2006年4月

■有須和也「黒田清 記者魂は死なず」河出書房新社 20060406

 本田靖春「我、拗ね者として生涯を閉ず」と似た読後感をもった。
 ほぼ同じ時代に読売新聞に籍をおき、東京で本田がほされて辞めたとき、まだ黒田は大阪社会部長として大活躍していた。「大阪で黒田と働きたい」と本田に言わしめたという。
 本田はシニカルに、しかし新聞記者としてのダンディズムに誇りをもち、たたかい抜いた。黒田はその点、浪花節である。笑ったと思ったら涙でぐしょぐしょになって、ベタな新聞をつくって人気を博した。
 「新聞」の常識をくつがえし、記者自身が自分の戦争体験をつづる長期連載をしかけたりもした。
 新聞社が「会社」化し、独裁体制ができあがり、自由な言論が息詰まるなかで、2人とも読売を追われる。
 2人とも、金銭的には苦しい暮らしをしながらも筆を折らず、末期ガンという死の病におかされても独特のダンディズムとやせ我慢を通して死の直前まで書きつづけた。
 黒田は会社をやめる直前、社外に執筆することを突然問題視され、処分をうけ、会社をやめたらやめたで領収証を何年分にもさかのぼってチェックされた。いずこも同じ。
 記者の活動の範囲はどんどん狭められ、外にむけて発信することは事実上不可能になり、揚げ足をとるように「不正さがし」でかぎまわられる。今ではそれが当たり前のことになってきている。
 言論の自由はおろか、自由な言論を実現しようという意気込みさえ失ってしまった、権力に尻尾をふる烏合の衆。
 憲法をまもる施策をしようとするほど、上司とぶつかり、権力とぶつかり、出世を阻まれる……という話は知りあいの行政マンから聞いた。
 まさにいずこも同じなのだが、あきらめるのではなく、たたかい通すすごみが2人に共通している。世間的にみれば「敗北」したという事実も。
 信念にしたがって生きるということは哀しみを共に生きることなのだろう。
 マスコミとミニコミの人が一緒になって大阪から発信しようと、「コミコミくらぶ」も結成し、無名のジャーナリストを支えた。「東京で働きたい」という人をきつく叱った、というエピソードも古きよき大阪人らしくてスカッとする。今それほどの信念と誇りをもって「大阪からの発信」をしている人っているのかなあ。
 細かな心理描写、風景描写、悔しさや悲しさ。よくこれだけのエピソードを集めたものだと思う。
 飲み屋やレストランの名前が実名ででてくるのもいい。私もたまに行く店がある。イタリア料理のシレーナ、縄寿司、蛸うめ……。もう一度、歩いてみようか。


 ▽いじめ「そんな時、一番あかんのは泣くことや。次にその仕打ちが応えていることを見せること。つろうてもこらえて、表面は知らん顔で通すことが大事なんや」
 ▽サツ回り 昼寝して、のんびり。電話室からスクープ  紫雲丸でスクープ 傍流から取材する。ぐずぐずしていたら乗客名簿をとったり、犠牲者の顔写真を集めさせられる。黒田はこの手の仕事が特に嫌いだった。ちがった角度から話をきく。
 悪路5000キロ  家にはまったく連絡をいれない。家を忘れて仕事ばかり
 暴力団追放キャンペーン 組長の家に乗りこむ。どちらの組長も「警察はワシらには手がだせん」とうそぶいた。
  ▽黒田ばかりダイヤをはずれて連載で飛び回るのをやっかむ人があらわれる。 やめたい、と思う。「社会部に対するイメージがずんずんずれていく現実。でも、辞めて食えるか今以上に楽しく食えるかというと、手がない」 知り合いの医者にたのんで、診断書を書いてもらい、休職する。
 2週間ほどで退屈してくる。ユースホステルで海外に行けないかなあと夢想する。2カ月ぶりに出社する。仲のよい写真部長に話すと「おもしろそやないか」とのってくる。33歳で100日間海外に行くことに。「一人だけいい目を見ている」と周囲の記者はしらけている。
