ベトナム5 ホーチミンへ

ホーチミンへ

 きょうも長丁場だ。
 7時半ごろロビーにおりると、「バスは8時半だから朝ごはんを食べておいで」と宿のお姉さんが言う。
 近所をぶらぶら歩いて、色白のきりっとしたおねえさんがやってる店に入る。透明のスープ、上にはほぐした魚の見を散らしてある。これはおいしそうだ。これはフォーではなくてワンタンだという。おねえさんは28歳、18歳の妹は色が濃くて南国系の顔つきだ。
  「僕は何歳だと思う?」と尋ねると、「37歳」という答えが返ってきた。きのうまでは27歳とか言われてたのになあ。
 宿にもどってベトナム風のアイスコーヒーを注文する。たっぷりシロップとミルクの入った「ホワイトコーヒー」に氷をたっぷり入れる。宿のおねえさんはこれを小さなスプーンでちびちびすくって飲んでいる。飲み物と思ってがぶのみをすると甘すぎるが、デザートだと思えばおいしい。だから冷たい茶がついてくるんだな。
 お姉さんは「コーヒーはバンメトートのものが一番だけど、フレーバーの加え方が各会社の秘密で、ニャツッァンの業者のものがおいしいよ」という。
 午前9時に大型バスが迎えに来た。
 軍港で有名だったカムラン湾のわきを通る。水田の一部を改良したような魚の養殖池が次々にあらわれる。時おり小さな水車が水面を攪拌しているから養殖池とわかった。ナマズだろうか。「カムラン・フーズ」という巨大な工場があった。水産品の加工工場だろう。
 10時40分、ファンラン郊外で早くも休憩。グレープジュースやワインをずらりと並べている。氷を入れたブドウジュースはなかなかの味。ワインも甘口ではあるが、ぶどう、という味がして悪くない。1瓶2万ドン。1杯2000ドンで試飲した。
 すもものような青い果物はタオという。桃という意味だろうか。3つだけ買って食べたら、外見とはちがって甘くておいしい。甘みを薄くした西洋梨のよう。歯触りは梨だが、中心に大きな種があるから桃かスモモの一種だろう。
 1時間後、バスはようやく出発する。これじゃあローカルバスのほうが早いじゃないか。
 ぶどう棚が水田と交互にあらわれる。ぶどうの産地だという。
 まっすぐにホーチミンに向かわずに、国道を左に折れていく。リゾート地のムイネを経由するのだ。だだっぴろい乾燥した丘を突っ切る。川むこうには白い砂丘がある。一気に標高をおとすと海にぶちあたり、ムイネに到着した。
 椰子が茂り、ビーチ添いにカフェやリゾートホテルが点在する。ニャツァンのような喧騒はなく、静かにリゾート気分を味わうのに最適だ。ここでまた休憩。
 40分後の午後2時出発というが、いっこうに発車する気配がない。運転手がカフェで一服している。出発かな、と思ったら今度はクーラーの故障。5つか6つのホテルで客をのせて満員になる。エアコンがないから暑いのなんのって。 「ファンティエットの工場で修理します」と言って車の修理工場に横付けして30分ほど頭をひねったがけっきょく修理できなかった。予定より2時間遅れて19時半ごろホーチミンの安宿街ファングラオ通に到着した。
 ガイドブックにのっていたホテルの隣のホテルを選ぶ。10ドルを9ドルにまけさせた。7階まで階段をあがるのは大変だが、部屋はきれいでエアコンもついている。
 周辺には外国人好みのカフェがたくさんある。朝鮮、イタリア、インド、タイ料理などよりどりみどり。GoGOカフェやらなんやらも。さすがサイゴンだ。
 貝やカニがおいてある屋台に入った。ツブ貝のような貝はなかなか。カニは淡泊だけどおいしい。27、8歳の日本人旅行者に声をかけられた。今回は1カ月の旅行という。「モラトリアムですよ」といい、ひたすら語りつづける。
  店の経営者の家が向かいの2階にある。その奥の薄暗いトイレを借りたら、ブラジャーが5、6枚ぶらさがっている。シュールな光景だった。

