2006年3月

■近藤紘一「パリへ行った妻と娘」文春文庫 20060301

 ついに娘のユンの恋人が「結婚したい」と切り出した、という場面からはじまる。
 ちょっと間抜けなかわいい子供をイメージしながら前の2冊を読んできたから、著者ならずとも「小娘が何をぬかすか」と思ってしまう。
 バンコクでは、著者の仕事仲間の、東南アジア関係では超一流と評価されているベテラン記者までがユンにほれてしまう。
 バカンスで知り合ったフランス人の一家の息子もほれる。
 フランスの学校に進学することになったとき、その一家が「うちにいらっしゃい」という。
 そこで迷うのが、その謝礼だ。「金の問題はきちっとしたほうがいい」と助言されるが、相手方には「そんなつもりじゃない」と断られる。
 そう、そういう些細な部分がホームステイは難しいのだ。実体験からよくわかる。たとえばその月の半分を残して家を出るときは家賃を日割りにしてくれるのかどうか、なんて部分は、国によって文化によってずいぶん異なる対応になる。そのへんがわかってないと、「なんだよコイツ、がめついなあ」と思ってしまう。自分と相手に所得の格差があるときはさらにすれ違いがおきやすい。
 妻はユンに会いにパリに行き、「ドル・オクレ・ダイシキュウ・ゼッタイ・ヒツヨウ」という電報を送ってくる。しかも半端な額じゃない。実はマンションを買ったのだった。名義は妻、相続人はユン。
 パリには元の旦那がいる。元の恋人もいる。「若い頃は何回か夜を共にした相手よ。ほんの4,5回だけどね」と妻はケロリと白状する。
 こうしたエピソードをひょうひょうと描くなかに、自殺した前の妻とすごしたパリの痛切な思い出を、冷や水を浴びせるかのように織りこんでいく。親の転勤で各国を渡り歩いた前妻と、ベトナムから日本につれてこられて根っこを失った娘との境遇を重ね合わせ、ユンの将来を心底心配している。今の妻との出会いによってようやく生きる力をとりもどしたとも書いている。筆者の繊細な傷つきやすい一面がほろりほろりと見えてくる。
 ベトナム軍のカンボジア進撃、中越戦争、カンボジア難民の流出……と、特派員としての仕事は未曾有の激務がつづく。肝炎とマラリアの後遺症がでて、体が耐えきれなくなり、東京にもどる。
 そこに遊びに来たフランスの娘の下宿先の息子のピエールが「娘さんと結婚したい」と告白する冒頭の場面にもどるのだ。
 読み進めるうちに、明るく軽妙に描いているにもかかわらず、胸が重苦しくなってくる。この時から何年もたたずに近藤がガンで死ぬことを知っているからだ。悲しく、哀しく、かわいく、愛おしい人生よ。


 ▽妻に超々ビキニを着せて喜ぶ。南シナ海で「放埒な行為」をする。よくまああけすけに。
 ▽旧知のオーストラリア人の敏腕記者がユンにほれる。
 ▽ピエールとユンは秋葉原へ。パソコンとかワープロとやらの性能を夢中で比較し…… ああ、オレが秋葉原に行っていたころだ。高校のころだ。  ▽妻の死後2年たらずで今の妻と暮らしはじめた。前の妻の死に対して私が負うべき責任を知る者は、私の酷薄さと軽佻さをなじった。激怒した者もいた。……しかし、28歳で人生を捨てるのは早すぎる、とたぶんに生理的恐怖感をもって判断したとき、おりよく目の前に現れた今の妻を利用した。……この女性なら、無用にこちらの心のヒダに踏み込んでくることはあるまい。
 ▽「おい、お前まだ処女なのか」「変なこと聞くなあ、パパ。そんなことしか考えられないのかい」……「ユンはお勉強で忙しかったんだよ。そんなことしてるヒマなんてなかった」「でもなあ、お前ももう23歳だぞ」……23歳にもなってまだ処女の娘をもって誰が安心できるものか。このグズ娘、親の気持ちにもなってみろ、と思った。

■「姜尚中の政治学」集英社新書 20060308

  さまざまな世界の政治のできごとを、政治思想史の文脈のなかで分析し、とらえなおす。目の前で起きている国際政治の問題が、実はこんな理論によって導かれ、実はこんな流れのなかにある、と明快に示してくれる。
 たとえば「つくる会」は単なる復古調と断定してしまうのは甘いようだ。ドイツの歴史家が、普遍的な歴史の法則性が疑わしくなるなかで提唱した歴史相対主義の流れをくむという。ナチスの歴史的犯罪が、スターリンの粛清やポルポトの虐殺と比較してどこかちがうのか、と、「絶対悪」とされたナチスを相対的にとらえなおす立場だ。これによってどんな深刻な歴史でも「それは誰にとっての歴史なのか」と視座の中心軸を簡単に置き換え、自民族中心的な歴史の語りを招くことになるという。
 カントは暴力を「悪」ととらえ、暴力の問題を善悪の問題だと解釈した。ヒューマニズムの立場である。だがそれが、悪を滅ぼすための暴力、というパラドクスを生み、イラク戦争にもつながっているとも指摘する。
 さらに、民主主義の原点のようにあがめられるルソーは「一般意思には誤謬がない」と言ったが、実は国民国家の「一般意思」のなかにこそ、全体主義の起源があるという。たしかに、ヒトラーを支持したのも多数派の一般意思だし、日本にいたっては「一般意思」が暴走して軍部の独走を促してしまったともいえる。
 ホッブスは1国レベルの権力によって、内戦的混乱を終息できると考えたが、現代の内乱は、グローバルな主権が確立されていないから解決できていない。次代の主権が国家を超えた「帝国」の手に委ねられるのか、あるいは、ある特定の国民国家が帝国化してリバイアサンの役割を果たすようになるのか。国民国家に代わる主権をいかに再構想するかという課題が、いよいよ先延ばしにできなくなっていると批判している。 

