2006年2月

■近藤紘一「サイゴンから来た妻と娘」文春文庫20060208

  記憶にまちがいがなければ、この本はテレビドラマになり、主人公は石立鉄男が出ていた。娘に「お母さんと私とどっちが大切か」ときかれ、「それはママだよ。次がほんの少しの差でユンだな。でも一番目と二番目はほとんど同じだ。三番目以下は皆クズだ」と語る場面があった。
 妻や娘に向けるやさしくあたたかい目は、ベトナムという国、そこに住む人々にも向けられる。全面的に一方を断罪するのではなく、かといって客観性という鎧をまとっているわけでもない。
 たとえば難民問題を見るとき、解放戦争を支持した側は「金持ちがでてきている。経済難民だ」と言っていた。逆に共産主義の脅威をあおった側は「それみろ共産主義には自由がない」と言った。
 私自身も、似たような状況の場面で、両者のはざまで迷った覚えがある。
 著者はそんななかを、左にも右にも落ちないように、綱渡りをするかのように観察し、暮らし、没入していく。
 1人1人の人間に視点をあて、妻と娘の一挙手一投足をおもしろおかしく描きながら、家族だけでなくベトナムの人々を愛情あふれた視点で見つめている。
 そんな目で、「北」も「南」も「難民」も見る。政治体制にかかわらず、ベトナム文化の基層にある歴史や文化、性癖などに限りない愛着を寄せる。スローガンではなく、一人ひとりの人間の暮らしを通して、全体を俯瞰していく。だからこそ時代を超えて読み継がれていくのだろう。
 文章の技術もすごい。ああ、こんな表現ができるんだ、と何度も感心する。
 たとえば妻の食いしん坊ぶりの話からベトナムの歴史へと切り替える展開力にも目を奪われるのだ。


