■佐野真一「響きと怒り」20051102
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「すごいよ、この人、被災者じゃないのにそのまんま気持ちが伝わっている感じがする」といわれて読んでみた。
「事件事故の現場はノンフィクションを目指す者にとって、いつも最高の習練の場だ」という。大きな事件事故現場の取材は難しい。どこからどんな角度で取材したら、自分しか見いだせない視点で描けるのか、考えても考えてもなかなか見えてこなくて途方にくれる。
たとえばアメリカの今回のハリケーンにしても、貧富の差、格差社会、繁栄のなかの貧困というありきたりのキーワードは浮かんでくるが、じゃあそれを描くためにどこから切るかというと、はたと迷ってしまう。
だれもが知っている有名な事件・事故の現場を舞台にしながら、佐野氏にしか描けない事件・事故を描いてしまうすごさ。その土台は、「今」だけではなく「歴史」という縦軸を絶えず意識していることと、徹底した現場へのこだわりにあるのだろう。
たとえば阪神大震災のルポでは、関東大震災のひと揺れが、その後の昭和テロ事件を誘発させる要因となったという歴史的な視点を提示している。
JCO事故では、専門家の次のような証言をひきだしている。
「専門家ならすごい被爆量だとすぐわかる。放医研でも、助からないだろうな、と思ったそうです。でも本人は、いつごろ退院できるんでしょうか。会社にいったら怒られるだろうなあ、と言ったそうです。彼らには自分がどれだけ危ない仕事をしていたかという自覚はなかったんでしょう。自分だったら、青い光を見た瞬間、これで死ぬとわかるし、動転したでしょうが、(彼らは)こぼしてすらいないんです」
核の怖さと、怖ささえも知らぬままに真正直に働かされ死んでいった労働者。その対比がそらおそろしかった。
なぜこんな大事な証言が新聞やテレビには出てこなかったのだろう。
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□JR事故
遺族の話、107人中80人をまわる→事故の説明→周辺住民や消防の救助活動→信楽事故
▽信楽事故後、JRには車両重量化と堅牢化を申し入れてきたが、今回の車両はSKRとほぼ同じ重さの軽量車両だった。この一事からも、JRが信楽事故から何も学んでいないことがわかる。
▽遺族同士が悩みを語り合う場をもとうとJRに名簿提供を求めたが、拒否。手紙の転送をたのんでも応じない。最後には、手紙の文面を「表現を変えたほうがよいところもあるのではないかと、ご提案さしあげた」(広報室)という形の検閲までやってのけた。「JRの冷たい態度には新たな憤りを」という文言はばっさり切られた。藤崎さんは仕方なく自分の連絡先が入ったチラシを事故現場を訪ねるひとりひとりに手渡した。
▽信楽事故の際のJRの隠蔽体質。「もらい事故」と主張しつづける。 ▽井手をほめあげる本を出版。
▽JRと対照的な対応がSKRの元社長杉森氏。TASKのあつまりには欠かさず出席していた。
□17歳連鎖殺人事件
▽少年が犯行におよび逃亡した経路を走る。祖父と父に話をきく。3代の歴史を取材する。
□雪印
▽事件を起こした大樹工場見学。町役場で酪農農家の現状レクチャーしてもらい、事件の背景に、わが国独特の乳価政策があることを知る。
補助によって規模を拡大したが、「右肩上がり」を前提にした幻想でしかなかった。実際は清涼飲料に食われて頭打ちに。その隘路を突破するために浮上したのが脱脂粉乳活用による「加工乳」「乳飲料」の開発だった。「何十年かけて品質をあげてきた自分らの生乳が、脱脂粉乳の原料になっていたのを知ったことが一番ショックだったのでは」加工乳の実態は生産者すら知らなかった。
□JCO臨界事故
▽発生時の対応。小渕首相、消防、村長、知事、学者、近所で訴訟を起こした大泉氏。
□震災
▽震災の1週間前に出会った人がつとめるAM神戸を目指す。リュックに食料や水を詰め込んで。
