ベトナム6 クチトンネルとサイゴン歩き

クチトンネル

 ベトナム戦争中、解放戦線の拠点があり、地下壕をありの巣のように掘って米軍を撃退しつづけたクチへのツアーに参加する。
 午前8時半、23人が乗ったマイクロバスで出発する。
 50代くらいのガイドの解説がおもしろい。いわく
 ーークチはもとは別の自治体だったが、戦後に周囲の自治体といっしょにホーチミンの一部に編入された。ベトナムはモーターバイクの国だ。400万台のバイクがホーチミンに登録されている。金がたまるとまずはバイクを買う。これで金を稼ぐ。ガールフレンドを獲得するにも必要だ。日本製は1000ドル超、中国や台湾ならば1000ドル弱で買える。
  86年から個人営業が許可されて一気に豊かになった。北ベトナムの人は長年協同で働き、協同でくらすことに慣れていたが、南では不満な人が多かった。私企業を認めるようになって豊かになった。
 ベトナムでは休みは日曜だけだから、ほら、そこの家でもパーティーを開いている。田舎の人は、ホーチミンまで買い物にでてくる。ベトナム人の月給は3、40ドル。土地の値段は、都会は田舎の200倍くらいはするーー
 そんな話をきくうちに街を抜け、窓の外には水田が広がる。クチ周辺は、ライスペーパーの産地としても有名だ。戦後に政府が植林したゴムの林もある。
 ーークチのトンネルは有名だが、民家にも隠しトンネルがあった。家の真下に垂直に穴をあけ、そこから横にほりすすむ。ある程度離れたところに空気穴をつくる。米軍が来たら夫はそこに隠れ、「夫はベトコンになって戦死した」と説明した。
 1時間ほどでクチに到着。観光バスが次々に到着する一大観光地になっている。
 まずは会議室でビデオをみる。
 地下トンネルは3層になっていて、上部のトンネルが発見されても、小さな穴から下に逃げる。穴は隠してあるからなかなか発見されない。ホーチミンルートを通って自転車などで物資は運びこまれていた。
  67年に制作されたクチの映画には、アメリカの落とした不発弾を解体して火薬をとりだし地雷をつくり、地面に埋め、戦車が来るのを茂みでひそんで爆発させる様子や、塹壕から戦車に爆弾をぶちこむ女性兵士の姿などが映し出されている。アメリカ映画では、ベトコンというのはおそろしい黒い影であり、米兵士だけが「人間」であるかのように描かれるが、反対の側の映像を見ると、解放軍側が「人間」になる。
 落とし穴、バンブートラップ。「こんな狭いところに?」というくらい狭いトンネル。小柄なベトナム人は入れるが、米兵はとてもじゃないが入れない。
 総延長250キロにわたって精巧につくられたトンネルによって、米軍の総力の攻撃をもしのいだ。が、8割のトンネルは破壊され、16000人のうち生き残ったのは6000人だったという。
 1発18000ドンで自動小銃やライフルを撃つこともできる。「うぉお、こりゃおもれえ」などと大声で喜んでいる日本人観光客を見ていたら、撃つ気はうせた。
 最後に、観光客が入れるように大きさを広げたというトンネルを200メートルほど這って歩く。観光客で渋滞し、蒸し暑くて真っ暗で汗がふきだす。ここでトンネルが崩れたら、窒息死するしかない。そういう圧迫感も感じる。
 「実際ベトコンゲリラが暮らしたトンネルはこれよりもっと狭い。1カ月も外にでないときがあったんですよ」
 トンネルをでて顔を洗うと、タピオカ(キャッサバ)の根(芋)とお茶がふるまわれる。中米のユカイモだ。これが主食だったという。
 エンターテイメントから生活文化の紹介から、軍事面まで、よくできた施設だ。広島の原爆記念館以上に、戦争を肌で感じられる。
 12時、バスに乗り込む。 と、ガイドが
「今度は私自身の自己紹介をします」
 ーー1948年、クチから25キロ離れたベンダイン生まれ。生後3日のとき、フランス軍が攻めてきてベトミン狩りをはじめた。泣きだした赤ん坊は殺されざるをえなかった。私は川につけられ、水から引き上げられて泣きやんだから助かった。
 1960年にサイゴンに出た。しばらくして、ベトコンに入り、クチに来た。トンネルの掘り方を習い、軍事教練を受けた。・・・同級生も母も兄弟も死んだ。
 戦後しばらくして、政府の要請でクチトンネルでガイドをはじめた。だが、後遺症で背骨が悪くて15年後にリタイヤした。その後、プライベートの会社に入ってガイドをしているーー。
  思わぬ話にみんな息をのんで、最後は拍手。すごい内容の濃いツアーだなあ。これで5ドルプラス入場料65000ドンだ。
 ホーチミンにもどり、卵を鉄板で薄く焼いて、もやしや海老、豚肉などをつつんだお好み焼き?を食べた。(200510)