 ▽なんでもこの国で生きていくための金科玉条は、腹を立てても得にならないとわかっているときは、絶対に腹を立てないことなのだ、という。 ……彼女は私を自分の部屋に連れ込み、 「ここならなんとか住めるでしょう」  といった。
 でもここはあんたの部屋じゃないのか、と念を押すと、 「そうよ。いっしょに住めばいいじない」  ケロリとした顔だった。
 ▽前の夫「オレと彼女は生まれも育ちも違った。……実にいい女房だったんだ。でもしょうがいないよな。浮気は、ベトナム男の甲斐性だもの」
 ▽日本に移り住むに当たって、彼女が私に要求した条件も、年に一度、墓参りに帰国させろ、ということだった。それも物理的に不可能になった。そこで、彼女は浅草の観音様を「私のお寺」に選んだ。亡母が夢枕に現れはじめると、私に救いを求める。 「アシタアサクサイコウナ」
 ▽妻も最初の二、三日、早起きにつき合っただけだった。あとはもう「子供のために早起きする親があるものか。そんなの話が逆だ」といっさいかまおうとしない。
 ▽ベトナムではしつけの悪さはなによりも親の恥なのだ。メンツを失いたくないから、子供が泣き出しそうな気配を見てとると先手を打って張り飛ばす。びっくりして泣きだしたら、また2,3発張り飛ばす。何回かくり返せば、しまいには子供の方があきれ、次からは泣きべそをかきたくても我慢するようになる。……だから母親には文句なしの絶対服従である。
 ▽国境を接する北部の人々の反中国感情はあっけにとられるほど強い。南ベトナムは、北部人ほどは中国人に含みを持っていないようだ。……チョロンという中国人街がある。旧チュー政権のもとではここの旦那衆が国の経済の大半を思いのままにあやつっていた。……のんきな南部人は、商才、蓄財にかけては、中国人にはかなわない、と勝負を投げている感じもあった。
 ただ、趣味や物腰が洗練されていることを尊ぶ気性が強い。とくに女性の目からみると、チョロンの中国人たちは服装の趣味も行儀悪く、デリカシーに欠け、手のつけられない田舎者に見えるらしかった。
 ▽ごはんを2杯も3杯もたいらげる。美食。南ベトナム政府軍、戦利品のニワトリや豚。さわぎはじめて危険なのに「いま殺したら、陣地に帰って料理するまでに味が落ちてしまう」と必ず反対するものがでる。
 ▽ライギョを買う。大通りで派手にのたうち回って大騒ぎに。たたき殺そうとすると、「ダメ! 味が落ちる!」妻は金切り声をあげた。
 ▽相当な金持ちでも、ロースを買わず、ガラまがいの骨付きのくず肉を買う。骨付きの方が味がいいからだという。味さえよければ、どんな庶民街の大衆食堂にでも、閣僚が家族づれでやってくる。
 ▽ニシキヘビを家で飼う妻。……家でウサギを2匹飼う。家族のように扱う。いたずらをするウサギを怒鳴り「こんど馬鹿なまねをしたら皮をはいで、アブって食べてしまうよ」と言い渡した。しかし、数日してまたやった。……テラスは血の海だった。物干しには、けさまでナンバー2だったものの本体がぶら下がり、その下に切り取られた頭や足の先や、裏返しになった毛皮が散乱している。
 いま、3匹目のウサギがいる。妻は例によって、すっかり彼の味方だ。私が尻尾を引っぱったり、耳をつかんで持ち上げたりすると、本気で腹を立てる。そのくせ、自分は相手の背中を優しく撫でながら 「お前、そろそろおいしそうになってきたねえ」などと話しかけている。
 お釈迦様を敬い、輪廻転生を自明のことわりとして受けとめる以上、彼女はこんごも動物を自らと等価値のものとして親身に遇し、かつ、必要とあれば彼らを平然と殺戮し続けるだろう。
 ▽交渉上手 パリ交渉 米国の足元を見ながら、ある時はこわもてに原則をふりかざし、ある時は相手の肩をたたかんばかりに歩み寄り、が、基調としてはニコニコ笑って平然と嘘を押し通し、結局は100%自己に有利な協定をまとめあげた。
 ▽ 「ベトナムにも決死隊という言葉はある。しかし、特攻隊の発想はこの国にはない」  旧日本軍を現地除隊してこの土地に居残った元日本兵がいったことがある。当然だろう。ベトナム人が特攻隊などというこらえ性のないものを思いつくような素頓狂な民族だったら、今ごろ一人残らず死滅していたに違いない。
 ▽米国に対する戦いに勝利したあと、にわかに中国を離れ、ソ連側に身を寄せたのは、遠交近攻の外交理念からだろう。しかし、完全にソ連の影響下に組み込まれたら、何のために30年来凄絶な解放闘争を続けてきたか、わからなくなる。そこで、ハノイは、ソ連が嫌な顔をしたにもかかわらず、いちはやくIMF、アジア銀行など、資本主義世界の機構に加盟した。昨日までの敵であった米国との国交樹立にもひとかたならぬ熱意をみせている。
 この辺の平衡感覚は、民族の血に裏付けられたものであり、それがベトナム共産党のよさであり、また近隣諸国にとっては、底知れぬおそろしさでもあるのだろう。
 ▽サイゴン政権にも与せず、共産主義路線にも与せず、多くの民衆の支持を受けながら、最後まで独特の立場を守った第三グループ。日本のマスコミでは「民主勢力」「平和勢力」としてつねにもてはやされた。……陥落後のサイゴンではこの人々がいちばん沈痛な顔をしていた。……事実、第三勢力の議員や活動かたちはほとんど表舞台から姿を消した。反チュー平和勢力の牙城といわれた統一仏教会アンクワン寺派も、ciaの手先ということで徹底的に取り締まられ、崩壊した。
 ▽なぜ解放された国から難民が出るのか。最初から理解しようという気持ちを放棄して、もっともらしく辻褄だけ合わせようとするから、短絡な解答しか見出せない。
 進歩的人士は難民が僅かばかりのドルや金の延べ板を持っているのを見つけ、 「ほれ見ろ、奴らは旧政権時代の金持ちだ。支配階級だ」という。
 保守的人士は逆に、難民らの伝える残酷物語の尻馬に乗り、 「もともと共産主義とは非人間的なのだ」とぶつ。  ……辛さ、苦しさも含めて、自由の味を知っていたから逃げたのではないか。……同時に私には、いまなお難民を生むことの悲しみに最も心を痛めているのは、ハノイの指導者たちではないのか、と思えてならない。……ハノイの立場を政治的に思いやることと、現実の難民を人間として処遇することは、明らかに次元の異なる行為なのだ。
 ▽1940年代半ばに革命が達成され、労働党が国の主権を握っていたら……超プラグマチックなベトナム人の体質……などから推してみても、ソ連、中国、北朝鮮のような硬直した社会主義国家にはならなかったのではなかろうか。場合によっては、社会主義国の看板を守りながらも、お得意のたてまえと本音を巧みに使い分けて、修正主義どころか実質資本主義国家として、日本をしのぐアジアの主力国家になっていたかもしれない。

