■宮内泰介「自分で調べる技術」岩波アクティブ新書 200509
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新聞や雑誌の記者という肩書きがない1市民の立場で、どんな調査ができるのか、最近とみに考えるようになった。それでこの本のタイトルが目に入った。
ネットの情報源の使い方など、参考になる。こんなところにこんな情報があったのかぁ、と。
「論文」というものの作り方もおもしろい。なつかしのKJ法、もう一度試してみてもいいかもと思った。短文の文章ならKJ法は必要はないが、原稿用紙100枚をこえる文章を書いているとありがたさを再認識する。
著者のページ http://reg.let.hokudai.ac.jp/miyauchi/
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▽出典の書き方 「(注1)2003年11月23日、M市産業部農政課高橋洋一係長(当時)へのインタビューによる」「(注1)田中一郎,2003,「M市における農業後継者」『現代と農業』5(4):123-124」(5巻4号)
□雑誌・論文記事
▽国会図書館 http://opac.ndl.go.jp/ 雑誌記事索引の検索で、雑誌論文や一般雑誌の記事について調べられる。 利用者登録すればコピーも郵送。
▽日外アソシエーツのMAGAZINEPLUS 有料だが国会図書館以上に資料が多い。
▽大宅壮一文庫 http://www.oya-bunko.or.jp/ 明治から95年までの索引目録は27巻の冊子に。88年以降はCD-ROMに。いずれも主な図書館にある。
▽英語記事・論文 Ingenta http://www.ingenta.com/ 英語論文のタイトル。要約も読める。
▽専門図書館 東京都立中央図書館「類縁機関名簿」
http://www.library.metro.tokyo.jp/16/16d01.html
大阪府立図書館「大阪近辺類縁機関案内」 http://www.library.pref.osaka.jp/lib/ruien.html
▽専門書店・古書店の案内「東京ブックマップ」 http://www.book-map.com/ 「日本の古本屋」 http://www.kosho.or.jp/
▽国立情報学研究所DB 全国の大学図書館の本や報告書、資料を検索 Webcat http://webcat.nii.ac.jp Webcat
Plus http://webcatplus.nii.ac.jp
▽ネット書店では"bk1"がおすすめ http://bk1.co.jp
「本の道しるべ」 http://www.hon-michi.net/ ネット書店の評価
▽総務省統計局 統計データのフリーワード検索 http://portal.stat.go.jp
▽電子政府の総合窓口 政府の報告書や行政文書 http://www.e-gov.go.jp/
▽市民運動のdb 埼玉大共生社会研究センター http://www.kyosei.iron.saitama-u.ac.jp/
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■小倉貞男「ドキュメントヴェトナム戦争全史」岩波現代文庫20051010
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主に解放戦線や北ベトナム側の指導者からのインタビューを中心に、第二次世界大戦後の抗仏戦争、さらに米国との戦争、75年の解放をへて中国やカンボジアとの戦争……を描いている。当時はわからなかった戦争の裏面、政策判断をじっくり書き込んである。
たとえば南の民族解放戦線と北ベトナム政府との関係は、北の指導下にあったものの、巧妙に隠していた。だが、完全に北の支配下にあった、というわけでもなかった。75年の勝利直前まで、南を独立した国にするという計画があったという。69年に亡くなったホーチミン自身がそう考えていたらしい。もしそうなれば、「南」政府は世界の多くの国と友好関係を結び、「北」との間のクッション役となり、86年のドイモイを待たずに、早くに経済発展を果たしていたかもしれない。
抗仏戦争では、旧日本軍の兵士たちが、教官役をつとめ、烏合の衆だったヴェトミンの指揮官に軍事教育を施したという。