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庶民の街歩き

 ベトナム最後の日は午前6時におきる。昨夜生春巻きをたんまり食べたせいか、快腸そのもの。
 シクロのおじさんに教えてもらったヤンシン市場へアオザイを見に行く。軍用品の売り場がおもしろい。AK47やM16の銃弾でつくったライターを並べると、両者の弾丸の大きさのちがいがよくわかる。でも4万ドン(当初は4ドルと言っていた)はちょっともったいない。さまざまな武器をライターやランプに器用に細工してしまうしたたかさよ。
 奥のアオザイの店へ。かわいい子がいたから話しかけるが、英語が通じない。中国系のちょっと年上の子がでてきた。30歳という。袖なしがいいか長袖がいいか。何色がいいか。ズボンの色はかえた方がいいか。店の子は青いアオザイの上下と白いズボンを加えることを勧めるが……。
 「結婚してるの?」と尋ねたら、指をみせて「指輪がないでしょ。独身の証拠よ」という。「明日には日本に帰る」というと残念そうな顔をして、「来年また来てここに寄ってね」という。ベトナム語ができたら楽しかろう。
 朝食はまたもや麺。豚肉や海老、魚などがたっぷり載って、生野菜が2皿ついて15000ドン。豪華なフォーだが、もっとシンプルなほうがおいしいかな。
 美術博物館を訪ねると月曜は休館だった。1階のギャラリーでは若い作家たちのグループ展が開かれていた。アオザイの女性を抽象化した絵などが印象的だ。
 川沿いへ。「サイゴン川のツアーはどうだ」と何度も勧誘される。値段をきいたら1時間20ドル。高い。「No」といって離れたら15ドル。どっちにしても高すぎ。3ドル程度なら考えてもよかったけど。
 渡し船に乗ってみる。500ドンを払って、待合い通路に入ると、オートバイが何十台もならんだ。サイゴン川をわたるのは楽しい。海軍のフリゲート艦が遠くに浮かんでいる。対岸はふつうの住宅街、手前はベトナム最大の都心。そのコントラストがおもしろい。
 対岸は庶民の町である。平屋建て住宅がならび、沿道には雑貨店やら果物屋やら。
  ビールをのんでいたシクロの兄ちゃんがしつこく声をかけ、つきまとう。「1人で歩くからいらん」ていうが勝手についてくる。
「川のこちら側は昔はたんぼだらけだったんだ。川むこうは外からたくさんの人が入ってきたから悪いやつが多いけど、こっちはみんな愉快に仲良く暮らしてるよ」「昔はシクロでけっこう稼げたけど、地方から人がたくさん入ってきて、今はダメだ。1日に3、4人のこともある」とぐちる。
 ま、いろいろ案内してくれたから、100円ショップで買ったアラーム時計をあげた。そろそろ引きあげようかな、と思ったら、 「ちょっと先に俺の家があるから来いよ」
 ま、行ってみるか。道路を左に折れて、住宅地に入る。マナグアの貧しい住宅街の雰囲気にそっくりだ。