▽外国人の虐殺行為はなかったが、それはマスコミが、流言飛語発生の自由も与えぬほどの速度で絨毯爆撃的な報道攻勢をかけたからにすぎず、人心的には、関東大震災と同様の流言飛語がいつ発生してもおかしくない状況下にあると思った。悲劇が生まれなかったノア、これまで一度も大震災を経験してこなかったことや、関西人特有の寛容な精神とも密接な関係があるような気がした。第二の関東大震災が起きたら、悲劇はまた繰り返されるだろう、と確信に近い気持ちで考えた。
▽水族館は一つの水槽も倒壊しなかったにもかかわらず、半分以上の魚が死滅した。停電で酸素が送り込めなくなったからだ。ライフラインのすべてを他人の手にゆだねた都市生活者は、この水族館の魚と同じく、自分の意志で生きているのではなく、単に生かされているだけかもしれないと思った。
▽六麓荘はまったくの無傷。大阪の高級ホテルの料亭は、「高級避難民」たちが無事再開を祝福しあう交歓の場となっていた。
▽日本人のエネルギーはもう枯渇しかかっているのではないか。神戸は大空襲の焦土からはい上がった闇市の街である。ダイエーも山口組もそこから生まれた。……にわかづくりの屋台を廃墟の街に引き回し、抜け目なく稼ごうとする関西商人にはとうとう会えずじまいだった。
▽名谷の瓦礫の最終処分地。
▽「おじいちゃん助けて」という孫を火事から助けられなかったおじいさん。
▽AM神戸 長田のあまりの惨状に目をおおった。炎上する民家の前まで北とき、……「この燃えている家のなかに息子がいます。家がつぶれ、息子が身動きできんようになったので、梁をどけようとしたが、いくらやっても持ち上がらない。そのうち火の手が……『お父さん、僕のことはいいから、はよ、逃げて』と」。三枝はこれ以降、二度と被災者にマイクを向けようとはしなかった。
▽神戸新聞の様子 父を失った論説委員、母を亡くした社会部長
▽関東大震災で、東京の新聞が落ちぶれ、大阪の新聞だった朝日と毎日が東京で勢力をのばした。
□同時多発テロ
▽無理なスケジュールを重ねて世界を震撼させた現場まで来てよかった。それが偽りない実感だった。 個人情報を国家が一元的に管理しようとする発想は、国家と国家が対立する時代が去り、国家と個人が対峙する時代に突入しつつあることの証ではないか。
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■新木安利「松下竜一の青春」海鳥社 20051118
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松下竜一さんの文章には独特のアジというか繊細なリズムがある。その雰囲気を残しながら、第3者が伝記を描くことなんかできるのかなあ、と疑問に思っていたが、読んでみたら想像以上におもしろかった。
著者があまり表にしゃしゃりでず、松下さんの文章をふんだんに引用して、松下さんの一生をつかめるよう再構成しているからだろう。
体が弱くて、高校で一番の成績だったのに大学進学を断念し、大学に進学した同級生へのコンプレクスにさいなまれながら豆腐屋を営む。絶望的な日々に射した一条の光が、「三原の奥さん」との出会いだった。後に妻になる洋子さんの母親だった。松下さんは愛した人の娘と結婚することになったのだった。
弱くてやさしくて繊細な松下さんは、その弱さと繊細さを持ったまま、火力発電所反対運動や死刑廃止運動などに邁進する。時に激烈な闘士となるが、すぐに弱気が顔をだし、また気持ちを奮い立たせ……、また落ち込んで妻や仲間たちと愚痴を言い合う。そういう情けない部分まで赤裸々につづったからこそ、月1回発行していた「草の根通信」は熱烈なファンを獲得できたのだろう。
自分の弱みを赤裸々に描くことがどれだけ難しいことか。自分の弱さを真摯に見つめるからこそ、他人の痛みを感じられたのだろうなあ、と思った。
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▽受験勉強をしていた。大学に行って作家になるのが夢だったが、母の死去によって豆腐屋をつぐことに。絶望感、みじめさ。大学に進学した同級生へのコンプレクス。
