当時、日本にはそういう場所は少なかった。若者でごちゃごちゃしたという意味では原宿やミナミはそうだった。貧困とつながるアナーキーな雰囲気といえば釜ケ崎があった。だが、両方が一体化した街はなかったと思う。それだけ経済構造がアジア的になってきたのだろう。
お目当てのストリートミュージシャンは午後10時だとまだそれほど多くない。時間つぶしに、心斎橋商店街のわきにある台湾ラーメンの「味仙」に入る。
2年ぶりに来たが、やはり列ができている。あっさりしたスープに細い麺、セロリーを薬味に使っていて独特の風味がある。飲み疲れて小腹がすいた午前3時ごろにピッタリだ。大阪のラーメンはレベルが低いが、「味仙」だけは全国レベルだと思う。
ビールを1杯ひっかけてから再度、戎橋へ。午後11時をすぎると100メートルほどの橋の上に6組ほどの路上の音楽家がいる。
そのうちの1人に話を聞いた。24歳。トラックの運転手をやりながら、5年前から通っている。
「『ゆず』がはやってから、ずいぶんストリートが増えたね。マナーが悪いのが多くなったよ」
ノートにはぎっしりと自作の歌が書き留めてある。午後11時から午前3時ごろまで唄っているという。
彼に影響を受けて、会社が終わってから毎晩のようにギターをかき鳴らしているという35歳の男性は
「いろいろな人との出会いがあって、大阪にいながら旅人になれるんですよ」と言った。「旅人の気分」というところがストンと納得できた。彼らの横に座って歌を聴いたり語ったりしていると、アジアや中米を歩き、道ばたでハーモニカを吹き、友達を作っていたころを思い出す。
いつまでも放浪しているわけにはいかないけど、心のどこかに「旅人」を持ち続けていないと、人間が枯れていってしまうのだろうな、と思った。(2000/5/26)