 19年後、社会部長になって久しぶりにパリを訪ねた。高級ホテル。あのときと同じようにピクルスの瓶詰めを買ってホテルに入ったが、ピクルスは辛くて食べられなかった。人は何かを得るたびに、何かを失っていくことを、痛切に感じた。  好評だったため、そく中近東・東南アジアの100日間の旅へ。
 ▽山陽特殊製鋼倒産 取材相手に嫌われながら、事実関係をさぐる難しい仕事ができなければ、本当の記者にはなれない。
 正規のルートは取材に応じない。課長や係長を飲みに誘う。会社や自宅では口を開こうとしなかった人々が、語り始める。
 夜討ち朝駆けをかけて、役員の口を開かせ……「ある倒産」50回の連載
 ▽なかなか昇進しないことにやる気を失う。異動があったと思ったら、地検まわり。夜討ち朝駆けで刑事や検事の家をまわり、頭を下げてネタをとってくるのが性に合わない。「愕然とする」「泣いてたまるか」……と日記につづる。
 ▽タンカーに乗ってアラブへ 43歳 「石油の旅」18回
 ▽「戦争」連載 まずは記者一人一人が体験した戦争を等身大の記事で書く。一貫性のない続き物になるかもしれないが、それでもいい。自由なスタイルのなかから、本当の言葉がでてくれば、きっと共感を呼ぶ。「新聞記者が語り継ぐ戦争」。
 ▽黒田が考える社会面は、政府や大企業の話題が中心ではなく、市井の普通の人々の、ちょっとした喜びや悲しみが盛り込まれたものだった。
  ▽戦争展 読者や自衛隊などから展示品のかり出しに奔走した。出品交渉や陳列はすべて社会部でやった。……会場の一角には、社会部の2,30人が引っ越してきた。通常の仕事をデパートのなかでこなしながら、来場者の話をきき、相談に乗り、会場の取材をする……ここで取材した話が社会面をつぎつぎに埋めた。
 ▽三菱銀行猟銃強盗事件 1ページすべてを使って記者ドキュメントをやる。でだしは、「○時○分、こんなドキュメントあかんと、社会部長怒鳴る」
 ▽二世社員が増える。社長の息子にたいして先輩や上司が気を遣い、わざと特ダネをまわして手柄を立てさせるようなことが行われていた。そういうことが嫌いな大谷は、彼を徹底的に干した。黒田も露骨に仕事からはずすようになった。その結果坂田は、「窓」にじわじわとゆさぶりをかけはじめた。
 ▽読売新聞社会部の名前で月刊誌に原稿を書いたことがとが社長からとがめられる。仕事をするほどそれを理由に足を引っ張られる。
 ▽黒田は、仕事のできる者には徹底して仕事をさせたが、自分のメガネに適わないと、容赦なく異動させた。黒田と合わない人間にとっては、「黒田軍団」とは、一部のお気に入りをあつめた黒田の私兵組織のように見えただろう 。
 ……黒田は社会部長を解任され、部内人事によって、あちこちに飛ばされ、「軍団」は完全に崩壊する。 57歳で退職。会社は過去にさかのぼって黒田の経費の伝票を洗い出しにかかっていた。 退社にあたっては、在職中に出版した本の著作権移転に関する問題があった。在職中に作成した「窓」投稿者の詳細な名簿を持ち出したことから、「法律違反になる」と読売側から返却を求められていた。読売は「業務上知り得た情報」と主張した。
 ▽この1年は「窓」を書くだけの、文字通り「窓際族」。最後は涙。最終回、ひょうひょうと、しかしにおわせて
 ▽「黒田清という名前を利用して、君がええ仕事をするチャンスをつかめるんやったら、なんぼでも協力してやるで」
 ▽「コミコミくらぶ マスコミもミニコミも一緒にやろうという組織。大阪から情報を発信するのが夢だった。ある女性編集者が「東京へ行きたい」と言った時だ。 「行きたいなら行けよ。大阪でやれんのに、何で東京でやれるんや」
 黒田は「自分のいる場所こそが世界の中心であり、自分が世界に向かって情報を発信していかないかんのや」と言いたかったのだ。