▽妻になる洋子さんの母「三原の奥さん」ツル子さん。三原の奥さん(36歳)は洋子さん(14歳)のひどく内気な性格を気に病んで松下さん(25歳)に相談したのだった。「洋子ちゃんは母親に似て美しい娘になるだろう。……今から5年、そのことをひそかに胸に秘めて、待っていようか。……なんにもいらない。私を愛してくれる人さえいれば」
▽「洋子ちゃんと結婚して、洋子ちゃんをしあわせにすることで、あなたをしあわせにする」「……わたしはどこまでいっても、あなたの”心の妻”でしかないんよ。あなたに抱かれることって、できないんよ」
▽「あんたと母ちゃんが好き合ってるのは、早くから知っていたわ。……」
▽「人は他人の痛みをどこまで分け合うことができるのか? これまでの私は、…ただ自分の家庭を守り…だけで精いっぱいだった。そんな私を、多くの読者は模範青年のようにほめてくださった。何が模範青年だ! 今の私は、恥ずかしくてならない。おろおろしつつ、私は今日も署名を頼んで廻った」
▽冤罪事件にかかわるため、体力的にも限界だった豆腐屋を廃業する。仁保事件の真相を聞く会を開き……
▽石川啄木:街を歩いていると、他の人はみんな仕事をしており、……友達が皆自分より偉く見える。 松下さんの生活も似ている。「訪ねて来る友もない。自分から訪ねて行ける友もない。寂しさと無為に耐えかねて歩いてみたが、…孤りのあゆみは次第にうなだれてしまう。…そんなむなしさに、そんな役立たずであることに、耐え抜いた果てに、ひょっとして私は「作家」になれるのではないかと……祈りのように先を先を見つめている」
▽「あなたの日々がむなしいのは、あなたが自分だけの殻に閉じこもって、真に他人との連帯を忘れているからではないでしょうか。人との連帯を信じ、他人の歓びを歓びとし、他人の痛みを痛みと感ずるとき、日々のむなしさを嘆く余裕など、けし飛んでしまうでしょう」
▽(昔のやさしい豆腐屋の世界にもどりなさい、という手紙が届く)「豆腐屋の四季」から3年を経て、……今やっと社会に対して声をあげ行動に立ち上がった私が、にわかにやさしさを喪った人間として見え始めたらしい。やさしいということを誤解すまい。闘うやさしさのあることは、あの臼杵風成の主婦たちを見ればわかる。彼女たちは機動隊と渡り合って闘ったが、心やさしい涙もろい母たちなのだ。やさしい母なればこそ、子らの未来を思って必死に闘ったのである。
▽おのがことをあからさまに書いてこそ文学と心得てきている三文文士松下センセは、隠さねばならぬことを思いつきもいなかった。人と人がつながっていくきずなは……、丸ごとの人間を知ってのことでしかないだろう。
▽「砦に拠る」の室原知幸 法律、地質、気象、ダム工学……という勉強に60歳を超えた老人が挑んだ。 −−いつ書斎を出てきたのか、放心したように知幸が立っていた。「おとうさん、どげえしましたと」……「おれには誰も教えちくるるもんがおらん」それだけつぶやくと又影のように奥座敷へと戻って行った。
−−わしの訴訟ことごとく散華して果てたたい。蜂の巣城も攻め落とされ、ダムは現実に造られたとじゃ。ばってん、わしが主張したことは正確に法廷記録に書きとどめられたのじゃ。……わかるか。お若いの。まだまだ日本の人民は敗け続けるたい。ばってんその敗北の累積の中に刻みつけていったものが、いつか必ず芽を吹くとじゃ」
▽強靱な意志を、強靱な意志を。小山のような機械と対峙して、なお揺るがぬほどの屹立した意志力を。 「しょせんかなわぬ強大な相手だとしても、だから無益な阻止行動をしないということと、それでも行動するということは、決定的に違うはずである。おのれの意志を枉げるか枉げないかという人間の尊厳に関わることである」
▽逮捕された梶原さん。住金を退職。2年間失業。魚の行商、鮮魚店。
▽「そのやさしさの溢れた小世界に、ある日巨大な支配勢力が侵入してきた時、そのやさしさゆえに抵抗精神は萎え果てる。……やさしさがやさしさゆえに権力からつけこまれるのではなく、やさしさがそのやさしさのままに強靱な抵抗力となりえぬのか。せつないまでに私が考え続けている命題である」 欲望を刺激されると、素朴な田舎者もたちまちのうちに欲の塊となり、利権に群がる。そんな利益誘導に反対して立ち上がると、庶民からかえって突き上げられる。権力はそこまで利用する。やさしさというものは、権力に常につけ込まれてきた。