ベトナム旅行中に読んだからなおさら臨場感を感じた。
私がビールを飲んでいるこのフエで、ベトナム戦争の帰趨を決める大規模な戦闘があり、古都が徹底的に破壊されたのだ。
クチのこのトンネルでは、16000人のうち10000人が犠牲になるという厳しい戦いをくぐり抜け、米軍を撃退した。でも周辺では今も枯れ葉剤による病気や障害が多発している。
普通の平和な街や農村の光景があるからこそ、戦争の怖さが身に迫ってくる。
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▽ヴェトミンの戦史に名高いレ・チ・ゴは、日本軍の井川省少佐である。グエン・ミン・ゴックは、井川参謀つきの青年将校だった。かれらは、ヴェトミンに参加し、作戦計画をつくり、クァンガイ陸軍士官学校を創設した。
「ヴェトナム戦争中、ハノイでは米軍機の空襲に対して、民兵が小銃や機関銃で一斉射撃していた。ジェット戦闘爆撃機に対しては意味がないということをいう人がいるが、あれは日本軍がとった全力射撃の戦法だ。空襲にたいして何も反撃しないと徹底的にやられてしまうのだ」
日本が焦土と化したとの情報で絶望的になった若い兵士ら766人が、ヴェトナムにとどまった。ヴェトミン司令部の日本人幹部によると、戦病死したもの47人、54年のジュネーブ条約後に帰国したのは150人、450人はヴェトナムで消息をたったままだという。86年、8人の日本人の元ヴェトミン指揮官がヴェトナム政府から金星勲功章を授与された。
▽ジュネーブ協定締結のあと、党は武力闘争を固く禁じていた。ゲリラの武力活動は、ゴ・ディン・ジェム政権が政治闘争を弾圧した際の自衛活動としてのみ認められていた。
南部からは「武力闘争を認めてもらいたい」との要請がホ・チ・ミン主席に届いていた。……
▽カオダイ教、カトリック、ホアハオ教なども戦闘を開始していた。ジエム政府軍に敗れたあと、ヴェトミンに入ってきた。カオダイは、仏教、儒教、道教、キリスト教を混合した独特の教義をもつ。
▽「解放戦線は、党中央によってつくられたことは事実だ。だが、戦線を樹立したエネルギーは共産党だけのものではない。解放戦線は反米ということを軸にして集まった大勢の人たちによってつくられた」
▽サイゴンの国営通信社で、サイゴン政権の最高指導者たち、政治担当記者たちの幾人かは解放戦線のエージェントだった。サイゴン政権も解放戦線の手の中にあったのだ。
▽戦略村のアイデアは、英国のゲリラ対策専門家たちが50年代、マラヤで、中国系共産主義者たちのマラヤ共産党を孤立化させるために編み出した対策を応用した。(〓グアテマラも)
▽60年代前半は、党中央は、北の主力部隊を南に送ることについては承認しなかった。
「ソ連中国からの援助も十分ではなく、ホチミン・ルートも完成していなかった。大規模な正規軍を南部に送り込むことは不可能だった。最大の敵はマラリヤだった……武装部隊は全部南の人によって組織されていた」
▽ケネディは「ベトナムから完全撤退をいったらすごい反発を受けるだろうな。しかし64年に再選されたらやるよ。65年になると、わたしは、もっとも評判の悪い大統領の1人になるだろう」と言っていた。が、暗殺される。ジョンソンは「ラオス介入拒否」「ベトナムからの撤退」というケネディ路線あkら180度転換する。
▽索敵撃滅作戦、枯れ葉剤。ジャングルが丸裸になると、自転車やトラックの跡がみえる。だが、解放戦線の主力部隊はつかまらなかった。
▽コメは「冬春米」が2月ごろを中心に、「夏秋米」は10月ごろに収穫される。
▽米国 戦争の拡大ばかりを望んでいた制服の将軍たち、コンピューターにすべての信頼をおいていた頭脳集団、ドルをつぎこむことで民主主義が確立されると確信していた。援助グループ。そのいずれもが、ヴェトナムのここをろつかむことができなかった。
▽テト攻勢 「民衆の総蜂起をねらった」とする立場と、言葉を濁す立場があった。
米軍の情報担当「テト攻勢は、アメリカは軍事的に勝利を得たが、政治的、心理的には敗北した。平定作戦は破綻し、ジョンソン大統領が不出馬を表明した」
▽テト攻勢後、ニクソンは、カンボジアやラオス領域の補給基地を徹底的にたたき、北を力によって屈服させることに重点をおいた。ベトナム領域に限定されていた戦争地域を一挙に拡大することになった。