 ▽(震災取材) 何を聞いていいかわからない時は、じっと黙っているのがいい。黙って、取材対象を見つめておればいい。そこから自然に出てくる言葉があればいい。なければ自分の負けなのだ。災害時だけではない。インタビューというのはいつも勝負なのだ。……「おつらいところですが、少し時間を頂けますか」「悲しみのなか、失礼とは存じますが」程度のことは自然に言ってほしい……
 ▽(少年A) 事件発生直後から週2回のペースで神戸の現場を訪ね、タンク山に登り、若い記者に交じって周囲の家のチャイムを鳴らし……なぜこの事件が起きたのか。それを見つけることこそが本当の特ダネだ。だが混沌とした状況は先が見えてこない。自分の全く理解できない国に変わっていくようで、心に疲労感を覚えていた。
 ▽「退院のめどが全く立たないんです」と医師。……黒田とフサエが手を取り合って泣きはらした顔をしていた。「このまま病院で死ぬのはイヤや。でも、もしもあかんかったときは、最後に一晩でええから、家の和室に寝かせてくれ」
 ▽最後の原稿 原稿を書けない苦しさつらさ。……死期を悟った末期ガンの患者は精神的にかなり落ちこみ、人に同情を求めることが少なくない。だが黒田は、そんなことを言っても見舞いに来た人を不安にさせるだけだと知っていたから元気なそぶりを見せた。
  ▽「作家は書いたものがおもしろいかどうか不安でならないはずですから、最初の読者として、できるだけ早く感想を伝えるのが礼儀だと思います」私も黒田さんの原稿は受け取ってすぐに感想を送るようにした。……黒田さんの日記に突然私の名前がでてくる。「原稿を送った後、○○君が、今度も一読、涙が出た、とファクスをくれた。こんなことが嬉しく、自信につながる。ブランデーを飲む」

■内田樹ほか「9条どうでしょう」毎日新聞社 20060408

 「9条」というと、護憲と改憲という二分法的な論じ方ばかりだが、こんな論じ方もあるのかあ、と新鮮だった。とくにオダジマンの論は目から鱗だった。
 たとえば「愛する者や家族が目の前で殺されているのを座視するのか」というよくある設問に対しては、「アムウェイに参加して自らを向上させるか、それともこのまま惰性のうちに生きるのか、あなたはどちらを選ぶのか」という問いを対置する。よくそういう事例を思いつくなあ。最後につけくわえている彼の「9条改正案」もひねりがきいている。
 内田氏の論は学者らしく、もう少し論理を駆使している。
 9条改憲案と殺人罪とを比較するという発想は普通では思いつかない。
  護憲派でも改憲派でもなく、「自衛隊もあって9条もある、今のまんまでいいじゃん。矛盾があってなにが悪いの」という考えだ。
 町山氏の中曽根試案の批判も説得力があった。 

 
  □内田
 ▽「日本は陸海空軍を有し、自衛のため、国連安保理事会の議決に従って、武力を行使することができる」と変えたい改憲派の意図はどう考えても「戦争ができるようになりたい」のほかに解釈のしようがない。9条をそのように改訂するということは、「戦争をしてもよい条件」を実定的に定めるということだ。どれほど合理的で厳密な規定であろうとも、戦争をするためにクリアすべき条件を定めた法律は「戦争をしないための法律」ではなく、「戦争をするための法律」である。例えば刑法199条は「殺人罪」について、「人を殺してもよい条件」は規定していない。改憲派のロジックは「自衛のためまたは公共の福祉に適する場合を除き」という限定条件を刑法199条に書き加えろと言っているのに似ている。
 ▽人を殺さなければならない場合がある」というのは現実である。「人を殺してはならない」というのは理念である。どこの相剋する現実と理念を同時にひきうけ、同時に生きなければならない。どちらかに片づければすっきりすると政治家は言う。だが、「すっきりすること」というのはそんなに重要なことだろうか。
