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■保母武彦監修「小さくても元気な自治体」自治体研究社 20050829

 地方分権には税源移譲が不可欠だが、交付税を削り、そのぶん税源を移譲するというい形は問題があるという。課税対象に恵まれた都市部では超過財源が生まれるが、交付団体(田舎の自治体)の歳入規模は縮小するからだ。
 「地方分権」という美名にのって地方の切り捨てが進んでいるという認識はあったが、この問題は気づかなかった。
 今回の合併にあたっていくつかの県では「交付税が35%減るから合併以外に生き残る道はない」と宣伝されたという。現在の交付税制度下ではあり得ない計算だが、町村はそれを信じて合併を選んだという。35%という数字は初耳だが、「このままでは生き残れない。合併するしかない」と思わせる詐術はどの県も似たようなものだ。
 「論」の部分では今まで読んだもの以上の発見はなかったが、いろいろな自治体の具体的な取り組みが紹介されていて参考になった。


 ▽「合併のモデルケース」の篠山市 合併前と比べて地方債が2倍に。経常経費が年間2億5000万円増えたため厳しい行革が必要な事態に。周辺部になった旧町住民の7割が「合併は失敗」と回答。
 西紀支所の職員は24人(00年)から9人(02年)に、丹南支所は39から16に、今田支所は22人から9人に。9園の保育所は5園に統廃合する計画が進む。
 ▽長野県栄村(2700人)は「実践的住民自治」「中央集権下の請負行政から分権下の協働行政への転換」をかかげ効果をあげている。町単独事業の「田直し」「道直し」事業、住民との協働による「下駄履きヘルプ」などでできるだけ費用のかからない事業手法を創造。「下駄ばきヘルプ」では、160人の2,3級ヘルパーが誕生し、120人が社協に登録。8班編成で24時間対応している。01年度、居宅介護に延べ610人が加わり、村の財政支出はわずか660万円だった。
 ▽泰阜村 国道のない村。現在も大型バスが通行できない。厳しい地形。満州開拓で1200人を送り出し、632人の犠牲者をだした。
 ▽中土佐町 00年度の一般会計予算は49億3000万円で23億円を交付税でまかなう。今後段階補正の縮減を含め04年度には4億5000万円の減額が予想される。
 合併後10年間〓は合併しなかったと想定して普通交付税の算定替えをおこなうことや、市町村の公共料金、公債費負担格差の是正に対する特別交付税措置、市町村建設計画に基づく事業経費への合併特例債等の財政支援策など、昭和の合併に比べれば優位。だが、その反面、昭和の合併ではこれほどまで「地方財政の締め付けはなかった」という違いも。
 合併特例債は、事業費に対する起債充当率が95%で、後年度における元利償還金の7割を普通交付税で措置するという、優遇されているが、同種の過疎債をもっても公債費比率(起債制限比率)を考え起債発行を極力おさえている現状がある。
 ▽官僚のいうことを聞いていた方が住民に説明が楽だし、いわれたとおりにした方が財源さがしが楽だと遊惰安逸にふけっていたわけではないが……
 ▽馬路村 十数年前10人ほどだったゆず加工・販売の職員も6倍の60人に増え、売り上げも25億円を突破した。
 魚梁瀬地区は杉の産地。魚梁瀬小学校・中学校は、児童・生徒のおよそ半数を家族とともに異動してくる営林署員の子が占めていた。が、どんどんへる。「山の学校留学制度」をつくった。留学を希望する子どもとともに家族を受け入れる制度。
 ▽合併した場合でも20年ほどたつと、アメの交付税のプラスが消え、どんどんマイナスになっていく。長い目で試算すると合併しない方が得策。
 ▽昭和の合併で合併しなかった馬路村と、安芸市に合併した畑山村を比べると、馬路村の児童生徒は115人残っているが、畑山地区はゼロ。3つの小学校と2つの分校があったのが、すべてなくなった。
 ▽長野県望月町は「住民が行政を引っ張る『まちづくり講座』」、京都府美山町は旧村単位の自治会・村おこし推進委員会・公民館組織を解体して新たに「地域振興会」を組織し、その組織を住民自治の拠点にする取り組みが始まっている。事務局は住民代表と町職員が担っている。
 岩手県山田町の「社会福祉憲章条例」、鳥取県日南町や島根県石見町は福祉・医療が地域最大の「産業」に。石見町では福祉・医療で約300人が働いている。弱者にやさしいまちづくりが経済効果をもたらす。
 ▽農林漁業地域では、公共下水道や農村集落排水事業は、個人負担や財政負担もコスト高となる面があり、画一的に進めるのではなく、「四万十川方式」〓として開発された低コストの排水処理施設や、合併浄化槽などの採用で負担を軽減する。

■佐高信編「久野収集V 哲学者として」 20050824

  難しい。だけどおもしろい。