■近藤紘一「サイゴンのいちばん長い日」 文春文庫 20060217

 ベトナム戦争の最後、サイゴン陥落の前後1カ月の風景をつづる。
 いよいよ間近に北の軍団が迫ってきても、人々は屋台で麺をすすり、カフェでコーヒーをのみ、市場は人々で満ちている。
 ところが、サイゴン陥落の当日になって、あと何時間で軍団が押し寄せる、という段階になってにわかに大パニックが起きる。
 清沢洌の「暗黒日記」を思い出す。
 戦争が最終盤に近づいても、銀座や浅草はにぎわい、「戦時色」を強制するのに政府の側が苦労していたほどだった。生活が苦しくなっても「戦時」という実感は薄く、九州が空襲にあってもまだ「他人事」だった。ところが自分たちの上に爆弾がふってきてはじめてパニックに陥る。
  「戦争」とは最後の最後、自分自身の命が危険にさらされるまで実感できないものなのだ。人間とはなんと想像力のない生物なんだろう。
 解放後、中華街であるチョロンには「北」の旗が翻る。中国共産党の旗もたつ。
 だが、チョロンは南ベトナム時代に8割の経済をにぎってきた。さらに、北ベトナムの人々の反中国感情は根強い。新政府がチョロンを現状のまま見逃すわけがない。終戦直後の混乱期に著者は中国とのその後の対立まで予想する。その兆候は、終戦わずか数日後に「外国の旗の掲揚禁止」という措置であらわれる。「外国の旗」とはむろん、中国の旗である。
 サイゴンに入ってきた解放戦線や北の兵士たちは一様にきまじめだ。一方で、ちらほらとかいま見える官僚的な動きも見逃さない。
 「客観性」の枠にとどまらず、みずからの主観を文章に表現しながら、独特の鋭い観察力と知識がにじみでている。こんな形で「戦争」を描くことができるのか、と感心させられる。 

 
 ▽妻との同棲。「お互いに子供ではないのだから、こういう関係を堅苦しく考えるのはやめましょう」あまだれ日がたつにつれ、私の方もいつのまにか亭主面をかくようになり……
 ▽前妻の話。妻はフランス語堪能。パリでの暮らしで雑事をまかせた。 妻はしだいにふさぎはじめ、やがて私が本気で心配し始めた時には遅すぎた。……ある晩、病室を訪れると、彼女はひさしぶりにほがらかな顔で、私が去るまで冗談をいい続けた。翌日、妻は死んだ。
 ▽カッケーという、ヤモリとトカゲを両親とした突然変異みたいなのが、うごめいていた。 ラオスにはトッケーという同類がおり、ラオス人の好物だそうだ。
 ▽東京本社から「即時退去」を指令してきた。適当にあしらって、切る。私には、まだ退去の意志などない。……こうした状況では、記者仲間や他の外国人と距離を取って暮らす方が賢明、と判断していた。
 ▽周囲の屋台は、いつもと変わらぬおしゃべりと食いしん坊の時間である。一方では極度のパニック、その半面でこの平然としたひととき。なんともチグハグでわけがわからない。
 ▽4月28日「即時避難せよ。切符が無くても空港でキャンセル待ちを試みよ」と「編集局長厳命」。冗談じゃない。これだけこの戦争について書きたい放題書いてきて、その最終段階に1人も特派員が居合わせなかったら、新聞社の恥さらしではないか。「了解。万一のさいは記者団の大多数と同一歩調を取るから安心されたし」。その足で、市場のそばの仕立屋に背広を取りにいった。
 ▽4月30日午前 あまりに急激なこの町のくうきの変化と、突然の群衆の数に呆れ、ちょっと空恐ろしくなった。最後まで悠々と落ち着いているように見えたのに、土壇場にきて、何と唐突な、あわてふためきかたか。  ▽(解放直後)支局や大使館でも停電はなかった。ベトナム電力公社の副社長が、革命政府側の潜伏幹部で、このため首都圏一帯への給電に支障が生じなかったことをあとで知った。(権力の奥深く)
 ▽山岳民族は戦争でひどい目にあった。50年代は、ゴ・ジン・ジェム大統領の強圧的同化政策が彼らの多くを解放戦線側に走らせた。米空軍がナパーム弾の雨を降らせるようになってから、「保護」のために国道沿いに集中させられた。……だが、今後の最大の難問は百数十万人といわれる中国系人の取り扱いだろう。現在、南ベトナムの経済活動の八〇%以上は直接、間接にこれら中国系人の掌握下にあるといわれる。今後社会主義、民族主義体制下で国の再興をめざす以上、中国人からの経済支配権の奪還は当然のプログラムとなるだろう。
 ▽斎藤茂吉の「万葉秀歌」〓 異郷で読む万葉集は底なしの井戸だ。
 ▽ベトナムは、女権社会、恐妻社会といっていい。「南ベトナムではウーマン・リブなんか必要ありません。婦人はとっくに解放されてますから」といったのはサイゴンの人気女性弁護士である。
 ▽あとがき 日常勤務のかたわら、実質2週間という期間で脱稿にこぎつけることを可能にしたあの時の気分……
 ▽ハノイの数々の失政…新生ベトナム一国の力ではどうしようもないものであったにせよ、統一後の指導部のやり口のまずさは度が過ぎている。おかげで、解放された国からなぜ今なおボートピープルが出るのか、という子供だましのような糾弾……が、かつてあれほどもてはやされたハノイ指導部の国際イメージを一変させた。カンボジア侵攻もしかりだ。私は基本的にはハノイのカンボジア侵攻を支持する。しかし、時に方法論のまずさが本質の義を凌駕してしまうことだってあり得るのだ。