 
 ▽ベトナム戦争によるドルの垂れ流しを直接のきっかけとして、福祉国家政策は行き詰まり、経済不況に陥る。ニューディール型の福祉国家の破綻は、グローバル化による経済構造の激変にともなってすでに準備されていた。80年代に入ると、「小さな政府」構想が出現する。ポスト・ニューディール、ポスト・フォーディズムの新たな価値観を求める人々のいわばカウンター・レボリューションだった。  ちなみにレーガンはソ連を悪の帝国と呼んだ。ブッシュにもつながる、正義と悪の二分法的レトリックはこのころまでさかのぼる。ネオコンと呼ばれる人たちも、このころから政治の表舞台に登場してきた。
 アメリカの80年代は、ベトナム戦争の記憶を消すことに費やされた時代といえる。それにともなって、ベビーブーマー世代を生み出したリベラルなアメリカは歴史の1エピソードとして終わろうとしている。
 ▽暴力の先験性を認めず、人間のなかに理性の優位を見出す価値観が、近代社会では主流を占めている。これを世俗化したものがヒューマニズムだ。しかし逆にこの立場から、「暴力を否定するための暴力」という矛盾に満ちた行為が正当化されてきた。
 カントは、暴力の問題を善悪の判断という道徳律の問題として考察した。 カント的なロジックやヒューマニズムの文脈では、暴力は、中立的な力の概念ではなく、悪の問題となってしまう。悪としての暴力を否定するための暴力。このロジックを、アメリカのネオコンが盛んに援用している。それは、カント的な理想を、ホッブス的な絶対権力で実現しようとすることになる。
 ヒューマニズムが孕んでいる最大の逆説。現在の中東の問題も、暴力の根絶が、いつの間にか善悪の問題に転換され、結果として、無制限の暴力が生み出されてしまったというパラドックス。イラク戦争やコソボ空爆は、ヒューマニズムのロジックが生みだしたカタストロフととらえることも可能だろう。
 ▽ルソーは、一般意思には誤謬がないと述べている。政治が人民の意思を体現している限り、それがどのようなものであろうとも、国家そのものの在り方は絶対的に正しい、ということだ。その結果、バートランド・ラッセルのような哲学者は、全体主義の起源はルソーであると指摘した。主権的な国民国家はルソーの「一般意思」のように、絶えず全体主義化の種をうちに秘めている。その芽が大戦の前後に一気に芽吹いた。われわれは歴史の逸脱として教わってきたが、国民国家が存在する限り、全体主義のあだ花が開花する可能性は永遠に消えない。
 ▽戦後、日本の知識人たちは、大日本帝国憲法の部分修正によって乗り切れると考えていた。大日本帝国憲法は立憲君主制であり、天皇は国家の一機関と考えていたからだ。戦前のウルトラナショナリズムはあくまで突然変異であり、本来の姿に戻れば、天皇という機関は国家の外側に超然としていられるはずがない、と。  しかしそもそも、大日本帝国憲法では、主権の正統性は、万世一系である天皇に由来する。決して、憲法内部に正統性の根拠が存在しているわけではない。言ってみれば、王権神授説と同じ構造だ。このことは、政教分離原則に照らすと明らかに違反している。
 ▽戦争する国家は、政教分離原則を緩めないと、戦争による死者たちを、どのように弔うかという問題をクリアすることができない。  やはり憲法20条3項の政教分離と、第9条の平和主義はセットになっている。
 ▽日本の民主主義は、日清、日露、第一次大戦、第二次大戦という4つの戦争の後に形成された。いわば「戦後民主主義」である。戦争を通して「社会の平準化」は強化され、それに呼応して、後の時代の民主主義も一段階先に進んでいく。それが総力戦に近ければ近いほど、民主化の浸透度もさらに深まっていく。
 ▽戦後民主主義は、高度成長との距離感や緊張感を失い、「生活保守主義」的な空気のなかにのみこまれていく。70年代の終わり頃からは「一億総中流化」として意識される。そうしたなかで、丸山真男のような「プロト戦後」出身の知識人は、少しずつ表舞台から姿を消し、論壇自体も社会への影響力を失っていく。
 戦後の日本は、荒廃した国土から、いかにしてナショナル・アイデンティティを回復していけばよいのか、という課題から出発した。その意味では、もっとも輝かしかった時期の戦後民主主義も、じつは、ナショナリズムの屈折した噴出だった、と捉える見方も可能だろう。
 しかしそうした潮流も、70年代にはほとんど消えてしまった。その後の「保守としての戦後民主主義」というイメージの定着は、平和憲法下の「不完全国家」から、憲法改正を通じて「普通の国」としての「完全国家」へと向かおうとする動きとちょうど呼応している。
 ▽マルクスの史的唯物論のような、普遍的な法則性は疑わしいものになるなか、ドイツの歴史かエルンスト・ノルテによって、歴史相対主義が提唱される。ナチスの歴史的犯罪は、スターリン時代の大規模な粛清やポルポトの虐殺と比較したときに、どこかどうちがうのか、と。絶対悪だったナチスを、他の国々や民族による犯罪行為と比較しながら再検証することは、それだけで、ナチスの惨劇を歴史の不名誉特別席からはずすことを意味する。さらに、歴史相対主義のなかから鬼子があらわれる。誰が何のために歴史を必要とし、どういう意図をもって修正しようとしているのか、という問いを打ち立てる歴史修正主義だ。ある種の不可知論的な立場である。「つくる会」の人々の歴史観はこれらを踏襲している。最大の共通項は、来歴としてのナショナル・ヒストリーだ。その歴史観は、各時代の史料や学的体系の集積の上に成り立っている歴史実証主義とは異なる。
 ▽価値相対主義を突き詰めていった結果、自国史としてのナショナル・ヒストリーに歴史の出発点と終局を求めていくという考え方が生まれる。「つくる会」の主張がその典型だ。
 ▽ポーツマス条約の条文を読み返すと、小村がロシア側に突きつけた要求項目の第1番目が「朝鮮半島に関する自由な処遇の権利」となっている。朝鮮民族による自由な領有権ではなく、日本による自由な処遇だ。したがって、日露戦争の最大のテーマは、やはり、朝鮮半島の支配にあったと考えなければならない。
 ▽〓〓テッサ・モーリス・スズキ「過去は死なない」岩波  歴史の「真実」や過去の表現の「真実」よりも、むしろ人々が過去の意味を創造するプロセスの「真摯さ」に光を当てた希有な論考。
 小説、写真、映画、史跡など、多くのメディアを取り上げ、それらが同時代の歴史想像力に与えた影響を、批判的な想像力を駆使しながら読み解いていく。

