2006年1月

■森達也「放送禁止歌」知恵の森文庫 20051230

 「放送禁止歌」というと、キヨシロウのパンク調「君が代」とかをイメージしてたけど、実は天皇制関連の「放送禁止」は岡林の「ヘライデ」くらいだという。
 え? この歌も? という歌ばかりがでてくる。
  「土方」という言葉あったために放送されなくなった「ヨイトマケの唄」、「びっこの子犬」、渡辺はま子の「支那の夜」「金太の大冒険」「時には娼婦のように」……どれもささいな用語の問題で放送されなくなった。「網走番外地」は犯罪を肯定してるから、だそうな。
 規制はしだいに過去のものまでさかのぼる。「五木の子守歌」「竹田の子守歌」は被差別部落を歌ったものとして禁止の烙印を押される。ちなみに「びっこ」とか「きちがい」といった言葉が頻出する古典落語の多くは放送できなくなってる。
 だがよくよく調べると、「放送禁止歌」などは存在せず、「要注意歌謡曲」にすぎなかった。「これを参考に、放送するときは気をつけね」程度のガイドラインのはずが、いつのまにか現場の人々は「禁止」と思いこみ、信じこんでしまった。
 部落解放同盟がうるさいから、という理由で放送されなくなったとされていた歌について、当の解放同盟に尋ねたら、むしろしっかりと歌ってほしい、という。
 コワイから、めんどうをおこしたくないから、と表現はどんどん萎縮し、コワイものから遠ざかっていく。それによって差別を潜在化させ深化させてしまう。
 まず自分の目で見よう、確かめよう、考えよう、表現しよう。そんな当たり前の呼びかけをするのでさえ、勇気が必要な今のマスコミの状況ってなんだろう?


 ▽なぎらけんいち「悲惨な戦い」 相撲を揶揄した。クレームが実際につく前に、やばそうだから蓋をしてしまおう、という感覚だった。
 ▽「どうしても『手紙』を放送したいと思うのなら、議論を挑んでくればいい。規制はマニュアルではありません」「そんな制作者はいましたか」「おりません。異論を唱えるという発想すら持っていない。ゆゆしき問題です」
 ▽長谷川きよしが歌った「心中日本」はタイトルが暗すぎるとの理由で発売禁止の措置を受け、結局「ノ」という送りがなを小さく刷り込んで「心ノ中ノ日本」として発売した。
 ▽アメリカの言葉言い替え PC(politically correct)運動  あらゆる差別的表現を政治的に正しく言い替える運動。「視覚的にチャレンジされている人」(optically challenged)「知的にチャレンジされている人」「異なった能力をもつ人」……いきすぎたPC、90年代に入ると少しずつ淘汰される傾向にある。
 ▽デーブ「偏見や妄想は知らない人に生まれる。僕は実際に部落内を歩いたし、話もした。メディアに携わる人なら、だれもが自発的にやるべき行為だと僕は思う」
 ▽「確かに糾弾はあった。……メディアは誰一人として糾弾には反駁せえへんのよ。みんなあっさり謝ってしまうんですよ。

■西川祐子「借家と持ち家の文学史」 三省堂 20050124

 「江戸川乱歩シリーズ」と吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」を読んだとき、まったくジャンルの異なる作品なのに、どこか似ているなあと思った。太宰治と島崎藤村、あるいは志賀直哉の描く「家」にも同じにおいがした。この本を読んでその理由がわかったような気がした。
 明治から現代までの膨大な量の小説をみずみずしい感性で解釈し、無数の小説を住まいと家族をめぐる大河ドラマのように構成しなおしている。それによって、時代時代の「家」のあり方が、文学・小説のありかたを規定してきたことを明らかにしていく。
 戦前の「私小説」は封建的大家族「家」からの離脱をはかり、都会にでて新しい形の「家族」をつくっていく物語だという。
 「家庭」と「家」の二重構造は、封建的な「家」の没落とともに、しだいに「家庭」に比重がかたむく。都市の家庭家族は、大きな「家」家族とのつながりを失っていく。「火垂るの墓」は、空襲で両親を失った兄妹が、「家」の庇護を求めることもできないままに死んでいくストーリーだと分析し、 「『家庭』家族の住んでいた家が焼けてみれば、信じられないほど狭い敷地しか残らないように、一代で築く家庭の基盤は小さくて弱い。壊れたときに真っ先に死ぬのは子どもたちである」と筆者は記す。
 藤村の故郷の家は囲炉裏をもつ家だった。生産活動をする土間をもち、大家族が暮らした。食事は囲炉裏を囲んで足つきの膳で食べた。
 関東大震災を境にして都会では台所と居間が同じ高さの「土間のない家」「茶の間のある家」が生まれる。家族はちゃぶ台を囲んだ。その多くは借家だったから、家をうつるごとに新たな物語がはじまる。だから比較的短編の、あるいはオムニバス形式の文学が生まれたという。
 ここまでの家は、家長の目が家の隅々まで届いていた。筆者はこれを「家族の家の時代」と呼ぶ。
 次に訪れるのは「部屋の時代」である。
 戦後、公団住宅が生まれ「持ち家」を求めるようになる。75年にはnLDKという間取りが生まれ、翌年にはワンルームも登場する。
 nLDKの家は壁によって仕切られ、「家長」の目は全体にとどかない。nLDKのnは、家族の数マイナス1だという。「マイナス1」とは仕事にでて家に存在感のない「父」である。
 家から家族が析出される「家族の家の時代」が近代であり、家族のなかから個人が析出される「部屋の時代」が現代だという。明治以来暗いイメージをもっていた「部屋」という言葉が、「明るい部屋」などと形容されるようになるのも、「部屋の時代」の特徴だという。
 ちなみに「部屋の時代」につづくのは「離合集散の時代」だと筆者は予想している。  

