、「山びこ学校」の生活経験主義を乗り越えようとするあまり、科学主義にのめりこむ無着の姿が、いたいたしいほど浮き彫りにされている。
▽故郷山形での無着の評判は芳しいものではなかった。生家に近づけば近づくほど悪くなった。昭和63年に、母親の静が、農業用水路で入水自殺を遂げたことが大きく作用していた。…翌年、「子ども電話相談室」の回答者を辞退し、寺にこもりがちになり、マスコミにもほとんど顔を出さなくなった。千葉県多古町に原籍も移した。
▽「山びこ学校」は、国家の側からの教育が否定された時代に生まれた実践の記録だった。「続」は、高度成長時代、国家の教育現場への介入が強まるなかで行われた、文部省との対決姿勢を強く帯びた。その後、「続」の科学主義教育にも限界を感じはじめ、詩をテキストとした精神講和臭の強い授業に移行していった。「詩の授業」…国家に対する無着のスタンスの変化が刻み込まれている。
▽昭和57年、山元中学に赴任した渋沢は、子どもたちに作文を書かせてみた。「山元村がいまかかえる問題」というテーマを与えても、「問題」という意味じたいがうまくつかめていないようだった。両親とも工場などに働きに出て昼間はいない。親たちの生活が見えないから問題意識も生まれないのだろう。…
子どもたちの関心は、もっぱら将来の生活に向けられていた。「山びこ」の子どもたちの関心が、現在ただいまの生活をどうすべきかという一点に絞られていたのに…。山びこの子供たちは貧しくはあったが、自分たちのまわりには打開すべき現実が確固としてあった。30年後の子供たちのまわりには貧しさはなかったが、自分が主人公になれる現実もまた失われていた。
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■映画「砂の器」 20050629
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前半は、土曜ワイド劇場「山村美沙のブルートレイン殺人事件」と似たようなもの。謎解きもたいしたことなく、早くも犯人が新進気鋭の音楽家だとわかり、あっさりと逮捕状をとってしまう。
そして音楽家のコンサートがはじまって、そのコンサートが終わったころに逮捕して終わりかと思ったら、そこからがすごかった。
石川県の田舎から、子どもだった音楽家は父とともに村をでて放浪の旅にでる。なぜ? 父がライ病だったからだ。そこからはオーケストラをバックにひたすら無言の旅の父子をおいかける。真っ白だった服がぼろぼろになり、足をひきずり、物ごいに戸口にたつが父の顔を見たとたんに追い返され…。村の入り口には「伝染病の者は入るべからず…」という札が立てられ、巡査に見つかれば管轄外に追われるだけ。まさに棄民だ。そんな姿をひたすらうつす。
かつてのお遍路さんのかなりの部分はこうした人が占めていたのだ。今はやりのお気軽遍路がはずかしい。癒しとか、なんとか、甘ったれた言葉が情けなくなる。
映像は美しい。悲惨な旅で、日に日にぼろぼろになるが、橋の下で炊事をしながら、父子が談笑するほほえましい姿も描かれる。親子の愛とはこんなにも深いのだと。
島根県の亀嵩まで来たとき、緒方謙演じる親切な巡査に出会う。これによって父は岡山の国立療養所にいれられる。父子の別れの姿は思わず涙がにじむ。
主人公は巡査の家で育てられることになるが、ある日、家出する。大阪に出て通天閣の自転車店で働いているときに戦災にあい、店の夫婦は死ぬ。役所にあった戸籍原簿も焼けてしまう。それで戸籍を偽造し、自転車屋夫婦の息子ということになった。
それから20余年後、すでに退職した巡査はたまたまあの子が音楽家になったことを知り、東京まで行って会う。実は岡山の療養所に入れられた父親は生きていることを知らせ、
「とうちゃんに会え。死ぬ前に会ってやれ。引きずってでもつれていくぞ」と迫り……。
刑事役は丹波哲郎と森田健作。丹波はうまいが森田は大根。
主人公の音楽家は加藤剛。あんなかっこいい俳優だったんだ、と驚かされるが、加藤剛は加藤剛のまんまの役しか演じられない。指揮をするシーンなんかはヘタクソだ。でも、全身からほとばしる熱とか、哀しみとかは感じさせてくれる。スマップの中居がやった「砂の器」を見て、ヘタクソさに唖然とした後だったから、余計すばらしく感じられたのかもしれない。
ぷっつんオバサンのイメージしかない島田陽子があんな清純可憐な雰囲気とは驚き。緒方の人のよい警察官も適役。笑ったのは渥美清の映画館のおじさん。なにをやっても寅さんだ。なんとおもまあぜいたくな俳優陣だこと。
なにより素晴らしかったのは、壮大な自然を写すカメラワークだった。日本ってこんなにも美しい国なのかぁ、と思わせられる。映画を撮影した昭和40年代半ばにはまだ各地に茅葺き民家が残っていて、そこで親子兄弟が暮らし、村じたいがまだなんとか生きていたことがわかる。この映画で写された美しい日本は、今はもうほとんど残っていないだろう。
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