森達也「ベトナムから来たもう一人のラストエンペラー」角川 20060330

 ベトナムのラストエンペラーになるはずだった男が1951年に日本で死んだという。
 「僕らの王子は、日本に殺されたようなものなのに、どうして日本人は誰も、知らないのですか」
 というベトナムからの留学生の声に導かれて、著者は王子クオンデの足跡をたどる。
 欧米列強の植民地になっていてアジアの国々にとって、日露戦争に勝利した日本は希望の星だった。だから、孫文やチャンドラボーズらの革命家が日本に亡命してきた。そのなかにベトナムの王朝の王子クオンデもいた。
 フランスの植民地から解放を求め、彼は日本に武器援助を求めるために来た。犬養毅や玄洋社の頭山満らが滞在資金などを援助した。頭山満といえば「大東亜共栄圏」を唱えた右翼の巨魁というイメージがあったから意外だったが、この本によると、よい意味でのアジア主義、国際主義だったという。
 クオンデの期待に反して、日本はフランスの不興を買うようなことはできなかった。それどころか、欧米列強に牙をむくのではなく、むしろ欧米側の立場にたってアジアに検疫を広げるようになっていく。
 ドイツやイタリアのようにカリスマ的指導者によってファシズムに向かったのではない。たとえば、日露戦争後の講和のとき、小村寿太郎に「国賊」という批判を浴びせたのはマスコミであり、一般国民だった。国際連盟を脱退して忸怩たる思いだった松岡洋右を「英雄」とたたえ、大喝采を送ったのもマスコミであり国民であった。
 いわば下から突き上げていく形の「草の根ファシズム」だった。「軍部の独走」という言葉で片づけられるほど生やさしいものではなかったのだ。
 クオンデはそんな潮流にのまれる。開戦時、日本軍とともにベトナムに凱旋するはずだったのが、軍部の思惑でダメになり、終戦直前にも情勢打開をはかった軍部の思惑で帰国が実現する寸前までいったがダメになる。期待しては裏切られる繰り返しのなかで、若いころに離れた妻子と一生会えないまま客死する。
  日本にとっては用済みの人間になって忘れられ、解放後のベトナムでは「日本に魂を売った男」とされ、ベトナム人にさえも忘れ去られてしまう。
 筆者は、古都フエの郊外の貧しい家にクオンデの孫をさがしあてる。
 クオンデの墓は砕かれていた。王子は死んでなお、孤独だった。
 記憶を残そう、覚えておこう。他者に対して想像力をもちつづけよう。そうしてこそ、戦争などの悲劇も防げるのではないか。筆者は訴える。
 事実を淡々とつらねたルポルタージュではなく、筆者が空想した描写が多い。ドキュメンタリーはフィクションである。という彼の考えをそのまま文章にしたような本である。