近藤紘一「バンコクの妻と娘」 文春文庫 20060222

 前作よりいっそう家族のことを描いている。
 幼くして故国のベトナムを離れた娘は、ベトナム語は抽象的思考をいとなむにはおぼつかない。日本語はそれ以上に理解できず、フランス語を習得させようとするが、スタートが遅いから進級試験のたびに苦悶する。このままでは根っこがない子になってしまう。将来どうなってしまうのだろう。
  ノイローゼによる自死で亡くした前妻の二の舞になるのではないか、と恐れ、心配している。
 前妻は海外を転々とする家に育ち、本当の友達、根っこをつくることができなかった。本当に理解しあえる友人をもてなかった。その反動で、必要以上にがんばって、その努力が壁にぶつかったとき、プツンと切れて自殺した。
 今、外国人労働者の子供たちが同じ問題で悩んでいる。自国語は抽象思考の道具となりえず、日本語はさらに不自由だ。オトナとしての思考の道具を持たぬまま成長する悲劇を、著者は前妻と娘を通して30年も前に体感し予見している。
 筆致はあいかわらず飄々としていて、娘のユンはどこか抜けているけど明るくかわいくて、妻はときに豪快でときに繊細で、楽しい。
 「小娘」だと思っていた娘がホテルで会った青年とキスをする場面を目にして驚いたり、娘に「初体験がいつか」「何人とセックスしたのか」と問われてどぎまぎしたり……。家族の何気ない情感の動きをも丹念につづっている。
 そして時折、すさまじい仕事ぶりがかいま見える。中越紛争が起き、カンボジアのポルポト政権が崩壊し、2週間で本を1冊書けと言われ……とてもじゃないが常人にはこなせまい。飄々としているように見えるけど、まさに命を削っていたのだろう。
 でもある意味、うらやましい。


