2006年2月ura

■JCJ編「ジャーナリストとして生きる」

  マスコミの記者も所属する会社をこえて連帯する時代があった。そのことが新鮮であると同時に心に重くのしかかる。
 自分が自信をもって記事を書き続けているときは「オレはがんばってんで」と言えるから記者同士の交流が心地よい。だが、スランプに陥ったときはしんどい。支えあい、研鑽しあう関係を築けていない、ということだ。
 書いた記事がなかなか載らないとき、会社あるいは上司の壁とぶつかったとき、周囲の「状況」のせいなのか、自分の取材力のなさのせいなのか、迷う。「状況」のせいにして甘えていてはいけない。かといって「自分」のせいだけにしては状況に切り込めない。
 圧倒的な能力があれば、状況(敵)と対峙するのはたやすいが、私を含めた大部分の記者はおそらく、「オレの能力がないから伝わらないんかなぁ」と悩み、落ちこむ繰り返しなのだ。
 でも、政治や経済もマスコミ内部の状況も、そんな繰り返しだけではすまない状況になってきた。憲法や教育基本法といった問題に有効に対処できないもどかしさにおそわれる。「会社」は、記者が社外に自らの意見を発信することを制限したり、サラ金業者から金をせしめて紙面づくりをしたりと、ジャーナリズムの根幹をぶち壊す方向に動いていく。能力給の導入もあってか「上」ばかり見る記者が増え、「敵」があいまいになると同時に「味方」が誰なのかも見えなくなってくる。
 記者が個々に孤立していてよい時代ではないと痛切に思う。でも、記者同士が「連帯」して何ができるのか、何をしたらよいのか、具体的なイメージがわかない。
 斉藤茂男さんが主催していた「イチゴ会」、名古屋や広島の取り組みなどを読むと、たしかに「記者の連帯」が存在していた時代があったのだと気づくと同時に、今でもなにかできることはあるのではないか、というかすかな希望もわいてくる。
 たぶんその方向は、安保闘争当時の「大状況」を切るような華々しいものではないだろう。「平和」や「平等」という言葉が「時代遅れ」と切り捨てられてしまう時代なのだ。
 国策の名のもとに切り捨てられる過疎地の年寄りや、都市の野宿者、自分の生き方を見つけられない若者たちの悩みと向きあい、一緒に落ちこみ、佐野眞一さんの言葉じゃないけれど「小文字言葉」でつづっていくことしかないなのだろうと考えている。


 ▽p23 「あの時、たった10枚でもハガキが来ていたら、つぶされなかったかもしれません」
 ▽p23 「こういう集まりではいつも『市民と一体になって』と言われるが、いつも帰りに思うのです。では、何をすればいいの」
 ▽p31 茶本繁正  戦前、テロは頻発した。首相浜口雄幸、前蔵相井上準之助、三井合名理事長団琢磨、首相犬養毅……テロルのはてに浮上したのがファシズムと軍部独裁体制だった。……編集者が拷問され、殺された「横浜事件」も発生した。
 ▽p33 斉藤茂男 私たちは、例えばある新聞社の「社員」であり「記者」であるという社会的な地位の上にアグラをかいていないだろうか。……アジア、アフリカ各地のあのジャーナリスト、このジャーナリストを頭に描きながら、もし彼らと一緒に仕事をすると仮定したら、いったい自分になにができるのか…… 「××新聞の記者」であるよりまえに、彼らと共に民族の独立解放を考える……。
 ▽p59 高知新聞 731部隊の元隊員と中国を旅した。彼が携わった残虐な実験の一つは、ハルピン郊外の草原で、十字架にくくりつけた人々に細菌爆弾を落とすものである。……肉片が飛び散る現場へ駆け寄り、消毒するのが役目だった。……今のひどい政治、社会状況をつくり、支えているのは、メディア自身にほかならない。もっと言えば、その組織の中で自ら考えることを放棄した個々にある。
 ▽p64 (黒田清さんは)若い記者には、コメントのあと、こんなことをつけ加えていたのだ。「きょうは急ぎやからしゃあないけど、やはり新聞記者は相手の顔を見て、目を見ての取材が大事や。今度、暇なときにいつでも事務所に遊びにきなさい。いっぺんゆっくり話そうや」。そうつけ加えて、返事も待たずに電話を切ることが多かったという。
 ▽p83 「イチゴ」会は、そのころ大阪で働いていた若い記者の社を越えた勉強会、共同社会部にいた斉藤茂男さんを囲む会といった風情であった。
 ▽p90 地方記者として 一人支局に住み2年になる私は……権力の監視、争点の明示、それらジャーナリズムやメディアに求められる役割をほとんど果たしていない……。「さあ国会審議正念場」などと突きつけられてもぴんとこないのだ。政治的なせめぎあいの中に自分の仕事の使命を見いだすことに、今の私には戸惑いがある。時期的に多少ピント外れになっても、出会った人の人生を読者に伝えることで、穏やかな生活への願いを広めていきたいと思っている。
 ▽p101 私の属した名古屋の朝日新聞には10人近い会員がいて、とても活気があった。経済記者として活躍する傍ら、連絡会議の事務局長をつとめていた毛利晃さんの奮闘による……機関誌「東海ジャーナリスト」を執筆・編集し、「JCJ東海通信」を書いて会員に伝え、会員拡大に意欲的に取り組んでいた。
 ▽p106 「被爆2世」の取材・編集にはJCJ会員を中心に「広島記者団」が組織された。企業の壁を破って参加したジャーナリストは20人を超えた。……在野の学者や被爆者との協力へと発展、取材・編集は支部会員が担った。(どうやって?〓)
 ▽p111 香川支部 OBたちが愚痴る場になってしまっている例会に現役記者の顔が見えない。……発足当時は地元紙・局だけでなく中央紙の若い記者たちが参集し熱い議論を続けていた。しかしだんだん「忙しい」という理由で減っていった。
 ▽p127 茶本さんが書いた「ドキュメント軍拡改憲潮流」のもととなった研究会が、……共同通信社会部グループ、日教組教育新聞などの記者というメンバーが、集まって開かれていた。
 ▽p128 成果主義などの導入が顕著になり、一人ひとりにさせられてしまった職場では、企業人間としてながれには逆らえないのかと変に察したりしているが、実のところあたえられた環境のなかで、何を目指してどう納得しているのか深くは汲み取れない。
 ▽p146 秦正流 ジャーナリズムは多様な意見、多様性を持つのがいい。朝日が左ならおれは右だではなく、自分が考えているようにやる、これが多様性だ。よそはやっても自分はやらん、よそはやらんでも自分はやるの姿勢で報道に当たるべきだと思う。
 ▽p148 「いい環境になったら、いい仕事ができる」などと、いつも愚痴っている人間に未来はない。世論を味方にして言論表現の自由規制に抗するには、権力監視、社会正義の追求など、メディアの存在価値を明白に実証しなければ。

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