 ▽自衛隊はその原理において「戦争ができない軍隊」である。その存在に国民があまり反対しないのは、憲法9条の重しがあるからである。9条という封印が自衛隊に「武の正統性」を保証しているからである。
 ▽現実には9条を廃止しても軍事をめぐる事情は今と少しもかわらない。依然として自衛隊の軍事行動は一から10まで米軍の許諾を得てしか行われない。アメリカは9条廃止を黙認するだろうが、それと引き替えに、国防予算増額と、その過半をアメリカ製の高額な兵器の定期的かつ大量の購入に充当することを要求するだろう。……「普通の国」になったとたん、アメリカの「従属国」であるという否定しがたい事実に直面するだけの心理的成熟を日本人は果たしているといえるか。
□町山智浩
 ▽ドイツ憲法は、世界でも最も改憲に対して厳しい憲法なのだ。79条3項に「憲法第一条および二〇条に定められている諸原則に抵触する憲法の改正は許されない」。大学や学校で憲法を批判する自由すら認めていない。
 ▽中曽根試案「我ら日本国民は……独自の文化と固有の民族生活を形成し発展してきた」読売の改正案も「日本国民は、民族の長い歴史と伝統を受け継ぎ……」。「民族」と「国民」のちがいもわかっていない。これらの試案が実現したら、世界はもはや日本を「国民国家」として認識しないだろう。イスラエルですら「すべての国民に、民族・信条・性別の分け隔てなく社会における平等と良心・礼拝・教育・文化の自由を保障する」
□小田嶋
 ▽9条に限らず、憲法の条文は、いずれも「理想であって現実でない」話ばかりだ。25条も空文。納税や教育だって無視してる人はいる。表現の自由なんてモロに絵に描いたモチだ。……それでもそうした理想は高く掲げられなければならない。
 ▽「日本人には、国のために死ぬ覚悟があるんだろうか」  君たちの言う「国」というのは何を指してるだ。国土、国民、あるいは国家体制か? 国体か? 私の死がどういうふうに私の国のためになるんだ? 国のため、というときの「ため」は実質的にどういうことなんだ? 防衛?それとも版図の拡大?経済繁栄?
 「公」の思想? 「公」という字をよくみてごらん。ハムというのは死んだ肉で出来ているんだぜ。

中野亜里編「ベトナム戦争の『戦後』」メコン 20060417

 「解放戦争」でもなく「侵略者」でもない。とかく善悪で論じられがちなベトナムを、歴史や軍隊や文芸、周辺諸国からの視点といったさまざまな角度から分析し、等身大のベトナム社会を描きだしている。
 ベトナム革命勢力は、民族自決権を実現するため長期わたる抵抗戦争を展開し、国際世論の支持をあつめた。
 だが、巨大な米国の軍隊と戦うには、政治権力が、強力に人民を動員する必要があった。そのなかで、報道や文学でさえも「統一」のために奉仕する役割を負わされる。戦後は、戦争に勝った自信が災いし、党の指導は常に正しいものとされ、経済活動もジャーナリズムも宗教も文芸も党の指導下におかれた。
 中央集権の権力が舵取りを誤ると、国際的な孤立と経済困窮に陥る。ドイモイ路線は、逼迫した社会状況の改善を求める下からの切実な要求によって生まれたという。
 日清日露戦争に勝ったことが自信過剰につながり、内部にむかっては全体主義を形成し、外にむかっては無謀な戦いを挑んだ戦前の日本の歩みと似ている。
 戦争のときの団結と平等と共感が、いつのまにか官僚主義に覆われていくのはベトナムだけではない。ニカラグアも共和国時代のスペインもそうだった。ボランティア組織やNGOなんかもそうだ。設立メンバーは熱い意志をもっているが、いつのまにか「普通の事務所」になっていくのだ。
 「合作社」ができたことで、大事にしていた自分の小舟が別の所で管理されるようになってしまい、賃金をもらって働くことになったおじいさんの悲しみ。労働者を雇っていることが政府にばれないか恐れる工場主、思想改造所の実態……ベトナム人の元記者が取材しつづった記録はとくに迫力があった。
