読書・映画 8月

■国家と犯罪 船戸与一 2000/8/6 

 キューバ、メキシコ・チアパス、中国、クルド……。
 国家による抑圧に反抗し、武力によって懐柔を引き出し、飴と鞭で懐柔させられ、裏切られ、殺される。戦っても戦っても潰され、一定の力を勝ち得たと思ったらその勢力は新たな抑圧装置・疑似国家となる。
 たとえばメキシコ。エミリアノ・サパタらの闘いがメキシコ革命を引き出したが、けっきょく「穏健派」とされる地主勢力に騙されて殺され、農地解放もなにもできなかった。
 いまチアパスではサパティスタというゲリラが蜂起している。権力奪取を目的とし、勝った途端に新たな「権力」となってしまう従来のゲリラとちがい、先住民族共同体の合意形成に力を入れ、貧しい農民に根を下ろした草の根型の組織作りをしているという。
 武力じたいは貧弱だが、インターネットやマスコミなどの情報を駆使して、「新自由主義」路線をひた走る政府や世界に効果的な異議を唱え続けている。米国の人権活動家のロビー活動が怖いメキシコ政府は、かつてのような「皆殺し」政策は取れない。
 強圧的な手段を封じられた政府はどうするか。船戸は「大公共工事によって金を投入し、先住民共同体の崩壊をはかる」とみる。例えば大規模なダム工事をすれば、10年間近く住民は膨大な現金収入を得られる。が、それが終わると農村という生活基盤は奪われ、それまで培った共同体はなくなってしまっている……。全世界で、日本の農村でも、使われてきた手口である。
 クルド民族はさらに悲惨だ。トルコやイラン、イラクなどの国に振り回され、「族長主義」につけこまれて分裂させられ、仲間同士での殺し合いをさせられる。最近では湾岸戦争時、アメリカがイラクからの独立戦争をたきつけながら、国際情勢の変化で手をひき、何万人も人が殺された。  チベットの武装闘争に火をつけたのも、水をかけたのもアメリカだった。  国家や権力のエゴイズムの狭間で、絶望的な暮らしを強いられる人たちの痛みと、そのなかで見える一瞬の命のきらめきをつづっている。

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四季・遊牧--ツェルゲルの人々  2000/8/12 

 モンゴルの僻地の郡のそのまた僻地の遊牧民の村に、大学の研究チーム5人が1年間住み込んで撮影したドキュメント映画。
 文化人類学の「客観的」な記録ではない。社会主義体制が崩壊する激動期の遊牧民たちと一緒になって村づくりに取り組むことで、1人1人の住民の人生観や生き方を引き出し、日常のさりげない楽しみや子供たちの成長する姿を低い視線でとらえた壮大な叙事詩である。
 1992年という年は、社会主義体制が崩壊し、遊牧社会を組織していた「ネグデル」という協同組合が崩れようとしていた。ネグデルは、羊や山羊を「人民の共有物」とし、遊牧民には放牧を委託して頭数に応じて委託料を支払うという工場的な分業のシステムだった。山羊、羊、馬、ラクダ……と、家畜の種類もそれぞれの専門家が別々に担当していた。昔はつぶした動物の皮を使って靴も作っていたが、既製品を使うようになった。伝統的な自給自足的な共同体は破壊されていた。
 舞台になったツェルゲル村(60世帯)は、いち早くネグデルからの離脱を表明し、家畜を「自分のもの」とし、山羊も羊も馬もラクダも一緒に放牧する。
 山羊と羊をいっしょに放牧すると、山羊が群の道案内をして羊は後をついて1日山を歩いて草を食べて宿営地に帰ってくる。ラクダはゲルなどの荷物運搬に使い、馬は交通機関であり馬乳酒をつくる乳の供給源でもある。山羊の乳でチーズやバター、酒を作り、羊をつぶして越冬の肉を用意し、腸詰めを作り……。自分たちで育てた獣の毛や皮を使って、自分たちの服や帽子などを作るために、日本人の協力で手織物の手工芸教室も開いた。
 いわば、分業化・専門化されて疎外されていた創造の喜びを、伝統的な形に総合化することで取り戻す動きである。
 だが一方、急激な自由化で新興商業資本が台頭し、流通を牛耳り、貧しい遊牧民のつくるカシミヤは買いたたかれる。対抗するため新しい形の(抑圧的でない)協同組合を起こすことになる。村人が資金を出し合い共同でトラックを購入して販路を自ら開拓し、子供が遠くの学校に寄宿しなくてすむよう村に分校を設立する動きになった。