 終戦の1カ月余り後に獄死した三木清は、苛烈な思想弾圧によって仲間であった知識人が次々に転向し、敵の狗となっていくなかで、最後まで良心を保ちつづけ、二枚腰三枚越しで抵抗しつづけた。その重苦しく孤独で絶望的な闘いを描いているのが印象に残った。
 現代からみると、「形だけ転向したフリをしとけばええやん」と思いがちだが、この本を読むと、思想や良心という人間の内面を蹂躙することの重みがひしひしと伝わってくる。
 三木の本は1,2冊読んだことがあったが、マルクス主義とつかずはなれずの立場をとった人、というくらいのイメージで、どんな思想体系をもち、どんな業績を残したのかはわかっていなかった。
 たとえば、客観的認識と、レトリック(表現)の問題を扱っている部分がおもしろかった。客観的な認識とそれを伝達するレトリックのどちらが重要か、と問われると、ふつうは前者が重要だと答える。だが後者の「レトリック」は、客観的認識力と同等、あるいはそれ以上に重要なのだという。
 「わかったよ」というレベルの「理解」と、他人に説明できるレベルの「理解」をウェーバーが峻別していたことや、思想と行動のつながりを説いたサルトルの本をぼんやりと思い出した。
 最後の「歴史的理性批判」の論文にも何度もうなずかされた。
 主体と客体が融合していた呪術的な世界から脱し、神学と理性を分離させることで、ヨーロッパ的な理性が発展してきたが、その結果、理性の専門分化が進み、理性は専門家の独占物になった。さらに、人権や平等といった「理念」を実現するための「理性」だったのが、客観的な「技術」になり、権力者の支配の道具となっていく。
 歴史的理性から乖離した、人権・平和・平等といった「理念」は空洞化して力をなくし、一般人は「理性」から引き離されて「専門化された理性」という神に従う古代の奴隷のような立場に追いやられてしまう。
 そんな状況でなにができるのか、という回答はこの論文のなかでは直接ふれていないが、おそらく、三木の「レトリック」の考え方の方向に向かうんだろうなあ、とぼんやりと思った。
 

 
□狩野亨吉 34歳の若さで一高の校長になったが、44歳で「ふたたび官職につかない」と退職。貧乏生活を送る。
 ▽進歩的な進化論が、反動的政府の下で栄えた理由。進化論が最初の紹介者のモースの真意に反して、適者生存の仮説を社会に適用して、弱肉強食を弁護する社会ダーウィン主義に変質し、自由民権運動の天賦人権論を負かす武器として奉仕することになったから。
 しかし、先生の進化論はちがった。超自然的起源に関する神話や俗説を、自然的発達過程を理解することで解消せしめる方向にあった。多くの人々が青年時代の進化論を容易に卒業し、奉仕のための理論、たとえば社会有機体説のごときへ転向していったのに反し、先生の進化論は、その無神論の根拠となった。
 ▽絶望的に貧乏な生活だが、仕事の余暇があれば古書を調べたり文献を読んだり。アインシュタインのような学者が講演する場合は必ず出席して新しい知識の吸収につとめた。太平洋戦争がはじまるとき「科学と宗教の戦いだ。神懸かりや曲学阿世の徒が、国家を滅ぼすことになった。もう2年もすれば、アメリカの飛行機が空をおおう来襲し、ここら一帯は全部焼け野が原」と語っていた。
 ▽学者が、専門化の美名にかくれて、自己の存在に矛盾した理論を説いているかぎり、それは現実を動かす力になりえようはずがない。理論が生き、現実を動かすには、人がまずその理論を生きなければならない。
□三木清 1945年9月26日 獄死
 ▽治安維持法によって「共産主義者」のレッテルを貼られると、共産主義者、マルクス研究者、社会民主主義者、自由主義者、新興芸術研究家、宗教的良心の所有者の別なく国体を破壊するとして断ぜられた。
 転向の誘導と強制は、日本の知的良心の持ち主たちのなかに、多くの二重人格者を作り出しつつあった。
 前方には役人がもうけた狭い落とし穴が伏せられ、後方からは国民の間違った憎しみの眼を感じる境涯に追いつめられながらも、思想の自由こそ思想の生命であるという実感を捨てきることができなかった人々にとって、いかなる血路が残されていたであろうか。
 三木さんは、1930年に一度烙印を押されながら、ペンを折らずに、血路を開こうと苦闘しつづけた。思想官憲のブキミな監視と右翼からのシツコイ挑発に耐えながら、決してペンを捨てなかった。ペンをとることの方が、ペンを折ることよりもはるかにむつかしいという絶望的情況の中で奮闘する困難。三木さんの獄死は、思想の自由がほとんどゼロに帰してしまっていた事実を無慈悲に物語った。
 ▽軍閥と官僚による学問の自由の蹂躙が、あれほど見事に成功したのは、国民の一人一人がその蹂躙を自己の人間的自由の部分的蹂躙として、実感しえなかった事実にもとづく。学者の側も、自由を特権的自由として享受することで満足し、国民の自由の問題と結びつけて、たえず開拓し確保する用意と努力に欠けていた。そんななか、アカデミーの特権的権威と自由よりも、民間の不自由と危険を選び、学問と民衆との仲立ちをしようとした瞬間から、三木さんは危険な運命にさらされていた。