 ベトナム戦争が日本やアメリカ、周辺国にもたらした影響の分析も興味深い。タイが「売春天国」のように言われるようになったのも、米軍進駐によってバッポンなどの歓楽街が形成されたためだという。
 ベトナムは、平和運動家が言うような「善意の被害者の社会主義国」ではない。
ドイモイによってなにもかも改善したわけでもない。
所有と経営が自由化することで、競争から除外された貧困層はますます国家から見捨てられ、国際NGOの支援を受けざるを得ない状態だ。ベトナムは「普通の途上国」なのだ。
 ベトナムを「善悪」の枠組みでしか見ようとしない多くの日本人を「戦争を忘れて個人の利益追求にいそしむベトナム人に失望し、ラオスやカンボジアにより純朴な人々の姿を求めたり、ラテンアメリカの一部の国に革命後の理想社会を期待する傾向もある」と編者は批判している。


 ▽テト攻勢 指導部が期待した都市部の民衆蜂起はおこらず、解放勢力は軍事的に大きな損失を被った。北ベトナムからの補給にいっそう依存せざるを得なくなり、政治・軍事闘争においても労働党の指導性が高まることになった。
 ▽戦争が終わり、1978年に南部では私営資本改造政策が開始され、個人経営はすべて排除され、農民は合作社で集団で働かなければならなくなった。反抗すると逮捕され、刑務所に入れられる。
 ▽戦争では、指導者も兵士も喜び悲しみを共有する。貧しいが温かみのある食事をする。だからこそ、党は戦争に勝利するための民族団結を図ることができた。しかし、戦争が終わると、党幹部たちは2階で豪華な食事をあてがわれ、幹部の汚職とたたかう兵士や記者たちは1階で乾いた赤米を供される。
 ▽ベトナムには400以上の新聞と60の放送局や地方テレビがある。…ドイモイ以降は物事の両面を書けるようになり、メディアは社会問題と戦う武器としての役割を担うようになった。体制の打倒を呼びかけない限りは、比較的自由に書くことができる。副首相の引責辞任に貢献したこともある。
 ▽補助金制度バオカップは、ドイモイ後は、失敗を象徴する言葉になっている。指導的立場の党官僚が経済運営に不案内で、なおかつ外国援助に慣れきっていたため、戦争後も改められることなく10年間も継続された。今日でも、外国からの支援を当然と受け止め、外国政府やNGOによる援助と、企業による投資を区別する意識が薄いが、その要因は戦時からのもらい慣れの体質である。
 ▽子どもたちを監禁し、管理し、生きながらえる程度の食べ物を与えるだけの檻。教育者への賃金も足りないから、優秀な教育者が育たず……。公共の福祉施設は貧しい青少年の監視をするだけ。
 ▽人民軍の姿 不屈の戦いに身を投じた英雄と描かれてきた。逃亡兵は配給停止され住民登録抹消される。親が植民地政権協力者という履歴があるため大学に進学できない人も。
 ▽文学  抗仏戦争の間は、「芸術と宣伝は違う」と、議論できる雰囲気があった。作家の主体性は保たれていた。抗米戦争のころにはこれが失われる。62年以降は文芸は党のために機能するものと決められた。毛沢東の延安での文芸談話(42年)「・・・芸術基準より政治基準を優先しなければならない」が、ベトミンの文芸方針として導入されていたことが背景にある。
 ▽戦後、社会主義改造が挫折する。失敗の原因は戦争の後遺症にあり、政策に間違いはないと強調する。そうした社会にあって、文学は「春の大勝利」の賞賛に酔いしれたあと、戦時中さながらの英雄主義、楽観性から抜けられなかった。その結果、戦争中うには「飯より詩のほうが必要」と求められた文学が、すっかり関心を失われてしまった。
 善悪二元論から、味方軍の犠牲もすさまじかったこと、敵もただの愚か者ではなかったことを描くようになる。さらには、戦争には勝者も敗者もなく、戦った当事者が同国の者どうしだったこと
■日本からみたベトナム