 ▽慣れぬ内勤が2年続き3年続き、そろそろこんな性に合わない仕事で人生を無駄にするぐらいなら、山奥の学校の用務員になって本でも読んで暮らした方がましだ、と、なかば本気で考えはじめていたから……
 ▽「忘れちゃいけないことは、パパもママンもいつもお前が大好きだっていうことだよ。寂しい思いをさせるけれど、パパたちにとって、世界中でお前がいちばん大切な人間なんだ。このことだけはしっかり覚えておけよな」
 ▽考えてみればサイゴンに赴任したのは、30歳そこそこの頃だった。……今や四十路も目前である。あの暑熱の世界でふたたび公私のお勤めに励まなければならぬとすると、身体も脳ミソも2,3年で再起不能に陥るのではないか。
 ▽前任地のサイゴンでは、相手が外国人とみると5倍、10倍を平然と要求してくるのがざらだった。(インドのよう。今と違う〓)タイは逆……
 ▽ユンは自分を日本人と思いこもうとしていた。……可能な限り早くベトナムに彼女を連れもどし、空白の何年間かの穴埋めをさせてやることが、理想的なことと思えた。
 ▽英語で行われる合同記者会見のおりなど、いつも肩身のせまい思いをしなければならない。日本人記者の大半はヒツジのようにおとなしく、会見のやりとりを聞いている以外にない。
 ▽タイでは、インドシナ半島が全面共産化して以来、ベトナムの膨張性を警戒し、ひところは国内のベトナム人居住者へのいやがらせも起きた。一方、ベトナム人の方も一般に「われらは優秀民族」という気位が強い。
 ▽(校長の手紙)思考のための必須の道具は言葉である。ミーユンは実は何の言語ももっていない。13歳で中断したベトナム語は、おとなの思考の道具となり得ない。日本語はきわめて不十分な教育しか受けてない。フランス語は顕著に進歩しているが、スタートが遅すぎた。彼女に一個の完全な言語を持たせてやらなければ、思考することができない人間ができあがってしまいかねない。一個の言語を完全に身にそなえてはじめて、一国の文化を理解できる。そして一国の文化を理解したとき、はじめて、他国の文化やこの社会全体を見つめ、それについて思考することができる。
 ▽ボートピープルがひところ、しきりとタイの漁船に襲われた。……日夜、女性たちを性的に虐待する。南部タイの貧しい漁民にとって、歴史的に敵対関係にあったベトナムの、誇り高く、ひときわ色白柳腰の女性たちは、とりたてて「征服欲」を駆り立てる相手だったように思える。……子供に対する態度は、タイの母親よりもベトナムの母親の方が数等きついことは間違いないようである。
 ▽(性的虐待をうけた難民の女性ら)被害を受けた人は、と問いかけると、「私です」「私も」と即座に進み出て、私たちを取り巻いた。……驚いたのは、常軌を逸した苦痛と屈辱の体験の詳細をまるで他人事のように語る彼女らの態度だった。「4日間で20回くらいかしら」と、はたから、「そんなもんじゃなかったよ。あんたは、その倍くらい相手をさせられたはずだよ」……夫をかたわらに、あけすけ、かつ克明に、聴取に応じた。最後に大部分が「ひどい目にあったけど、こうして自由の世界にたどりつけて、本当にうれしい。4,5日悪い夢を見たと思えば、それで済むわ。結局のところ私は今、しあわせ」……「いつもいってるでしょ。思い出しても役に立たないことは忘れるのがベトナム人なの。これからの長い一生にくらべれば、一週間やそこらの苦しみを忘れることは何でもないわ」(妻)
 ▽ 「パパは最初にチューしたの、何歳のときだい」「最初にかい、たぶん、17歳か18歳の頃じゃなかったかな」……「それじゃ最初にラムール(セックス)をしたのは何歳のとき?」 本当は今のユンと同じ18歳だったと覚えているが、変な競争心を起こされたらこまるので2年ばかりサバを読んで答えた。「それから今まで何人の女性とした?」熱心に追及してくる。「5,6人、いやもうちょっとかな」「そォんなに?」……
 ▽前妻の父親は外交官だった。……方々の国に住みながら、結局のところそれらの国の文化や精神の「核」を何一つ、自ら血肉のものとしていない、という意識に深く思い悩んでいた。 「私はフランス人でもない。スイス人でもカナダ人でもない。おまけに、自分の国である日本のことも何も知らないのよ」……卒業後まもなく結婚した。妻は、茶道、華道、書道、日本画などの教師を探しだし、以上なまでの熱心さでそれらの習得に打ちこんだ。そうした努力を続けていた彼女を、私は、再びフランスへ連れ出した。結果的にその内面的崩壊をうながすことになった。……今はわかるーー気がする。少なくとも、自己の文化をしっかり踏まえぬ国際人などというものは、存在し得ぬ、ということを。
 ……自分の悩みや、自ら自覚している欠点、醜さ、……を虚心に打ち明けられるような「長年の友人」がいないということが、ある日、どんなにうそ寒く、うつろな孤独の想いとなって、その人間をむしばみはじめるか。前の妻が自らを袋小路に追いつめたのは、彼女の内面の空虚と無力感を、周囲から支え、それを埋め合わせるための、彼女自身の「人間世界」を本人が持ち合わせていなかったからに他なるまい。
 死の間近か、病床の枕元にとりよせたフレンドシップ・ブックを広げながら、 「こんなにたくさん友達がいたのに、結局は一人も残っていない。みんな世界の方々に散り散りになってしまった」  と、繰り返し、深い孤独感を訴えていた彼女のまなざし……。
 1冊のノートは、多数の友情を記録として保存する。だが、記録として凍結された辞典から、すでにその友情は、生命を失いはじめる。容赦ない時と距離の力の前でしだいに単なる「思い出」と風化していく。