 本来味方であるべき思想家の中からの裏切り的挑発に出あいながら、孤独や絶望にたびたび襲われながら、一方で哲学者として自己の体系をきずく努力をつづけ、他方で危険を冒して国民の知性の啓蒙にあらゆる機会をとらえることを惜しまなかった。もはや書くことの自由がゼロに帰するまで。
 ▽ジャーナリズムで活動した有名な文化人で、言論報国会に加わらなかったのは、ほとんど三木さんだけであったろう。
 ▽官僚軍閥と保守政党にあきあきしていた国民は、無産政党の活躍に真剣な期待を寄せていた。だが、官憲の過酷な弾圧と運動自体の分裂によって、無産政党は、国民の期待を裏切り、国民の気持ちは軍閥官僚のかかげる羊頭狗肉的ファシズムに吸収させられた。 (〓〓希望の時代があったのが、一気に転落する。今の世相との類似〓)
 ▽出口のない爛熟した文化の過剰と、見通しのない政治の貧困の中で、自己の前途を経済恐慌によっておびやかされている青年学生にとって、社会主義こそは、文化の退廃と政治の貧困と経済の悪化を救う理想と見なされざるを得ない。  従来の哲学と、経済を中心とした社会主義という新しい世界観とが、いかなる関係を結ぶべきかの問いに答える人物の出現が切望された。三木さんは、社会主義が現代哲学の生産性と健康さを回復する重要な源泉である事情を説明した。こうした動きによって、日本におけるマルクス主義は、経済学や政治学にとどまらず、哲学、美学、論理学、宗教学などの領域への浸透を開始した。
 ▽三木さんの思索は、学問を人生の中で問うという点に特色があった。哲学をアカデミーのなかで、「客観的」に、専門家の立場から研究する仕方にたいする真剣な不満を表現する。(〓〓大学の哲学の授業のつまらなさの理由がわかる〓〓)
 明治以来、哲学を国民の生活に根ざしめる努力を避け、「西洋哲学」として、アカデミーという無風地帯のなかで専門的に研究することによってのみ、学問の自由をかろうじて維持せしめた。もし、近代西欧哲学の諸原則を、わが国民の生活の中に自覚せしめる努力をしたとしたら、明治絶対政府の官僚は迫害を加えたことだろう。   (〓哲学の本来の意味。それを発揮できない現実のなかで、それを発揮しようとして殺されたのが三木だった〓)
 ▽終戦後、1カ月余もたって獄死。政府は連合国に対しては降伏を認めたが、自国の国民に対しては戦争責任を負わないですりぬけようとした。東久邇宮内閣は「一億総懺悔」をふりかざしたどころか、内務大臣山崎巌は、国体を批判する左翼勢力は戦争中と同様、きびしく取り締まり続けると高原してはばからない。政府側は戦局の悪化とともに、左翼勢力の解釈を拡大しつづけた。政府側は頭をたれて国民の審判をまつから、戦争批判勢力の側がバトンをうけて、難局の処理にあたってもらいたい、そのために政治犯はすべて釈放する、といった態度はつゆも見られなかった。
 国民のほとんどは、三木の3月28日の検挙を知らされていなかった。「知覚されないものは、存在しないのだ」という極端なテーゼを信奉するように誘導され、強制されていた。
 〓〓畑中繁雄「昭和出版弾圧小史」〓  西田幾多郎でさえ、右翼ファシストたちによって、日本を西欧にひきわたす非国体思想家として攻撃にさらされていた。その西田も、三木を身を案じつづけながら6月7日に世を去っている。
 ▽吉野作造を指導者とする当時の全学連である新人会には、京大在学中の三木はほとんど動かされていない。改造や中央公論のデモクラシー論陣にも動かされていない。明治の自由民権運動の仲間から出発しながら、自由民権運動の担い手たちの内面の空っぽさにたえかねて哲学をこころざした西田幾多郎の影響もあったろう。
 内側ぬきに政治革命の立場に移行した新人会的共産主義者の多くが、転向を繰り返したのに対し、三木がねばりづよく抵抗しえたのは、彼が内面を深くほりさげながら、外側に眼をむけたからであろう。
 ▽サルトルは、ナチス協力派の哲学は、出来てしまった既成事実には服従するという「現実主義」であり、抵抗派の哲学は、研究者としては事実に服従しても、実践者としては、その事実の道徳的是非を、この服従とははっきり区別する。その事実の前に何回敗北しようと、是非の感動詞、感嘆詞を自分の責任においてはりつける実践を繰り返す。後年の三木は、既成事実の重荷にともすれば圧倒されながらも、この区別だけは混同することを自分に許さなかった。歴史的現実主義〓から戦争に協力した人々と、三木との根本的ちがいは、そこから生じたのだろう。
 大正の教養派・人格派と三木との出発点における、ほとんど目に見えない志向のちがいが、結果においてこれほどの距離を生み出した。三木にとって教養とは、最初から鑑賞ではなく、形成であり、やがて形成は実践とふかくむすびつくのである。
 ▽どのような普遍概念も、つねに特殊歴史的階級制という要素の刻印を打たれている。マルクス理論もそうだ。そう把握した三木がマルクス理論を「現代の意識」と把握してもおかしくない。この態度が大きな批判をまきおこした。