 ▽ベトナム周辺の同盟国に戦争に協力させるには、政権基盤を経済成長によって強固にする必要があった。高度成長を続ける日本に各国への支援の肩代わりを求めた。1965年の日韓基本条約はその典型で、日韓国交正常化交渉がこの時期に妥結した背景には、アメリカの強い意向が働いていた。
 ▽沖縄返還もベトナム戦争と結びついていた。交渉の過程で、「ベトナム戦争で日本がもっと協力的になること」を「日米間の貿易赤字緩和」「日本が韓国、台湾、インドネシアなどに援助するため2億ドル投じること」と並んで返還の3条件として米国は日本に提示した。
 ▽「日本人なら、第二次大戦の日本軍の工作活動を取材したら」
■アメリカにとってのベトナム戦争
 ▽反戦運動 民主党リベラル派にかわり(チョムスキーら)ラディカル派が発言力。
 ベトナムの教訓 コリン・パウエル 「戦争にいくときは、国民が理解し、支援する目的がなければならない。ベトナムでは、生半可な気持ちで中途半端な戦争に加わり、国民の半数は反対か無関心なままだった」
 湾岸戦争 イラクを追撃しなかった。戦争の拡大・長期化によって世論の支持を失うことを過敏なほど気にした。世論の支持がゆらいだとき軍隊の志気・作戦行動に深刻な影響がでるというワインバーガーの原則、パウエルの懸念をスコウクロフト補佐官理解していた。彼は、息子ブッシュがイラクを攻撃する際、もっとも明確に反対の声をあげた一人だ。
 イラク戦争 ブッシュは「私は爆撃目標を決定しない。勝利を確保し、米軍を守るために爆撃が必要な目標について、君に報告してほしい」とフランクス司令官に述べた。ベトナム戦争中、マクナマラ国防長官は北爆を実行するたびに、爆撃目標1つ1つについて、自ら詳細に検討し、認めるべきもの、べきでないものを区別したうえ、ジョンソン大統領に提出して決裁をあおいだ。作戦の中枢となる事項について、軍人任せにせず、政治家が最終的に決定を下すべきだという信念からの行動だった。
 ところがブッシュは、大統領が自ら爆撃目標を選択したことを「反面教師」と考えていた。一方、制服組にとっては、大統領に詳細な説明をしておくことが、ベトナム戦争の教訓だった。から、令官は詳細な報告をつづけた。
 米政権内での官僚機構での責任の押しつけあの構図。ベトナム戦争中の指導者が共有していた、たとえ空爆するにしても、民間人の犠牲者は一人でも減らそうという緊張感や、軍を独走させないよう文民統制を最大限に維持しようという責任感は感じられない。
 それどころか、ベトナムからブッシュ政権がまなんだもう一つの教訓は、相手側の犠牲者数を数えないこと、だったという。
■周辺諸国にとって
 ▽タイ 米軍が大量に送り込まれることで、巨大な軍港ができ、……1950年代までの「眠気を誘うような」バンコクに、米兵目当てのゴーゴーバーやマッサージ店が登場し、バッポンなどの歓楽街も生まれた。漁村だったパタヤも、近くに巨大米軍施設ができたため一大リゾートに変身した。
 ▽カンボジア
   ポルポトらのカンボジア人民革命党が小規模な反政府武装闘争をしていたが、ベトナム解放勢力はシアヌーク殿下との協調による抗米戦争を優先し、友党による反政府闘争に手を貸さなかった。これが後にベトナムとポルポト派の関係悪化を招く一因になる。
 70年、ロンノルがクーデター。シアヌークはロンノルとこれを支援する米国に対抗して「民族統一戦線」を結成。ポルポトらもこれに加わる。米軍がカンボジア侵攻によって戦火は全土に広まる。
 内戦初期、実戦での反ロンノル勢力の主役は、ベトナムの解放勢力だった。しかし73年のパリ和平協定によって、実戦支援は終結し、駐留部隊をひきあげる。これを機に、ポルポト派によるクメール・ベトミンとよばれるカンボジア人グループの粛清も激化し、主導権をポルポトが握る。
 ▽中国  全面的にベトナムを応援しているようにみえたが、実はずいぶん前から齟齬があった。