【拡大画像はクリック】




戦争博物館

 朝起きて窓を開けると、マッチ箱のようなビルの上で洗濯物を干してるおばちゃんが見えた。農村ばかり見てきたせいか、こんな暮らし方もあるのかぁ、とちょっと感動した。できることならあの屋上に行って、おばちゃんの目を見て話してみたい。
  午前9時半、宿をでて戦争博物館(正式名称は違う)方面へ歩く。住宅街のなかに入ってすぐに、おいしそうなそばの店にでくわした。細い麺でチャーシューがたっぷり。スープはさっぱり。生野菜の皿がついて8000ドン。刻んだニンニクを入れたらさらに香ばしさが加わる。
 博物館に着く。入場料は10000ドン。庭にはアメリカ軍の戦車や戦闘機、爆弾、ヘリコプター、大砲などがならぶ。ベトナム戦争とその後の紛争で亡くなった世界中のカメラマンの作品が壁面いっぱいに展示してある。
 ピューリツァ賞をとった沢田教一の母子の写真はとりわけ大きく引き伸ばしてあり、戦後になって被写体になった母子にパネルをプレゼントする場面も紹介されている。彼はこの後、カンボジアで亡くなる。
 一ノ瀬や峰らの作品もならんでいる。
 「このカットをとった後、かれは地雷にふれて死んだ」といった記述が胸に迫る。本当に最前線を歩き、生きるか死ぬかの修羅場をくぐりぬけていたことが、写真から伝わってくる。
  血だらけになった兵士の写真があるということは、そこにカメラマンがいたということだ。イラク戦争ではこんな写真は、少なくとも新聞では1枚も見なかった。イラク側に従軍したイラク人記者はおそらくベトナムと同様の悲惨な現状を見ていたのだろうが。
 印象深かったのは、解放戦線や北ベトナム軍側に従軍していたカメラマンの作品だ。作品としての出来は素人っぽい。でも、米軍側の何十倍もの犠牲者を出した側だから、その悲惨さは米軍側に従軍したカメラマンの比ではなかったろう。若い女性カメラマンも死んでいた。
 テト攻勢のときのフエの写真は瓦礫だらけ。古城はぼろぼろになっている。「世界遺産」などといって無数の観光客が来るようになるとは、だれも思わなかったろう。
 B52が空爆したあとの田の惨状も、写真を目の前につきつけられないとわからないものだ。
 胸がいっぱいになって博物館を出てココヤシのジュースをのむ。自然の味はおいしい。
 川を見るため、ぶらぶらと歩く。歴史博物館は昼の休み。動物園も入らなかった。
 にわか雨が降りだした。バス停の前には何十台もバイクがとまり、屋根の下でみんな雨宿りをしている。バイクが突然停車し、ポンチョをかぶる様子はなんともおもしろい。
 青いアオザイを着た自転車の女性がバス停にとびこんできた。雨に濡れると色っぽい。顔はマスクをしていてわからない。それがますます想像をそそる。
「写真をとらせて」と声をかけると、恥ずかしがっていたが、
「きれいな子を撮るのは僕の義務なんだ」と言うと、マスクと眼鏡をはずし髪をさわっとゆすって整えた。長い髪が揺れる様子がまた美しい。働きながらマッサージの勉強をしているという。雨がやむとまた顔をマスクで覆い、走り去っていった。

【拡大画像はクリック】




中華街へ

 川沿いには工場がならぶ。どこの工場にも「ISO9001ー2000」といった文字がかかげてある。たぶん外資系なのだろう。
 マジェスティックホテル前で、シクロのおっちゃんに声をかけられた。
「 チョロンまでいくら?」と尋ねると、10万ドン、と言うから「さよなら」。追いすがってきて3万になった。ま、それならいいか。
 シクロはおもしろい。バイクよりもゆっくりだから写真も撮れるし、バイクと自転車の奔流のまっただ中をカヌーで川下りをするかのように走れる。
「アオザイが安い店につれていってやる」という。ヤンシン市場だった。なかに入ると、米軍の軍用品がずらりとならぶ店がある。本物なのかレプリカなのかは疑問だが。さらに奥に進むとアオザイの店があった。だいたい30ドルくらいという。
 チョロンは遠い。20分ほどかかる。
  おっさんは48歳で15歳と10歳の娘がいる。「アオザイは16ー18歳の高校生が着るんだ」「これはその下の学校だ」「この病院はグッドだ」「このホテルは50ドルだ」「おまえのホテルは9ドルか、それならグッドだ」
 チョロンのビンタイ市場に着くと、「釣りがない」とか言って少しでもふんだくろうとする。ま、大変な労働なのはわかるから、どっちでもいいんだけど……。
 ビンタイ市場は、朱色や黄色といった原色に彩られた寺のよう。服やらコーヒーやら茶やら……すごいにぎわいだ。が、いったん中庭に入ると、噴水を囲むうそのように静かな空間があるからおもしろい。
 ぶらぶらとホテルの方面へあるくことにする。
 途中「天後宮」という寺院?に入った。ご本尊は天後聖母。賽銭箱に1000ドンを入れたら、ドンドンドンカカーンと太鼓と鈴がなりひびいた。驚いた。
 天井からは無数のうずまき線香がぶらさがり、下にはカラフルな線香が煙をあげていて、独特の雰囲気が心地好い。
 漢字で「粥」という文字を見つけた。魚と牛肉と豚肉を選べるが、魚の粥がみるからにおいしそう。ビール1本をたのんで29000ドン。さっぱりしていて味付けもぴったり。
 さらにずんずん歩く。途中雨が降る。あわてる様子を撮りたかったが、こちらもカメラを濡らすわけにはいかないから、どうしてもタイミングがずれてしまう。
 お色気系の食堂では、女の子たちは派手なミニスカートをはいてる。ギトギトした風俗店が出現する前の、素朴な雰囲気がええなあ。ミニスカートのスタッフばかりの理髪店もあった。たしかに理髪店ってマッサージとかなんとか性的なものにつながるのかもしれんなあ。

【拡大画像はクリック】