 日本のマルクス理論は、自分自身に「歴史意識」を適用するのを忘れているかのようにふるまった。そうした正統派マルクス主義は、ソ連の現実を、理想そのものとして崇拝する傾向におちいりがちだった。
 ▽民衆の大部分が、戦争を支持している状況のなか、抵抗する運動が壊滅していくなか、治安維持法のとめどない拡大的適用のなか、右翼や転向知識人の我が物顔に荒れ狂う思想的テロルのなかで、抵抗線をどのようにつくっていくか。時々刻々抵抗線がくずされていくなかでは、協力しながの抵抗、抵抗しながらの抵抗をするしかなかった。
▽▽レトリック
 ▽真理を発見し証明するオルガノンの論理学(認識的理性)、真実を表現し説得するレトリックの論理学()の2つが両足となって、論理学はなりたたなければならないと三木は考えた。認識対象に向かう論理学と人間主体にむかう論理学である。理解の論理学を社会的説得の論理学にきたえなおす過程を通じて、既成事実もたれかかり的理解の論理を現実変革的説得の論理にむけかえうると信じた。こうして、レトリックの論理は、人間科学の基礎論理としての重さをもたされると同時に、社会変革の論理、組織化の論理、運動の論理としても、認識の論理とならんで、重要な役割を演じる方向に打開されるのである。
 ▽文化科学や歴史科学があつかう人間の表現的行為を理解の立場からではなく、制作の立場から見直す方法が可能であり……レトリックの論理の目指す具体的真理は、対象によって限定された客観的真理性と主体によって限定された主体的真理性の統一でなければならない。近代主義と実存主義との対立ともいえましょう。……「聴く者がただ聴くものでなく、語りうる者であり……」
 科学的主観というのは、自分が全世界の外側にいるかのような態度をとって、全世界を対象化し、それぞれの側面に目をつけて、抽象し、分析し、法則を発見する態度を意味する。自分自身の外側に出て、現実の自分自身を対象かして分析し、法則を発見する態度を意味する。だから科学的主観というのは、現実にはどこにも存在しないが……。
 ▽話す人と、主題あるいは対象と、聴く人という三項関係によって条件づけられた全体構造。この実践主体対実践主体の論理から、主体を捨象した構造が主観と客観の論理。だから、デモクラシーのレトリックが衰弱しながら、科学のロジックが一方的に毒そうすれば、社会の合理性はかえって後退する結果を見るのは、天皇制ファシズムの経験が痛烈にものがたるとおり。主観対客観の論理が、人間対自然の論理(ロジック)であるのに対し、人間相互の論理がレトリックとよばれる論理の現象形態ということになる。三木さんは、「表現の論理」と呼んで、レトリックの論理として、もう一度認識のロジックとの対照において考えなさなければならないと主張している。
 対話とか相互説得の論理構造を追究する努力の大切か。理性の公的討論を経ずに、一方的に決定されていく戦争国策に対して、国民が順応し力一杯働く過程がどれほど危険であるかを三木さんは痛感していたからこそ、昭和9年から13年にかけて、説得力の論理を主張したといえる。
 説得的、レトリック的ロゴス形態こそ、ロゴスの最も原初的形態。
 日本のゆがみは、理論的認識のロゴスばかりを考え、その専門家が、その認識した成果を、認識のロゴスの低い人々に教えてやる方向だけを「啓蒙」とよんで、そういう上から下への啓蒙の方向を、ロゴスが拡大し、普及していくただ一つの様式だと思いこんでいるところにある。(〓正反対が稲葉さんらの学習会〓)
 ▽レトリックの論理のよりどころは、感動力と証明力。だが、感動力だけにかたよらせ、浅薄な外的刺激によるはたらきかけの方向にもっていけば、宣伝や扇動、シャクフクというう現象があらわれる。
 説得力と宣伝力とのちがい。
 宣伝は、実践への具体的案内であるのに対して、説得は実践そのものへの案内。だから、説得力がつれていくのは実践の入り口まで。
 相手がすでに十分感動していている場合は、証明力を駆使して実践への道をはききよめなければならない。逆の倍は、実践への衝動的動力をよびおこす努力を重視しなければならない。説得力はいつの場合でも、両刀使い。真理への証明力と美しさへの感動力の両方をあわせもたなければ、説得力にならない。
 ▽マイホーム主義という「逃げ腰の徳」。実践主体的実践主体の、説得の相互の行使しあいの論理からでた結論が、一種の新しい組織によって、決議として完成され、実行されなければならない。そうしなければ、我々は、レトリックの論理を必要としない家庭内でしか充実したコミュニケーションの主体になりえず、一歩外へ出れば、だれか他人によって一方的に動かされているという実感をぬぐうことができなくなる。
□中井正一
 ▽週刊文化新聞「土曜日」 弾圧直前には京阪神だけで8000部。書店とともに喫茶店網を通じて配布。中井と能勢が編集を取り仕切った。助教授ポストの一歩手前だった中井は匿名。
□林達夫