 以上のようなダイナミックな変化と同時に、何百年かわらぬ生き方も映し出している。
 子供は山羊を友達とし、搾乳や放牧などのまねごとや乗馬を遊びとする。日々の生活じたいが遊びにもなっている。
 モンゴル相撲では村人総出で笑いころげ、草原を20キロ駆け抜ける子供競馬では、大人が興奮して一緒に走って尻をたたいて、大混乱になって勝負なし。
 とりわけ印象的だったのは、たき火を囲みながら語り合う最後のシーンだ。
 「おやじが死んだときはラクダで砂漠まで運んで埋めた」
「このムラで次に死ぬのはAじいさんか、Bばあさんだな」
「ところであんたは何歳だ?」
「57歳」
「じゃあ、その次はあんただ」
「俺たちみたいな貧乏人も大臣も死んだら同じなんだ」
 また別のシーンでは、貧乏だけど毅然として生きる通称「没落貴族」がこう言った。
「貧しいけどこの大地に生きて、妻と一緒になって、2人の子を育て、こいつらが独立してホラショー(互助組織)をくんでやっていけたらなあ。満足な人生だよ」
 人間は大地に生まれ大地に生き、大地に帰る。大地と生きるというのは真の意味で創造的に生きるということなのかもしれない、と思わせられる。
 現代に住む僕らは、大地から離れ、「死」を忘れ、欲望を刺激するモノに囲まれ、日々忙しく生きている。遊牧民のような千年もかわらぬような暮らしを見ると、「退屈やろな」とも思ってしまう。
 遊牧民たちが販路探しのためにウランバートルに出たとき、都市の消費文化と出会う。
 百貨店には色とりどりのモンゴル服が並ぶが、手が出る価格じゃない。ぬいぐるみを子供達に買って行ってやりたいがこれも高い。中華料理を振る舞われたが、羊の肉しか食べる気になれない。村であれほど生き生きとしている男達が生気を失ってしまっている。
 けっきょく販路拡大は失敗し、失意のなかで帰途につく。途中、草原地帯で休憩したとき、やわらかい枯れ草を見つけ、家にいる子ヤギのために拾い集め始める。その姿がなぜか痛々しかった。日がどっぷりくれて家に着き、子供たちが駆け寄ってきたとき、ようやくいつもの元気が目に戻った。
 「消費」って麻薬のようなものだと思う。
  「貧しいけど生き生きしている」というステレオタイプなイメージだけではなく、僕らにももっと豊かな生き方があるのではないか、と思わせられる。たぶんそのキーワードは「大地」「死」「創造」といったものではあるまいか。

■魯迅評論集 竹内好編訳 (抜粋) 2000/8/2

 ・偉大な人を人々が「偉人」と言うときにはすでに傀儡に転じている。
 ・ 尊敬され礼賛されるときは、死んでいるか、沈黙しているか、眼前にいないかである。
 ・専制は人々を冷嘲者に変える……共和は人々を沈黙者に変える
 ・ぼろを着たものが通りかかると、狆ころはキャンキャン吠える。しかし、必ずしも飼い主が命じたからではない。狆ころはしばしば飼い主よりもやかまし屋である。
  ・人が寂寥を感じたとき、創作がうまれる。空漠を感じては創作は生まれない。愛するものがもう何もないからだ。
 ・敵の状態をよく洞察して、その上に立って判断しなければならない(反対派のものを読むのは、自派のものをよむように愉快で有益ではないが)
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 印象的な言葉はほかにも多々あるが、とりあえずこれだけ。
 現実に流されず、理想や展望に酔いしれず、信念を持ち続けながらきわめて現実的に闘い続けた魯迅の厳しい生き方がかいま見える。

■新・屈せざる者たち 辺見庸(抜粋) 2000/8/18

 「日本の新聞では世界の情勢はまったくわからない。いろいろな問題を日本1国のなかでしか見ていない。国際的な枠組みのなかでどういうふうにとらえるべきか見えていない」

 「消費者金融なんていわないで、サラ金とか高利貸しとそのまま書きゃいいじゃないか」
 「市民という輸入後に人々が自らを重ねるようになってから、言葉が本当にだめになった。言葉からリアリティーが失われてしまう。エッタの詩は、健全なる市民主義者たちがいちばん嫌がる。異形を嫌うから」
 「記者時代、名刺、記者証、社旗、腕章、経費……のすべてのない状態を何度もシュミレーションしましたね。会社をやめて身銭を切って取材する。人と会って酒飲むのでも、どっちが金出すのかな、という息詰まるような数秒間があるんです」
 「マスコミのなかにいることが、自己実現に関係がないという不幸な時代になっちゃった。強烈に弾圧してくるなにかが立ち現れたときにはじめて人は真価を発揮できる。試練が見えない時代であるいまが実は、本当の試練の時代だとも思うんですよ」
 「(カレー事件もサリン事件も神戸の事件も)誤報を繰り返しながら、社内でだれが傷ついたか、だれが降格されたか、社長が替わったかと聞きたい。トラブル処理がソフィスケートされてるだけ」
 「奈良時代から、言葉巧みな人は漢文に乗り換えちゃった。皆が秀才だったら、いまごろ日本語はなくなっていたでしょう」 (田中克彦)
 「いろいろあるけどたがいに理解しあうというのが、いい意味での多元主義。これでいく限り差別の根は永続的に残りますが、普遍主義よりよっぽどいいと思います」
 「言語エリートは自らの言葉を聖域に入れたがり、これを冒す言語的抵抗に対し被害者を装う」