 
 ▽戦前の農村の、大きな家ではなく、小さな家とその住民をさがすのは難しい。作家の大部分は大きな家の出身だ。小さな家の出身者が対等な言葉でみずからを語るにいたるのは、戦後教育以後である。(格差社会〓) 宮本百合子は、東京から遊びに来た地主の孫娘の視点から、貧しい農家の生活を描く。
 ▽樋口一葉「大つごもり」横山源之助は一葉を訪ねる。〓「下層社会探訪集」(現代教養文庫)「明治富豪史」。横山は樋口の死後、彼女の「大つごもり」を何度も読み返したにちがいない。「日本の下層社会」には都市極貧者の住居と家族構成が分析されている。@「大つごもり」の裏長屋……の様子に通ずる。
 ▽農村から都市へ出た人々は、最初は同郷のよしみを頼って、大きな家に下男下女として住み込んだ。だがしだいに、口入れ屋を頼って職業につくようになる。もっとも多いのは人力車の車夫であった。(ベトナムの光景、アジアの光景〓)
 明治の東京の人口と人力車の台数の割合を算出して比較したところ、ダッカの人口とリキシャ台数の割合に一致する。ダッカにはまた学生が多い。卒業しても学歴をいかせる仕事がないのが社会問題という。明治の東京に出てきた6万の車夫と6万の学生もまた、当時の社会問題だったにちがいない。だからこそ、樋口一葉はたびたび小説に車夫を登場させ、坪内逍遙は学生すなわち書生風俗を描いたのだった。
 ▽「いろり端の家」では、1人1人が足つきの膳で食事をしていた。啄木の東京の借家は「お茶の間のある家」になっており、食事は丸いちゃぶ台であったろう。
 ▽土間に下りるのではなく、茶の間、座敷と同じ高さの板敷きになった台所は関東大震災の後に普及し地方に及んだ。
 ▽太宰治「東京八景」〓 東京生活10年を書こうとしたが、書けない。書けないということを書いた、小説とも随筆ともつかない文章が残った。
 ▽「家」をでて「家族」を築く男の物語である私小説では、家族あわせのカードがそろえばもう書くべきことがなくなる。志賀直哉の後半生がその例である。
 ▽(火垂るの墓)「家庭」が集まってできる社会では、その子の親だけが子どもに責任をもつ原則だから、他の親は他の子に手をさしのべない。戦時中の隣組は、焼け出されたときには残された子どもを助ける相互扶助組織とはならなかった。「家庭」と「家」の二重構造はこのころすでに「家庭」のほうに比重がかたむいており、都市や植民の家庭家族のなかには、大きな「家」家族とのつながりを失い、家制度に保護をもとめることができない場合があった。「家庭」家族の住んでいた家が焼けてみれば、信じられないほど狭い敷地しか残らないように、一代で築く家庭の基盤は小さくて弱い。壊れたときに真っ先に死ぬのは子どもたちである。
 ▽1975年には公団住宅にたいして、遠い、高い、狭いという声があがり、はじめて空き家現象が生じた。この年、3dkのつぎに3LDK設計が売り出された。翌年、ワンルームマンションが出現。完成したnLDK設計から子ども部屋や書斎が遊離する現象がはじまる。
 ▽初期のリカちゃんハウスが、くみ取り式便所のある家が大部分であった現実とはかけ離れた、様式の夢の家であったのにたいし、高度成長以後、夢がげんじつに追いついてハングリー時代が終わると、リカちゃんハウスはしだいにリアリズムになるという説明にはびっくり。
 ▽テレビドラマが夢ではなく細かな現実を描く方向に転換する時期はおそらく、リカちゃんハウスが本物そっくりのレアリスムにかわる時期に一致する。