 ▽宗教信仰批判の立場をかため、深める過程を通じて、スターリンのこっかしゅぎてきな疑似信仰をだれよりも早く無抜いたのが林達夫であった。戦前からの天皇制の大がかりな疑似信仰キャンペーンにだれよりもうんざりしていた事情によって研ぎ澄まされた。
 彼らの無神論は生き方のすみずみまでつらぬいている。
 ▽マルクス主義は宗教を「民衆の阿片」と批判する。この見方は、支配階級だけは目覚めていて宗教信仰を利用すると連想しがちだが、これがまちがい。真の問題は、支配者も被支配者とともに宗教信仰に酔いしれていること。現代の支配階級、ナショナリズムを信じないで、ナショナリズムを自分の階級的目的のためにただ利用しているだけなのだろうか。そうでないからこそ、問題は深刻なのではないか。
 ▽無神論の最大の特色は、自分の内側にひそむ、既成宗教の諸形態を一つ一つ点検する過程を通じて、呪術や魔法、疑似宗教のすべてを自省の対照に引き据える視点を確立できるところにある。
 唯物論者は必ずしも無神論者とはかぎらないが、無神論者は必ず唯物論者だ。
□羽仁五郎
 ▽われわれを汚辱の中にしばりつける鉄鎖、この鉄鎖からわれわれはかがやく剣をきたえ出すのだ。  この言葉が羽仁さんの書斎にはられていた。いっさいの公職をうばわれ、すべての仲間との交際をほとんど断ちきり、書きつづける。
 1933年に投獄され、アウトローの位置に放逐されていた。当時の思想犯は、何回でも投獄されて、全くの非国民となる危険をおかさないかぎり、自分の立場をひそかに持ちつづけることさえはなはだしく困難だった。かつて無謀な国策に抵抗した思想家たちが、ほとんどカメレオン的変身をはじめ、誰がなにを考え、どこにつながりがあるか全然わからない危険な状態だった。
 羽仁さんは、歴史学という学問の立場だけをよりどころに、学問的方法を厳密に守り、そこから必然的に出された結論によって時代を批判し、怪物どもを批判した。勇気や決断といった仰々しい身振りでおこなったのではない。志士仁人的勇気や決断はいったんくずれた場合、目も当てられぬ結果をもたらすからだ。(〓小文字言葉の抵抗〓)
 政治権力もしばらくは、どうすることもできなかった。怪物たちの中でも、学問的良心の一片を残していた者たちは、羽仁さんの業績を認めないわけにはいかなかった。
 ▽羽仁さんが「クロオチェ」をだした昭和14年。反共理論の主張者の一人に数えられた骨のある自由主義者河合栄治郎教授の身辺にまで言論弾圧の手はのびていた。クロオチェには著者の序文がない。序文で執筆の意図を書けば弾圧の口実をあたえる。執筆の日付を書けば、日本紀元の日付をつけ、皇軍の勝利をほめたたえるのがほとんどだった。幾人かの著述かは日本紀元のかわりに昭和と書くことによってひそかな抵抗を表現していたほどだった。
□北一輝
 ▽国家主義とは全く別の場所で、社会主義を説くことは論理としては比較的やさしい。また社会主義への要求を無視し、社会主義を否定する姿勢で国家主義を説くことは、山県、桂的コースの飼い犬となることだから問題なくやさしい。北は、社会主義を土着化させ、国家主義を社会主義化させるという方向で、両方のきりむすぶ交叉点を推し進めるところに、これからの日本のコースを切り開こうとする。
□歴史的理性批判
 ▽欧州での理性の目覚めは呪術からの解放から。だが、呪術をささえた「同化的模倣活動(ミメシス)」までが追放されたのは、よかったのかどうか。相手を見渡し、支配する距離的理性の間接性でもって、相手と一体化して、相手を動かし、自分も動かされるミメシスの直接性をおきかえつくすことができるだろうか。
 ▽抽象的「しるし」としてのコトバは、科学的認識に配当され、形象的「うつし」としてのコトバは、自然の「うつし」であることを断念し、自然を模倣するという作業に限定してしまう。芸術の純粋化によるリアリズムの蒸発。科学の抽象化によるリアリズムの蒸発。ユダヤ教的宗教とギリシャ的理性によるミメシス的呪術の法外追放こそ、分離の幕開きである。プラトン的イデアによるミメシス的芸術の追放。
 ▽ミメシスが、私生児的に芸術をうみおとす。最初の芸術家は、ジプシー的遊牧民の生き残りであるホメロス的旅芸人のむれ。大自然はもはや同化的ミメシスによって動かされる存在ではなく、定住的農民の労働によって支配されるべき存在になった。
 ▽原始社会ほど、呪術の支配にひれふしてはいたが、だれもが呪術の行使に参加できた。だが、次第に、、諸霊との通交と、諸霊への服従とが、ちがった階級に配当される。
 ▽哲学の諸概念は、ただの記述コトバではなく、命令コトバとふかく関係していたからこそ、現実批判的意味をもちえたのである。これに比べると、近代科学の記述のための記述コトバの無党派性のなかでは、社会的無力者たちは、専門性がないために、自分に表現をあたえる力を完全にうばわれ、記述コトバは、無党派性のままで、社会的支配者の操作手段になりがち。