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統一宮殿へ

  高齢の父と母、妹と4人暮らし。彼の年齢は俺より2つ下だった。彼のノートには日本人旅行者が感想文をつづっていた。「2ドルといわれたけど、しっかりしてくれたから3ドルわたした」「5ドルでぐるりと島をまわってもらった」・・・それだけ払えばそりゃ喜ぶわな。
 帰ろうとしたら「ぜひ港までのってくれ」という。金がない、というと、「キモチ、キモチ」。どこで覚えたんだ、そんな日本語。そのくせ、小銭の硬貨だけをじゃらじゃらいわせたら不満そうな顔をして「2万くれ」という。1万と小銭を4000わたしても、不満そうにぶつぶついう。おいおい「キモチ」ちゃうんか?
 シクロに乗るとまもなく、英語がやけにうまい5、60のじいさんが自転車に乗って並走し、声をかけてくる。うさんくせえ。いつのまにか食堂の前にとまり、「ここでビールをのんでいく」という。だれがおごるか。
「じゃ、おれは歩くから勝手にのんでいてくれ」と先に歩きだすと、じいさんが大声で呼び止める。無視して歩くと、兄ちゃんがあきらめてシクロで追いかけてきて「乗れ」という。
 14時に川を渡ってもどり、ホーチミン市博物館へ。
 市周辺の歴史を展示している。ワニやらトラやらといった物騒な生物もいてドキッとする。サイゴンには、クメールと中国人とベトナム人とチャム族がすんでおり、クメールは農業、ベトは農業と手工芸、中国は手工芸と商業、チャムは織物などで生計をたててきたという。
 時代が下がると、戦争の展示一色になる。兵士たちの遺品がずらりと並ぶ。庭には戦闘機やヘリコプターなど。戦闘機は、政府軍内にひそんでいたベトコンのエージェントが75年に爆撃するのに使ったものだ。
 統一宮殿へ。外見は近代的な建物であり、それほど興味をそそらないが、なかに入ると興味深い。大統領の書斎、大統領夫人専用のレセプションの間、映画室、娯楽室・・・風通しがよくてどの部屋もクーラーがなくても涼しい。
 屋上には75年に大統領がヘリで逃亡するのにつかったヘリポートがある。部屋からは広大な庭のむこうに無数のバイクが列をなして走るのをみおろせる。町の中心部なのに、静かで涼しくて。これが「権力」の感覚なんだろう。
 一方、地下には、無電室やら電話室やら非常電源やら、じめっとした暗い空間にいくつもの部屋がひしめいている。上と下とのこの格差も「権力」のありかたをよく示している。
 75年、解放戦線の戦車が中庭に突入し、部屋にいた大統領に無条件降伏を迫った。解放戦線に勝利したときの無数の群衆の顔は喜びに満ちあふれていた。だがその顔のうち何%かは何年もしないうちに失望の色に染まったのも事実だ。勝利の喜びを感じるとともにその後の運命を思うと胸が痛む。
 最後にビデオルームでビデオをみる。中国語と英語とフランス語、もちろんベトナム語、4言語にわかれてそれぞれの部屋で上映される。ホーチミンルートを建設する様子、勝利の瞬間の映像などなど、歴史を端的にまとめ、最後は「ホーチミン、ホーチミン」とたたえる歌でおわっている。
 小倉貞男の本をよむ限りにおいては、ホーチミンはだれからも好かれる人柄だったようだ。急速な社会主義化も彼の意志とは反していたという。銅像などをつくり個人崇拝をすることも遺書で禁じていた。
  実際は彼の遺志にそむくことになるのだが、彼への尊敬と敬愛の念は今も深いんだなあと感じられる。
 宮殿をでるとついさっきまで大雨がふっていたらしく、むわあっと湿気が立ち上がり、眼鏡が一気にくもった。芝生からあがる水蒸気のせいで、空気がゆらいでみえる。ゆらいだ空気のなかを無数のトンボが飛んでいる。

 夜、5ドルで空港へ。プレイボーイの運転手のニイチャンと日本とベトナムの女性談義。
 「日本人は、結婚する前に同棲できるだろ。ヨーロッパみたいでうらやましい。ベトナムでメイクラブしてしまったら、『あなたはもう私のハニーなの』ってなっちまう。だから、ガールフレンドは地方につくる。仕事が忙しいから携帯は外で話す。記録は消去するから妻にはばれない。妻は23歳。きれいかって? 昔はまあ、今も、そうだといいと思ってるよ。日本人とはまだしたことはないけど、比較的簡単な気がするよ。ベトナムの女は気が強くて口がたつけど、日本の子はやさしい印象があるな。日本人の女の子がアオザイを着たのをみたけど、それはきれいだったよ」

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