▽伊藤ルイさんの死刑反対の理由。「私が犯人を殺すか、殺さないかということは、国家の刑罰とはまったく無縁の、私的心情である。死刑制度とは、この私的決定の域に踏み込んでくるものであり、国があなたにかわって殺してやります、という恩義の押し売りである」
▽松下さんの年収はほぼ200万円前後だった。年に1冊1600円の本を5000冊出版して、印税は80万円である。
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■佐々木譲「冒険者カストロ」集英社文庫 1051201
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人気のあるゲバラではなく「冒険者」としてのカストロを描く。
裕福な家に育ち、大学で政治にめざめる。モンカダ兵営襲撃に失敗し、片腕のアベル・サンタマリアも含めて多くの同志を失い逮捕されるが、その法廷をも自らの信条をアピールする場として利用してしまう。刑務所では学校を設立し、法や哲学を勉強する場をつくる。
メキシコに亡命し、グランマ号で逆上陸した直後に戦闘で大敗北を喫し生き残ったのは86人のうち16人だけ。フィデルはたった3人で山をさまようことに。それでもラウルと再会を果たした山中で、「ライフルは何挺ある」「5挺だ」「こっちは2挺だ。全部で7挺になった。われわれは、戦いに勝ったぞ」という楽天性というか脳天気さだ。
32歳で革命を成功させ、最初は共産主義者のそぶりもみせずにアメリカをだまし、社会主義革命を開始してアメリカと反目するようになると、ソ連を利用して互角にわたりあって守った。楽天性とたぐいまれなしたたかさを描いている。
フィデルにしてもゲバラにしても、おぼっちゃま出身だ。やはり金持ちのボンボンのほうが、生活の厳しさを知らないぶん冒険に踏み切れるんだな。
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▽1994年「ぱり・まっち」誌のインタビュー「わたしは地獄に落ち、そこでマルクスやエンゲルスやレーニンと出会うだろう。地獄の熱さなど、実現することのない理想を持ち続けた苦痛に較べれば何でもない」
▽34年、グラウ政権の過激な社会改革を見すごすごとができないアメリカは、軍事介入のおどしをかけ、バティスタの軍によってグラウを地方、バティスタ傀儡大統領をつける。1940年の選挙には、バティスタの支持母体は、軍隊、保守政党、共産党の連合だった。コミンテルンの指示によるもの。共産党はバティスタ支持と引き換えに合法政党の地位を手に入れた。44年にバティスタは大統領をやめるが、その後も実質的に支配する。
▽大学 過激な政党や共産党とも距離をとった。無党派で大学自治組織で活動しようとした。フィデルの売り物は、スピーチ。党派抗争にまきこまれ、暗殺の危機に。逃げたら政治生命はおしまいだ。そこで、ドミニカ解放義勇軍参加を決意。それが行けなくなり、コロンビアの内戦にでくわす。群衆に身を投じて、リーダーに。キューバに送還。凱旋。
▽弁護士になる。下院議員をめざそうとした。
▽モンカダ兵営襲撃。失敗し、多くは殺される。片腕だったアベル・サンタマリアも。病院をおそった部隊は患者の密告によって1人を残して20人が殺された。
ほかの捕虜も殺される。軍の大佐は「捕虜はいない」という。いない、ということは殺す、ということだ。捕虜の存在を目撃していた記者が「ふたりいます。ひとりは白人、もうひとりは混血の若い女性」と指摘すると「女性捕虜はいない」。質問することによって、2人の捕虜がいるという事実がインプットされた。裁判抜きで処刑することはできなくなった。虐殺現場の写真を撮影。世論に訴えた(ジャーナリズムが生きていたころ)