 ▽ヨーロッパ的理性の近代化は、13世紀のアベロエス主義を起点の一つとする。ソルボンヌ大学。神学的知識と世俗的知識を2つの学部に切り離す闘いによって、既成宗教からの学問の解放の道を開いた。しかし一方で、全体的文化の専門的個室化への道をもひらき、人間理性からその全体的方向規定力を衰弱させるのに力を貸した。脱神学の過程そのものの第一歩に、理性の形式化、骨抜きの第一歩もひそんでいた。
 ▽ガリレイに発する観測的理性概念。世界と自己を対象化し、すべての価値性格を括弧にいれて、世界と自己をひたすら客観的事実として観測する理性。既成の伝統的価値体系に対して、下や外側から攻め上るだけの反逆的価値体系は、攻撃派が中心をしめたとき、ほとんど、もとのままのカテゴリーによりかかる。カソリックに対するプロテスタントにそれは見える。腐食した価値体系から本当にのがれるには、価値体系一般をはずすような視座構造を、形成してみる必要がある。ガリレイの天文学と力学は、このような没価値的視座構造の形成であった。客観的真理と主体の自己確実性を相関させ、両方を統一していた古典的理性からの離反と分離の幕開きである。
 ▽カント哲学は、理性と宗教の両方を文化形態の別々の領域に配当することで、理性と宗教を思想的休戦条約にまで意味づけた。理論理性は、たえず新しい認識の獲得を目指しているが、実は、理論理性がまえもって対象的自然のなかにもちこんだものの繰り返しである限り、何一つ新しい認識の獲得ではない。(認識の「枠組み」下駄)
 ▽専門的相対主義がファシズムの絶対主義と戦いうるためには、「寛容」原理をこえなければならない。そこにとどまるかぎり、ファシズムと反ファシズムの双方に寛容原理が適用され、おのおのの文化形態の専門的相対主義がそのまま絶対化され、自分の縄張りがおかされないかぎり、外側に対する無関心が支配する結果になる。ファシズムと反ファシズムとの普遍的価値対立が中和され、両方への無差別的無関心がとってかわる。
 しかし、絶対主義によって「寛容」原理」をこえようとするのは、自己をファシズム化するのと同じである。……なにかを防ぐための寛容から、何かを積極的に実現するための寛容にすすまなければ、何に対して「非寛容」でなけれなならないかはあきらかにならない。
 18世紀の啓蒙的理性が客観的理性概念にもたらした変質は、専門的、実証主義的理性、ノミナリズム、普遍的価値に無差別な世俗主義的寛容という3つの概念に象徴的にしめされている。こうした変質を客観的に制度化し、思想的に自明化させた結果、19世紀の自由主義的理性が支配的イデオロギーとなる。
 ▽専門的真理の相対主義によって、専門的真理の官僚化、独占化がおきる。これはまた、社会的生産様式の官僚化、独占化の過程の反映である。専門的科学者や技術家たちは、原始社会の「呪術師」たちにみあう位置をしめ、社会的生産様式の独占的支配者と構造的に呼応しあうにいたっている。
 ▽コトバや思想を行動や実践の手段とみる立場はやがて、コトバや思想を一つの行動、実践そのものとみる立場を生み出し、人間の思想する活動と実践する活動の区別が消失する傾向をつよめる。すべての人間が、そのコトバを口にするかどうかによって仲間と敵に分類されるラベル的機能をはたしていく。
 道具化された思想やコトバは、思想やコトバの内容を吟味せず、使用方法だけに熟達する姿勢を生み出す。こうしてコトバは、自己納得より、他人折伏のために使用され、自己確実性をたかめる方向には働かなくなる。
 理性の手段化とは、思想を構想する方法が思想を使用する方法に食われていく思想のステレオタイプ化でもあった。  プラトン的理性は、数学的思考を仲介にして、普遍的理念を呼び寄せる意味で、数学的思考を理性思考のモデルと考えた。市場支配的理性の侍女として適用された数学的思考は、経済のための思考の武器から、思考の経済の武器にまで自分を変質させねばならなくなった。思考の複雑な論理過程は、論理記号の機械的操作によって、みごとに単純化される。
 ▽企業の合理化に理性思考が役立つだけ、思考作用全体の機械化と分業化化がすすみ、歴史的理性は、一種の盲目性質、呪物的性格を身につける。歴史的理性の手段化過程は、手段的理性が呪物的性格をおびて、それ自身、崇拝の対象となって盲目化する。「進歩のための進歩」「経済成長のための経済成長」という概念が支配しはじめる。
 プラトン的理性によって、はじめて普遍人間的理念にたかめられた人間の尊さ、自由、正義、平等、幸福、寛容、平和といった諸概念は、理性から根こそぎにされてしまい、理性による根拠付けを省略された結果、宣伝用の「表看板」としてふりかざされるほど、重さをなくしてしまう。いかなる理性によっても、客観的真実在にむすびつけられていない以上、空洞化していくばかりである。
 空洞化を「合理化」する作業は、ギリシャと同じく、ソフィストのシニシズムによっておこなわれる。現代のソフィストも同じ。  普遍的理念は、現実における理念の「欠乏」を通じて、自分を輝かせる。人間の尊さの最大の欠乏に苦しめられている人々こそ、人間の尊さにもっともあこがれる。正義、自由、幸福、寛容、平和もそうだろう。