▽「われわれはテト攻勢のために、武装勢力、政治幹部たちを地方から都市地域へ移動させた。その結果、後方基地を放置してしまった。たくさんの地方の基地が破壊され、根拠地は占拠された。兵員の補充がむずかしくなった」
▽「米軍のカンボジア・ラオス侵攻作戦は、われわれによい機会を与えてくれた。われわれはカンボジアの奥深くに武装勢力を送り込むことができるようにんり、カンボジアの革命勢力と協力して、ロンノル軍とたたかった。革命軍は、ラオス北部にも進出してラオス政府軍と戦った」
▽75年 「党政治局の論議の焦点は、米国がふたたびもどってくるかどうかだった」ウォーターゲートがあり「もどってこない」と判断した。
▽チャン・ヴァン・チャ「われわれは、中立政権を樹立し、南ヴェトナムの中立をはかれと主張した。かれらがパリ協定を遵守していれば、サイゴン総攻撃はなかったし、南北の統一はなかった。いまでもサイゴンは、国民和解の民族民主連合政府が支配していただろう」
▽中国軍ベトナム侵攻 「中国との関係でむずかしくなったのは、66年から毛沢東と劉少奇という2つの中国ができたことだった。文化大革命を支持するかどうかと迫られた。ベトナムでも、華人の紅衛兵がさわぎだした。文化大革命はベトナムにも波及してきて、苦しかった」
「72年のニクソン訪中は、停滞打撃だった。中国は米国に対して、中国を攻撃さえしなければよい、と言った。ニクソンは北爆を再開した」
「68年に、中国は、ソ連からの援助を拒否すれば、中国が全面的に援助するといってきた。断ると、援助を減らしてきた。75年に統一をなしとげたあと、軍事援助を打ち切ってきた」
「周恩来さんは、落ち着いて、賢い人だったが……」
▽クメール・ルージュが75年以降ベトナム領土を侵犯したのは、「クメールの領土を返せ」という意図があった。クメール・ヴェトミンとシアヌーク支持派はクメール・ルージュによって次々に粛清された。
▽ホーチミンのこと 「下着も自分で洗っていた。たばこ盆に名刺大のたばこの巻紙を置いて、それに単語を書いて外国語を覚えていた。演説を書くときは、まずボディガードたちに読んできかせる。かれらが理解できるとはじめて新聞に書いた」南部のサイゴンでも、ホチミンはもっとも尊敬された指導者だった。サイゴン政権が、ジュネーブ協定を無視して56年の総選挙をボイコットしたのは、ホチミンに負けることがわかったからである。
▽チャン・バン・ザウ「(75年)ハノイは、統一は当たり前、南部の社会主義にするのも当然という雰囲気だった。わたしは南北統一はまだ早いという意見だった。……当時、南には資本家もいたし、米国、かいらい政権の力も残っていた。とくに、南解放戦線を支持していた外国勢力があったことを忘れてはならない。南臨時革命政府を支持していた外国政府はその後も支持してくれていただろう(米国を除く世界のほとんどが正統政府として承認していた)。外国政府は暫定政府に援助をしてくれただろうと思う。南ベトナムの資本家、愛国人士が自由で活発な経済活動ができるようにしえたはずだ」
▽ホーチミンの遺書。「墓には石碑、銅像をたてず、丘陵の上に植樹の計画をたててほしい。日が経てば森林となり、農業にも役立つだろう。管理は古老たちにゆだねてほしい」だが実際は……遺書の通りにはならなかった。
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■佐野眞一「阿片王−満州の夜と霧」新潮社 20051020
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戦争中阿片王と呼ばれた里見甫の半生と、その周囲の人物を丹念に追う。個々人の生き様を詳細に描くことで、日中戦争が「アヘン戦争」であったという構図や、戦後にもつらなる右翼人脈の流れ、はたまた731部隊のことまで浮き彫りにしていく。
筆者は「小文字」で記すことの大切さをあちこちで説いている。この作品の場合は、登場人物たち一人一人の人生が「小文字」だ。大上段に振りかぶった「論=大文字」ではなく、小文字に徹することでリアリティを高めている。
たとえば、終戦後の京都での里見の潜伏先をつきとめるため、銀閣寺周辺を数日間かけてしらみつぶしに歩く。土地建物の不動産登記と、それより古い土地台帳を片っ端から閲覧する。昭和20年代の市街地図や電話帳にもあたっている。そうした膨大な取材が、「小文字」を生き生きと描写する材料になっている。