▽チャビアノ大佐がフィデルを尋問。「わたしはすでに死んだことになっている。大佐がわたしを殺していないことを証明するため、わたしがラジオに出たらどうだろう。わたしは自分の罪状を全面的に認めるが」。それを大佐は承認して、宣伝の機会を得た。
▽裁判で、フィデルは、被告と弁護士の1人2役を演じることを判事に認めさせる法廷が演説の場に。
▽ピーノス島の刑務所では、さっそく学校を設立する。「獄中で豊かな経験を得れば、釈放されたあとに闘いをつづけるうえで役立つ」。同志たちは自分の蔵書を家族に送らせ、500冊の本が集まった。
▽亡命前 共産党が反バティスタのシンボルになってもらうため、国内にとどまるよう説得した。共産党の「共同戦線」の提案にたいしてフィデルは「ノーだ。あんたがたの大衆運動は、どこまでいっても敵との正面対決を回避する運動でしかない」
▽アルベンス政権のグアテマラ。ゲバラ。54年、傭兵部隊が国境を越えて侵入し、グアテマラ軍はすぐに敗走する。首都では右翼による粛清が開始される。右翼の処刑リストにのっていたゲバラはアルゼンチン大使館に逃げ込む。
▽メキシコで訓練。スペイン市民戦争をたたかった男が訓練をほどこす。
▽ニューヨークタイムズの記者を山中に呼ぶ。自分たちの部隊規模を実際の数倍であるかのごとく演出する。会見のさなかにひっきりなしに報告が届き、そのたびに短く指示を出す。報告にきた隊員はすぐまた前線にもどってゆく(と見せた)。
▽おれは、ヤンキー帝国主義同様、ソビエト帝国主義も憎んでいるんだ。あっちの独裁の手に落ちるために、こっちの独裁と首を賭けて戦っているわけじゃない」(1958)
▽ハバナ入城。共産党幹部と合同問題を話し合う。ゲバラは過激なマルクス・レーニン主義者、シエンフエーゴスもゲリラ戦のさなかに共産主義者となっていた。バルデスは、ソ連の熱烈な賛美者だった。ラウルは大学時代からの共産党員。繰り返された会議の結果、共産党はフィデルの指導下に組み入れられることが決まった。が、これはアメリカの介入を防ぐため内密にされた。
▽アメリカはベネズエラに続いて世界で2番目に新キューバ政府を承認した。が、フィデルが共産主義者かどうか、見きわめがつかなかった。革命から2カ月、アメリカ資産の接収も、資産や土地の国有化も実施されていない。……フィデルはアメリカを訪問し「ファシズムや共産主義やあるいはほかのいかなる独裁制にもけっして機会を与えない」「外国人が所有する私有財産を没収しない」などと演説した。が、まもなく農地改革をはじめる。1960年には共産主義であることが明らかになる。アメリカはキューバと断交。
▽(クレムリンは)フィデルをどう失脚させるかを話し合っていた。フィデルの目には、ソ連共産党とキューバ共産党は、革命を横領しようとしているように映った。テレビで、革命の成果を乗っ取ろうとする共産主義者を激しく攻撃した。
▽次第に一党独裁に。文化や芸術もすべて革命に奉仕することが義務づけられる。リベラルな文学雑誌も、あいついで廃刊となった。61年に「わたしはマルクス・レーニン主義者である」と宣言した。
▽ケネディの「マングース作戦」。このころ3000人規模にふくれあがった反フィデルのゲリラ部隊があって、キューバ軍や民兵部隊を悩ませていた。……ミサイル基地建設の情報が流れる。キューバにはからず米ソの交渉でミサイル撤去は決まる。フルシチョフの望みは、トルコに配備された核ミサイルの撤去だった。
U2撃墜。米国の閣僚たちはキューバ空襲を求める声が圧倒的だった。しかしケネディがそれをおさえた。
▽二枚舌のフルシチョフに怒るを感じながらも、フィデルは背信行為を利用しつくそうとする。より大きな経済援助を受け入れさせた。砂糖を国際価格より高い値で買い続ける契約を結ぶなど……。結果的に、ソ連依存度はいよいよ強まる。このソ連傾斜に対して公然と異を唱えたのがゲバラだった。ソ連の外交政策や欺瞞性を公然とこきおろした。65年初頭の段階では、政権のなかで完全に浮いてしまっていた。
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