 現代のソフィストたちが普遍的理念を空洞化させる手品の種が、既成事実や常識や経験であるのもギリシャの場合とかわらない。彼らが、既成事実や常識や経験によって普遍的権利や理念を批判し、権利や理念によって既成事実や常識や経験を批判しないのは、サルトルが指摘した通りである。彼らは、特殊的事実によって、普遍的理念を買いたたき、価値と反価値、理念と理念への裏切りの対立を無差別にし、結果として、普遍的理念への渇きをもたず、現状に自己満足できる既得権益の弁護人の役割をはたしている。
 ▽国連憲章から日本国憲法まで、普遍的理念は褒めコトバ的に引用されているが、現代的意味の歴史的理性による検証が放棄される結果、これらの理念はますます空洞化している。
 ▽欧州の古典的理性原理の目覚めが、人間のノエシス(距離的認識活動)によって、人間のミメシス(同化的模倣活動)を駆逐する側面をもっていた。
 現代の子どもは、遊び仲間らが強烈な「同調原理」を各人に教え込む。全身で模倣する。生きた人間から組織の一員への自己転換。テレビは、こうした性格構造の模倣されるべきモデルを次々に再生産しつづけ、この現実が将来もつづく現実なのだと説得しつづける。他方で、ミメシスからの独立をかちとるノエシスは、専門家の手に独占され、産業の利害に役立つ場合だけ評価され、支配的社会構造の要求から独立に発展させる自主的努力としてのノエシスは、危険な火遊びとして冷遇される。

本山美彦「民営化される戦争」ナカニシヤ出版 20050920

 軍人より文民の方が平和を好むという原則が「シビリアンコントロール」を生んだが、最近のアメリカを見れば、民間出身の政府の要人が軍人より好戦的である。軍事産業の出身だからだ。
 アメリカのトップリーダーのさらにそのうえに居座る"Above the Line"。それがベクテルなどの軍事産業だという。第一次湾岸戦争のときに話題になった油まみれの水鳥という嘘は、「レンドン・グループ」という広告代理店がしくんだものだった。今回のイラク戦争の女性兵士の救出劇もおそらくそうした企業が関与しているのだろう。
 米国の石油関連企業の利益を守るため、どれだけの国の政権がつぶされてきたか。これでもか、これでもか、と実例をあげている。
 2003年以降の日本政府の史上空前のドル買い介入も、円高防止などのためではなく、イラク戦争によって膨大な財政赤字を抱え込んだ米国のドルを支えるためという一面が大きいという。
 経済の専門家だけあって、軍事産業と国際政治との相互作用などの記述に説得力がある。
 大学の先生の本だから読みにくい面はあるが、無数のネットのソースがしっかり記されていて、何かを調べるときの資料的な価値も高そうだ。


 The Center for Pablic Integrity"Making a Killing" http://www.ni-japan.com/
 ▽ソマリア、ボスニア、コソボ、アフガン。平坦業務はもとより、戦後の復興工事の多くもゆだねた。
 ▽ベクテル 売り上げや受注高の公表を極度に嫌う。 http://www.asyura.com  CIAの情報収集も。
  1949年、文民政府が倒れCIA支援の軍事政権が成立するとベクテルがパイプライン建設の許可を得る。イランの1953年のクーデターでパーレビが王位にもどったのも、ベクテルの調査がきっかけ。石油国有化方針は破棄され、以前は英系がにぎっていたイラン・コンソーシアムに、米系メジャーが40%の株を得た。
 米国では、PRIVATE COMPANIESと自称する企業のほとんどは株式非公開。金融機関もそう。バンクと称すれば公開の義務があるが、ファンドを自称すればその義務はない。こうした非公開企業が、米国では強大な力をもっている。
 ▽米国政府は1939年に大統領府が設置され変質する。大統領補佐官、国家安全保障委員会、通商代表部、CIAといった7つの大統領直轄行政機関が成立。だがこの大統領府の裏にさらに、キングメーカー”above the Line"が潜んでいる。ベクテルはそのなかでもとくに強力なメンバー。
 ▽関西空港、新千歳空港、香港新国際空港も、ともに、ベクテルが請け負った「青写真」に基づいて建設された。米国では空港の7割はベクテルが建設。
 第二次イラク復興大規模事業は、ベクテルがまず受注。米国際開発局(USAID)はイラクの初期の復興事業は米企業に限定発注する方針を変えない。各国は公然と不満を表明することすらできない。米企業が強いのは、企業統治の優秀さではなく、世界の政治・軍事を牛耳る米国政治家との人脈にある。
 ▽ウォルマート
 米国防総省は、イラクの遺跡を競売することでイラク戦費を賄おうとしている。〓国民歴史博物館に残っている遺物リストを2004年に作成し、それをウェブに流し、競売にかけようとしている。www.artifacts.com 「2004年の共和党パーティ費用を1万ドル以上、支払ってくださった方々は、自動的にこのオークションに参加できます」。その代理人は、ウォルマートの創業者一族のウォルトン。
