■戦争論 多木浩二 岩波新書
戦争を開始を決定するときには、すでに「戦争やむなし」の雰囲気が作られている。政治の手段としての戦争ではなく、戦争が政治決定の前提になっている。
国民国家の成立とともに、国家は戦争機械となり、合法的戦争が生まれた。形式民主主義とひきかえにする形でヨーロッパでは徴兵制度が生まれている。
日本は富国強兵のかけ声のもと、徴兵制がまず作られ、軍隊の規律にあわせるように教育の制度も作られた。軍が社会のモデルになってしまった。自由な発想は禁じられ、戦略研究もなされぬ思考停止に陥った。拡張主義によって列強に対抗しよう、という強い意志の結果だった。
日清・日露戦争が有利な戦況に終わり、国民のなかに「強国だ」という誤解と、中国人蔑視の目が刷り込まれた。「中国には近代的軍隊はない」という誤ったイメージをもった。
真に自由な人間は他人を奴隷化できない。奴隷が奴隷を破廉恥に弾圧する、という。そういう意味では日本軍は奴隷の軍隊だった。奴隷的扱いを受けているが故に、さらに下に対しては奴隷的な扱いをする。
ナチスのホロコーストは逆に、近代合理主義が生んだ「死を製造する工場」だった。近代技術と、官僚・軍・工業・党が結びついてきわめて合理的に作られた。だれもが罪の意識をもたず、「死」の実感が消えてしまった。「仕事だから」「仕方ない」という感覚だ。
コソボを空爆したNATOの兵士も同様だ。爆撃によってセルビア兵が民族浄化を激化させ、空爆さえなければ死ななかった人が無数に殺された。それに対してパイロットは罪の意識を抱かない。だが、具体的な殺す兵士の行動や殺される民衆の顔が見えてきたときに、マクロな善悪では割り切れない戦争の犯罪性が見えてくる。
日本のバブルの証券マン・銀行マンと同じだ。「仕事だから」と自己正当化して、年寄りの年金をはたかせる。あとは自殺しようと何しようと知らん顔。でももし、その老人の具体的な苦しみがわかったら、そう簡単には割り切れないだろう。
だれがなんと言おうと、世の中の流れがどうだろうと、個として自分の行動に責任を負わなければならないということだ。
■市民科学者として生きる 高木仁三郎(抜粋)
何が重要なことか、よりも、何をやったら論文を書けるか、という方向に流されていく。そういう論理に流されて、研究者は論文生産者となる。何のための科学か、というところから離れてしまう。【研究者を新聞記者に置き換えてもそのまま通る】
三里塚の農民たちに出会い、助教授という肩書きを捨てて大学を出た。大学や企業システムのひきずる利害性を離れ、市民の中に入り込んで不安を共有するところから、「市民の科学」を始めた。
本気になれば、私自身が少なくとも1人分の貢献ができることへの確信と自信をもっている。確信と希望は、無数の人々との出会いから生まれた。
■コーヒー博物館編 「コーヒーという文化」 柴田書店2500円
歴史や文化、生産量の推移やカップの変遷など、コーヒーの今昔を網羅し、コーヒーが置かれた地位を明らかにしてくれる。コーヒーの全体像をつかむのに最適。 |