 ▽「サイゴンから来た妻と娘」「バンコクの妻と娘」「パリへ行った妻と娘」〓 ベトナム人の妻は、サイゴン文化を東京のマンションにもちこみ、部屋でウサギを飼い、お風呂にライギョをおよがせる。近藤は67から69年まで先妻とパリに留学。結婚したばかりの女性はパリで鬱病を発して帰国、亡くなった。……妻の連れ子だった娘はパリの学校へ行く。パリでアパルトマンを買ってしまった妻は、金送れと東京へ電報をうち、夫は借金をして送る。近藤紘一はまもなく死ぬ。
 ▽荒井まり子「未決囚11年の青春」 逮捕のとき24歳の東北医療技術短大生だった荒井は、刑期を終え、36歳になって出獄した。その間、獄中結婚した相手に書き送った手紙が、この本のもとになっている。(〓重信はどうしてる?)
 ▽多くのワンルームはまだnLDKのリビングがある実家と仕送りや電話でつながっており、かつて「家」「家庭」の二重家族制度が成立していたころと同じく、現在では「家庭」「部屋」の新二重家族制度が維持されている。しかし、空中遊泳中の子ども部屋が、本当に親から自分を切り離したとき、部屋はどこへ行くのだろう。……結合して「家庭」制度を再生産するのだろうか。……「部屋の時代」から、「離合集散」の時代へ。
 ▽宇野千代 生涯に何軒もの家をたて、何度もでていく。住み捨てた家がつぎつぎと残る。
 ▽野間宏「真空地帯」〓 兵舎。細分化された序列が抑圧を上から下へ順送りし、嫉妬深い相互監視が左右にはりめぐらされる組織を内部から描く。
 ▽上野英信「出ニッポン記」〓 ブラジル移民。渡航後十数年をへた人たちがいまだに流浪生活を送っている。「追われゆく坑夫たち」のヤマを追われ、移民になった労働者家族の十数年後の生活に取材したもの。ルポの仕事では、対象となった人々の「その後」の追跡が大切である。……「サンパウロ新聞」は、日本政府の政策を非難し、生活苦に追われる移民の苦難を報道しつづけたという。「頼む家長に死なれ」「路頭に迷う妻と6人の子ら」……上野もサンパウロ新聞も「家族構成」「家長」という言葉を繰り返しつかう。上野の同志は、倒れて死ぬまで雄々しく働いた家長たちであって、後にけなげな妻や子どもたちがつづく。……森崎和江が書いた「まっくら」など、炭鉱の女達の記録の意味が重要に思える。〓「ぶらじる丸」はしばらくは観光用に鳥羽港につながれていたが、いよいよ解体されるため、中国へ「最後の航海」に出発したという(96年)。
 ▽池澤夏樹「夏の朝の成層圏」〓 マグロ漁船取材中の新聞記者が、漂流し、小さな無人島で75日をすごす。
 ▽借家小説は、生活の拠点が転々とかわるたびにその生活を描く短編が生まれた。「いろり端のある家」は、座敷の建具をはずすとひとつづきの空間になった。「茶の間のある家」は、夫婦と子どもの3人が茶の間と居間を使用した。どちらも、家長の視線は家の隅々にまでいきとどく。住まいの内部空間と家族を統括し、絶えず目配りする家長の視点から描かれた小説群があった。
 ▽「書いたことが書いたように想起され、書かなかったことはすっかり失われた」
 ▽私小説は、基本的に男性作家によって書かれた家つくり小説であった。「家」制度の父と対抗して近代家族を率いる新しいタイプの家長が、父と和解し、新しい家長となる長い物語である。〓
 ▽ワンルームという新しい空間モデルの誕生は1976年であるが、「私の部屋」「美しい部屋」などという名前の室内装飾の雑誌が売り出されるのは1980年代だ。このころになると、「部屋」という語にあった暗いイメージは一掃される。小説のなかで「にぎやかな部屋」といった「部屋」に肯定的な形容詞のつく題名の小説が増えていく。