取材過程そのものを描くという手法は筆者が好んで使っている。またこのパターンか、と思わなくもないが、読んでいるうちに引き込まれてしまうのだから、その筆力には脱帽せざるを得ない。
主人公の里見という人間は「阿片王」というおどろおどろしいあだ名とは異なり、私腹を肥やさず、ひょうひょうとしていて、女性にはめっぽうもてた。独特のダンディズムを生涯通し、カネに執着しない人だったという。
「児玉ヨシオや笹川良一のようなチンピラではなかった」という証言が本文中に何度も出てくる。笹川や児玉のようにカネにこだわらなかったから戦後は不遇だったのだが、「ああこんな生き方っていいなあ」と思わされるほど魅力がある人物として描かれている。
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▽談合坂のアパートに住んでいた伊達という男を訪ねる場面からはじまる。里見の戦後の片腕のような人物。伊達への取材は延べ30時間あまり。
▽「昭和通商」という軍需国策会社。公的記録にはいっさい出てこない謎の会社。はじめて知ったのは「旅する巨人」を取材中、戦時中の民族学者たちの生態にふれたときだった。……辺境地域の民族を研究対象とするため、民族学は、軍事、とりわけ植民地統治の隣接領域という宿命を負っていた。「西北研究所」は、今西錦司が所長、梅棹も嘱託として入所した。中ソ国境に居住するオロチョン族やイスラム研究がさかんにおこなわれた。……。民族研究所では、全世界規模の民族研究が企図され、「民族台帳」作成まで目指された。
満州では、居住民族の指紋に関する研究がさかんだった。これが戦後の外国人指紋押捺制度導入に決定的な影響を与えた〓〓
▽アヘン戦争で、5港を強制的に開港させる。漁村にすぎなかったところが、国際都市・上海に生まれ変わるのはここからだ。上海は中国共産党の発祥の地に。魯迅、マルロー、エドガー・スノー、スメドレーらが行き交い、国際的スパイが暗躍し……黄浦江に死体が浮かばない日はないといわれた。
▽電通と聯合通信を統合して満州国通信社をつくる。言論人は「言論報道の抑圧だ」と反対したが。これを景気に、日本国内の通信統制に乗り出すことになる。電通と同盟の統合で、電通は通信とニュース事業を同盟通信社に委譲し、広告専業会社となった。戦後、同盟は共同と時事に分割された。一方電通には、元国通社員が大挙して入社した。里見は、現在の日本のメディア体制の枠組みをつくったともいえる。
▽関東軍は昭和10年、チャハルなどへの侵攻をはじめる。直接の狙いは、内蒙古地区に第二の満州というべき傀儡政権をたてるところにあったが、別の思惑も。関東軍は熱河にかわるアヘンの供給源をもとめていた。チャハルなどのアヘンが底をつくと関東軍は、ペルシャ産アヘンにまで手を伸ばすことに。
▽ハルビンの大観園 は満州最大の魔窟だった。
▽「私の知る限り、アヘンの売上金に手をつけたことはありません。そのあたりが、児玉機関のようなチンピラ集団とはまったく違う」
▽戦争末期。和平提案を里見は考えていた。日本側現職内閣の総辞職、満州国の消滅、台湾の領有問題は後刻検討、という条件を考えていた。だが、予想だにしなかったソ連の参戦もあって、和平工作は失敗に終わった。
▽「笹川と里見はまったく違う。里見は私欲のために動かなかったが、笹川は私欲で動いて財産を築いた」。
▽「『丸太』は数珠繋ぎにされ……食事は栄養のあるものを与えていたそうです。……悲鳴はきいたことがありません。死んだあとは、焼却場がありますから、そこで焼いて、骨はそのへんに山づみです」
▽満州については、万巻といってもいいほどの書物が書かれてきた。しかし、「向こう側」の世界の物語という感がぬぐえなかった。左翼史観を力点として展開される偽満州論、ノスタルジックな懐古談、残留孤児を生み出した悲惨な大地の物語。……それがいま現在と、どうつながっているかが見えにくいのはなぜだろう。……先入観や固定観念という捕虫網を使わず、満州という巨大な蝶々を、素手のなかにつかみとりたかった。誰の胸にも突き刺さる「小文字」だけで、満州を等身大に描きたかった。それを保証するのは、そこに生きた人間だけを徹底的に描きだすことである。
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