 ドイツでは、労働条件は企業内部の労使間の話し合いだけでは決められない。地域を横断した産業別の「労働協約」が締結されている。 http://www.rengo-soken.or.jp/houkoku/itaku/it950304.htm  が、進出したウォルマートは、労働協約の締結に頑として応じなかった。
 ▽イラク 歴史的にみれば、クウェートは、イラクにとっての満州である。英国によって奪われた傀儡国家。  1960年、OPEC結成のリーダーシップはイラクのカセムがとった。石油国有化方針も打ちだした。が、カセムはクーデターで殺害される。軍事政権は、バース党や共産党員らを虐殺。米英は2週間後には、新政権と石油交渉をはじめた。
 68年に、バース党の巻き返しクーデターが成功。フセイン政権樹立。72年には石油国有化に踏み切る。だから、イラン・イラク戦争が終わってしまえば、フセインはただちに始末される運命にあった。
 「湾岸報道に偽りあり」http://www.jca.apc.org/~altmedka/gulfw-01.html  クウェート侵攻2カ月後、米議会下院でナイラと名乗る15歳の少女が、クウェートからの奇跡的生還ということで、涙ながらの証言をする。その結果、湾岸戦争介入決議が上院を通過した。ところが、この少女は在米クウェート大使館員の娘であり「やらせ」だったことがわかった。この仕掛け人は「レンドン・グループ」の「Hill&Knowlton」という広告代理店で、政府から600万ドルを受け取っていた。 http://www6.plala.or.jp/X-MATRIX/eg/eg20030330.html
 ▽円とドル 03、04年の財務省のドル買い介入は規模、回数ともに史上空前に。ドル介入のための円資金には財務省の外為会計が使われ、買ったドルはそのまま米国債に投資されている。
 イラク侵攻中、ドル安が進行しユーロが高騰。巨額赤字なのに、ドルが基軸通貨の座を維持できている最大の理由は、原油取引がドルで行われているから。フセインは00年に原油取引をユーロ建てに切り替えた。イランもそれを望んでいる。イラク攻撃はこれへの見せしめの側面も。
 日本は、円高阻止のためではなく、ドル没落阻止のためにドル買いしている。ドルからユーロへ準備通貨がシフトする世界の傾向に抗している。結果的には日本政府のドル買い支えが、イラク戦費調達を支援する効果をともなっている。
 ▽ドル化の強制 米国もかつての英国と同じように、途上国にドルを流通させる。アフガニスタンのドル化は新古典派経済学者のなかで流行している考え。
 アルゼンチンでは、ペソはドルを対価としてのみ発行されるという厳しいドル100%準備制度が敷かれていた。ところが、90年代に、円とユーロに比べてドル相場が上昇すると、アルゼンチンの非ドル圏への輸出増加にブレーキがかかり、経済は大混乱に。
 ところがドル化推進論者のフェルドマンは、アルゼンチン政府の課税能力の低さと、アルゼンチンの労働組合が強力すぎて賃金を減らしたり雇用を減らしたりできなかったことを、経済破綻の原因と記した。これでは、労働者の抵抗力のまったくないアフガンのほうが市場経済に適していることになってしまう。
 ▽ドイツ企業の最高意思決定機関「監査役会」は、従業員代表が名を連ねる。役員の3分の1から半数を従業員代表が占める。
 ▽マードックのメディア支配 フォックスは視聴率でCNNを追い抜いた。全米の家庭の5分の1が、マードック率いるニューズ・コープの契約者。
 ▽コンゴ内戦 隣国ルワンダはコンゴに逃げ込んだフツ人武装勢力を追って越境。一時はコンゴの3分の1を占領した。コンゴ東部のダイヤモンド鉱山などを占拠して資金を稼ぐ。それを見たウガンダの軍隊も、自国の反政府勢力がコンゴ東部を拠点にしていることを理由にコンゴ北東部に攻め入り金属資源を確保しようとする。
 96年にルワンダは、コンゴ国内に傀儡のゲリラ組織をつくり、モブツ政権を倒した。ルワンダの傀儡のカビラ政権ができた。が、カビラは傀儡から脱することを目指し、ルワンダの反感を買う。アンゴラ、ジンバブエ、ナミビア、チャドに援軍をたのみ、見返りに地下資源を採掘する権利を提示した。この内戦には欧米や南アフリカの企業も関与していた。鉱山地帯を選挙するための軍資金を欧米系鉱山会社が出すかわりに、支配したあかつきには独占的な採掘権が与えられるという契約を結んだ。
 ▽ソマリア 80年、米国は政府に資金援助をしたが、88年に北部で内戦がはじまり、大統領は首都を追われ、91年にソ連が消滅すると、米国はソマリアへの援助を中止。以後、中央政府は急速に弱体化した。91年には北部は旧英領の国境を復活させ、ソマリランドとして独立を限限した。イサック族が安定支配している。……93年、米軍撤退。95年には国連軍も撤退。内戦継続中。