香山リカ「いまどきの常識」岩波新書 20050127

 お金は大事、勝ち組になりたい、国を愛するのは当たり前、平和とか理想とか平等はきれいごと……。そんな身も蓋もない考え方が「常識」になってきている。
 「金のためだけに生きるのはちょっと……」というやせ我慢は少し前までは「常識」だった。「平和」は無前提に価値のあるものだった。「国を愛する」ことを押しつけるのはちょっとやばいことのはずだった。弱者は助ける、というのが少なくとも良識だった。
 それらが、総崩れになっている。なぜなのか。現在主流の「常識」が「常識」になってしまったのか。専門の心理学を駆使して病理を分析し、皮肉をきかせながら軽妙につづる。
 一方、「平和が大事なのはあたりまえ」という形で思考停止しているグループのあり方にも疑問を呈している。
 「プチナショナリズム」ほどの存在感を感じる本ではなかったが、筆者らしい切り口が心地よい。


  ▽「かわいそうなのは、私」こうした感性がいま広がりつつあるのではないか。「私」は「私たち日本人」と置き換えられることもある。私の苦しみはいくらでも語れる。それなのに、「ほかの人たちの苦しみもまた理解すること」への通路を開かない。それどころか、自分の苦しみを聞いてもらったり解決してもらったりすることが、もしかするとほかの人たちに対して別の苦しみを生んでいるのではないか、ということにさえ気づかない。
 ▽現実には従うしかない 現実がそうなっているのだから、建前(憲法)をかえろ。イラクでも、「米国実際に戦争をはじめたからには、、それを支持するしかないじゃないか」、自衛隊派遣も派遣直前までさわいでいたのに、出発後は「とにかく無事を祈る」にかわった。
 ▽ゆっくりしたい 「ゆっくりしたくて仕事やめたのに、家では親がうるさいから、ちっともゆっくりできない」……自分が周りにやさしく受け入れてもらっている状態、それが彼らの言う”ゆっくり”なのだ。
 ▽いつのまにか、少年犯罪やキレる子どもの原因は「親が手作り料理を作らないこと」に特定されてしまっている。「手作り料理」さえ出せば犯罪が減少するなどという説には、まったく根拠はないはずだ。「ゆとり教育」についても同様だ。不登校や拒食症の子らを見ていると、心にゆとりのないケースばかりが目立つ。最低限の自己肯定感が欠けている子が多いのだ。その自己肯定感の低下は「詰め込み教育」に戻すことで回復するとは思えない。
 ▽「それは自己責任」と言うことで得をする人は、すでに権力や財力を持っている人たちだ。だが最近は「得をしてない人たち」までが「自己責任だ」と他人を攻撃するようになった。問題を社会的次元から個人的次元に矮小化すれば、「現実を見据えて深く考える」のやっかいさや恐ろしさに向き合わなくてすむ。自分とほとんど変わらない立場の人の失敗や困惑を「それはあんたの自己責任だろう」と激しく責めて窮地に追い込むことで、「私はこうではない」ととりあえずは自分の身の安全を確保できるという「効果」がある。
 ▽尾崎豊の評価は大学生のなかで下がる一方。
 ▽サブリミナル仮説 仮説の提唱者自身が実験そのものに問題があったと発表した。
 ▽2004年、長崎と兵庫でそれぞれ3000人以上の小中学生に「生と死」について調査。長崎では「死んだ人が生き返ると思いますか」の問いに「はい」が中学2年で18.5%に及んだ。
 ▽国粋主義的なスピーチをした後輩に、話しかける機会を逸してしまった。相手があまりに堂々と一方的な主張をすると、言われたほうは「そうじゃない」と思ってもどうやって伝えてよいかわからず、つい黙ってしまうことがある。そうすると相手は当然、自説が受け入れられたと確信を強めることになる。
 ▽「不審なアジア系外国人を見かけたらすぐ110番」といった防犯チラシをよく見かけるようになった。文京区菊坂町には「犯罪は、見てるぞ、撮ってるぞ、知らせるぞ」の日本語に中国語の訳がついたチラシがあちこちに掲示されていた〓。海外で「日本人風アジア人を見かけたら通報を」というチラシを見かけたらどんな思いがするか、そうした想像力のかけらも感じられない。
 ▽公開討論会で「平和」と口にした瞬間、空気が一瞬「凍りついた」。それ以降は何を発言しても「あなたは平和主義者だから」と議論に参加さえさせてもらえない雰囲気になった。ほかにも「反戦」「理想」「人権」「平等」といったことば同じ効果を引き起こすことがわかってきた。
 ▽「平和」ということばに拒絶反応を示す人は、「平和を愛する気持ちは当然、ある。ただ、平和のためには戦わなければならないこともあるのに、黙っていても平和が維持できるだろう、という姿勢がイヤなんだ」
 ▽「現実」主義者は「世界の流れに乗り遅れるな」をモットーにするが、とくに歴史認識や戦後処理の問題を巡っては、日本は東アジアのなかで孤立しつつある、という「現実」は見ようとしない。「反日感情を持ってるのは一部の人だけ」「日本に植民地化されたことを感謝している国もある」といった主張がいかに”現実離れ”したものであるかを専門家がいくら説明しても取り合おうとしない。